第21話 山幸彦と豊玉姫の悲運

 人見知りの下弦月が登場を渋り、海上は漆黒の闇に覆われている。頭上を見上げれば、星々がきらめく宇宙を乳白色に輝く天之河が横切っていた。

 星座を頼りに、大海原を西へと逆戻りする海賊達。船首が波濤はとうに突っ込もうが、全く躊躇しない。座礁の危険を顧みず、漕具を只管ひたすらに動かす。夜陰に紛れての襲撃を生業なりわいとする彼らの豪胆さには舌を巻くばかりだ。対馬海流を逆漕する分だけ往路より時間を要したが、宵の内には稲佐の浜に上陸する。

 浜辺の生物は寝静まり、波音だけが繰り返されていた。その静寂しじまの世界を少数精鋭の選抜組が駆け抜ける。全員で襲撃すれば必ず大騒ぎとなる。弁韓人が逃げるかも知れない。目当ての住居は特定しているのだからと、頭領は隠密行動を指示したのだ。

 

 集落民の大半は、新築の手間を厭い、一般的には先祖代々の住居に住み続ける。つまり、竪穴住居で暮らしている。そんな中、寄棟造のホオリ宅は目立つ存在だ。同じ茅葺屋根でも、柱と梁で骨組みし、板壁で四方を囲っていた。

 早朝の冷え込みに備え、出入口の戸板や窓を覆う雨戸は締め切っている。但し、抑棒おさえぼうかんぬきで戸締ってはいない。気心の知れた住民同士、盗難騒ぎとは無縁の集落なのだ。その無施錠を当り前とする習慣が災いした。 

 忍び寄る七つの黒い影。玄関引戸を慎重に滑らせ、屋内を窺う。囲炉裏の向こうに川の字で寝ている家族3人が認められた。乳離れも済んだ幼児イワレを間に寝かせ、若い夫婦が両端を挟んでいる。熟睡し切っており、侵入者の耳には安らかな寝息しか入らない。

 頷き合って決行を確認し、鷺足さぎあしで侵入する。三人一組でホオリとトヨタマの間近に迫る。頭側に2人、足元に1人。残る1人はイワレを抱き上げる役目だ。

 定位置にひざまずいた三人組。

 頭側の筆頭格が睡眠中のホオリを羽交い絞めに起す。横で身構えた相棒が、強引に口を開けさせ、丸めた布切れを突っ込む。首に掛けた麻紐を取り出し、迅速に猿轡さるぐつわを嵌める。同時に両踝をも縛る。最後に、頭側の男2人が両腕を後手に縛り、抵抗を完封した。

 トヨタマも同じ様に捕縛される。所要時間は1分にも満たない。夫婦共に、覚醒した時には既に手遅れ、身動きも満足に出来ない状態であった。

 変事の最中も眠り続けるイワレだけは、7人目の男が丁寧に抱き上げた。幼児を気遣ったと言うよりも、泣かれては困ると用心したに過ぎない。

 こうして虜囚の身となった親子3人は、対馬の『和珥津わにつ』まで拉致される。


 3人の幽閉場所は洞窟を流用した簡素な牢獄だった。海賊の構成員は皆、享楽的で自堕落な男達ばかり。見張りも配置されず、野放図な為体ていたらくだ。とは言え、入口には木材を組んだ格子を張り巡らせており、怪力の持主でなければ脱出は不可能。仮に抜け出しても、対馬島は荒波の大海に囲まれている。

 冷たい夜気の入りたい放題の空間で親子は肌を寄せ合っていた。就寝中を襲われ、防寒着のたぐいまとっていない。寒さに顎を震わせ、鳥肌を擦る。2人の身体に包まれたイワレの寝顔が、せめてもの救いだ。

 奥に目を凝らすと、既に1人の老婆が座り込んでいる。痴呆を患っているのか、新参者の出現にも全く興味を示さない。岩壁に向かって念仏の如き独り言を呟いている。つい巡月ひとつき前まで蟋蟀こおろぎが鳴いていたのに、今はしゃがれた小声が薄闇に響くのみだ。

――スクナに教わった言葉だわ!

 聴覚神経を刺激する唯一の音声信号。注意を傾ける内に、トヨタマが耳聡く峻別した。心細い状況下では同胞意識が刺激され易いものだ。思い切って声を掛けると、虚ろな眼差しが向けられた。

――もう何十年も同郷人とは会っていない。こんな処で祖国の言葉を聞くとは・・・・・・。

 胡乱な瞳が次第に焦点を結び、輝きを宿し始める。

『貴女は一体・・・・・・誰?』

 弁韓べんかん語を交わし始めた2人は、大した時間を必要とせずに、互いの素性を確認し合う。スクナの本名が合言葉となった。亡き養父の加護を感じたトヨタマは、青く染めた襦袢じゅばんの襟元を広げ、翡翠ひすいの首飾りを露わにする。

 此処に交差する数奇な運命。死別離を疑わぬ肉親に巡り合うとは――如何なる天の采配か。驚嘆の余り瞠目し、口元に手を当てる老婆。半開きの口からは嗚咽おえつが漏れる。

『何て事!、こんな事って有るのかしら!?』

 聞き慣れぬ名前を叫ばれた方も、そんな些事には頓着しない。老若の違いは有れど、似通った目鼻立ちが第二の傍証ともなった。

『御母さん!!』

 母娘は強く抱き合い、涙を流して再会を喜び合う。予期せぬ邂逅かいこうに驚いた点は同じでも、ホオリの方は比較的冷静だった。場違いな律義さで、義母に挨拶せんと傍らに近寄る。

『もしかして・・・・・・この子は貴女の息子?』

 涙を拭いながら、娘婿の抱く幼子に目を止める。

『はい、御母さん』

『何て言う名前なの?』

『イワレよ、御母さん』

『そう。イワレちゃんね・・・・・・。私にも抱かせて貰える?』

 骨と皮だけに細った両手を伸ばし、大事そうに受け取る義母。顔を綻ばせ初孫の名を連呼する内に、再び溢れ出た涙が頬を濡らした。

『御婆ちゃんよ。私が貴方あなたの御婆ちゃんなのよ』

 悲嘆に明け暮れた挙句、自閉の壁に閉じ籠っていた彼女。しかし、無関心は自己防衛の一環に過ぎなかったようだ。突然の朗報に喜悦を露わにする。堰を切った感情の奔流は止まらない。何度も頬擦りし、実在を確かめ続ける。

『孫が生まれていたなんて・・・・・・、とても信じられない!。夢じゃないかしら?』

 20年前。スクナらが和珥津わにつからの逃走に成功する一方、母親は自由と未来を奪われた。頭領の前に差し出され、戦利品として格好の慰み者となる。高貴な衣装を剥ぎ取られ、泣き喚く横顔には舌が這い回った。貴婦人の身が男の征服欲を刺激する皮肉。連日の凌辱を経て、彼女は娘をはらむ。

『私には妹が居るの?』

 微妙な表情を浮かべ、老母は頷いた。トヨタマが妹の名前を尋ねると、如何いかにも下賤な名前を悔しそうに答える。

 頭領の性欲は獣並みに強く、次々と若い女を手籠めにしていた。誘拐した婦女子に限らず、地生え娘にも手を出す。野猿の群れと何ら変わらぬが、蛮勇に秀でた者が独占する慣習は最強の遺伝子を残す知恵でもある。昔から対馬海賊の梟雄きょうゆうは横暴を繰り返しており、彼も先代を見習ったに過ぎない。

 その替り、実の息子に跡目を継がせる事も無い。頭領が死ねば、若い世代が醜い争奪戦に名乗りを上げる。力尽くで奪取した事実だけが、無頼ぶらいやからを従える唯一の根拠として通用するからだ。義妹をはらませた男もた同じ工程プロセスを経て頭領の座に君臨している。

 夜伽よとぎの女を好きに選ぶ慣行は勝ち得た権力行使の一つ。自明の理であるが、特権を謳歌する者の移り気に歯止めは掛からない。ただでさえ〝男心は秋の空〟なのだから。毎晩のように抱けば、飽きも早い。言葉が通じないとの悪条件が重なれば尚更だ。新たな柔肌を愉しむ為にも寝所から放逐するに限る。

 獣鬼地獄でなぶられた挙句、奴婢ぬひ同然の扱いに甘んじる異国の貴族。凌辱の難から逃れても、別の辛苦が待ち構えていた。今度は下賤の者に物乞いせねば、糊口の道を閉ざされる。奈落に堕ちた者の悲惨な運命に揉まれ、彼女の自尊心は完膚無きまで擦り減らされていた。

 そんな貪底状態で懐妊を悟っても、最初は素直に喜べなかった。でも、子供は純真だ。落魄おちぶれた母親を慕い、いたわってくれる。娘の存在を心のよすがとしたからこそ、自害もせずに生き長らえている。

『それで・・・・・・、私の妹は何処に居るの?』

『その内に現れるでしょう』

 婢女はしための娘であると同時に、頭領の娘でもある。微妙な境涯下で成長した次女。所詮は母親と同じく奴婢的な身分であったが、対馬で生まれ育ったが故に言葉の壁が無い。

 一方で、海賊社会は実力が物を言う世界でもあった。男勝りに育ち、時には海賊行為にも従事する。対馬島でも一般的に女は留守居役だが、頭領との血縁を十二分に喧伝し、果敢にも男達の輪に加わっていた。略奪品の分配にあずかるしか母親と共に生きる道を見出せないからだ。


 鴟梟ふくろうの羽音しか聞こえぬ霜降そうこうの深夜、薄汚れた格好の次女が牢獄の前に現れた。乾燥して伸び放題の髪を揺らす様は(山姥やまんばも斯くや)と思わせる異形振り。垢塗あかまみれの貫頭衣から漂い出る刺激臭は、老婆の異臭に慣れた鼻でさえ曲がりそうだ。

 そんな外見でも、母親を気遣う呼び声からは素直な性格が窺える。食糧を差し入れんと木格子に近寄った直後、3体の人影が寄り添う状況に眉根を寄せた。

『母さん。他の囚人と親しくするもんじゃないわ』

『何を言ってるんだい。このは貴女の姉さんよ』

 頑迷に訴える老母。何せ近頃は呆けの症状が進んでいる。次女の戸惑う表情を認め、トヨタマも弁韓語で加わった。ところが、『余所者は黙ってなさい!』と語気強く口を封じられる。睨み顔に浮かんだ猛虎の迫力。

 最悪の環境下で人格が形成されたのだから、粗野に育つのもむべなるかな。但し、分からず屋ではない。老母との短い押し問答の末、まずは好きに話をさせる事にした。痴呆者と言い争う愚を悟ったようだ。

 機転を利かせたトヨタマが首飾りを手渡す。翡翠ひすいの光沢を確認できずとも、滑らかな手触りから高貴な宝物ほうもつと容易に知れる。それが功を奏したのだろう。妹は耳を傾け続ける。

 母親と姉の説明には矛盾が無い。渡海する流亡者の素性は様々だが、貴族の数は限られる。荒唐無稽と侮っていたが、信じるしかなさそうだ。家族史の真相には驚愕するが、それを前提とすれば、母親の監禁された背景にも察しが付く。

『釈然としなかったけれど、2人の話を聞いて腑に落ちた』

『どう言う事だい?』

『島に滞在中の韓人からびとが姉さん達を連れて行く積りよ』

『向こうで如何どうするんだい?』

高霊キョンサンの民の前で処刑するの。母さんも一緒なんだわ』

『私達と高霊と一体、何の関係が有るのかしら?』

『だって、母さんは高霊の王族だったんでしょ?』 

 トヨタマらの出身地は咸昌ハンチャン大邱テグよりも更に内陸の奥地だ。斯蘆国と隣接するからこそ逸早いちはやく侵略され、不慣れな海路に活路を求めた。弁韓人とは微妙に血脈が異なり、加羅人からびとと言う方が相応しい。

 怪訝な顔で娘の指摘を否定する老母。『完全に濡れ衣じゃないの!』と憤るも、それは建設的ではない。次女は思案顔で四方を見回した。如何どうすべきかを必死に考えている。

――正論を説いても、納得するような奴らじゃない。此処に留まっても殺されるだけだ。

『だったら、逃げましょう!』

 今度は母親の方が当惑の表情を浮かべる。逃げたい気持ちは山々だ。脱出できるなら、うに実行している。それが叶わぬから、報われぬ地で無為な歳月を重ねたのではないか。老いるに従い、挑戦する意欲は薄れ、諦観の念だけが心底に溜って行く。

 彼女の場合、弱小国の宮中しか知らずに育った生立ちからして、積極果敢に行動を起こすべくもない。翻って考えるに、娘の場合は対馬島の地形を知悉している。生まれ育った環境が幾ら劣悪だろうと、逃げ出すほど苦に感じなかったと言うに過ぎない。

 だがしかし、今は一刻一秒を争う緊急時。直情怪行さで突破口を開く局面であった。次女は苛立たしく『散々酷い目に遭ったんだから、分かるでしょう?』と説き伏せる。逡巡の呟きには耳を貸さず、『道具を持って戻るから』と走り去った。

 妹の戻りを待つ間にトヨタマは夫に事情を説明する。顔を曇らせるホオリ。身代金目的の誘拐だと推察し、抵抗しなければ殺されまい、と踏んでいた。無抵抗こそが家族の命運を危うくするとは・・・・・・。

――此処は絶海の孤島。何処に逃げ延びる?

 熟慮するも、何が最適な脱出経路なのか、余りにも情報不足で判断が着かない。幸いにして、土地に明るい協力者が現れた。今宵は彼女の働きに運命を委ねるしかない。もどかしくはあっても、それが最も光明を見出せる生き残り策であろう。

 程無くして、その心強い先導者が再来する。全力で疾走し続けたと見え、口唇から涎を垂らしながら荒い呼吸を整える。前屈みに腰を曲げ、膝に当てた両手には手斧と匕首あいくちの束。腰には松脂を詰めた巾着を下げている。黒ずんだ布地を裏返して樹枝の先端に被せれば、即席の松明たいまつが出来上がる。

 貫棒を抜いて木格子を取り外すと、牢外に出しながら一つずつ匕首を手渡す。刃渡り20センチ程の鋭利な小刀を木柄に埋め、竹筒の鞘に挿した護身用の細やかな武器。無頼漢の抑止効果は甚だ疑問なれど、徒手空拳で立ち向かうよりは心強い。

 先頭に立つ自らは手斧を握る。『急いで!』。切迫した小声に促され、山奥へと続く獣道を歩き始めるホオリ親子。ところが、そんな娘らを老婆が呼び止めた。

『私は和珥津に戻ります。一隻でも多くの船に穴を開け、時間を稼ぎます』

 足腰の弱い自分が足手纏あしでまといとなる展開は明々白々。此処で別れる事こそが逃走を成功に導く最善の選択肢なのだ。

『何を言っているの!?』

『全てに絶望した人生でしたが、死んだと思っていた娘に会え、孫すら抱けたのです。もう何も未練は有りません』

 母親の決意表明に絶句する娘。激しく首を振った瞬間に双眸から飛沫しぶきする無言の涙粒。『貴女達が生き延びる事を優先したい・・・・・・』と、干乾ひからびた五指が濡れた頬を拭う。温かな指先の撫でる感触が次女の脳裏に刻まれた。

『家族の再会した今夜、貴女は生まれ変わるのです。倭国で恵み多き人生を送れますように――』

 薄倖の星の下に産まれた愛娘が辛労を積み重ねながらも成人してくれた。その門出を祝福しない母親が居るものか。自らの生命を犠牲にしようとも、必ず前途を切り拓かせて見せる。固い誓いを込めて痩身を抱き締める。

『そうだわっ!!。転生するなら、名前も改めなくては・・・・・・』

 暗黒社会に転落した彼女が20年振りに綻ばせる口許。未来に想いを馳せた恍惚の眼差し。『どんな名前が良いかしら?』と思案を巡らせる幸せそうな仕草。全ては一般女性の平素な表情に過ぎない。

『私にとって2人は宝物。姉が豊玉と名付けられたのなら、貴女は玉依と名乗りなさい』

 トヨタマが対馬で出会った妹こそが玉依姫たまよりひめ鵜萱葺不合命うがやふきあえずのみことの妻となる女性である。

『姉に寄り添い、姉の助けを得て生きるのですよ』

 老母は、娘の手から手斧を譲り受け、替りに匕首を握らせた。華奢な老指が節榑立ふしくれだった十指を優しくなぞる。以前に娘の手を慈しんだのは何年前の事だろう。

――自分が不甲斐無いばかりに、過酷な少女期を送らせて仕舞った。本来ならば、労苦とは無縁に育ち、異性に胸を時めかせる年頃だろうに・・・・・・。

 現実には、褐色に海焼けした身体で日々の食い扶持を求めている。余りに刹那的な人生。恵まれぬ境遇を不憫と思わずには居られない。スクナが長女を立派に育て上げたと知るに付け、自責の念に忸怩じくじする。

 愛する我が娘の不幸が終わるならば・・・・・・と、母親は惜別の情を封印し、逃亡を急かすのだった。


 儚げに手を振る老母に見送られ、牢獄を後にした4人。妹の先導で細い山道を黙々と縦走するも、彼らの逃走距離は対馬島の長さ(約80キロ)に匹敵する。北端から南端まで、不眠不休で走破しても丸一日を要するだろう。

 奥深い山中で松明たいまつともし、少しばかりの人心地を着ける。足元を照らせば、歩行の助けにもなる。但し、足運びを乱す路面の荒さは変わらない。葉片の重なりが月光を遮る中、樹根が這い延び、小岩の浮き出た土塊道つちくれみちを進むのは難儀な事だ。

 ホオリは妻の手を引き、大きな段差では身体を抱き下ろして、慣れぬ山歩きを手助けした。松明たいまつの炎を下げ、不安定な足場を逐一知らせる。夜通し歩き続けたものの、目的地は遥かに遠く、全く以て見通しが立たない。時間切れを宣言するように、東雲しののめの薄明かりが暁の夜空を侵食し始めていた。

「トヨタマよ。南端の港までの位の距離なのか。妹に聞いて貰えないか?」

 姉が夫の質問を通訳する。

『未だ半分くらい。疲れたとは思うけど、休まずに歩くわよ』

「南端までの途中に港は無いのか?」

『もう少し行けば、浅茅湾あそうわんに出るわ。入り組んだ海岸を利用した漁港よ』

「船も有るよな?」

『凪いだ湾内に限っての小舟だから、壱岐まで漕ぎ出すのは無理ね』

「そうか。その浅茅湾とやらへの行き方を、僕に教えてくれないか?」

『あんた、馬鹿?。その小舟じゃ逃げ切れないって、今、言ったばかりでしょ!』

 タマヨリだって疲労困憊している。加えて、全員の運命が自分次第と気負う重圧感は生半可ではない。些細な事に激高し、野卑な口調で言い返すのも致し方ない。

「もうすっかり明るくなった。僕らを捜し始める頃だろう」

 だからこそ、急ぐのだ。此処で議論している暇すら惜しいのに・・・・・・。

「奴らだって馬鹿じゃない。船で先回りするはずだ。逃げ口を封じてから、緩寛ゆっくりと山狩りすれば良い」

 指摘されなくても、そんな事は判っている。追手の戦術を解説された処で全く嬉しくない。

「此処から急ぎ足で歩いたとて、和珥津からの船より早く辿り着けるかい?」

 冷静に判断すれば、義兄ホオリの指摘は的を射ている。対馬島の南端で一網打尽に捕えられるだろう。逃げ延びんとの一心で雑念を追い払い、不都合な事実から目を逸らしていただけだ。

『あんたには妙案が有るの?』

 義妹タマヨリの質問には答えず、ホオリは傍らで見守る妻の双眸を見詰めた。口を開かずとも、夫婦の最優先事項を確認するには曇りの無い瞳だけで十分だ。彼女も夫の言わんとする打開策が理解できた。

――貴方と一緒ならば、何も怖くないわ・・・・・・。

 力強く頷き返すトヨタマ。口元の緊張を緩め、細面ほそおもての頬には笑窪を浮かべている。全幅の信頼を寄せる夫の決断だ。連帯の笑みで応えるのは妻として当然の振舞い。屹度きっとそう考えているに違いない。

「僕らが囮となる。浅茅湾で追手を惑わし、逃げる時間を稼ぐ。足腰を鍛えた君なら、イワレを負ぶって逃げられるだろう?」

 考える限り最高の次善策だった。体躯の華奢なトヨタマが山道の行進速度を律則し始めており、時と共に脱出の成功率は減殺する一方だった。

「奴らの目当てはトヨタマだ。君らには大して関心を払わないと思う」

 他人の生命を天秤に掛けるならば、タマヨリも即座に賛同していただろう。でも、生贄いけにえとする者は大切な家族なのだ。全員で生き延びる事を微塵も疑わず、否、すがるように信じていた。易々やすやすとは心の整理が着かない。

――姉さんとは会ったばかりなのに・・・・・・。

 母と姉を1日で喪うのだ。しかも、異口同音に捨駒として命を捧げると言う。予期せぬ提案に心を掻き乱され、滂沱の涙と嗚咽おえつを堪え切れなくなった。

――母さんに続いて、姉さんとも別れたら・・・・・・、私は天涯孤独の身だわ。

 泣きじゃくるタマヨリの肩を抱き寄せ、トヨタマは『息子を御願いね』と耳元でささやいた。そして、『御母様から貰った形見なの』と、襟元から外した翡翠ひすいの首飾りを妹の首に掛け直す。

常世とこよから私達は見守っているわ。貴女は独りではないのよ』

 昔日の記憶に残る母と同じ匂いを姉の首筋に感じた。今際いまわにだけ許された家族水入らずの時間。離愁に次ぐ悲嘆。家族団欒の幸せとは程遠いが、大いなる愛を再確認した此の瞬間を死ぬまで忘れないだろう。天の与えし僥倖ぎょうこうなのだと、敬虔な気持ちに満たされる。

 でも、海賊の包囲網が迫る中、時間の浪費は許されない。姉夫婦の自己犠牲で救われる自分の使命は、託されたイワレを立派に育て上げる事。目尻を拭って別れを告げると、一目散に駆け出した。

 

 遠離とおざかる妹の背中が放つ強い意志の気魄オーラ。安堵した2人は自らの役割を果たさんと浅茅湾あそうわんへ向かう。彼らが逃亡に成功する勝算は高い。そう思うと、奇妙な話だが、絶体絶命の状況でも気持ちが和らぐ。繰り出す一歩が自身を死地へと近付けるにもかかわらず、不思議と動揺はしない。

――トヨタマに格好良い処を見せようと、山登りに連れ出した事が有ったな。

 死を覚悟すると過去の記憶が走馬灯の様に巡ると言うが、ホオリの脳裏には結婚前の出来事が浮かんでいた。出雲集落から見える2番目に高い山、坪背山にく彼女を誘ったものだ。丁度、今と同じく、白く繊細な手を引きながら・・・・・・。

 香春集落の交易船に目的地を知らせる為、標高371メートルの小高い山頂には狼煙場が設けられている。交易の途絶する冬季には人影も失せ、日本海を一望できる物見櫓ものみやぐらは逢引に最適の場所と言えた。

 冷たい海風に抗い、身を寄せ合う2人。互いに恋心を語り、愛を育む大切な通過儀礼を楽しむ。水平線の彼方に沈む夕日を眺めた後は、黄昏時の残照と競いながら帰路を急ぐ。灯火の無い時代だから、自ずと日の入りが門限となる。思春期を迎えたばかりの初心な男女の交際と大差無い。

 若かりし頃の甘酸っぱい記憶が人生最後の一刻ひとときいろどりを添える。短いながらも満ち足りていたと、心中を温かくするに十分な拠所だった。同時に、場違いな感情を抱く滑稽さに小さな笑い声を漏らす。

 夫の失笑に興味をそそられた妻がその理由を問う。自分も多幸感に胸を膨らませた一幕であったと、彼女もた顔を綻ばすのだった。


 そうこうする内に山々の稜線付近が原色に輝き始める。万物が新たな一日を迎える準備に入ったのだ。2人にとっては今生こんじょうの離別日となる。

 崖道の果てに波止場を発見すると、小舟の一艘に乗り込み、浅茅湾あそうわんの入口へと漕ぎ出でた。竹筒を二層に重ねた竹筏たけいかだ。火で炙って両端を曲げており、舳先へさきともの部分は僅かに反り返っている。子供の遊ぶ笹船にも似た、外洋の荒波に転覆必至の薄弱な船舶だ。慎重に短櫂オールを漕ぐ。

 目指すべき地点に至ったら、海賊達の出現を静かに待つ。沖合に視線を這わせれば、澄み渡った天涯と武々しい外洋が青藍系の色に染め合っている。その境界線を知らしめる存在は荒波の白い飛沫しぶきのみ。

 リアス式の複雑な海岸線に囲まれた湾内は、何処までも波が穏やかで、出雲の宍道湖しんじこを思い起こさせる。静かな水面は秋空の色褪せた青に染まり、上空には鰯雲が列を成して泳いでいる。

 山並みが水域を囲む情景も宍道湖周辺に酷似そっくりだ。南東方向にそびえる白嶽しらたけ。山頂の岩肌が朝日に照輝し、中腹までを覆う森林も鮮やかを取り戻していた。白銀色と深緑色との見事な色彩対比コントラスト。岸部には魚影に群がる海鳥のやかましい鳴き声が響き渡る。死地と定めた周囲の景色は何処までも平和で長閑だった。

 夫婦で独占する静謐せいひつな空間。波間に揺れる小舟に座っていると、揺り籠であやされる赤児に戻ったと錯覚しそうだ。トヨタマは大きな肩に頭を預け、水平線を眺めていた。頬を撫でる潮風が心地良い。

――ホオリの優しさを感じる時間が永遠に続けば良いのに・・・・・・。

 だが、至福の時間は半日も続かない。太陽が子午線を跨ぐ正午過ぎ、徒党を組んだ船団が北の海原に姿を現した。

「君と出会えて、僕は本当に幸せだった。有り難う」

 耳元で囁かれた感謝の言葉に感無量となる。「私こそ」。余韻を惜しむように、夫の胸へと頭を預け直し、心臓の鼓動に耳を澄ました。出産間際に体感した息子イワレの鼓動を聞いているようで、心が安らぐ。

「息子も生まれましたしね」

「イワレには生き残って貰いたいものだ」

屹度きっと、私の妹が無事に逃がしてくれますとも」

「倭国に辿り着いてからも大丈夫だろうか?」

「信じて遣って下さいな」

 全ては愛する我が子の為だ。息子の将来が切り拓けるなら、喜んで生命を差し出す。衣帯いたいの契りを結んだ夫婦は、今や目的を共有する同志でもあった。

 ホオリは、トヨタマの両肩に添えた腕を伸ばし、柔和な顔貌を目に焼き付ける。如何いかなる時も絶えぬ微笑み。愛する妻の平穏を確かめるだけで、自身の口元にも笑みが浮かぶ。

 もう一度だけ抱き寄せる。しかと抱き締め、黒髪の中に顔を埋める。狼藉者に晩節を汚されるよりも自ら死を選ぶと決めたはずなのに、恋慕の情に心が揺らぐ。未練を断ち切らねば・・・・・・!

 白磁肌の頬を両手で挟み、拳の幅まで顔を離す。相手の瞳孔を覗き込める近さ。夫に身を委ね、静かに閉じられた左右の目尻から溢れる2筋の落涙。ホオリは激しく接吻した。舌を挿し、強く吸う。初めて見せる猛々しい仕草。

――常世とこよでも再び夫婦めおととなろうぞ。

 夫の激情を吸い尽くさんと、妻は敢えて受身を貫く。ホオリは、そのたおやかな腰を左腕で支えると、腰帯に潜ませた匕首あいくちを掴む。刃先を布地に這わせる間も、生温かな弾力を永久に忘れまいと、柔らかな唇を口に含み続けた。

 名残惜し気に二つの口唇が離れた途端、熱い息吹が漏れ出でる。儚く刹那に生じた刺激が一触即発の堰を切る。歯間の奏でる艶声に指嗾しそうされ、トヨタマの左胸を突き刺すホオリ。変心を誘いそうな躊躇ためらいに慌て、失敗の恐怖に衝き動かされた条件反射だった。

 先端に感じる小さな脈動。ピクンと高鳴った振動は断末魔の悲鳴であった。その震えは徐々に間延びし、消え失せて行く。指に伝わる変化は、湖水の鏡面に垂らしたしずくが波紋を生み、幾重にも拡散する様を想起させた。時を置かずして凪ぐであろう血溜りは死を意味する。

 その瞬間を毅然と迎える覚悟のトヨタマ。短い呻き声を上げるも、微笑み続ける。別れの言葉を紡ごうと試みるも、開けた口からは血泡と喘鳴が零れるのみ。呼吸いきをしようにも、上手く空気を吸い込めない。胡乱な瞳から流れ落ちる最後の涙。

 匕首の抜き口から鮮血が噴き出し、青白い襦袢じゅばんが赤く染まる。刺突の痛みを和らげんと意図した動作であったが、果たして成功したのか否か・・・・・・。枝垂れ落ちる妻をかかえるホオリには判断が着かない。

「僕も直ぐに追うよ」

 魂の抜殻となり起律の果たせぬ身体を船底に横たえながら、寝顔の如き死面に優しく語り掛ける。一瞬前までは、惜別と諦観、憤怒と絶望、そんな混濁する激情の渦に翻弄されていた。ところが今や、全ての情念が意識の根底に沈み、静かな悲しみだけがくすぶっている。

――我が望みは只一ただひとつ。トヨタマのそばで寄り添う事だ。

 被さるようにひざまずき、動きを止めた胸元の上で弛緩した両手を合わせる。血塗られた五指を黒髪に通し、梳いた艶毛を指先に絡ませる。指の腹をくすぐる滑らかな感触が心地良い。愉悦の中でしばらく目を閉じ、妻との幸福な想い出を回顧する。

 誘拐前夜の夕食。乳房を露わにして授乳する妻。出産直後で汗だくの妻。新居で迎えた第一夜。ナムジ夫婦が仲人を務めた婚儀。過去へ過去へと追憶は遡る。そして、養父母が寝静まった晩、軒先にトヨタマを呼び出した月夜を思い出す。

 彼女の頬に初めて接吻した夜は満月だった。頬を赤く染めた彼女の反応に安堵し、告白の報われた喜悦に小躍りした。あの瞬間、怯懦きょうだに傾いた心は不安から解放され、自信と未来への抱負に満ち溢れる日々が始まったのだ。

――トヨタマ、いざかん。

 匕首を拾って膝立ちすると、逆手に握り直した刃先を左胸に当てる。現世うつしよとの断絶を決意した者は過去に拠り所を求めるものだ。ホオリとて同じ。人生の分岐点となった視覚的記憶と共に、勢い強く自身の心臓に突き刺した。

 脳裏を貫く痛みは最初の一瞬だけ。後は・・・・・・、得も言われぬ藻掻きだった。ままならぬ呼吸に焦りもしたが、死への恐怖は無いと言い切れる。その内に、意識が朦朧とし始めた。動揺の果てに迎えるであろう安寧。生に執着する肉体の断末魔が事切れるのを待つのみだ。

 妻の生命を断った事実におののき、自刃の直前まで後悔の念が心底にくすぶっていた。自分が同じ順路を辿っているならば、罪悪感も薄れると言うもの。命運の尽きんとする今は随分と気が楽だ。

 最後の力を振り絞り、トヨタマの隣に横たわる。薄目を開けると、秋空を飛翔する白鳥の姿が視界を横切る処だった。常世とこよへと導く妻の化身に違いない。そう考えたホオリは満足気に目蓋を閉じるのだった。


 浅茅湾に面した対馬市豊玉町には和多都美神社わだづみじんじゃが建立され、日子穂穂出見命ひこほほでみのみこと豊玉姫とよたまひめの2柱を祀っている。日子穂穂出見命の別名は火遠理命ほおりのみこと、山幸彦と俗称される彼の事だ。

 和多都美神社の本殿前に構えた五つの鳥居。内二つは海中に建ち、干潮時にしか全景を拝めない。五つの鳥居越しに浅茅湾を望むと、東シナ海に沈む綺麗な夕日を堪能できるだろう。

 彼らの悲運が『浦島太郎』物語の題材になったとも伝えられる。現世で天寿を全うし損なった2人。せめて来世では幸せに暮らして欲しいと、後世の人々が祈願した結晶だ。

 それら痕跡の発掘は現代人の果たすべき務めのように思われる。

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