第16話 少女の恋、そして

 翌朝。鶏鳴を合図に4人は起き出す。ナムジが囲炉裏の薪に火をおこし、ヤガミと母親の2人は鉄鍋で玄米を研ぎ自在鉤に架ける。集落長は家畜小屋の褐兎うさぎを絞めて戻って来た。鉄包丁で器用に皮を剥ぎ、裂いた肉の串刺を灰地に立てる。

 小一時間で朝餉あさげの準備が整う。滋養を摂らせようと焼いた兎肉だが、父親の優しい気遣いも娘には届かない。直ぐに発つ事しか彼女の念頭には無く、掻き込み過ぎてむせる始末。慌てて喉のつかえを白湯で下すと、今度はナムジを急き立てる。普段通りに匙を動かしているのに、丸で鈍牛扱いだ。

 食後の白湯も飲ませず、彼の腕を引っ張ると、脱兎の如く出発した。遠出を楽しむには絶好の小春日和だ。右手に握る麻袋には昼食が入っている。魚の燻製、煎った松の実と胡麻をまぶした握り飯。入浴後に身体を拭う麻布は首に巻いている。

 誰にも見咎められぬよう、集落の外れまでは早足に道を急ぐ。でも、緊迫の時間は長く続かない。茅屋が疎らとなるに連れて歩速は緩み、お喋りが始まる。手をつなぎこそしないが、二人切りの日帰り旅行に気分は高揚する一方だ。

「ねえ、ねえ。温泉に入った事って有る?」

「うん、好きだよ」

「黒木にも温泉が在るの?」

「在るよ。でも、呼邑ふいの温泉が一番だね」

 大分県別府市に所在する集落は魏志倭人伝に『呼邑国』として登場する。湯泉を知らぬ漢人ばかりの中華帝国官衙かんがで、倭人やまとびとは説明に窮した筈だ。何度も湯舟に浸かり直す湯治を表現しようと『複浴ふくよく(発音はfu-yu)』との言葉を編み出し、当字あてじされた結果だろう。

「山肌の至る処から湯気が立ち上っていてね」

「山の上に登るの?」

「低い山だよ。小高い丘って言うべきかなぁ」

緩寛ゆっくりしたいから湯に浸かるのに、その前に汗を掻くなんて・・・・・・」

「でも、其処から眺める海は最高だよ」

 調子に乗ったナムジが別府温泉を吹聴する。殆どの泉源は高温で硫黄臭もきつく、直接の入浴は無理な事。呼邑人ふいびとは工夫して、遠く離れた浴場まで導水溝を掘り、流れる過程で湯温を冷ます事。湯溜まりには湯の花が舞い、溝の内面には硫黄が黄色い膜を作る事。れもヤガミには初耳の話ばかりだ。

貴方あなたって物知りなのね。私とは大違いだわ」

「黒木から香春を通って出雲まで旅したんだ。そりゃあ、道中で色々と見聞するよ」

「良いなあ・・・・・・。私も外の世界を旅してみたいわ」

 いつになく沁々しみじみとした口調だったので、「この出雲だって良い処だよ」と慰める。ところが、「えっ!」との驚愕調の反応が返って来た。

「大の丈夫ますらおだったら、『俺が連れて行く』って大見得を切るんじゃないの?」

 紀行話に興じる余り、彼女の積極果敢な姿勢に無防備となっていたようだ。予期せぬ突っ込みに思わず口籠る。

――求婚しろって催促しているの?。まさかな。未だ小娘だぞ。

 現時点でナムジは16歳、ヤガミは12歳。結婚適齢期は数年先でも、思春期の少女は得てして早熟。片や同世代の男は異性の恋愛感情に鈍感だ。彼を責めるのは酷である。

「ところで、さあ」と、強引に話題を変えるナムジ。残念ながら、その機転が裏目に出る。

――流行の扮装いでたちを話題にしておけば、気拙きまずい雰囲気に陥らないだろう。

 そう考えを巡らせたのだが、「出雲には髪の短い娘が多いよね?」との発言が新たな墓穴を掘る。

「やっぱり他の娘にも関心を寄せているのね」と詰め寄られた。彼女の警戒心は最高潮となり、「何処で見たの?」とか「会話したのか?」とか、糾弾の響きを含んだ尋問が延々と続く。

 自分の迂闊さを悔やむも、〝後悔、先に立たず〟とは此の事だ。やっとの事でなだすかしたヤガミの説明に依ると、女性は数年に1度、髪切りの儀式を迎えるらしい。

 腰まで伸びた長い毛髪は釣糸に加工される。3本ずつの毛髪を三つ編みに絡め、もやむすびでつなげて長い糸と成す。植物繊維から紡ぐ糸は、釣糸には太過ぎるし、白くて釣果が宜しくないらしい。

「男も髪を切るの?。美豆良みずらに結った人が多いみたいだけど」

 美豆良とは8の字に結ったまげ。左右に分けた長髪を束ね、其々それぞれ蜷局とぐろに巻く。縄文時代から弥生時代に掛けての一般的な男性が整える髪型だ。

「女の髪じゃないと、海の神様が怒るんだって」

 竿釣りは効率的な囲網漁かこいあみりょうに追い遣られており、女人の毛髪を捧げる行為は神事に近い。

「ヤガミの御母さんも髪を切るの?」

「ううん。出産したら髪が脆くなるの。直ぐに切れては無意味だから、若い娘だけなのよ」

「それじゃあ、ヤガミも髪を切るんだ」

「うん。春が来て、田植えを始める頃に切るよ。今度が最後だと思う」

「最後なの?」

許嫁いいなずけを探す年頃になると、もう切んない。だって、髪の長い娘が好きって言う男も多いから・・・・・・」

 一連の説明を終えたヤガミが黙り込む。語り疲れたとも思えない。土塊道つちくれみちを進む足取りは歩速を保っている。

 前方には白一色に雪化粧した火神岳ひのかみだけ大山だいせん)の雄姿がそびえている。山肌に生い茂る樹木の大半が葉を落とす中、茶色に枯れた葉々を懸命に握り締める冬柏ふゆかしわ

 左手の遠目に見える宍道湖しんじこでは、湖端に立ち竦む枯蘆かれあしや湖面に浮かぶ枯蓮かれはすが痛々しい。この時代の宍道湖は湿地と呼ぶべき程にたたえた水量が少なく、波の不在も深閑と静止した世界の演出に一役買っている。

 2人の視界に映る大地を残雪がまだらに覆い、点々と残滓を留める草枯くさがれが冬の寂寥感を際立たせる。仮に空風からっかぜが吹くようなら、出歩く覇気を失っただろう。無風の天気に恵まれた事に感謝したい。

 そんな荒涼たる冬景色は乙女の眼中に無い。生命力に溢れた脳裏を駆け巡る悩みは恋路の行方。若人の横顔を尻目遣いに窺いながら、確かめずに置けない質問を発する。

「ねえ、ナムジ」

「何?」

「ナムジは・・・・・・髪の短い娘は・・・・・・嫌い?」

「別に。だって、髪なんて伸びるもんだろう?」

 気立てが良くて器量良しの娘なら、髪の長さなんて眼中に無いと明言する。空気を読めない愚鈍な男の一発逆転本塁打。一般論を述べたに過ぎないが、その真意は受け手に曲解されて仕舞う。自分が褒められた訳柄わけでもないのに、ヤガミは上機嫌で躍り歩く。

 断髪後の自分に落胆するのでは?――と、密かに心配していたようだ。


 宍道湖しんじこから南へ1キロ余り。玉湯川の脇に湧く温泉地が玉造だ。東方には青瑪瑙メノウを産出する花仙山かせんざんが小高く迫っている。古くから知られており、枕草子にも登場する。

 出雲人いずもびとが度々訪れるらしく、玉造には共用大浴場が作られていた。玉湯川の川縁で河原石を円陣に組み上げ、川底を掘り下げる。源泉から湯船に流れ込む熱湯を川の水で冷ましている。

 溜り湯に右足を浸けて湯温を確かめるヤガミ。フンと御機嫌の声を漏らし、左足も浸ける。酸性の水流が洗い清める川底には玉砂利が敷き詰められている。苔も生えず、魚も棲まない。入浴する人間だけに許された水域。陽光にきらめく細流せせらぎが小気味良い微音を立てて誘う。

 御転婆娘の行動は素早く、毛皮の半纏はんてんと麻地の貫頭衣かんとういを脱ぎ上げ、河原に放り投げる。ふんどしも脱ぎ捨て、一糸いっしまとわぬ素裸すっぱだかになる。

――夜な夜な抱き合って寝るのに、今さら何を恥らう?

 そう達観した彼女に挑発の意思は無い。

 一方のナムジは動悸の高鳴りに困惑していた。暗がりが仔細を隠し、両親も間近に控える布団の中では劣情の抱きようも無い。ところが、陽光の下で少女の裸体を改めて眺めれば、ドキドキと鼓動が脈打ち、身体の火照りを覚える。

 雪の精霊を想起させる白肌の上を艶やかな黒髪が臍の辺りまで垂れ、股間には薄らと陰毛が生え揃っている。発展途上の乳房は見過ごせても、自己主張を始めた桃色の乳首は若人の意識を捉えて離さない。小娘だと侮っていただけに、成人女性の兆しには茫然自失とならざるを得ない。

「何をボ~っと吊っ立っているの?。早く入って来なさいよ~」

 平泳ぎの要領で川面に円弧を描きながら、首だけ水面に出したヤガミが誘う。

 男勝りの勢いで裸になった彼女とは対照的に、ナムジの態度は女々しかった。湯溜りに背を向けて衣服を脱ぐ。そのまま前面を晒さずに後ろ足で歩み寄り、股間を抑えながら両肩を湯中に沈めた。

 満面に笑みを浮かべたヤガミが中腰で泳いで来る。川遊びで身に着けた手足の動きが滑らかだ。指先が届きそうな距離に至ると、水飛沫みずしぶきを飛ばし、黄色い奇声を上げた。未だ幼い精神が渇望するのはじゃれ合いのみ。ところが、意に反して、相手は頑なに自分を見ようとしない。

 痺れを切らした彼女が背後から抱き付く。両腕を交差させた首回りの筋肉は薄く、出雲の男連中に比べて柔肌だ。愛おしさに強く締めると、少女の足先が浮力に持ち上がる。やんわりとしか密着しない乳房が背中をくすぐり、突き出た乳首の描く一筆書きに意識を集中させる体勢だ。

 猛り立つ若人の下半身。発起した妄想が動揺と羞恥とで増々盛んになる。焦りだけが空転し、鎮静に役立つ妙案を考える余裕すら無い。幾ら対面を強要されようが、絶対に振り返れない危機的状況と言えた。

「何か変よ。私、怒られるような事、した?」

否々いやいや。そんな事は無いよ」

 不安がる雰囲気が背後から伝われど、今は仏頂面を装うしかない。純真で初心な感情に報いたいと思いつつも、肉体の主張は異っている。「助平!」と騒がれる展開は、考えるだにおぞましい。

「じゃあ何故、私の方を振り向かないの?。顔を背けているような気がする・・・・・・」

 素気無い態度が余計に彼女の疑惧を誘う。行楽気分を壊すまいと理性的に振る舞った結果、乙女心を涙に濡らしそうな雲行きであった。

――万事休す――

 揺れる水面の視覚的効果に期待しながら、恐る々々身体を反転させた。幸い、痴漢扱いを嫌気した逡巡は取り越し苦労に終わる。ヤガミの視線は下方に向かず、美豆良みずらの頭髪を見据えていた。

貴方あなたの髪を結い直して上げるわ」

 蜷局とぐろに人差指を差し込み、まげを結んだ髪の毛を切る。成長期の勢いを感じさせる長髪が川面に広がり、扇状の黒い放射線となって小波に揺蕩たゆたう。

「ねっ!、瀟洒さっぱりするでしょう?」

 両手ですくった湯を頭頂から垂らされると、地肌をくすぐられているようで何とも心地良い。弛緩したナムジの表情に満足するヤガミ。今度は自分の髪を一つに束ねた木櫛を外す。彼女の艶やかな髪も、波間に踊る玉藻の様に乱れ、川面に広がる。

 互いの両肩に手を乗せて向き合う2人。透き通った冬空を見上げて後頭部を湯面に浸けたなら、顔に当たる冷気との温度差で爽快さが増す。半円状に広がる黒髪が合せ鏡となり、湯面に一輪の大きな花を咲かせる。

 しばらくは、寒空を所在無げに流れる薄雲を見遣りつつ、頭皮が温められるに任せていた。

「後ろを向いて」

 10本の指先が優しく髪を梳き始めた。地肌に軽く爪を立て、刺激を与える。時々は掌腹てのひらで湯を掬い、頭頂部に滴を垂らす。揉み療治マッサージを受ける者には至福の時と言えよう。愛する男に尽くすのは女の本懐。施術する方もた安らかな気持ちで充たされていた。

 ナムジの美豆良みずらを整え終えると、今度はヤガミが髪を梳かれる番だ。快楽が自制心を溶かし、2人の距離を物心共に近付ける。自然な流れで背中を麻布で拭い合う。布越しの愛撫であっても、親愛の情を深め合うには十分だった。

 腕、尻、脚、爪先と対象を移す度に両者は水中での姿勢を変える。触れては離れ、離れては触れる裸体の輪舞。浮遊状態での捻転を互いに手助けする様は社交ダンスを思わせた。


 冬の寒気が日増しに緩み、雪解けの隙間から福寿草の黄色い花が覗く。春雨の合間にイネの苗床なえどこを作り、黄色い菜の花が畦道を飾るに至ると愈々いよいよ、田起しが始まる。馬にすきを牽かせて耕す作業が集落民に披露された。

 集落長の田圃たんぼでの実演が柿落こけらおとし。卓越した深耕性能は一目瞭然で、見物客らが大騒ぎで品評し合う。

「ナムジの言った通り、馬の威力には目をみはるものがあるな」

 感嘆する父親の横で、ヤガミが誇らしげに胸を張る。当の本人は馬の後方で両手を犂に添えている。時々は馬の尻に鞭を打つ。

「俺達の出番なんて全く無い。一年中、奥出雲を手伝ってりゃ良いな」

 春の到来を機に下山した息子2人も異口同音に驚嘆の言葉を漏らす。

「この分じゃ、早々に完了するぞ」

郷長さとおさ、次は俺の田圃を耕してくれや!」

 上機嫌で交わされる軽口に調子付き、周りの者が「我も、我も」と手を挙げる。

「土にり込ませる歯の部分だがなあ。木材じゃなくて、鋳鉄てつで作っちゃ如何どうかな?」

 人集ひとだかりの喧騒を余所に、作業を見守る集落随一の発明家が目敏く提案した。

「歯が細けりゃ数を増やせるから、もっと上手く掘り返せると思うんだがなあ」

如何どう思う?」との呼掛けに、(確かに一理ある。ズク押しで試作してみるか・・・・・・)と顎を撫で回し、吟味する集落長。実利に富んだ改善は即行で実行するに限る。

 翌日には鋳型の段取りを整え、8本の巨大な釘状の櫛歯を試作した。犂の横串に開けた穴に差し込み、櫛歯の扁平な頭を添木で抑えて固縛する。白茶色の本体と鈍色にびいろに光る櫛歯の対照が美しい。急拵えの品を改めて眺めるに、期待を持たせる出来栄えだ。

 早速、製作陣全員で田圃に運び、鋳物製の櫛歯を試してみた。その驚くべき威力。鼻高々の発明家は勿論、集落長やナムジ、立会した一堂は肩を叩き合って喜んだ。

 村人達は最大功労者の黒木人に称賛の眼差しを注ぐ。娘達の場合は複雑だ。柔媚な視線を当人に送る一方、隣に寄り沿う好敵手ライバルには嫉妬と羨望の目を向ける。

 恋人を自認するヤガミは、高まる名声に意気軒昂となる反面、不安に駆られて猜疑と警戒の心を研ぎ澄ます。他の娘が寸掻ちょっかいを出さぬように、片時もナムジから離れない。シャーっと威嚇の鳴き声を上げ、縄張りを必死で守る三毛猫と変わらぬ行動であった。


 馬を使役する作業は至って簡単だ。誰にでも出来る。貸し出した後のナムジは無聊ぶりょうかこつしかない。暇を持て余した彼が集落内を出歩かないよう、ヤガミは頻繁に狩りへと誘う。山中に連れ出せば、秋波を送る恋敵の出現に怯えなくても済む。

 そんな乙女の気苦労に無頓着な彼であったが、術中にはまった感は否めない。彼女の背中を追いながら、我知らず視線が一点に固定される。薄らと汗の玉が浮かび、異性を如実に感じさせるうなじ。泥土にまみれた手足よりも眺めるに値する。

 後頭部を熟視する理由わけが他にも。数週間前、断髪式の一部始終を隣で見守ったのだ。自慢の黒髪を根元近くで断ち切られたヤガミ。一束毎に選り分けては小刀を入れられ、無残な髪型と化す間、口元を固く引き結んで必死に堪えていた。自分を見上げた双眸に溢れる涙。素直に可哀想だと思った。

 海神への供物を拾い集めた母親が屋内に消えるや、立ち上がって一目散に駆けて行く。慌てて後姿を追い、畦道で追い付いた時。彼女の肩を強く抱き寄せずには居られなかった。若人の胸に顔を埋めた途端、堰を切ったように嗚咽おえつを漏らすヤガミ。

 刈上げ同然の頭を優しく撫でるナムジ。襟足をいた指には短い跡毛が付着していた。陽気な大声で「明日、玉造温泉に行こう!」と元気付け、彼女の耳元に顔を近付ける。そして、「頭を洗おう。俺が綺麗にしてやるよ」と小声で囁いた。

 そんな一幕が効を奏したのか、今のヤガミは生来の明朗さを取り戻している。

 狩人然とした表情で腰を屈め、忍び足で森の中を歩き回る姿は南米のアマゾネスにも引けを取らない。鋭い視線を樹々に巡らせ、虎視眈々と禽獣を探す。時折は立ち止まり、ボロロ、ボロロと鳥の鳴き声を真似る。

――羽音が聞こえた!

 大木の根元に片膝を付き、下半身を安定させる。次に上体を慎重に傾け、木陰から顔を覗かせる。続いて、探り当てた獲物を冷めた隻眼で狙い、短弓を構える。堂に入った一連の動作は見る者に野生動物の優雅さを感じさせた。

 狙い定め、猟矢ししやつがえた弓弦ゆづるを引くに従い、捕食者の獰猛な気魄オーラが漂い始める。うなじの色香に魅せられていたナムジは、緊迫の度を増す雰囲気に戸惑い、生唾を飲み込んだ。

 臨界間近の静粛なる一瞬。身動き一つせず、矢柄を抓む親指と人差指だけが僅かに緩む。生殺与奪権を行使する繊細な仕草。解き放たれた猟矢ししやが空気を裂き、豪速の勢いを標的に突き刺ささんと滑飛する。

 バサリ。枝葉を揺らす音。

 20メートルほど前方の濡れ落葉に何かが落下する。ヤガミの動作は俊敏だ。猟犬の如く走り出す。遅れまいと、後に続くナムジ。

「ヘヘヘっ。如何どう?」

 女狩人が自慢気に振り返る。掲げた右手で山鳥やまどり首根子くびねっこを掴んでいた。

「凄いな!」

「今晩は焼き鳥ね」

 同じ淡泊な肉でも、兎肉とは味なり歯応えが微妙に違う。2人とも獲れたての食材に舌を舐め擦る。

「今は雌の方が美味しいんだけど、大きい雄の方が好都合ね。兄ちゃん達も家に居るから」

 柿本人麻呂の求愛歌にも登場する程に尻尾の長い鳥。全長は約1メートルと長いが、その肉量は精々食事1回分だ。

先刻さっきの鳴き真似は、この鳥の?」

「そうだよ。産卵期には雄が鳴いて雌を誘うの」

「でも、これは雄なんだろ?」

「自分の縄張りから追い出そうと姿を現した慌て者ね。そんな時は頭に血が上っているから、警戒心が緩むのよ」

「ふ~ん。俺は狩りに疎いからな」

「ナムジは黒木の山に立ち入らなかったの?」

「樹木の伐採を手伝う時には入山するよ」

「黒木人も狩りをするんでしょ?」

野猪いのししや鹿を狩るけど、逃げ足が速いから、大勢で囲い込むんだ」

「ああ、それは出雲でも同じよ。1人じゃ危なくて」

 話しながらも、手を休めない。山鳥の頸を一刀に断ち、逆さに吊って血抜きする。両脚を掴み直した拍子に抜け落ちた羽根が数枚。光沢めいた赤褐色が目に焼き付く。

「綺麗な羽根だね」

「うん。キジの方が綺麗だけどね」

「この羽根も布団に詰めるの?」

「そうよ。貴方あなたの分も作らないと・・・・・・。それとも、ずっと私と一緒に寝る?」

 何とも答え難い突っ込みである。赤面して口籠る他は無い。


 降雨量は少ないながら、出雲地方にも梅雨が訪れる。

 集落内の要所を結ぶ土塊道つちくれみち其処そこ彼処かしこでは、紫陽花が大輪の花を開いている。濃淡の異なる青紫や小紫の群花。川辺を飾っているのは花菖蒲の群生。濃い今紫の耳垂れた花弁が優雅である。草木は一様に生長を競い、篠突く雨に揺れる葉々さえも自己主張しているようだ。

 軒先から滴る雨音を背中で聞きながら、ナムジは一時帰省の日取りを集落長と相談中であった。渡航目的は在来馬の追加手配。黒木人の欲する交易品を調ととのえねばならないが、その選定は彼の助言に左右される。

「何はともあれ、鉄を使った珍しい品です」

「具体的には?」

「鉄鍋が最も喜ばれるでしょう」

 黒木集落では直火に弱い須恵器すえきで米飯を炊く。炭火に当てる時間を制限するので、中途半端な強飯こわめしとなる。一方、頑丈な鉄鍋に鉄蓋をも併用する出雲式なら加圧状態での炊飯が可能だ。米粒の芯まで熱を行き渡らせるから、ふっくらした食感に炊き上がる。

すきの歯も欲しがるでしょうね。他には・・・・・・釣鈎つりばりとか釘かなあ」

 釘やコの字型のかすがいは鋳造製法を使いこなす出雲ならではの消耗品。釘を使わずに木造家屋を建てるには、木材の両端に穿った凹凸――凸部をホゾ、凹部をホゾ受けと言う――を差し組み、柱や梁をつなぐ。釘や鎹で木材を接合すれば、格段に建築効率が向上する。

 木枠に石膏を流し込み、乾き切る直前に細い棒で何回も突き差す。幾つも開けた尖頭穴に溶銑を流し込めば、釘の完成だ。犂の歯も同様にして製作する。釣鈎の場合は、石膏にJ字の小溝を彫る。流し込む溶銑の加減が難しいが、要は慣れの問題。熟練工が日々の製作に勤しんでいる。 

 出雲の魅力を反映した目録は増改訂グレードアップされる一方だ。喜ばしい事ではあるが、指折り数えるナムジに集落長が注意喚起する。

「鉄器は相当に重いから、大した量を持ち込めないぞ」

 自分で水を差しておきながら、「果たして、馬と交換してもらえるものかな?」と不安がる。願わくば、重量が嵩張らずとも高く評価される品を選定して欲しい。手前勝手と承知しつつも、可能な限り多くの馬を入手したい。集落民の期待を一身に背負っているのだ。

「出雲から香春までは船を使いましょう」

「その先は?」

「イネを刈り、冬野菜の種蒔きを済ませば、香春は黒木の馬を返します。そのついでなら大量の荷物を運べるでしょう」

 当意即妙の提案に手を打ち、安堵した表情で「秋から冬に掛けてだな」と合点する。訪問時期が定まっただけで半ば実現した気になるが、商談こそが最大の難所なのだ。その点に思いが至った彼は再び浮かぬ顔をする。

「何頭の馬を期待できるんだろうか?」

「さあ、それは・・・・・・」

 交渉事に不慣れなナムジは口を濁す。自分が打診しても逆効果。義兄ホノギに言い包められるのが関の山だ。少なくとも外交折衝の体裁で臨まねば、有利な交易条件を引き出せまい。

「やっぱり、出雲の実力者が同行し、直に交渉するしかないですねえ」

「そうか・・・・・・。そうすると、俺が出張るしかないな」

 豊穣祭を始めとする行事の段取りに思案を巡らす集落長。必要ならば、代行者を指名せねばならない。ところが、傍目には随行員を選んでいる風に見えた。(今が勝負時)と踏んだヤガミが、にじり寄った父親の肘を遠慮気味に小突く。

「なんだ?」

――ナムジの故郷を見たいし、彼の母親に挨拶もしたい!

 物問顔の双眸を熱情に満ちた瞳で見詰め返すも、彼女の気持ちは伝わらない。口を噤んでは機会を逃す。破廉恥な女と誹られようが、声を大にして言うべきだ。そう意を決して、自分の要望を口にする。

「私も一緒に連れて行って」

「なんで?」

 あぁ無情。恋焦がれた乙女の談判が一言の下に討ち散らされる。機微に疎い男親とは、そんなものだろう。

――だって、私、御嫁さんになるんだよ!

 喉まで出かかった本音の叫び。だが、時期尚早の台詞せりふは封印せざるを得ない。今は意気消沈して項垂うなだれるのみだ。

貴方あなた。良いじゃありませんか。学びたい盛りの年頃なんですから」

 横合いからの予期せぬ援軍。しかも「年頃」を強調する老獪さ。更には、戸惑う夫を完全に黙らせようと、入念に目配せする。

 顔面を上げ、固唾を飲んで遣り取りを見守るヤガミ。彼女の手を優しく撫で、緊張を解そうとする母親。女2人の真意を悟るが、どうも踏ん切りが着かない集落長。

 頻りと顎を擦りながら、「息子なら喜んで旅をさせるが、娘じゃなあ・・・・・・」と首肯の気配を見せない。「途中で山賊に襲われたら、危ないじゃないか!」と父親らしい指摘を返す。

 そんな付焼刃の反論では母親の泰然自若とした態度を崩せない。娘の安全を想う気持ちは同じなれど、「貴方とナムジが一緒なんでしょ?」と軽くなす。後詰めの策として、娘の頭に手を当てる。「この散切り頭を見て下さいな」と夫の視線を動かし、「誰も女だとは思いませんよ」と畳み掛けた。

「そうよ、そうよ。母さんの言う通りだわ」との煩い声援。断髪式で悄気しょげていた半月前が嘘の様。母親の陰に隠れていては埒が明かないと、自らも懸命に売り込む。

「私の弓矢の腕前は父さんだって認めるでしょ!。自分の身は自分で守るから」

 父親の腕を押し引きし、「ねっ!」と連呼する。従順な娘が駄々子だだっこに急変した珍劇。如何いかに好いているのか、傍目にも明らかだ。

――いずとつがせるなら、先方の家族に面通しを済ませておくべきか・・・・・・。

 家庭内で孤軍奮闘を続けても勝ち目は無い。(改めて出向くのも面倒だしな)と、出不精な性格も早期降伏を勧める。

「仕方ねえなあ」

 諦めの独白に「やった~!」と歓声を響かせるヤガミ。喜びを抑え切れずに小躍りする。自分の招いた騒ぎだと想像だにしないナムジは、彼女の反応に唖然としつつも、落ち着き払って承服する。

「ところで、郷長さとおさ。近頃、気になっているんですが・・・・・・」

「なんだ?」

残米のこりごめを早く食べないと、駄目になりませんか?」

 鳩が豆鉄砲を喰らった様にキョトンとする3人。質問の意味が理解できない。

「どうして?」

「だって、ヤガミ。雨続きで芽吹けば、食えなくなる」

「そんな事にならないよ」

「芽吹いた米を食べるの?」

「いいえ。芽が出ないもの」

 今度は質問者の目が点になった。ヤガミの断言に両親も頷いている。妙な事を口走ったと承知しつつも、一向に理解できない。

 梅雨時の発芽は九州特有の現象なのだ。九州に大量の雨を降らせる梅雨前線も本州通過時には勢いを削がれている。だから、山陰の梅雨では発芽に至らない。

 異常気象の常態化する以前の宮崎市にける4月と5月の月間降雨量は200ミリ強。梅雨時の6月は400ミリ超まで激増し、7月と8月には一時的に落ち着くも、台風襲来期の9月は6月並みに多雨となる。

 筑紫ちくし平野に目を転じると、6月と7月の其れは福岡市と熊本市とで各々約250ミリと約400ミリ。宮崎市に遅れること約1ヶ月の時差で梅雨前線に居座られる。その間に位置する邪馬台城の周辺だって多量の雨が降る。

 一方の出雲地方では、梅雨の恵みに期待を寄せ7月ですら約250ミリ。前後の月は150ミリ程度に過ぎない。つまり、湿度が低い。生石灰きせっかいで乾燥させずとも、通常の高床倉庫で支障無く保存できる。

 気象条件の相違を知らないナムジは、納得できぬままに、不得要領な問答を生返事で打ち切った。

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