第16話 少女の恋、そして
翌朝。鶏鳴を合図に4人は起き出す。ナムジが囲炉裏の薪に火を
小一時間で
食後の白湯も飲ませず、彼の腕を引っ張ると、脱兎の如く出発した。遠出を楽しむには絶好の小春日和だ。右手に握る麻袋には昼食が入っている。魚の燻製、煎った松の実と胡麻を
誰にも見咎められぬよう、集落の外れまでは早足に道を急ぐ。でも、緊迫の時間は長く続かない。茅屋が疎らとなるに連れて歩速は緩み、お喋りが始まる。手を
「ねえ、ねえ。温泉に入った事って有る?」
「うん、好きだよ」
「黒木にも温泉が在るの?」
「在るよ。でも、
大分県別府市に所在する集落は魏志倭人伝に『呼邑国』として登場する。湯泉を知らぬ漢人ばかりの中華帝国
「山肌の至る処から湯気が立ち上っていてね」
「山の上に登るの?」
「低い山だよ。小高い丘って言うべきかなぁ」
「
「でも、其処から眺める海は最高だよ」
調子に乗ったナムジが別府温泉を吹聴する。殆どの泉源は高温で硫黄臭も
「
「黒木から香春を通って出雲まで旅したんだ。そりゃあ、道中で色々と見聞するよ」
「良いなあ・・・・・・。私も外の世界を旅してみたいわ」
「大の
紀行話に興じる余り、彼女の積極果敢な姿勢に無防備となっていたようだ。予期せぬ突っ込みに思わず口籠る。
――求婚しろって催促しているの?。まさかな。未だ小娘だぞ。
現時点でナムジは16歳、ヤガミは12歳。結婚適齢期は数年先でも、思春期の少女は得てして早熟。片や同世代の男は異性の恋愛感情に鈍感だ。彼を責めるのは酷である。
「ところで、さあ」と、強引に話題を変えるナムジ。残念ながら、その機転が裏目に出る。
――流行の
そう考えを巡らせたのだが、「出雲には髪の短い娘が多いよね?」との発言が新たな墓穴を掘る。
「やっぱり他の娘にも関心を寄せているのね」と詰め寄られた。彼女の警戒心は最高潮となり、「何処で見たの?」とか「会話したのか?」とか、糾弾の響きを含んだ尋問が延々と続く。
自分の迂闊さを悔やむも、〝後悔、先に立たず〟とは此の事だ。
腰まで伸びた長い毛髪は釣糸に加工される。3本ずつの毛髪を三つ編みに絡め、
「男も髪を切るの?。
美豆良とは8の字に結った
「女の髪じゃないと、海の神様が怒るんだって」
竿釣りは効率的な
「ヤガミの御母さんも髪を切るの?」
「ううん。出産したら髪が脆くなるの。直ぐに切れては無意味だから、若い娘だけなのよ」
「それじゃあ、ヤガミも髪を切るんだ」
「うん。春が来て、田植えを始める頃に切るよ。今度が最後だと思う」
「最後なの?」
「
一連の説明を終えたヤガミが黙り込む。語り疲れたとも思えない。
前方には白一色に雪化粧した
左手の遠目に見える
2人の視界に映る大地を残雪が
そんな荒涼たる冬景色は乙女の眼中に無い。生命力に溢れた脳裏を駆け巡る悩みは恋路の行方。若人の横顔を尻目遣いに窺いながら、確かめずに置けない質問を発する。
「ねえ、ナムジ」
「何?」
「ナムジは・・・・・・髪の短い娘は・・・・・・嫌い?」
「別に。だって、髪なんて伸びるもんだろう?」
気立てが良くて器量良しの娘なら、髪の長さなんて眼中に無いと明言する。空気を読めない愚鈍な男の一発逆転本塁打。一般論を述べたに過ぎないが、その真意は受け手に曲解されて仕舞う。自分が褒められた
断髪後の自分に落胆するのでは?――と、密かに心配していたようだ。
溜り湯に右足を浸けて湯温を確かめるヤガミ。フンと御機嫌の声を漏らし、左足も浸ける。酸性の水流が洗い清める川底には玉砂利が敷き詰められている。苔も生えず、魚も棲まない。入浴する人間だけに許された水域。陽光に
御転婆娘の行動は素早く、毛皮の
――夜な夜な抱き合って寝るのに、今さら何を恥らう?
そう達観した彼女に挑発の意思は無い。
一方のナムジは動悸の高鳴りに困惑していた。暗がりが仔細を隠し、両親も間近に控える布団の中では劣情の抱きようも無い。ところが、陽光の下で少女の裸体を改めて眺めれば、ドキドキと鼓動が脈打ち、身体の火照りを覚える。
雪の精霊を想起させる白肌の上を艶やかな黒髪が臍の辺りまで垂れ、股間には薄らと陰毛が生え揃っている。発展途上の乳房は見過ごせても、自己主張を始めた桃色の乳首は若人の意識を捉えて離さない。小娘だと侮っていただけに、成人女性の兆しには茫然自失とならざるを得ない。
「何をボ~っと吊っ立っているの?。早く入って来なさいよ~」
平泳ぎの要領で川面に円弧を描きながら、首だけ水面に出したヤガミが誘う。
男勝りの勢いで裸になった彼女とは対照的に、ナムジの態度は女々しかった。湯溜りに背を向けて衣服を脱ぐ。そのまま前面を晒さずに後ろ足で歩み寄り、股間を抑えながら両肩を湯中に沈めた。
満面に笑みを浮かべたヤガミが中腰で泳いで来る。川遊びで身に着けた手足の動きが滑らかだ。指先が届きそうな距離に至ると、
痺れを切らした彼女が背後から抱き付く。両腕を交差させた首回りの筋肉は薄く、出雲の男連中に比べて柔肌だ。愛おしさに強く締めると、少女の足先が浮力に持ち上がる。やんわりとしか密着しない乳房が背中を
猛り立つ若人の下半身。発起した妄想が動揺と羞恥とで増々盛んになる。焦りだけが空転し、鎮静に役立つ妙案を考える余裕すら無い。幾ら対面を強要されようが、絶対に振り返れない危機的状況と言えた。
「何か変よ。私、怒られるような事、した?」
「
不安がる雰囲気が背後から伝われど、今は仏頂面を装うしかない。純真で初心な感情に報いたいと思いつつも、肉体の主張は異っている。「助平!」と騒がれる展開は、考えるだに
「じゃあ何故、私の方を振り向かないの?。顔を背けているような気がする・・・・・・」
素気無い態度が余計に彼女の疑惧を誘う。行楽気分を壊すまいと理性的に振る舞った結果、乙女心を涙に濡らしそうな雲行きであった。
――万事休す――
揺れる水面の視覚的効果に期待しながら、恐る々々身体を反転させた。幸い、痴漢扱いを嫌気した逡巡は取り越し苦労に終わる。ヤガミの視線は下方に向かず、
「
「ねっ!、
両手で
互いの両肩に手を乗せて向き合う2人。透き通った冬空を見上げて後頭部を湯面に浸けたなら、顔に当たる冷気との温度差で爽快さが増す。半円状に広がる黒髪が合せ鏡となり、湯面に一輪の大きな花を咲かせる。
「後ろを向いて」
10本の指先が優しく髪を梳き始めた。地肌に軽く爪を立て、刺激を与える。時々は
ナムジの
腕、尻、脚、爪先と対象を移す度に両者は水中での姿勢を変える。触れては離れ、離れては触れる裸体の輪舞。浮遊状態での捻転を互いに手助けする様は社交ダンスを思わせた。
冬の寒気が日増しに緩み、雪解けの隙間から福寿草の黄色い花が覗く。春雨の合間にイネの
集落長の
「ナムジの言った通り、馬の威力には目を
感嘆する父親の横で、ヤガミが誇らしげに胸を張る。当の本人は馬の後方で両手を犂に添えている。時々は馬の尻に鞭を打つ。
「俺達の出番なんて全く無い。一年中、奥出雲を手伝ってりゃ良いな」
春の到来を機に下山した息子2人も異口同音に驚嘆の言葉を漏らす。
「この分じゃ、早々に完了するぞ」
「
上機嫌で交わされる軽口に調子付き、周りの者が「我も、我も」と手を挙げる。
「土に
「歯が細けりゃ数を増やせるから、もっと上手く掘り返せると思うんだがなあ」
「
翌日には鋳型の段取りを整え、8本の巨大な釘状の櫛歯を試作した。犂の横串に開けた穴に差し込み、櫛歯の扁平な頭を添木で抑えて固縛する。白茶色の本体と
早速、製作陣全員で田圃に運び、鋳物製の櫛歯を試してみた。その驚くべき威力。鼻高々の発明家は勿論、集落長やナムジ、立会した一堂は肩を叩き合って喜んだ。
村人達は最大功労者の黒木人に称賛の眼差しを注ぐ。娘達の場合は複雑だ。柔媚な視線を当人に送る一方、隣に寄り沿う
恋人を自認するヤガミは、高まる名声に意気軒昂となる反面、不安に駆られて猜疑と警戒の心を研ぎ澄ます。他の娘が
馬を使役する作業は至って簡単だ。誰にでも出来る。貸し出した後のナムジは
そんな乙女の気苦労に無頓着な彼であったが、術中に
後頭部を熟視する
海神への供物を拾い集めた母親が屋内に消えるや、立ち上がって一目散に駆けて行く。慌てて後姿を追い、畦道で追い付いた時。彼女の肩を強く抱き寄せずには居られなかった。若人の胸に顔を埋めた途端、堰を切ったように
刈上げ同然の頭を優しく撫でるナムジ。襟足を
そんな一幕が効を奏したのか、今のヤガミは生来の明朗さを取り戻している。
狩人然とした表情で腰を屈め、忍び足で森の中を歩き回る姿は南米のアマゾネスにも引けを取らない。鋭い視線を樹々に巡らせ、虎視眈々と禽獣を探す。時折は立ち止まり、ボロロ、ボロロと鳥の鳴き声を真似る。
――羽音が聞こえた!
大木の根元に片膝を付き、下半身を安定させる。次に上体を慎重に傾け、木陰から顔を覗かせる。続いて、探り当てた獲物を冷めた隻眼で狙い、短弓を構える。堂に入った一連の動作は見る者に野生動物の優雅さを感じさせた。
狙い定め、
臨界間近の静粛なる一瞬。身動き一つせず、矢柄を抓む親指と人差指だけが僅かに緩む。生殺与奪権を行使する繊細な仕草。解き放たれた
バサリ。枝葉を揺らす音。
20メートルほど前方の濡れ落葉に何かが落下する。ヤガミの動作は俊敏だ。猟犬の如く走り出す。遅れまいと、後に続くナムジ。
「ヘヘヘっ。
女狩人が自慢気に振り返る。掲げた右手で
「凄いな!」
「今晩は焼き鳥ね」
同じ淡泊な肉でも、兎肉とは味なり歯応えが微妙に違う。2人とも獲れたての食材に舌を舐め擦る。
「今は雌の方が美味しいんだけど、大きい雄の方が好都合ね。兄ちゃん達も家に居るから」
柿本人麻呂の求愛歌にも登場する程に尻尾の長い鳥。全長は約1メートルと長いが、その肉量は精々食事1回分だ。
「
「そうだよ。産卵期には雄が鳴いて雌を誘うの」
「でも、これは雄なんだろ?」
「自分の縄張りから追い出そうと姿を現した慌て者ね。そんな時は頭に血が上っているから、警戒心が緩むのよ」
「ふ~ん。俺は狩りに疎いからな」
「ナムジは黒木の山に立ち入らなかったの?」
「樹木の伐採を手伝う時には入山するよ」
「黒木人も狩りをするんでしょ?」
「
「ああ、それは出雲でも同じよ。1人じゃ危なくて」
話しながらも、手を休めない。山鳥の頸を一刀に断ち、逆さに吊って血抜きする。両脚を掴み直した拍子に抜け落ちた羽根が数枚。光沢めいた赤褐色が目に焼き付く。
「綺麗な羽根だね」
「うん。キジの方が綺麗だけどね」
「この羽根も布団に詰めるの?」
「そうよ。
何とも答え難い突っ込みである。赤面して口籠る他は無い。
降雨量は少ないながら、出雲地方にも梅雨が訪れる。
集落内の要所を結ぶ
軒先から滴る雨音を背中で聞きながら、ナムジは一時帰省の日取りを集落長と相談中であった。渡航目的は在来馬の追加手配。黒木人の欲する交易品を
「何はともあれ、鉄を使った珍しい品です」
「具体的には?」
「鉄鍋が最も喜ばれるでしょう」
黒木集落では直火に弱い
「
釘やコの字型の
木枠に石膏を流し込み、乾き切る直前に細い棒で何回も突き差す。幾つも開けた尖頭穴に溶銑を流し込めば、釘の完成だ。犂の歯も同様にして製作する。釣鈎の場合は、石膏にJ字の小溝を彫る。流し込む溶銑の加減が難しいが、要は慣れの問題。熟練工が日々の製作に勤しんでいる。
出雲の魅力を反映した目録は
「鉄器は相当に重いから、大した量を持ち込めないぞ」
自分で水を差しておきながら、「果たして、馬と交換して
「出雲から香春までは船を使いましょう」
「その先は?」
「イネを刈り、冬野菜の種蒔きを済ませば、香春は黒木の馬を返します。その
当意即妙の提案に手を打ち、安堵した表情で「秋から冬に掛けてだな」と合点する。訪問時期が定まっただけで半ば実現した気になるが、商談こそが最大の難所なのだ。その点に思いが至った彼は再び浮かぬ顔をする。
「何頭の馬を期待できるんだろうか?」
「さあ、それは・・・・・・」
交渉事に不慣れなナムジは口を濁す。自分が打診しても逆効果。
「やっぱり、出雲の実力者が同行し、直に交渉するしかないですねえ」
「そうか・・・・・・。そうすると、俺が出張るしかないな」
豊穣祭を始めとする行事の段取りに思案を巡らす集落長。必要ならば、代行者を指名せねばならない。ところが、傍目には随行員を選んでいる風に見えた。(今が勝負時)と踏んだヤガミが、
「なんだ?」
――ナムジの故郷を見たいし、彼の母親に挨拶もしたい!
物問顔の双眸を熱情に満ちた瞳で見詰め返すも、彼女の気持ちは伝わらない。口を噤んでは機会を逃す。破廉恥な女と誹られようが、声を大にして言うべきだ。そう意を決して、自分の要望を口にする。
「私も一緒に連れて行って」
「なんで?」
あぁ無情。恋焦がれた乙女の談判が一言の下に討ち散らされる。機微に疎い男親とは、そんなものだろう。
――だって、私、御嫁さんになるんだよ!
喉まで出かかった本音の叫び。だが、時期尚早の
「
横合いからの予期せぬ援軍。
顔面を上げ、固唾を飲んで遣り取りを見守るヤガミ。彼女の手を優しく撫で、緊張を解そうとする母親。女2人の真意を悟るが、どうも踏ん切りが着かない集落長。
頻りと顎を擦りながら、「息子なら喜んで旅をさせるが、娘じゃなあ・・・・・・」と首肯の気配を見せない。「途中で山賊に襲われたら、危ないじゃないか!」と父親らしい指摘を返す。
そんな付焼刃の反論では母親の泰然自若とした態度を崩せない。娘の安全を想う気持ちは同じなれど、「貴方とナムジが一緒なんでしょ?」と軽く
「そうよ、そうよ。母さんの言う通りだわ」との煩い声援。断髪式で
「私の弓矢の腕前は父さんだって認めるでしょ!。自分の身は自分で守るから」
父親の腕を押し引きし、「ねっ!」と連呼する。従順な娘が
――
家庭内で孤軍奮闘を続けても勝ち目は無い。(改めて出向くのも面倒だしな)と、出不精な性格も早期降伏を勧める。
「仕方ねえなあ」
諦めの独白に「やった~!」と歓声を響かせるヤガミ。喜びを抑え切れずに小躍りする。自分の招いた騒ぎだと想像だにしないナムジは、彼女の反応に唖然としつつも、落ち着き払って承服する。
「ところで、
「なんだ?」
「
鳩が豆鉄砲を喰らった様にキョトンとする3人。質問の意味が理解できない。
「どうして?」
「だって、ヤガミ。雨続きで芽吹けば、食えなくなる」
「そんな事にならないよ」
「芽吹いた米を食べるの?」
「いいえ。芽が出ないもの」
今度は質問者の目が点になった。ヤガミの断言に両親も頷いている。妙な事を口走ったと承知しつつも、一向に理解できない。
梅雨時の発芽は九州特有の現象なのだ。九州に大量の雨を降らせる梅雨前線も本州通過時には勢いを削がれている。だから、山陰の梅雨では発芽に至らない。
異常気象の常態化する以前の宮崎市に
一方の出雲地方では、梅雨の恵みに期待を寄せ7月ですら約250ミリ。前後の月は150ミリ程度に過ぎない。つまり、湿度が低い。
気象条件の相違を知らないナムジは、納得できぬ
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