第17話 少彦名命、海より現れる

 薄弱な梅雨前線を追い遣った出雲の海辺では、浜豌豆はまえんどうの丸い青葉の連なりが砂浜を覆い、耳を垂らした兎の如き紫檀色の花弁が海風に揺れている。少し奥まった岩場の陰では都草みやこぐさが寄り添い、黄色い可憐な花を咲かせている。

 せわしないせみの声が方々で競い響く頃の出来事だった。海鴎かもめが舞う青空の下、穏やかな波間を滑る様にして、1隻の船が稲佐の浜に流れ着く。朝鮮半島の先進技術で建造された大型の木造船舶なれど、満身創痍の外観は難破船と変わらない。

 船内にたむろする50人前後の乗員も惨めな有様だ。諸処を焦がした舷側と同様に黒く薄汚れ、袖元や裾の引き裂かれた着衣が見窄みすぼらしい。難民と見紛みまがうばかりだが、まとった絹布から推察するに、高貴な人々なのだろう。

 一行を率いる初老の男を事情聴取しようにも、彼らの言葉を出雲人いずもびとが理解できない。当惑した挙句、彼にスクナ(少彦名命すくなひこな)と名付ける。倭言葉やまとことばの語彙が少ないとの安直な趣旨だ。失礼千万とは百も承知しつつ、呼名すら無ければ、対話がままならない。

 特筆すべきはくだんの異邦人が後生大事に抱く1人の赤児。自身の子供とは思えない。翡翠ひすいの玉を数珠繋じゅずつなぎに結んだ首飾りが特徴で、出雲人にトヨタマ(豊玉姫とよたまひめ)と名付けられた。

 漂着当初に素姓を知るよしも無かったが、出雲を訪れた末蘆人まつろびとに拠ると、弁韓べんかん(朝鮮半島南端)からの脱出者らしい。彼らの属した集落は咸昌ハンチャン釜山プザンから洛東江ナクトン川を上流まで200キロも遡上した地域で、弁韓と辰韓しんかん(朝鮮半島の東南部)の境界付近に所在する。

 公孫一族の覇権争いに端を発し、朝鮮半島は混乱の渦中にあった。近隣集落との紛争はおろか、集落内でも仲間割れや下剋上を繰り広げる始末。咸昌ハンチャンも例外ではない。危機に直面した支配層や知識階級の者が倭国への逃避行を決断する。

 ところが、彼らは小白ソベク山脈の麓で宿場稼業を生業なりわいとする民族だ。陸上交易には通じても、海洋事情に疎い。大金を払って外航船を調達したものの、南を目指すしか能が無い。案の定、対馬海賊に身包みを剥がされた、と言うのが大まかな顛末であった。


 対馬海峡に浮かぶ対馬島と壱岐島。

 狭いなりに平野を有する壱岐島では、庶民が畑作にいそしんでいる。水源が限られ、稲作には適さない。悩みの種は作物を荒らす野獣――野猪いのししや狸――だ。庭鶏にわとり褐兎うさぎを襲う狐も侮れない。だから、集落の外周を木柵で囲い、更には水濠を巡らせている。環濠集落で有名な原辻はらのつじ遺跡は、その痕跡である。

 木柵内では犬を放し飼いとし、鼬鼠いたち川獺かわうそたぐいにも対処している。もっぱら番犬として飼っているが、飢饉等に備えた非常食の意味合いもあった。

 考古学で主流の学説は環濠集落を防衛施設と見做している。その仮説は合理的だろうか。島で唯一の集落を襲う人敵は島外にしか存在しない。玄界灘に浮かぶ天然の要害地に於いて、環濠を掘る事の荒唐無稽さに読者は容易に気付くだろう。だから、真の目的が獣害対策だと断言できる。

 一方の対馬島は山勝ちな孤島で、平野が殆ど無い。島民は漁業で細々と食いつなぐのが精一杯。豊かさを求めるならば、海賊行為を働くしかない。但し、野蛮な振る舞いで恫喝する目的は見ケ締め料ミカジメりょう。渋々にせよ払った者には危害を加えない。むしろ、心強い用心棒として当てに出来る。

 現代社会で例えるならば、暴力団ヤクザに近いだろう。九州北部と朝鮮半島南部の交易にたかる寄生虫である。宿主を衰弱死させては本末転倒。彼らも自分の立場をわきまえており、法外な請求を強要しない。通行税だと割り切れる範囲に抑える限り、事を荒立てずに済む。

 魏志倭人伝に『海を行き来する際には持衰じさい(人柱)を立て、服喪と同じ状態に置く。航海を無事に果たせば報い、失敗すれば殺す』との記述が有る。交易団に出し抜かれぬよう、対馬海賊が始めた人質制度が真相だ。取引で得た利益の一部を身代金として支払えば、無事に解放される。

 彼らが冷静な損得勘定で動くと知っていても、無用な接触は控えたい。それが人情だろう。末蘆人まつろびとが二の足を踏む結果、貧しい壱岐の島民が僅かな報酬で代役を引受け始める。信頼を重んじる雇い主は必ず約束を守ったが、だからと言って、安穏と軟禁生活を送るべくもない。


 そんな事情をスクナ達は知らなかった。対馬島北端に漂着した時には狂喜したそうだ。3隻の船団で流れ着いた鰐浦わにうら湾(長崎県上対馬町鰐浦)は『和珥津わにつ』と呼ばれ、後の世に神功じんぐう皇后が三韓征伐の出兵拠点とした港である。

――これで命運がつながった!。道案内を頼めば、我らも将来を見通せるであろう。

 ところが・・・・・・である。何かしら難癖を付けられて、所持品を掠め取られるばかり。期待を寄せた島民は「時化しけの時期だ」「海流の勢いが急で危険だ」と言い訳ばかりして、一向に船出する気配を見せない。

 海賊達にとっては、ねぎを背負ったかもが迷い込んだのと同じであり、尻の毛まで残らず毟り取る算段であった。業を煮やした近従の者が警護兵を引き連れ、「好い加減にしろ!」と直談判する。

「御前らを頼まず、勝手に出て行くぞ。南を目指せば、何とか倭国に辿り着くだろう」

 貴人の権高けんだかな言い分に、言を左右に便々べんべんと往なしていた梟雄きょうゆうの眼光が鋭く光る。

――此奴こいつら、渡銭わたりせんけちるわ、勝手に出て行くわ。巫山戯ふざけた事を抜かしやがって・・・・・・。

 育ちの違いが災いした。弁韓人べんかんびとは周囲にかしずかれて育った世間知らず。「便宜には見返りが必要だ」と夢想だにしない。頭領にすれば、一見の客をただで通過させるなんて言語道断。脇の甘い特例が蟻の一穴となり、「我も同様に」と渋る者が続出する。そうなっては、海賊事業ビジネスの崩壊だ。

 堪忍袋の緒を切らして轟足とどろあしで歩み寄るや、後退あとずさる貴人の襟元を屈強な右腕で掴み上げる。引き攣らせた口端から漏れる悲鳴。猛々しい迫力に侍衛兵も踏み出せない。取り巻く破落戸ごろつきの不穏な牽制も軽挙を躊躇ためらわせた。自由奔放なる者は根城を統べる梟雄のみ。

 腰元に佩いた短剣を抜き、生白い首筋に冷たい刃を当てる。そむけた顔を嫌々と左右させ、懺悔と後悔の色を浮かべる弁韓人。可哀想だが、覆水盆に返らず。虎の尾を踏んでは、助け様も無い。

 どうやら獲物を弄ぶ事に飽き、数日前から契機きっかけを探していた風だ。飛んで火に入る夏の虫。実際、虫螻むしけらを殺す程度にしか思っていない。怒気を孕んだ目を細める。襟元から放した右手を素早くつかに携え、一気にぐ。横一文字に噴き出した血飛沫が殺害者の顔に跳ねる。

 それが殺戮の号砲となった。不成者ならずもの連中の次なる動きも速い。間髪入れず、短剣を警護兵に投擲とうてきする。死を悟る暇も無く、針鼠の様に投剣を生やした躯体がくずおれる。頭領の喊声を合図に、牙を剥いた海賊達が海辺へと殺到した。

 停泊中の3隻を取り囲み、雄叫びを上げて襲い掛かる。船上の警護隊が応戦するも多勢に無勢。交渉の志願者を残し、湾外への脱出を試み始める。執拗に追い縋る丸木舟の群れ。運悪く、日照時間の最も長い時節。船速の遅い大型船が追手を振り切れる可能性はゼロに近い。

 最初に拿捕された船にはトヨタマの両親が乗っていた。征矢そやに射られた父親は落命し、母親は拉致された。赤児を抱いて板切れに獅噛しがみ付くスクナは、老齢ゆえに見向きもされず、3隻目に拾われる。海賊達が略奪行為に熱狂する隙を突き、その1隻だけが逃げ延びたらしい。

 這々ほうほうの体で逃げ出したものの、船頭を失っては、対馬海流に東へと流されるのみ。遠くに日本列島の陸地を認めても、指を咥えて眺める事しか出来ない。ところが、絶望と怨嗟の声を上げ続ける内に、助命の嘆願が天に届いたようだ。満潮みちしおに加勢され、稲佐の浜に漂着する。

 当然ながら、過酷な憂目に遭った被害者集団は、猜疑と警戒の目で出雲人を眺め返していた。但し、何日も飲まず食わずで漂流し、彼らの消耗は物心共に激しかった。痩せ細った身体を引き摺り、案内されるままに上陸するしか選択肢が無かったのだ。


 古事記に載る『因幡の白兎伝説』の現代語訳に拠ると、白兎が『隠岐島おきのしまから本土に渡りたくて、さめ和邇わに)を騙した』と大国主に告白する。

 原文に記された文字は『淤岐嶋』。ところが、別の箇所では「隠岐島」を『隠伎島』と表記している。『因幡の白兎伝説』の章節だけ特別に『淤岐嶋』とすべき理由は思い当たらない。

 正しくは『岐島(・対馬島)方向』の意味だ。『淤』の字は、現代でも〝いて〟と使う。漢語で記述された古事記の中で『淤』だけを表韻文字とし、〝隠岐島〟と故事付けた解釈は少々強引過ぎる。

 また、原文の『和邇わに』も鮫ではない。真相は『和珥わにの海賊に騙された』であって、騙したのではない。記紀の編纂当時、大和政権は和珥一族を重用しており、能動者と受動者を入れ替えたのだ。

 更に指摘すると、『国造り伝説』の中で少彦名命は『天乃羅摩船あめのかがみのふね』に乗って登場する。弁韓人の漂流船こそが天乃羅摩船であり、伝説通りに彼は大国主ナムジの国造りを手伝う。

 一つの事実を二つの逸話エピソードに分割した結果、事象がおぼろとなり、後世に伝わり損ねた事が悔やまれる。


 漂着民達は集落長の屋敷に逗留する事になった。無駄に広いと感じていた室内が一挙に手狭となる。

 時は初夏、雑魚寝で体調を崩す恐れは無いが、出雲の夏は短い。冬の到来までに人数分の布団を準備せねばと、集落の女衆は脇目も振らずに麻袋を編む。勿論、元貴人達も慣れぬ手作業に汗を拭う。

〝衣食住足りて礼節を知る〟とは言い得て妙な格言だ。数週間を過ごす内に、漂着民達も徐々に警戒心を解き始める。相変わらず言葉は通じないが、乱暴されないばかりか食事を振る舞われているのだ。対馬海賊とは違い、出雲人の友好性に疑う余地は無い。

 彼らにとって、出雲の暮らしには物珍しさを感じる部分が多々有るらしい。屋敷外を散策し、地元民の仕事振りに見入る姿が散見され始める。見様見真似で手伝う者さえ現れた。

 スクナも例外ではない。遺児トヨタマを託された老爺の出歩く先は居候先の周辺に限られる。その狭い散策範囲には馬厩舎が建っていた。

 同じ異邦人としての親近感を抱いたナムジが気さくに話し掛ける。親密な雰囲気が会話の頻度を増やし、通話量は互いの心理的距離を詰める。奥深い真意は推し量るしかないけれど、簡単な意思疎通なら身振り手振りで十分に果たせた。

 或る日の出来事。老爺が青年の肩を叩く。何かを問いたいようだ。ところが、内容を想像できないナムジは首を傾げてばかり。止む無く、地面に小枝で絵を描き始めるスクナ。

 横から見た馬の姿。背中から脇腹に掛けての部分を四角で囲み、枠内を斜線で強調している。枝先で枠内を何度も差し、懸命に何かを伝えようとするも、埒が明かない。

 溜息を吐きこそすれ、諦めない。実物大の説明を試みようと、馬背に跨り、両脚で馬の腹を何度も軽く打つ。腰を屈めて小枝を馬の肌に這わせ、絵の中の四角形と同じ範囲を指し示す。その間も能弁に説明するのだが、言葉の壁が邪魔をする。

 彼は「鞍を着けないのか?。裸馬に乗るよりも楽だろう?」と指摘したかったのだ。残念ながら、鞍の存在を知らぬ者との間に問答の成立する余地は無い。

 宮埼集落の馬は荷役用だ。温厚な性格で歩みは遅く、騎乗には向かない。自分の足で歩いた方が速いだろう。人々の重宝する利点は、緩寛ゆっくりながらも重量物を運ぶ運搬力であって、移動速度ではない。

 助言を諦めたスクナが「何かを与えて欲しい」と訴える。再び地面に描き始めた絵は、切株とのみと木槌の其れだ。

 それ以来、彼は彫刻作業に没頭する。一抱えもある材木に向かい、一心不乱にのみを当て続けた。興味を抱いた者が、その背中を遠巻きに眺める。何せ目的が不明なのだ。とは言え、誰も迷惑を被らず、周囲の者は異邦人の奇行を放っておいた。

 数週間後、完成した荒削りの作品をナムジにらかす。得意顔したりがおの老爺と当惑顔の青年の遣り取りは、傍から見ると滑稽だったに違いない。予期した反応が見られず、肩透かしを悟った時の気拙きまずい空気。原因が我に有りと自覚する方も、負けず劣らず、居た堪れない。

 老爺の落胆した様子は、出来の悪い生徒に呆れ、途方に暮れる教師と言った風だ。しかし、知識で恩に報いんとする気概は強く、一向に凹垂へこたれたれない。気を取り直し、愚鈍な生徒に指示する。『厩舎まで運び、馬の背に載せよ』。

 準備が整うと、自ら鞍に跨る。(今度こそは)と期待を込めて見下ろす指南役。前回と同様、両脚で馬の横腹を軽く打ち、『如何どうだ?』と言わんばかりに破顔した。「分かったよ!」。溌剌な返事を聞いて、白髪混りの両眉が八の字に下がる。

「スクナは腰掛を伝えたかったんだね」

 近寄ったり遠退いたり、観察しつつ何度も周回し、「へえ~」とか「ふ~ん」を連発する。

――考えもしなかったけれど、これが有れば快適に乗馬できる。

 歩行時の揺れを鞍が緩衝する。取手を掴んでいれば、落馬するおそれは殆ど無い。

――ヤガミの体力でも香春から宮埼までの長旅に耐え得るぞ。

 太古よりモンゴル高原の周辺地域は騎馬民族の版図である。何度も匈奴きょうど族や鮮卑せんぴ族に侵略される過程で、漢民族は馬にも馴染み、騎乗を学んだ。時間差は有れど、朝鮮半島も同様の展開を辿る。

 但し、牧羊の群れを追い回す道具として駿馬を遣いこなす彼らは、日本の在来馬に見向きもしないだろう。鈍足だし、体格も相対的に小さい。反面、頑丈な骨格と粗食耐久性は荷駄馬としての優位点である。家畜に関しても、適材適所の原則が当て嵌まるのだ。

「ヤガミを連れて来るからさあ、待っていてよ」

 大袈裟に両手を振り回すナムジ。御披露目の意図を理解したスグナが嬉しそうに頷く。

 息急いきせき切って屋敷に駆け込むや、嫋やかな手を引いて舞い戻る。興奮した青年と困惑する乙女の組合せは、常時いつもと攻守の逆転した珍奇な構図。肩で息を整える処だけが2人に共通している。

「何をそんなに大騒ぎしているの?」

 厩舎の中を見回しても、普段通りの雑然とした光景しか目に入らない。(小火ぼやでも起こしたら大変だ)と心配するも、どうやら杞憂らしい。拍子抜けした途端に思い出した昼餉の準備。母親に後事を託して放り出したのだった。段取りを乱された事に少しだけ腹を立て、ぷいっと頬を膨らませる。

 肩透かしを食らって苛々を募らせる点はナムジも同じだ。世紀の大発明を前にして気付かぬとは焦れったい。発明者本人よりも胸を高鳴らせ、「スクナを見て!」と誘導する。それでも、「何?」と不審がる彼女の目には見慣れた笑顔しか映らない。

「馬乗りは年寄の冷や水って言いたいの?」

「違うよ。スクナの尻の辺り。腰掛だよ、見て欲しいのは」

――最近、苦労して椅子を作っていたけど・・・・・・それに座っているだけよね?

 馬の世話はナムジの担当だ。乗馬と無縁の者には鞍の重要性が全く伝わらない。

――完成を一緒に喜べって言う意味かしら?。それなら既にねぎらったんだけど・・・・・・。

 子供の工作を褒める母親的な発想しか湧かないが、女性の感性とはそんなものだろう。

「仕方無いなあ」

 呆れたナムジは、スクナに手招きで下馬を促し、鞍を外した裸馬にヤガミを騎乗させた。そして、屋敷の周囲を常歩なみあしで歩かせる。厩舎に戻ると鞍を着け直し、再び彼女を乗せて回る。手綱を引きながら「如何どう?」と感想を問う。

「乗り心地が全然違うでしょ!」

「うん。断然こっちが良い!」

「香春から宮埼まで約半月。徒歩と馬乗りとでは疲れ具合が全く違う」

「そうだね。スクナに御礼を言わなくちゃ!」

 厩舎に戻るや否や、鞍から跳び降りるヤガミ。三段跳びで縋った老爺の首に両腕を回し、強く抱き締める。そのままグルグルと回転し「有り難う!」の言葉を連発した。

 激しい動きに眩暈めまいを覚えるスクナだったが、愉快な感情が哄笑となってほとばしる。弁韓を発ってから初めての高笑い、心底からの笑い声だった。釣られた2人も大爆笑。厩舎に反響する笑い声だけは万国共通だ。


 スクナの功績は鞍に止まらない。夏の盛りを過ぎた頃、出雲に新たな食材を紹介した。はすである。

 水面に浮いた丸い荷葉かようの上に白い花が咲き、やがて蜂の巣にも似た花托を膨らませる。まずは、花托に埋まった団栗どんぐり状の実を食す。緑色の皮を剥き、白い実を茹でるのだ。玉蜀黍とうもろこしに近い食感で微かな甘味を感じさせる。

 秋になれば、沼地に足を踏み入れ、蓮根れんこんを掘り出す。これた、蒸すと甘味を伴う食材となる。実も根もビタミンB1を多く含み、滋養に良い。

「泥水の下から美味なる食い物を採り出すなんて、韓人からびと様々さまさまだな」

 試供された料理に舌鼓を打つ出雲人。水中の食材とはすなわち魚介類だと思い込んでいた彼らにとって、目から鱗の発見だった。

 もっとも、スクナの関心は集落民とは別の部位に有ったようだ。蓮根の連接部分を切り分ける作業に余念が無い。荷葉や地下茎さえも短尺に切り、乾燥させてから煎じて飲む。微妙に用途が異なれど、解熱・解毒、体内老廃物の排出を促す効用が期待された。

 彼の収集した生薬は蓮に限らない。マメ科、ユリ科、セリ科を始め、多種多様な薬草を周辺の地に見出した。出雲風土記に50種以上もの薬草が登場する所以ゆえんである。

 集落民に最も歓迎された生薬は赤松の松脂しょうしだろうか。乾燥させた松脂まつやにを菜種油で溶き直して軟膏とし、霜焼や赤切の患部に塗ると痛みが和らぐ。寒冷地だからと言って水仕事はいとえず、特に女性の人気を博した。

うちの子が調子悪いの。診てくれない?」

 求められれば、気軽に往診し生薬を調合する。病魔退散を祈るしか無かった集落で、漢方医術の会得者は欠かせぬ存在となった。


 異文化が交差すれば、互いに関心を寄せ合うものだ。

 出雲人を魅了した物の一つに、漂着民の着衣が挙げられる。柔らかい肌触りの絹布の衣装。間近で見れば、生地に光沢が有る。麻地の貫頭衣かんとういとは全く別の代物だ。

「こりゃ何だ?」

 好奇心を抱いた集落民が異口同音に問う。「俺達も欲しい」と同義の疑問形だ。言葉が通じずとも、食い入る目付きや表情から容易に窺える。救済の恩に報いんと奮起した有志が何人か、桑の木を探し求め、森林に分け入るようになった。

 枝葉を切り揃える桑畑では数メートルに過ぎない樹木が、自然界では10メートル以上の大木に成長する。でも、木幹には空洞が開いており、材木には適さない。また、酸味の強い実は、山苺に似た味覚を楽しめるが、手の届かぬ高さに成るので収穫が難しい。

 つまり、利用価値が低い。心臓ハート形の葉で識別し易いにもかかわらず、見過ごされる存在なのだ。

 彼らの標的も、桑の木ではなく、桑子くわこの幼虫である。枝葉の色彩に溶け込む海松色みるいろの体表。体長は僅か数センチ。視神経を研ぎ澄まさないと、見付からない。木幹に攀じ登った彼らが目を凝らす。

 養殖用に改良された白い蚕と比較すると、野生種の特徴を把握し易いだろう。

 成長循環ライフサイクルは1年で、蛹化前に作るまゆが小さい。難題は成虫が飛翔可能な事。孵化すれば逃げる。だから、幼虫を捕まえ直さねばならない。毎年ともなれば辟易する。一方、蚕は年に数回も産卵する。成虫は飛翔不能だから採卵も簡単だ。養殖効率では、蚕に圧倒的な軍配が揚がる。

 ちなみに、他にも日本固有種(天蚕てんさん)が棲息する。現代でも、皇后様が飼育なさっている。体長は蚕と桑子くわこの中間、繭の大きさも相応だ。難点は桑子くわこと同じく成虫の飛翔能力。しかも、ならくぬぎ小楢こならくりかしかしわと、幼虫は落葉広葉樹を選り好みせずに食する。生存圏が広範囲に及び、非常に探し難い。

 大陸産を養殖する邪馬台城は養蚕を門外不出の技術として秘匿中。朝鮮半島との接点が無い出雲集落では未知の存在だ。野蚕やさんいえども、出雲人には天の恵み。羽衣はごろもの如き布地が手に入るなら、手間を惜しんではいられない。

 桑子くわこが繭を作り始める時期はイネの収穫期と重なる。豊穣祭を終えても女衆は楽にならず、今度は紡織作業に懸り切りとなった。塩茹でにした白い繭から繭糸を解き、輝かんばかりの綺麗な絹糸をる。

 その後の機織りが最も骨の折れる工程と言える。麻糸より遥かに繊細な絹糸は丁寧な手作業を要するからだ。雪に閉ざされる冬の間、女衆は稚拙な機織機に向かい悪戦苦闘する。目頭を押さえ、凝った肩を揉みながらも、装飾美の探究者達は指先を右に左に動かし続けた。

 こうして出雲でも原始的な養蚕が始まるが、桑子くわこは過渡期のみ持て囃される徒花あだばなであった。白い蚕が普及するに連れ、其の存在は忘れ去られる。ただ、その経験が素地を育み、円滑な定着に一役買った因果関係を忘れてはならない。

 もう一つ付け加えると、人々は昆虫食にも瞠目した。養蚕の盛んな大陸では、さなぎを良質なタンパク源と見做している。一方の倭国では、大飢饉にでも遭遇しない限り、絶対に食べない。漂着民が背中を押さなければ、誰一人だれひとりとして口に入れなかっただろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る