第13話 修羅の妄執

 ホノギを主君と仰ぐ元城兵の10名は、其々それぞれに黒木集落の娘を娶り、愛宕あたご山の麓に住居を構えていた。何人かは既に子供を儲け、新天地に溶け込んでいる。

 降臨を先導したサルタも香春かわらの舞娘と所帯を持っていた。ウズメと名乗った彼女は天鈿女あめのうずめとして神話に登場する。南国の新天地に身を寄せる時も、絹布仕立ての白い半襦袢じゅばんに黄味を帯びた紅色の袴を着用。貫頭衣かんとういまとう他の同郷人とは違い、疎開民の中でも目立つ存在であった。

 此処で染料の種類を復習しよう。卑弥呼の衣装は赤螺あかにしを使った薄紫。宗女なら茜染あかねぞめの紅梅色。城外の裕福な婦女子は触媒の灰汁に山藍を溶かした青系統。麻を原料とする庶民の着衣は染色しない。色彩で人種を選別したのではなく、染料入手の難易を反映した結果である。

 一方、彼女の袴は紅花を溶かした染料で着色されている。紅花の栽培は産業化されておらず、天然物の産出量はごくわずか。稀少価値の観点では同系色をまとう宗女よりも格上である。祭事に携わる者のみが着用できる貴重品なのだ。

 蜈蚣むかで衆は、平尾台に幾つも穿たれた鍾乳洞しょうにゅうどうの中で、松明たいまつの小さな炎を頼りに採掘作業を進める。

 光の届かぬ空間は〝根国ねのくにけがれの積もる国)〟を想起させ、人々は落盤事故を『死者に引き込まれた結果』と解釈した。生活の為には入坑せざるを得ないが、無事に生還したい。迷信深い古代人の素直な心情だ。だから、新たなほらに侵入する際には厄払いの儀式を欠かさない。

 常世とこよへの道連れを求める邪気を鎮魂の舞いで慰め、地下世界への越境者に危害を加えるな、と祈願する巫女の1人が彼女であった。

 その妻をサルタは参内の度に同伴させた。娯楽の乏しい時代。オオヤツ母娘おやこは彼女の踊りを楽しみにしている。自ずとホノギに呼ばれる機会も増え、集落の随処で仕入れる彼の情報は野心家に重宝された。歓心を買った末、彼もた腹心の1人に収まる。

 

 愛宕あたご屋敷が家人を迎えて数ヶ月。夏の残暑に日陰を求める回数も減り、立て続けに台風が九州南部を襲い始める。夕暮れ時の涼風が寒蝉かんせんの啼き声を運ぶ或る日、カツヒが山砦の建設現場より下山した。

「義兄さん。砦がようやく完成しますよ。細かな仕上げを残すのみです」

 吉報に「そうか!」と破顔し、義弟カツヒの肩を叩きながら、広間へと誘うホノギ。

「大嵐の前に普請が終わるか、気を揉んでいたんだ」

「私も気がいて仕舞い、男衆を叱咤し通しでした。でも、督励の甲斐が有りました」

 緩んだ口許に覗いた歯の白さが茶色く日焼けした顔と対照的だ。夫の隣でハナサクも「本当に良かった」と胸を撫で下ろす。精神的にも頑健さを増したようで、次兄の姿を眩しく感じる。

「砦の中で過ごせば、雪を知らぬ薩摩人さつまびとでも無事に冬を越せそうか?」

「香春の大工衆は優秀ですよ。炊屋かしきや竈火かまどびで温めた空気を床下に這わせるのです」

「そうか。城と同じ遣り方だな。でも、何故、此処には無いんだろう?」

 床暖房の心地良さを知るホノギは、愛宕屋敷にも導入すれば良いのに・・・・・・と少々羨ましく感じる。

「私も不思議に思って訊きました」

「それで?」

「大きな竈火かまどびでないと、床下が暖まらないそうです。卑弥呼様も火鉢で暖を取るとか・・・・・・」

「思い起こせば、言われる通り。宮殿みやどのの床は冷たかったな」

 床暖房を知らぬハナサクには戯言ざれごととしか聞こえない。冬に寒いのは当り前だと思う。

「卑弥呼の話で思い出した。御前に相談事が有る」

「何です?」

「香春が第二の卑弥呼を擁立しただろう?」

 カツヒは、(それが何か?)と内心でいぶかるも、思案顔を装い「そうですね」と頷く。義兄ホノギが自分に意見を求めるなんて朝日が西から昇るようなもの。質問の形を装いつつ、その内実は面接試験なのだ。緊張で捻れた腹の臓が小さな悲鳴を上げる。右手で臍の辺りを擦るも、居心地の悪さは解消しない。

「田畑の広さでは及ばぬが、馬を使う黒木の穫高とれだか狗奴くぬを上回る。筑紫ちくしにすら引けを取らん」

 またもカツヒが「そうですね」と相槌を打つ。追従が習癖となっている。

「ところが、黒木にだけ卑弥呼が居ない。この状況を如何どう思う?」

 政略とは無縁の純朴青年が模範解答を繰り出すべくもない。何を言うべきか散々思い悩んだ挙句、「そうですねえ~」と言葉を濁すしかない。

 ところが、諮問者の方には易々と誤魔化される積りが無いらしい。呆れた声音で「カツヒよ」と呼び直し、「口惜しくないのか?」と畳み掛ける。わざと落胆の溜息を吐く様は、さながら不出来を咎めんとする面接官。

「口惜しい?。もう十分に豊かなのだから、いまままで構わんでしょう?」

「欲の無い奴だなあ」と、深々と2度目の長い溜息を吐くホノギ。

「御前には高みを望む気構えが無いのか?。世界の中心となれば、周辺の集落むらを束ねられるのだぞ」

 束ねた処で面倒が増えるだけだ。支配欲を満たすよりも、指図される気安さに安住したい。それが次男坊の発想だろう。そうでなければ、今頃は主導権を巡って義兄と仲違いしている。

黒木人くろきびとの皆が皆、御前の様に恵まれていると思っては大間違い。暮らしに満ち足りぬ者は反発するだろう」

「村人の気持ちには思い至りませんでした。未だ未だ視野が狭いのですね、私は」

 黙して耳を傾けるハナサク。消沈する次兄を不憫に思う一方で、夫を誇らしく思う。

「まぁまぁ、貴方あなた。カツヒ次兄にいさんを問い詰めては可哀想よ。どうか優しく教えて下さいな」

 妻の仲裁に、ホノギも「言い過ぎたか」と少し反省の表情を浮かべる。

「それで、義兄さんは如何どうする積りですか?。既に妙案を温めているのでしょう?」

「うむ」と首肯するホノギ、右手で顎を擦りながら言葉を選ぶ。

「御前が陣頭に立った砦だがな、大宮に変えようと思う」

「大宮?」

「そうだ。卑弥呼よりも偉い存在、神を祀るのだよ」

「神?。何の神様ですか?」

 異口同音に疑問を発するカツヒとハナサク。奇想天外な提案に只々驚き呆れる。神殿を建立して特定の神を祀るなんて発想は無いからだ。

 神様とは森羅万象に宿るものだと心得ているし、日々の生活を通じて山海の恵みに感謝している。2人に限らず、邪馬台城と薄縁の者には、それこそが自然な発想であった。

「何代か前の卑弥呼が人柱となって怒りを鎮めた火焔神ひのかみだ」

「阿蘇の?」

「ああ。彼の地からは目と鼻の先だ」

「ですが、義兄さん。砦の門は東を向いていますよ?」

 門前に向かって立てば、阿蘇山は左手。高千穂の北方にそびえている。

「当然だ。真向いから神を見据えるなんぞ、おそれ多くて出来ん」

「確かに」

「ところで、カツヒ」

「はい?」

「神を祀るに相応しい表面おもてづらを整えねば――」

 和風建築物を求む現代人なら木目も露わな無垢材を褒めるのだろうが、彼は無粋に過ぎると判断したようだ。要は手間暇を惜しんだとの評判を恐れたのである。

「見映えは大切です。義兄さんには何か知恵が?」

「ウム。建物全体を赤く塗っては如何どうかと思う」

 ホノギは、宗女達の顔を思い浮かべ、彼女らの赤いしるしに着想を得たのだった。後年の彼は緋色を好んで使う。死後に神格化され、邇邇藝命ににぎのみこと――〝邇〟は赤色を意味する漢字――とおくりなされた遠因である。

「膝元の山麓で採れる顔料で柱を赤く塗れば、火焔神ひのかみも喜ぶに違いない」

「それは良い考えですね。ハナサクも賛成かい?」

「思い起こせば、ウズメも赤い袴を履いて神楽を舞います。大宮に相応しい色だと思いますね」

 3人の談義が端緒となって、現代に至るまで神社の境内には緋色が溢れる事となる。


 阿蘇リモナイト。かつては外輪山の内側に巨大な火山湖が存在した。悠久の時に育まれ、鉄分を多分に含んだ湖水の沈殿作用によって形成された鉱石――褐鉄鉱や沼鉄鉱と呼ばれる――である。湖の干上がった今は、地表の所々に赤褐色の土壌となって析出している。

 ホノギは「監督者として現場を見ておくべきだ。御前の見識も広がるしな」と、鉱床に義弟カツヒを遣わせた。彼に随行する3人は現場監督となる予定の黒木人。幾つも点在する採掘場の一つまで、彼らを元城兵の1人が案内する。

 連れて来られた場所は、カルデラ底面の平坦地ではなく、外輪山の裾野に形成された緩やかな窪地。岩に覆われた斜面が崩落すれば、確実に落石の餌食となる。第二の謀殺計画が蠢動し始めたのだ。元城兵の残り9人が岩場の陰に身を隠し、カツヒ達を待ち構えている。

「この紅粉べにこを邪馬台の宗女は顔に塗るのですね?」

 硬く乾燥した泥土を素足の爪先で穿ほじくり返しながら、採掘作業の負荷を推し量るカツヒ。

「御覧の通り、簡単に粉となります。棒切れでつつき、掻き集めるだけの作業です」

「削り取った紅粉を麻袋に詰め、砦まで運ぶ?」

おっしゃる通り。悩みの種は、あの岩肌を馬が上り下り出来ない事」

 腕を回して遠望を促した先には、大小様々の岩石が露出した擂鉢すりばち状の地形。かつてスサノオが逃走路に選んだ難所である。

「男衆が音を上げないか、それが気懸りです」

「難儀ですね」

「ええ。重荷を背負って急斜面を登るのですから、岩山に近い方が楽です」

「確かに。少しでも距離の短い方が、早く運び終えると言うものだ」

 作業が順調にはかどる様を夢想し、思わず得意顔したりがおとなるカツヒ。しかし、即座に口元を引き締め、(盲点は無いか?)と思案を巡らせてみる。義兄ホノギに鍛えられ、説明された内容を鵜呑みにしない慎重さを学びつつあった。

「ところで、大宮の外面そとづらを塗るには沢山の紅粉が要るでしょう。此処だけで集められますか?」

「他の採場とりばは全て遠いのです。足らない時に改めて考えましょうや」

 千里の道も一歩から。先々を心配しても切りが無い。着手こそが大事と前向きに思い直し、「手配した者共ものどもに明日から運ばせよう」と陽気に宣言する。

「ところで、カツヒ様」

「何か?」

「私、昨夜から腹の具合が悪く、糞を捻り出したいのですが・・・・・・」

「私に許しを乞わなくても・・・・・・。早く用を足して来て下さい」

 十分に遠離とおざかった工作員が窪地の陰にしゃがみ込む。地表にたたずむカツヒの死角に消えても、外輪山中腹の岩場からは丸見えだ。万が一にも不審がられぬよう注意して、背伸びの要領で頭上に結んだ両手を左右に注意深く振る。

 作戦実行の合図を確認した9人は、巨岩の下に差し込んだ丸太に全体重を乗せた。梃子の原理で巨大な凶器を押し転がすのだ。

 ゴロリ、ゴロリ、ゴロン、ゴロンゴロン。

 転落の過程で膨れ上がる運動量エネルギー。怒涛の勢いで大質量に突進されては堪らない。体当りされた進路上の大岩が次々に轢殺者の仲間に加わる。鈍い衝突音の連鎖。雪崩打つ茶塊が幾何級数的に増加する。冷酷無比な重力が全ての回転体に生殺与奪権を与えた。

 ガラリ、ガラリ、ガラリ。ガラッ、ガラッ、ガラッ、ガラッ。

 土埃と共に競い落ちる奔流が情け容赦も無くカツヒ達に襲い掛かる。轟く地響きに振り返った時は既に手遅れ。悲鳴を上げる間も無く、無機質な破壊者に押し潰される。

 地表に積み重なった岩々が粉塵を巻き上げ、辺りは赤褐色のもやに包まれた。凶行現場の隠蔽を謀ったかの様な光景。だが、晩夏の湿った空気は土埃を重くする。暗殺者達が山肌を降りる頃には、遮蔽の一切が霧消し、地表は熱を帯びた陽光に晒け出されていた。

 結果を確かめんと、暗澹たる落石現場を取り囲む10人。能面の如き無表情に窪んだ20の瞳は一様に感情を欠いている。銘々の肩に担いだ丸太の重みが持主の罪悪感を呼び覚ます。

 凝砂質の地面に浮かんだ紅黒い帯。結果は明らかなれど、確認せねばならない。搾り出された鮮血の源流を探り当て、巨岩の根底に丸太を差込む。立ち退かせた跡にはひしゃげた轢死体。無残にも骨肉が皮膚を打ち破り、単なる肉塊と化していた。

 カツヒ以下、全員の絶命を確かめると、彼らは再び巨岩を被せ直す。運良く難を逃れた者に犠牲者の救助は不可能。事故現場を放置して救援を求めるしかなかった。その証言と合致するよう、念入りに現場を取り繕う。


 案内役を務めた元城兵は悠然と山砦に帰還する。桧皮葺ひわだぶきの屋根を視野に認めると慌てた様子を取り繕い、城柵を潜って付近の仲間を叫び集めた。無駄だと知りながら、救援隊を組んで採掘現場に舞い戻る。

 他の9人は、その救援隊と行き会わぬよう、遠回りで外輪山を抜けて愛宕あたご屋敷に向かう。顛末を聞いたホノギは黙って頷くのみ。歓喜と悔悟、達成感と罪悪感が錯綜し合い、顔の表情を消していた。

 能面を被った策略家は、悲報を妻に伝えもせず、替りに隠密役のサルタを呼ぶ。

「直ぐに発ち、香春かわらのミカヅチ様に耳打ちするのだ。約束を果たして欲しい、と」

 その夜。神殿の造営に携わる人夫達が4つの担架を担いで愛宕屋敷に到着した。松明たいまつの炎が前後に連なり、蒸し暑く濃密な残暑夜の空気をあぶっている。宵闇に浮かぶ行列は死神の到来を告げる存在に他ならない。

 取り乱した使用人が寝所の夫婦を揺り起こす。ホノギはわざと驚愕の表情を浮かべ、初めて凶報に接した風を装った。ハナサクの方は夫の反応を窺う余裕すら無い。慌てふためき、やっとの事で小袖を羽織ると、松明の炎が集う玄関まで駆け出した。

次兄にいさん!、カツヒ次兄にいさん!。何故です?。何故、次兄にいさんが・・・・・・?」

 年子の次兄とは最も近しいだけに、辛い現実を受け入れ難い。遺体に泣きすがるも、嗚咽おえつを漏らすのみで、それ以上の言葉を語れない。

 嘆き悲しむ妻の背中をホノギは優しく擦って慰める。内在する人格の二面性。人間道を踏み外しつつも、辛うじて鬼畜道への転落を免れた阿修羅の如しであった。


 翌日、ホノギとハナサクは犠牲者達の亡骸を伴い、オオヤツ妃の新屋敷を訪れる。カツヒの死亡を伝え、葬儀を執り行う為であった。香春にも既に訃告の伝令を向かわせているが、早足で歩き通しても十日、往復で最低二十日を要する。

 悲報に接したオオヤツ妃もた顔色を失い、絶句する。茫然自失となった立ち姿は丸で静止画のよう。見守る娘夫婦も流れを止めた時間の切片と化した。堪え切れずに流した一筋の涙が悲憤の堰を割ったようだ。取り乱しはしないが、筵越むしろごしに頬を摺り寄せ、ワンワと泣き声を上げ続ける。

 どんなに嘆こうと、急死した家人との惜別に許される日数は限られた。長くても両手の指を数え折るまでが精一杯。病死の場合は死後数日と遥かに短い。腐臭を放ち始めた遺体が伝染病の温床と成り兼ねない事を代々の経験から知っている。遺族への配慮は二の次とせざるを得ない。

 荼毘だびに付す。この時代、丸太を井桁に積んだ井楼せいろうの上に故人を横たえ、薪を焚いて火葬と成すのが一般的だった。燃え上がる炎で浄化する事が常世とこよに旅立つ身支度となる。彼の地に至って初めて、魂は安らかな眠りに就く。人々は、そう信じていた。

 伊都いと集落の周辺に見られる甕棺墓かめかんぼ――生身の死骸を大きな土器に納める――の風習は土地の利用度が低い地方に限られる。埋葬場所が限られる狭隘地、或いは人口密度の高い地域では見られない。黒木集落でも火葬が通例だ。

 葬儀の仕切りは首長おびとの務め。オオヤツ妃は気丈に振舞い、威厳を失わずにテキパキと葬儀の準備を指示する。但し、兄アマツに別れの機会を与えたいと、カツヒの葬儀だけは先送った。公人らしからぬ対応に陰口を叩かれはしたが、権力者として強引に反発を抑え込む。

 死後硬直の溶けた3体が各々の井楼に載せられると、オオヤツ妃は葬儀開始を宣言した。集落民の沈痛な顔が並ぶ中、嗚咽と共に泣き崩れる者も多い。

「焚き上げよ」

 日の出を合図にともされた小さな炎は、隣の薪へと燃え移り、火勢を徐々に強くする。火炎が亡骸を包み込む様を見納めた参列者は、日没と共に帰宅し、遺族だけの時間を御膳立てする。

 深更の月夜。残った遺族は薪をべ続け、黒く炭化した肉体が焼け落ちる。舞い上がる無数の火の粉。輝く金粉の群れは魂の昇華を想念させた。夜通し、泣き腫らした瞳に揺れる炎を写し、滂沱の涙で哀切の情を洗い流すのだ。

 燻ぶる残火の中に埋もれる白骨と灰だけの残滓。朝ぼらけの空の下、遺骨を土師器はじきの壺に拾い納める頃合いを伺って、参列者が再集し始める。全員が揃うと、共同墓地まで移動。骨壺を埋葬した後、故人を偲ぶ直会なおらいを催す事で一連の儀式は終了する。

 オオヤツ妃は一切を取り仕切らねばらない。公務を果たし疲労困憊の態で自邸に戻ると、白皙はくせき木偶でくと化したカツヒの隣にへたり込んだ。衆人の目から逃れるや否や、保っていた緊張の糸が解け、一挙に虚脱して放心状態に陥る。

 けれども、亡き息子への想いが彼女を休ませない。深紅の顔料リモナイトを探し出し、黒泥くろなずんだ下唇を赤く上塗り始めた。故人の首から下には麻布がかぶされ、口紅を差した今は安眠中かと錯覚しそうだ。だが、現実は違う。至る処の皮膚が摺り剥け、右腕と左脚は押し潰されて無きに等しい。

 憔悴し切った母親の後姿を、ハナサクとナムジが心配そうに見守っている。表情を消したホノギの視線はカツヒの横顔に注がれている。

――魂を地上に留め置き続けても大丈夫か?

 異例の日数に及ぶ安置をはばかる反面、少しでも長く息子を眺めていたい。相克する強い感情の板挟みとなって、彼女は葛藤していた。

――むくろが腐り始めるまでに何日の余裕が有るのだろう?、アマツの戻りは間に合うのかしら?

 折悪く、九州南部には大型の台風が接近中。窓から吹き込む生温かい風が4人の頬を順繰りに撫でて行く。当時の人々は気象の変化に敏感だ。正確な上陸時刻を予測できずとも、大気の状態から大嵐の到来を察知する。

 オオヤツ妃は隙間無く杉板を渡した屋根裏を気の晴れぬ思案顔で見上げた。丸で雲の流れを観察するかのように。今回ばかりは虫の知らせが彼女の胸中を騒がせるのだった。


 23日目の昼過ぎに、香春に遣わされた伝令が単独で戻って来た。しかも「アマツは?」との問いに口を濁す。

「何故、戻って来ないのですか?」

 痺れを切らしたオオヤツ妃が上擦った声で問い詰める。

「アマツ様は・・・・・・。アマツ様も事故に遭われて・・・・・・」

「何処で?。香春から戻る道中で、ですか?。それならば、直ぐに助けに行かないと」

 胸騒ぎに怯える母親の前で、「いえ・・・・・・」と口籠る伝令。

如何どうしたのです!」

 鷹揚な人柄からは想像できない程の金切声。癇癪染みた詰問に、伝令の視線が床に落ちる。

「香春でお亡くなりになりました」

何時いつ?」

「嵐が通り過ぎた2日後です。私が到着する前日でした」

 悲痛な表情を浮かべた伝令が苦渋の小声を絞り出す。

 アっと声を上げて天を仰ぐオオヤツ妃。荒い息遣いと共に立ち竦んでいたが、やがて白目を剥いてくずおれる。「母さん!」。ハナサクが急ぎ駆け寄り、失神した母親を介抱する。

 伝令の報告に拠ると、アマツは、貯木場の丸太を馬に牽かせ、集落までの運搬作業を指揮していたそうだ。山中作業は蜈蚣むかで衆の役割。彼らの大半は樵役きこりやくに徹して伐採作業に没頭するが、山腹の貯木場で集荷と払出し作業に従事する者も多い。

 運搬の隊列が山を下り、再び登って戻るまでの間。追加で切り倒した丸太を貯木場に積み上げる。段積みされた丸太が荷崩れせぬよう、下斜面には何本もの丸太杭を深く沈めているのだが、その支柱が折れたらしい。

 如何に頑丈であろうと、1本が折れると、その分だけ残りの杭に荷重がし掛かる。豪雨で地表が泥濘ぬかるんでいた事も災いした。地中摩擦の弛んだ杭は揺らぎ始め、連鎖的に隣の杭が耐力を失って行く。

 こうなると、人間の力では止め様が無い。丸太の山が雪崩を打って転がり落ちる。更に不運は重なり、アマツが貯木場に戻る途中だった。九十九折つづらおりに踏み固められた運搬道の一部が崩落現場の真下を通っている。

「前夜にでも支柱が折れていれば・・・・・・と、ミカヅチ様も太宗悔やんでおいででした」

 そう報告し終えると、伝令は口を閉じた。

「それで、アマツのむくろは?」

「それが・・・・・・」

如何どうした?」

「丸太に押し潰され、見る影も無い有様でして・・・・・・」

「御前は骸を確かめたのか?」

「はい。とてもオオヤツ様には御見せ出来ません」

 ホノギだけが「そうか」と一言呟いた。ハナサクとナムジの姉弟きょうだいは無言で涙を目に溜めている。

「香春で弔うか、或いは焼かずに此処まで運ぶか、決めて欲しい。そう言付かっております」

 自分の一存で決めるほど独善的でもない。失神したオオヤツ妃の姿を見遣ると、「承知した、が・・・・・・」と言った切り、途方に暮れる。

義母ははが意識を取り戻したら、相談しよう。御前は下がって良い。御苦労であった」

 放免された伝令は、ホノギに跪礼きれいすると、足取り重く立ち去った。


 オオヤツ妃は、断腸の思いで未練を断ち切り、香春集落での火葬に同意した。

――ただ遺骨だけは持ち帰り、生まれ故郷に埋めてやりたい。

 やつれ果てた母親の想いを携えた伝令が再び北へと走る。ふと見上げれば、淡青空に群れる鰯雲。野原に目を転じれば、涼し気な秋風が薄穂すすきの綿毛を揺らしている。夕暮れともなれば、山を下りた赤蜻蛉が舞い始めるだろう。

 そんな季節の変わり目を余所に、悲嘆に暮れる屋敷の一画だけは時の流れが淀むに任せていた。安置所となった部屋に籠る母子の間には過去と現在だけが行き来する。

 相次ぎ2人の息子を喪えば塞ぎ込むのも当然。彼女の場合は特に後悔の念にもさいなまれていた。(もし葬儀を済ませていたら・・・・・・?)。脳裏に繰り返される自問の声。責苦の渦中で悶々とする内に、体調すらも優れなくなった。

「独りじゃ寂しくて兄さんを呼んだの?」

 変わり果てた息子の枕元に腰を据え、赤黒く膨らんだ頬を優しく撫でる姿が何とも痛々しい。当時の建築技術では宮大工が腕を振るった豪邸といえども密封性の点で多少の難を残す。隙間風が部屋の換気に寄与するも、腐敗臭の一掃には至らない。時折は死臭を嗅ぎ付けた蠅を手で追いもする。

 哀れと言えば、母親よりも当のカツヒだろう。魂だって姿形の崩れ始めた肉体に閉じ込められる不憫を善しとはすまい。若い魂ならば愈々いよいよ。だからこそ、嵐に便乗して香春まで飛んだのではないか。

――道連れの者が続かぬよう、カツヒの鎮魂を急がねば・・・・・・。

 悩み抜いた挙げ句、(子供や孫の生命を優先しよう)との結論に辿り着く。アマツの帰還を待ったりはしない。

――もう貴方あなた達に会えないのは辛いけれど、私の老い先も短い。待っていて頂戴。

 西暦192年。この年、オオヤツ妃は39歳。裕福に暮らす彼女の健康状態は良好だ。10年近くの余命を残すものの、平均寿命の短い当時としては既に老齢の域と言えた。


 水難事故の腐乱死体を葬る場合、ややもするとけがれを心配され、参列者の数が一挙に減る。時間の経ったカツヒも似た惨状だが、葬儀には多くの庶民が集まっていた。人懐っこい性格の彼に親近の情を抱く者は同世代に限らず多い。

 但し、腐敗の進んだ裂傷は激しい腐臭を周囲に漂わせる。遺族が気に留めずとも、他の者は異臭に鼻をつまむ。蝿の群れを追いながら、ホノギとナムジの2人が亡骸を斎場まで運ぶ。そして、ポツンと一つだけ佇む井楼の上に乗架した。残った左腕が重力に引かれるままに垂れ下がる。

――ご免なさい。早く解放して上げるべきだったのよね。

 オオヤツ妃の目から溢れ出る大粒の涙。月の満ち欠けが一巡した今も心痛を募らせ、涙の涸れる事は無い。ふくよかだった頬も削げ、目の下にはくまが浮いている。ほつれた毛髪の根本はねぎの如く白い。

 彼女に同情したウズメが「カツヒ様の為に、鎮魂の舞を躍らせて欲しい」と願い出た。

 捧げ物を奉納する様に両手を前に伸ばし、弔詞をそらんじ始める。低くくぐもった声音が徐々に高くなり、時々は金切声に近い叫びを放つ。弔詞とは神憑りを誘う呪文。唱了した踊り子の目付きは胡乱となり、夢遊病者を思わせた。

 続いて、漏斗状の何かを撫で上げる様に宙空で両手を広げ、緩やかに身体を回転させ始める。上半身と両手は弓状に枝垂れ、白く泡立った渦潮を想起させる。全身をくねらせ、足跡が円弧を描く。一連の動作は自然界の移ろう事象を様々に表現しているようだ。

 激しい動作がしばらく続き、足を交互に踏み鳴らす。鼓舞の最高潮に「ハっ」と気合を放った大音声だいおんじょう。それは死魂に旅立ちを促す合図だろう。舞は一転して穏やかなものへと変幻する。それまで周囲を圧倒していた気迫が引潮の様に薄らぎ、ウズメは静かにひざまずいて舞踏を終えた。

 巫女不在の宮埼集落では、舞を奉納する初めて葬儀となった。得も言われぬ感動に参列者は押し黙る。オオヤツ妃もカツヒの鎮魂を確信し、素直に有り難いと思った。

――香春でも葬送の舞を奉納するそうだから、アマツの魂だって癒されるに違いない。

 ウズメが群集の輪に隠れると、ナムジが薪に火を灯す。焚き上げの始まりだ。遠慮勝ちに丸太を舐める炎舌が白煙を生み始める。数日前の雨で所為せいだろう。横からホノギが稲藁を継ぎ足す。少しでも早く五体満足でなくなった肉体を焚焼しようとの気配りだった。

 一昼夜の炎が焼き尽くしたカツヒの遺骨は、骨壺に納めた後も、オオヤツ邸で保管される。兄の到着を待ってから、仲良く並べて埋葬する積りだった。

 共同墓地の周囲では曼珠沙華の群生が死者の霊を無言で慰めている。放射状に開いた真紅の花弁が秋の微風そよかぜに揺らぐ。線香花火にも似た儚げな一輪だが、多数が寄り集って裏寂れた賑わいを添えている。常世とこよへと続く旅路を手引きしてくれるのだろうと、墓参の者に思わせる光景だった。


 治世に憐情は禁物とは言え、ミカヅチは陽気で純朴な若者を不憫に思っていた。粉骨砕身の働きに恩義すら感じている。香春人かわらびとの多くも喪失感を引き摺っていたようだ。だから、独自の弔いとして、近隣で最も標高の高い英彦山の中腹に祠を建てる事とした。

 その祠が英彦山神宮の前身である。但し、現代の主祭神は、天照大神あまてらすおおみかみとの誓約うけいによりスサノオから生まれた第一皇子、日天忍穂耳命あめのほしほみみ邇邇藝命ににぎのみことの父)とされる。変遷の経緯は不明なれど、ホノギを神格化する過程で箔の付く方に変わったのだろう。

 余談ながら、中世から近世に掛けて、神宮周辺は日本修験の三大霊場として栄える。それ程までに神聖視した土地に不遇な異邦人を祀ったのだ。香春人が抱いた尊敬の念に感じ入らざるを得ない。

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