第13話 修羅の妄執
ホノギを主君と仰ぐ元城兵の10名は、
降臨を先導したサルタも
此処で染料の種類を復習しよう。卑弥呼の衣装は
一方、彼女の袴は紅花を溶かした染料で着色されている。紅花の栽培は産業化されておらず、天然物の産出量は
光の届かぬ空間は〝
その妻をサルタは参内の度に同伴させた。娯楽の乏しい時代。オオヤツ
「義兄さん。砦が
吉報に「そうか!」と破顔し、
「大嵐の前に普請が終わるか、気を揉んでいたんだ」
「私も気が
緩んだ口許に覗いた歯の白さが茶色く日焼けした顔と対照的だ。夫の隣でハナサクも「本当に良かった」と胸を撫で下ろす。精神的にも頑健さを増したようで、次兄の姿を眩しく感じる。
「砦の中で過ごせば、雪を知らぬ
「香春の大工衆は優秀ですよ。
「そうか。城と同じ遣り方だな。でも、何故、此処には無いんだろう?」
床暖房の心地良さを知るホノギは、愛宕屋敷にも導入すれば良いのに・・・・・・と少々羨ましく感じる。
「私も不思議に思って訊きました」
「それで?」
「大きな
「思い起こせば、言われる通り。
床暖房を知らぬハナサクには
「卑弥呼の話で思い出した。御前に相談事が有る」
「何です?」
「香春が第二の卑弥呼を擁立しただろう?」
カツヒは、(それが何か?)と内心で
「田畑の広さでは及ばぬが、馬を使う黒木の
「ところが、黒木にだけ卑弥呼が居ない。この状況を
政略とは無縁の純朴青年が模範解答を繰り出す
ところが、諮問者の方には易々と誤魔化される積りが無いらしい。呆れた声音で「カツヒよ」と呼び直し、「口惜しくないのか?」と畳み掛ける。
「口惜しい?。もう十分に豊かなのだから、
「欲の無い奴だなあ」と、深々と2度目の長い溜息を吐くホノギ。
「御前には高みを望む気構えが無いのか?。抜きん出れば、周りの
束ねた処で面倒が増えるだけだ。支配欲を満たすよりも、指図される気安さに安住したい。それが次男坊の発想だろう。そうでなければ、今頃は主導権を巡って義兄と仲違いしている。
「
「彼らの気持ちには思い至りませんでした。未だ未だ視野が狭いのですね、私は」
黙して耳を傾けるハナサク。消沈する次兄を不憫に思う一方で、夫を誇らしく思う。
「まぁまぁ、
妻の仲裁に、ホノギも「言い過ぎたか」と少し反省の表情を浮かべる。
「それで、義兄さんは
「うむ」と首肯するホノギ、右手で顎を擦りながら言葉を選ぶ。
「御前が陣頭に立った砦だがな、大宮に変えようと思う」
「大宮?」
「そうだ。卑弥呼よりも偉い存在、神を祀るのだよ」
「神?。何の神様ですか?」
異口同音に疑問を発するカツヒとハナサク。奇想天外な提案に只々驚き呆れる。神殿を建立して特定の神を祀るなんて発想は無いからだ。
神様とは森羅万象に宿るものだと心得ているし、日々の生活を通じて山海の恵みに感謝している。2人に限らず、邪馬台城と薄縁の者には、それこそが自然な発想であった。
「何代か前の卑弥呼が人柱となって怒りを鎮めた
「阿蘇の?」
「ああ。彼の地からは目と鼻の先だ」
「ですが、義兄さん。砦の門は東を向いていますよ?」
門前に向かって立てば、阿蘇山は左手。高千穂の北方に
「当然だ。真向いから神を見据えるなんぞ、
「確かに」
「ところで、カツヒ」
「はい?」
「神を祀るに相応しい
和風建築物を求む現代人なら木目も露わな無垢材を褒めるのだろうが、彼は無粋に過ぎると判断したようだ。要は手間暇を惜しんだとの評判を恐れたのである。
「見映えは大切です。義兄さんには何か知恵が?」
「ウム。建物全体を赤く塗っては
ホノギは、宗女達の顔を思い浮かべ、彼女らの赤い
「膝元の山麓で採れる顔料で柱を赤く塗れば、
「それは良い考えですね。ハナサクも賛成かい?」
「思い起こせば、ウズメも赤い袴を履いて神楽を舞います。大宮に相応しい色だと思いますね」
3人の談義が端緒となって、現代に至るまで神社の境内には緋色が溢れる事となる。
阿蘇リモナイト。
ホノギは「監督者として現場を見ておくべきだ。御前の見識も広がるしな」と、鉱床に
連れて来られた場所は、カルデラ底面の平坦地ではなく、外輪山の裾野に形成された緩やかな窪地。岩に覆われた斜面が崩落すれば、確実に落石の餌食となる。第二の謀殺計画が蠢動し始めたのだ。元城兵の残り9人が岩場の陰に身を隠し、カツヒ達を待ち構えている。
「この
硬く乾燥した泥土を素足の爪先で
「御覧の通り、簡単に粉となります。棒切れで
「削り取った紅粉を麻袋に詰め、砦まで運ぶ?」
「おっしゃる通り。悩みの種は、あの岩肌を馬が上り下り出来ない事」
腕を回して遠望を促した先には、大小様々の岩石が露出した
「男衆が音を上げないか、それが気懸りです」
「難儀ですね」
「ええ。重荷を背負って急斜面を登るのですから、岩山に近い方が楽です」
「確かに。少しでも距離の短い方が、早く運び終えると言うものだ」
作業が順調に
「ところで、大宮の
「他の
千里の道も一歩から。先々を心配しても切りが無い。着手こそが大事と前向きに思い直し、「手配した
「ところで、カツヒ様」
「何か?」
「私、昨夜から腹の具合が悪く、糞を捻り出したいのですが・・・・・・」
「私に許しを乞わなくても・・・・・・。早く用を足して来て下さい」
十分に
作戦実行の合図を確認した9人は、巨岩の下に差し込んだ丸太に全体重を乗せた。梃子の原理で巨大な凶器を押し転がすのだ。
ゴロリ、ゴロリ、ゴロン、ゴロンゴロン。
転落の過程で膨れ上がる
ガラリ、ガラリ、ガラリ。ガラッ、ガラッ、ガラッ、ガラッ。
土埃と共に競い落ちる奔流が情け容赦も無くカツヒ達に襲い掛かる。轟く地響きに振り返った時は既に手遅れ。悲鳴を上げる間も無く、無機質な破壊者に押し潰される。
地表に積み重なった岩々が粉塵を巻き上げ、辺りは赤褐色の
結果を確かめんと、暗澹たる落石現場を取り囲む10人。無機質な撮影カメラと化した20の瞳に写る被写体は凝砂質の地面に浮かんだ紅黒い帯。その意味する残虐性に思いが至った途端、銘々の肩に担いだ丸太がズシリと重みを増した。
搾り出された鮮血の源流を探り当て、砂地に食い込んだ火成岩の根底に丸太を差込む。全員が一丸となれば動かせる重量なのに、声を合わせて力む気にもなれず、巨岩を左右に揺らすばかりだ。
カツヒ以下、全員の絶命を確かめると、彼らは再び巨岩を被せ直す。運良く難を逃れた者に犠牲者の救助は不可能。事故現場を放置して救援を求めるしかなかった。その証言と合致するよう、念入りに現場を取り繕う。
案内役を務めた元城兵は悠然と山砦に帰還する。
他の9人は、
謀殺を段取った策略家は、悲報を妻に伝えもせず、代わりに隠密役のサルタを呼ぶ。
「直ぐに発ち、
その夜。神殿の造営に携わる人夫達が4つの担架を担いで愛宕屋敷に到着した。
取り乱した使用人が寝所の夫婦を揺り起こす。ホノギは
「
年子の次兄とは最も近しいだけに、辛い現実を受け入れ難い。遺体に泣き
嘆き悲しむ妻の背中をホノギは優しく擦って慰める。内在する人格の二面性。人間道を踏み外しつつも、辛うじて鬼畜道への転落を免れた阿修羅の如しであった。
翌日、犠牲者達の亡骸は、南方の人口密集地に移送された。オオヤツ妃を始め、遺族は皆、集落の旧街区に住んでいたからだ。香春に滞在中のアマツにも既に訃告の伝令を向かわせてはいるが、早足で歩き通しても十日、往復では三週間を要するだろう。
新屋敷で悲報に接したオオヤツ妃が顔色を失い、絶句する。茫然自失となった立ち姿は丸で静止画のよう。見守る娘夫婦も流れを止めた時間の切片と化した。堪え切れずに流した一筋の涙が悲憤の堰を割ったようだ。取り乱しはしないが、
どんなに嘆こうと、急死した家人との惜別に許される日数は限られた。長くても両手の指を数え折るまでが精一杯。病死の場合は死後数日と遥かに短い。腐臭を放ち始めた遺体が伝染病の温床と成り兼ねない事を代々の経験から知っている。遺族への配慮は二の次とせざるを得ない。
葬儀の仕切りは
死後硬直の溶けた3体が各々の井楼に載せられると、葬儀の開始が宣言された。集落民の沈痛な顔が並ぶ中、嗚咽と共に泣き崩れる者も多い。
「焚き上げよ」
日の出を合図に
深更の月夜。残った遺族は薪を
燻ぶる残火の中に埋もれる白骨と灰だけの残滓。朝ぼらけの空の下、遺骨を
オオヤツ妃は一切を取り仕切らねばらない。公務を果たし疲労困憊の態で自邸に戻ると、
けれども、亡き息子への想いが彼女を休ませない。深紅の
憔悴し切った母親の後姿を、ハナサクとナムジが心配そうに見守っている。表情を消したホノギの視線はカツヒの横顔に注がれている。
――魂を地上に留め置き続けても大丈夫か?
異例の日数に及ぶ安置を
――
折悪く、九州南部には大型の台風が接近中。窓から吹き込む生温かい風が4人の頬を順繰りに撫でて行く。当時の人々は気象の変化に敏感だ。正確な上陸時刻を予測できずとも、大気の状態から大嵐の到来を察知する。
オオヤツ妃は隙間無く杉板を渡した屋根裏を気の晴れぬ思案顔で見上げた。丸で雲の流れを観察するかのように。今回ばかりは虫の知らせが彼女の胸中を騒がせるのだった。
23日目の昼過ぎに、香春に遣わされた伝令が1人ぼっちで戻って来た。片道10日余りの後半は乾物を齧りながら走り続けたに違いない。まずは水分補給と白湯を差し出せば、手を挙げて辞退する。ならば――と家族の元に連れて行っても、口を濁すばかりで要領を得ない。
「何故、アマツと一緒に戻らないのですか?」
痺れを切らしたオオヤツ妃が怒気を含んだ声で問い詰める。
「アマツ様は・・・・・・。アマツ様も事故に遭われて・・・・・・」
「何処で?。香春から戻る道中で、ですか?。それならば、直ぐ助けに行かないと」
胸騒ぎに怯える母親の前で、「いえ・・・・・・」と口籠る伝令。
「
鷹揚な人柄からは想像できない程の金切声。癇癪染みた詰問に首を
「香春でお亡くなりになりました」
「
「嵐が通り過ぎた2日後です。私が到着する前日でした」
悲痛な表情を浮かべた伝令が苦渋の小声を絞り出す。
アっと声を上げて天を仰ぐオオヤツ妃。荒い息遣いと共に立ち竦んでいたが、
報告に拠ると、アマツは山腹の貯木場から麓まで丸太を馬に運ばせていたそうだ。1日に3往復。運搬の隊列が山を下り、再び登って戻るまでの所要時間は凡そ数時間だろうか。
伐採作業は
如何に頑丈であろうと、1本が折れると、その分だけ残りの杭に荷重が
こうなると、人間の力では止め様が無い。丸太の山が雪崩を打って転がり落ちる。更に不運は重なり、アマツが貯木場に戻る途中だった。
「前夜にでも支柱が折れていれば・・・・・・と、ミカヅチ様も太宗悔やんでおいででした」
そう話し終えると、深い溜息を吐いた切り、唇を真一文字に引き結んだ。
「それで、義兄の
「それが・・・・・・」
「
「丸太に押し潰され、見る影も無い有様でして・・・・・・」
「御前は骸を確かめたのか?」
「はい。とてもオオヤツ様には御見せ出来ません」
ホノギだけが「そうか」と一言呟いた。ハナサクとナムジの
「香春で弔うか、或いは焼かずに此処まで運ぶか、決めて欲しい。そう言付かっております」
自分の一存で決めるほど独善的でもない。失神したオオヤツ妃の姿を見遣ると、「承知した、が・・・・・・」と言った切り、途方に暮れる。
「
放免された伝令は、ホノギに
オオヤツ妃は、断腸の思いで未練を断ち切り、香春郷での火葬に同意した。
――ただ遺骨だけは持ち帰り、生まれ故郷に埋めてやりたい。
そんな季節の変わり目を余所に、悲嘆に暮れる屋敷の一画だけは時の流れが淀むに任せていた。安置所となった部屋に籠る母子の間には過去と現在だけが行き来する。
相次ぎ2人の息子を喪えば塞ぎ込むのも当然。彼女の場合は特に後悔の念にも
「独りじゃ寂しくて兄さんを呼んだの?」
変わり果てた息子の枕元に腰を据え、赤黒く膨らんだ頬を優しく撫でる姿が何とも痛々しい。当時の建築技術では宮大工が腕を振るった豪邸と
哀れと言えば、母親よりも当のカツヒだろう。魂だって姿形の崩れ始めた肉体に閉じ込められる不憫を善しとはすまい。若い魂ならば
――道連れの者が続かぬよう、カツヒの鎮魂を急がねば・・・・・・。
悩み抜いた挙げ句、(子供や孫の生命を優先しよう)との結論に辿り着く。アマツの帰還を待ったりはしない。
――もう
西暦192年。この年、オオヤツ妃は39歳。裕福に暮らす彼女の健康状態は良好だ。10年近くの余命を残すものの、平均寿命の短い当時としては既に老齢の域と言えた。
水難事故の腐乱死体を葬る場合、
但し、腐敗の進んだ裂傷は激しい腐臭を周囲に漂わせる。遺族が気に留めずとも、他の者は異臭に鼻を
――ご免なさい。早く解放して上げるべきだったのよね。
オオヤツ妃の目から溢れ出る大粒の涙。月の満ち欠けが一巡した今も心痛を募らせ、涙の涸れる事は無い。
彼女に同情したウズメが「カツヒ様に鎮魂の舞を捧げたい」と願い出た。
供物を奉納する様に両手を前に伸ばし、弔詞を
続いて、漏斗状の何かを撫で上げる様に宙空で両手を広げ、緩やかに身体を回転させ始める。上半身と両手は弓状に枝垂れ、白く泡立った渦潮を想起させる。全身を
激しい動作が
巫女不在の黒木郷では、舞を奉納する初めて葬儀となった。得も言われぬ感動に参列者は押し黙る。オオヤツ妃もカツヒの鎮魂を確信し、素直に有り難いと思った。
――香春でも葬送の舞を奉納するそうだから、アマツの魂だって癒されるに違いない。
ウズメが群集の輪に隠れると、ナムジが薪に火を灯す。焚き上げの始まりだ。遠慮勝ちに丸太を舐める炎舌が白煙を生み始める。数日前の雨で
一昼夜の炎が焼き尽くしたカツヒの遺骨は、骨壺に納めた後も、オオヤツ邸で保管される。兄の到着を待ってから、仲良く並べて埋葬する積りだった。
共同墓地の周囲では曼珠沙華の群生が死者の霊を無言で慰めている。放射状に開いた真紅の花弁が秋の
治世に憐情は禁物とは言え、ミカヅチは陽気で純朴な若者を不憫に思っていた。粉骨砕身の働きに恩義すら感じている。
その祠が英彦山神宮の前身である。但し、現代の主祭神は、
余談ながら、中世から近世に掛けて、神宮周辺は日本修験の三大霊場として栄える。それ程までに神聖視した土地に不遇な異邦人を祀ったのだ。香春人が抱いた尊敬の念に感じ入らざるを得ない。
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