第12話 海幸彦と山幸彦の誕生

 権謀術数を巡らす人間はホノギに限らない。北の故地でもオモイカネが謀事はかりごとを企んでいる。ところが、彼は反逆者の真意を測り兼ねていた。単に私利私欲に駆られ、独立を目論んだに過ぎないのか。更に進んで、反旗を翻す積りなのか。其処が判然としない。

 傭兵契約を結んだ薩摩人さつまびとより「スサノオが裏阿蘇に逃げ込んだ」との噂話が伝わっていた。流石さすがに本人が存命中だとは思わないが、彼の子孫とホノギが結託した可能性も捨て切れない。そうならば、邪馬台城は厄難の種を抱えた事になる。

 慎重居士なる老人は、残留兵の中から隠密活動に長けた者を選び出し、黒木郷をさぐらせていた。彼らの口から在来馬の動向が逐一報告される。「約500頭が北上している」と。香春かわらに向かうのか、阿蘇の裾野を回り込んで狗奴くぬを通るのか、その行路は判然としない。

――共謀して大規模な軍事行動を起こすのか?

 同時に両軍と対峙し、城を挟撃される事態は避けたい。そうかと言って、先制攻撃と勇んで南の最果てまで遠征すれば、筑紫の守りが疎かとなる。下手をすれば、香春勢に後背を襲われ兼ねない。

 思い悩んだ智臣は新たな命令を下す。

「黒木の軍勢は此処で迎え撃つ。その代わり、手薄となる彼らの集落むらに火を放つのだ」

 敵方の本拠地を焼き打てば、戦争は長期化しないだろう。スサノオに不意を突かれた昔と違い、城の防御力は格段と強化されている。短期戦ならば、籠城して遣り過ごせば良い。そう言う算段だった。


 城の隠密部隊が黒木郷に侵入した。消炭で肌を黒く塗った放火魔が、人々の寝静まる深夜を待ち、火矢を放って回る。乾燥した冬の寒気が災いし、茅葺かやぶき屋根の住居は瞬く間に燃え盛った。焼け出され、逃げ惑う人々。火焔の勢いに翻弄され、夜闇に悲鳴が響き渡る。

 高床式の貯米庫も同じ末路を辿った。屋根板の耐火性は茅葺に勝るが、所詮は五十歩百歩。舞い踊る火の粉をかぶった籾米が着火剤となり、内部から炎に呑み込まれる。

 鎮火作業に際しては、次男カツヒが指導力を発揮した。集落の男達を集め、矢継ぎ早に消火作業を指示する。女子供も陣後に手伝い、消火用水の手配に努めた。

 住民総出の奮闘にも拘らず、成果は思わしくない。〝焼石に水〟の態だった理由は、数多あまたの井戸が点在すれど、適切な水汲み道具を欠いたからだ。この時代、手軽な結桶ゆいおけの製造技術は無く、丸太を穿った刳桶くりおけ須恵器すえきしか存在しない。ズシリと重い道具を使った消火活動は困難を極める。

 身重のハナサクが伏せる屋敷も等しく放火の餌食となった。柱や梁が燃え落ちなくても、外気を遮断する精緻な建付けが白煙を屋内に閉じ込める。外敵が狙っていようとも、外に避難せざるを得ない。妊婦の両脇を母親と末弟が抱え上げ、熱気と息苦しさに耐えながらやっとの事で逃げおおせる。

 黒木郷の人口は1万人弱。戸数では約2千戸。出火元はオオヤツ邸を核とする中心部に限られ、類焼の犠牲となった竪穴住居は100軒前後に過ぎない。むしろ貯米庫の被災が著しい。隠密作戦の目的は後方撹乱。火矢の数にも限りが有り、城兵は籾米の焼失を優先したようだ。

 甚大な物損を被るも、焼死者を出さなかった点は勿怪もっけの幸いと言える。煤黒顔すすぐろがおのオオヤツ妃は住民の無事を確認して安堵の溜息を吐いた。


 香春かわらからの帰路、ホノギに火急の知らせが告げられた。災難の報に矢も楯も堪らず、故郷へとはやる焦燥感にさいなまれる。しかし、誰も死んではいないし、既に鎮火していると聞くに及び、狼狽うろたえずに自分の責務――香春人かわらびとの引率――を果たすべきだと思い直す。

 オオヤツ邸の焼失跡地への到着は事件の5日後。周囲の竪穴住居群では早々と再建作業が始まっている。焼け出された者は縁者宅に身を寄せ、共助の精神で秩序を維持している風に見えた。

 但し、数千人規模の香春人が転入するとなれば、話は大きく変わる。新参者には、旅行中と同様、焚火を囲んでの野宿を強いるしかない。南国の宮埼では幸い、朝晩の冷え込みも穏やかなので、彼らも艱難を凌いでくれるだろう。

 問題は食糧だ。備蓄米を失った宮埼人は不安を抱き、長い旅路を耐えた香春人も大きく落胆している。日を追う毎に雰囲気が険悪となり、暴動を招くかも――と気を揉む窮状だ。実際、全員に冬を越させるだけの食糧が集落内には無い。

 指導者として早急に解決策を示さねば――と承知しつつも、ホノギの脳裏に浮かぶのは苦痛に歪む瓜実顔(うりざねがお)。最悪の事態を連想し過ぎだと自分に言い聞かすのだが、動揺は募るばかりだ。帰郷したからこそ、愛妻の姿を探し求めずには居られない。

 そんな不安定な精神状態だった時だから、近隣の村長宅で介抱中と聞き及べば、取る物も取り敢えずに走り出す。案内の若人を急き立てる様は、傍から見れば追い駆けっこだ。

 大きな茅屋に駆け込むや否や、横臥する妻の元に馳せ寄り、白く華奢きゃしゃな手を強く握る。不安顔の夫を宥めようと笑みを浮かべるハナサク。長い黒髪も洗って身嗜みを整えてはいたが、着た切りの襦袢じゅばんには煤が固着こびりついている。

 ホノギは、黒く滲む汚れを見るに付け、心底に沸々と湧く怒気を覚えた。一方で、火傷やけどもせずに無事な妻の姿を確かめ、張り詰めた気持ちを弛緩させもする。

 傍らに座るオオヤツ妃、カツヒ、ナムジの3人に向かい、深々と頭を下げた。

「御義母さん。留守中の備えを疎かにして、申し訳ありませんでした」

「もう済んだ事です」

「カツヒ、ナムジ。ハナサクを助けてくれて、本当に有り難う」

 義兄の謝辞に、カツヒは胸を張り、ナムジは含羞はにかんだ。

「城から来た曲者くせものでしょうか?」

「恐らく・・・・・・」

「丸で婿殿の不在を狙ったみたい」

「見張っていたんでしょう」

貴方あなたを?」

「いや、集落さとの動きを窺っていたのでしょう」

「火を放つまでの敵意を持たれるとは。困りましたねえ・・・・・・」

 思案顔で黙り込むオオヤツ妃。ハナサクの指先からも微かな緊張が伝わる。ホノギも眼差しを険しくした。

「困ったと言えば、多くの米も失いました。香春人かわらびとも来たと言うのに・・・・・・」

「その事なんですが、御義母さん。城から預米を全て引き出しましょう」

「私達を襲った彼らが米俵を渡しますか?」

「彼らの敵意とやらが少し疑わしいのです」

「だって・・・・・・」

「如何にも中途半端なんですよ」

 女性のオオヤツ妃には娘婿の言わんとする事が理解できない。武臣の候補者となった彼には別の見解が有るのだろうか。

「もし本気なら、大勢で攻め込んだでしょう。聞いた限りでは、数人の仕業だったとか・・・・・・」

「そのようです」

「連なる馬を見て、城に攻め入る積りだ、と慌てたのかも知れません」

「そんな馬鹿な!。戦人いくさびとは1人も居ないのですよ」

「ええ、御義母さんの言う通りです。だけど、スサノオの乱で懲りてますから」

「そうなの・・・・・・?」

「今頃は後悔していますよ。友誼よしみを保つべき黒木にあだを為したのですから」

 半信半疑の家族を順繰りに見渡し、鳥栖とす勢が軽挙妄動を反省中だと推察する根拠を説明し始める。

 城の密偵が既に隊列の香春入りを報告しているだろう。同時に、土木作業にける使役馬の活躍も耳に入っているはずだ。それはそれで苦々しく思うだろうが、人道支援の範疇はんちゅうである。屁理屈をねても先制攻撃を正当化する大義名分は立たない。

 敵意を抱かぬ集落に危害を加えた事実が知れ渡ると、邪馬台城の信頼は失墜する。だから、焼き討ちとの無関係を装い、預米を放出して支援するしかない。

「彼らは同情顔で救いの手を差し伸べるでしょう」

 恐怖心は思考を悪い方へと向かわせ、理路整然と講釈されても心が休まらない。

――危害を加えておきながら、慈悲深い友人として振る舞う!?

 正直者には想像すらできない。思惑の渦に溺れ、頭から湯気が出そうだ。疑心暗鬼の一堂に向かい、ホノギが「我々も『野盗に付火された』と惚けるのが最善です」と畳み掛ける。

「他に米不足の解決法は見当たりません。婿殿を信じましょう」

 オオヤツ妃は諦観の溜息を漏らした。

「それで、城には勝手知ったる婿殿が出向くのかい?」

 弁舌爽やかな娘婿には珍しく、「それが・・・・・・」と歯切れの悪い反応を示す。初めての光景に、オオヤツ妃だけでなく、ハナサクと2人の義弟も意表を突かれた。

「私は駄目です。何故なら・・・・・・」

 俯き加減に訥々とつとつと、オモイカネを裏切っての残留だと白状した。仰天した女当主は「何故?」と一言、問い質すのが精一杯。帰化の顛末は邪馬台の了解事項と信じ込んでいたからだ。

「ハナサクに一目惚れしました。この娘と添い遂げたい、と」

 そう言われると、母親としては返す言葉が無い。呆れ顔で娘を眺めるも、「罪な女ね」とは言えず、二の句を告げない。自分の知る限り、2人は最も幸せな鴛鴦おしどり夫婦だ。当のハナサクは戸惑い、寝床の中で唖然としている。

「仕方有りませんね」

 オオヤツ妃は、もう一度、深い溜息を吐く。但し、二度目は安穏としていた。

「それでは、カツヒ。御前が行ってくれるかい?」

「うん、任せて。サルタに道案内を頼むから大丈夫だよ」

 長兄アマツ不在の今、集落を支えるのは次兄の務めだと奮い立っていた。


 連れて来た香春人かわらびとは数千人。その内訳は、女子供が6割、年寄りと青年が2割ずつの按配だ。開墾に従事すべき成人男子の構成比は意図して抑えている。(早く成果を出して、遠く離れた妻子を呼び戻したい)と考えるのは自然な人情。残された男達の勤労意欲を掻き立てようと心算した面も否定できない。

 また、安全保障上の配慮も働いた。大勢の若い男が押し寄せては、黒木郷を占拠され兼ねないからだ。一方で高千穂の砦造りは急ぎたい。相反する思惑の折衷案として、青年の受入数は決められた。

 青年団の主な構成員は宮大工。腕節の強さよりも手先の器用さを買われている。土木仕事に就かせるには勿体無い存在であり、下手に怪我でもされては一大事。つまり、ミカヅチとしても、彼らの腕前を磨く場の御膳立てにもなり、供出し易かったようだ。

 元々、彼ら技能集団の処遇は悩ましい問題でもあった。何故なら、重量のみに依拠する物々交換では技巧を凝らした成果物を正当に評価できないからだ。米本位制を敷いた経済体制の弊害と言えよう。よって、往々にして有力者の庇護下に置かれる。

 代々の現人神あらひとがみは、人口密度の高い城内ではなく、香春郷に蜈蚣むかで衆と混住させていた。後の大和政権が部民べのたみとして抱え込んだ黎明期の原型が此処に在る。

 焼け跡を前に意気消沈する黒木人は、香春人を心強い援軍と捉え、温かく迎え入れる。邪馬台から預米を引き出すとの打開策が流布され、飢餓の怖れが霧消した事も大きい。理性と慈愛の精神を取り戻したのだ。

 だから、冬の到来を告げる空風からっかぜに晒すなんて野暮な真似はしない。取り敢えずは火災を免れた住居に居候させ、大車輪で復旧作業を進める。更には、数千人が暮らす住居群の新設にも尽力した。


 疎開民の生活基盤が固まると、カツヒは香春の大工衆を率いて英多あがた(現延岡)まで移動した。宮崎市から海岸沿いを100キロ弱も北上すると延岡市に至る。其処から西北西に約40キロ、九州山地に分け入った場所が高千穂だ。

 500メートル前後の標高に過ぎないが、冬には雪が降る。積雪を免れても、地面は凍る。闇雲に伐採を進めても、建屋の基礎工事が難航するだけだ。

 ホノギは、無為に冬を過ごす愚を避け、英多あがたける拠点構築を指示する。いずれにせよ、治世の目が届かぬ難所との間には中継地が必要だった。戦国武将が山城を求めたのと同じ発想なのだろう。建設地を延岡市南部にある小高い丘の上。標高250メートル程度の愛宕あたご山に定めた。

 山頂から北を望めば、延岡平野を一望できる。東一面には洋々とした日向灘。その紺碧の海に注ぎ込む五ヶ瀬川の源流は九州山地の向坂山だ。春から秋までの半年間、山間部は月間平均200ミリから300ミリの安定した降雨に恵まれ、五ヶ瀬川は高千穂で伐採した木材の水利運搬に足る流量を湛える。

 しかしながら、冬季の今は、水面の上に露出した川底の岩が堰堤と化し、後背地の恵みを当てに出来ない。よって、愛宕屋敷の建築資材には、整地も兼ねて、周囲に群生するすぎひのきを当てた。

 板材を製造する道具は幅広のくさび。丸太の端面に当て、左右に突き出た楔の両端を金槌で交互に叩きながら押し割る。木目の整った針葉樹の方が何枚にも薄切りし易いのだ。

 九州各地に鉄器の普及し始めた弥生時代末期。大工衆は様々な鉄製工具を使いこなしていたが、のこだけは見当たらない。素朴な工具と侮り勝ちだが、鋸の登場時期は鎌倉時代と遅い。何故なら、平坦で薄い鉄板を作り、鮫の如き歯を刻むには、相当の加工技術を要するからだ。

 ちなみに、黎明期の鋸は、切断時に生じる木屑が歯間に挟まり、長くは挽けなかった。つまり、用途が限られる。斧に馴染んだ者は見向きもせず、長らく脚光を浴びなかった。

 鋸が主役に躍り出るのは室町時代の15世紀前後。中国から縦挽き式が伝来して以降、節が多く繊維の入り組んだ広葉樹が加工対象に加わった。ようやく木材が日本国内に流通し始めるが、一般庶民の手が届く存在となったのは江戸時代である。

 永らく板材の入手が困難だった日本家屋の基本仕様は、骨材に割竹を用いた土壁、土間が剥き出しの床、屋根裏の露出した天井の3点セット。部材同士は麻紐で結わうのが特徴だ。

 太い材木をつなぐ時には穿った凹凸を相互に組み合わせる。その凸部をホゾ、凸部をホゾ受けと言う。円滑に接合するには、端面を削って滑らかにする槍鉋やりがんな。形状を整え、精緻に穿つのみが欠かせない。。多種多様な工具のみならず、経験に裏打ちされた繊細な技能も求められた。

 外見的な特徴は他にも挙げられる。窓には雨戸を、部屋を区切る敷居には引戸を据え付けていた。匠の技を持つ建具職人の層が厚い事を物語っている。ところが、地元では腕を振るう機会に恵まれない。実態として、職人の大半は邪馬台城や周辺市場に赴いていた。一種の出稼ぎだ。

 そんな香春の大工衆が建造した愛宕屋敷は、構造材の梁と柱が強固に組まれ、板壁と建具の境から隙間風が吹く事も無い。残念ながら、蝶番のたぐいを入手できず、観音開き式の扉が一つも無い。金属製の消耗品は、城側との講和を果たさぬ限り、調達不能であった。

 邪馬台城の各種建造物を真似た屋根や壁にも言及しておこう。張り渡した板材を石膏で上塗りして防火仕様とし、更には漆喰を重ね塗って保湿性をも高めている。材料の石膏と石灰石は平尾台で採掘可能。焼成した生石灰きせっかいに水を撒けば、消石灰(漆喰の材料)となる。

 但し、複数の鉱石を絶妙の構成比で混合するセメントだけは製造できない。軍事をつかさどるミカヅチが、煉瓦積みの堅牢さに到底及ばぬと認識しつつも、香春屋敷を木造とせざるを得なかった制約である。

 反面、行政府に過ぎぬなら、後背に頂く九州山地に資材を求め、木造家屋とする判断が妥当だ。数年前の香春屋敷での経験を活かし、竣工までの工期短縮を期待する側面も有った。


 完成した屋敷はホノギ夫婦の新居ともなる。家族想いの彼は単身での赴任を良しとしない。ハナサクが出産を済ませば、産後の肥立ちを待って引っ越す。生活基盤を用意周到に調ととのえ、彼らに仕える香春人の竪穴住居も幾つか周辺に配置している。

 現代に至るまで『邇邇藝命ににぎのみこと木花咲耶姫このはなさくやひめは愛宕山で出会った』との伝説が続く所以ゆえんだ。

 親元には三男ナムジだけが残っている。次男カツヒは、愛宕屋敷の建設を采配した後、山中に籠って砦造りの陣頭指揮を執る。防衛のかなめと期す施設には頑丈な城柵を巡らせ、要塞と表現しても過言ではない。建設工期が長くなるのは当然で、秋も深まる頃の完成を見込んでいた。


 五月雨の季節が明けると、南国の太陽が烈射を降り注ぎ始める。緑の稲葉が波打つ地平線の向こうには青藍の鮮やかな日向灘が広がる。頭上を仰ぎ見れば、青藍の空を突かんとばかりに白い入道雲が屹立している。宮崎平野の至る所で陽炎かげろうが立ち、だった暑気を払う海風が頬に快い。

 初夏を迎えて万物が躍動していた。オオヤツ妃の新屋敷でも、自然界の生命力に負けじと、元気な産声が響く。ハナサクが無事に男児(長男ホデリ)を出産したのだ。彼は、火照命ほでりのみこととして神話に登場するが、別称(海幸彦)の方が有名であろう。

 この数週間、ホノギは屋敷内を右往左往するばかり。寝床の妻を見舞っては、兆しの無い事を確認して部屋を出る。退去しても行く当てが無いので、直ぐに戻ると言う不毛な動作を繰り返していた。

 気忙きぜわしい夫に促されたのか、前夜に到頭とうとう、ハナサクが産気付く。次第に間隔の短くなる陣痛の波。初産の苦痛に耐え続ける彼女の横には、老産婆とオオヤツ妃、ホノギの3人が徹夜で控えていた。

 2人の女性経験者は落ち着いたもので、交代で仮眠を取っている。ホノギだけが、期待と不安に胸を高鳴らせ、まんじりともせずに鎮座していた。当時の常識に照らし合わせると、彼の態度は珍妙と言える。

 邪馬台の社会でも出産に立ち会う男は居ない。足手纏いの男を産屋うぶやに招き入れても詮無いが、他にも理由が有る。多夫多婦制の必然として、男は「赤児が誰の子か?」を知らない。だから、女に向ける執着心は種を仕込んだ段階で消滅する。

 新鮮な空気を吸わんと産声を張り上げる長男ホデリ。威勢の良い泣声に興奮し、安堵する一堂。産婆が血糊の付いた肌を産湯で丁寧に拭い、オオヤツ妃が麻布に包《くる)む。

 半眼状態ながら、何かを掴もうと小さな手を空に伸ばす赤児。助産行為の報酬とばかりに、オオヤツ妃は自分の人差指を差し出した。繊細な握力を愉しみながら、喃語なんごを真似て初孫に話し掛ける。あやしながらも玉顔に視線を這わせ、眉毛や口許に娘との相似点を見付けては悦に入るのだった。

 自らの渇求を満たすと、膝立ちに娘の顔元へと近寄り、真赤に熟れた小顔を眺めさせる。部屋の隅からにじり寄った婿にも見せ、祝言ほぎごとを伝えた。ホノギの視線が愛しい妻子の間を目紛めまぐるしく行き来する。待望の家族誕生に無我夢中だった。

 ところが、ハナサクの様子がおかしい。陣痛の痛みが消えず、額の汗も引かない。産婦の股を触診し、腹に手を当てた産婆が宣告する。

「どうやら・・・・・・姫様は双子をはらみなさったようじゃ」

 オオヤツ妃は、初孫を婿に手渡すと、屈んで娘の股を覗き込む。そして、「追加の産湯を準備させましょう」と、部屋を出て行った。

 不安を隠せないホノギ。息子の耳元で唱える厄祓いの呪文は、自分自身に言い聞かせたものであろう。今は苦悶する妻を見守るしかない。

「おぎゃあ~!」

 長男の誕生から小一時間が過ぎた頃。2人目の男児(次男ホオリ)が呱々ここの声を上げた。神話に山幸彦として登場する火遠理命ほおりのみことである。

「火事の時には流産をも覚悟しましたが、無事に産まれて何よりです。御苦労様でした」

 ハナサクは幕無まくなしの出産に疲労困憊し、幾重にも茣蓙を重ねた寝床の上で脱力し切っていた。汗塗あせまみれとなった上半身を母親が優しく拭うに任せる。

「本当に其の通りだ。2人も子供を産んでくれて、有り難う」

 双子を高く抱き上げ、寝所内を歩き回るホノギ。赤児達に話し掛ける言葉も擬態語ばかり。権謀術数を巡らす姿が想像できない程の親馬鹿ぶりであった。

 そんな夫のはしゃぎ様を満足気に見上げるハナサクの表情には、難事を乗り越えた者の風格が漂っていた。


 日本神話に拠ると、一夜で身籠った木花咲耶姫このはなさくやひめ邇邇藝命ににぎのみことに浮気を疑われた彼女は、潔白を証明せんと、自ら火を放った小屋に籠って出産を果たす。ハナサク達が焼き討ちに遭った事件を題材とした逸話エピソードだ。

 また、木花咲耶姫が産んだ3人の内、火須勢理命ほすせりのみこと(次男)の記述は出生情報に限られる。相撲が奇数月に開催される伝統からも判る通り、古来より日本人は縁起の良い数字として奇数を好む傾向が強い。恐らく火須勢理命は空想の産物だろう。


 ハナサクの産褥回復はすこぶる順調だったから、双子の首が据わり次第、愛宕あたご屋敷に移る事にした。家族4人の生活を新天地で始めるのだ。

 夜中も授乳を強いられる妻を労り、英多あがたまでの移動――100キロ弱の旅程――には馬車を使った。南国の炎天下を進むならば、日射病も心配だ。荷台の左右に曲げ差した細竹を麻布で覆って幌を作る。小さいながら、西部劇に登場する幌馬車に酷似そっくりであった。

 性格の温和な在来馬の歩みは遅い。広大な宮崎平野の北端、日南海岸の一画で停泊する。食事支度は随行者の役目。ホノギ達、親子4人は砂浜に腰を降ろし、寄せては引く白波を眺めていれば良い。耳を澄ませば、泡沫の弾ける潮合の音が耳朶じだくすぐる。単調な旋律が波乱の月日に疲弊した心を癒やす。

 食後の娯楽は満天の星空観賞だ。朔夜さくやの天穹を分かつ乳白色の天之河が眺める者を圧倒する。現代の恋人同士ならば「あれが牽牛星、あれが織姫星」と甘いささやきを交わすのだろうが、浜辺に座る若い夫婦は星座を知らない。それでも星々の煌めきは浪漫ロマンを掻き立てるものだ。

 初産に身重となったハナサクは、予期せぬ転倒を恐れ、屋敷に籠り続けていた。だから、久々の遠出に気分が高揚している。何より初訪地での宿泊は夫婦水入らずの状況なのだ。夫の肩に頭を預け、幸せな解放感に浸っていた。

「愛宕ってんな処?。素敵な屋敷なのかしら?」

「勿論だ。家族4人で住むには広過ぎるくらいだぞ」

 ホノギが優しく腕を回し、妻の肩を抱き寄せる。義母と同居の屋敷では遠慮していた仕草だ。

「この子達には幸せになって欲しいものね」

「ああ。幸せにする、絶対だ。現に御前だって大事にしているだろう?」

「そうね」

「子供達の将来は安泰だ。先々の事まで俺が考えている。案ずるな」

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