第14話 大国主の旅立ち
慶事と凶事に相次ぎ見舞われた西暦192年の郷長一家。冬の間、屋敷に籠って暮らす内に、オオヤツ妃の傷心も少しずつ癒えて行った。日々に移ろう白雲の変化に心を洗われ、庭先の木々が伸ばす蕾の膨らみに励まされる。同居するナムジの気遣いも癒しとなった。
春風駘蕩たる穏やかな天気が続くと、自然界の生物も内に貯めた活力を解き放ち始める。冬眠から目覚めた動物達は活動を再開し、白鳥や
これまでは水害で農民の努力が泡と消える悲劇が頻発した。稲穂が
だからこそ、治水への渇望は強く、一致団結の機運は熟していた。采配者のアマツを失っても、
その結果、今年からは徒労を心配せずに田植え作業に没頭できる。丸太を裂いた平板を河岸に打ち込み、矢板として連ねる事で洪水への抵抗力は格段に強化された。実際、昨秋に台風が相次ぎ襲来した時でも、増水した河川は水路を乱さなかった。春の努力が秋の収穫に直結する事が証明されたのだ。
予定では、在来馬の貸付期間が更に1年続く。開墾作業の本格化は今年から。馬に木製の大きな
明るい見通しは
1年半もの長い別居生活を送った香春人達。行軍の最中に
そんな彼らをナムジが先導する。民族移動の大行列にはオオヤツ妃も同行している。久し振りに孫達の顔を見たいと、
温もりや賑やかさを欲しての発案なれど、喜色満面の笑顔に囲まれる
――
そう思わずには居られない母親の
娘家族との再会を喜んだ後にはナムジとの別離が待っている。彼を見送る段になると複雑な心境に揺れた。名残惜しむ母情の心底に潜む安堵の気持ち。それに気付けば、亡き息子達から咎められそうで怖い。今は虚無の心で遣り過ごすしか無い。
オオヤツ妃は、一行が地平線の彼方に隠れるまで、愛宕山の見晴台に立ち尽くしていた。
――今生の別れとならなければ良いが・・・・・・。
偶然の一言では相次いだ死没を片付けられない。面妖な魔物の
彼女の思考は空転するばかり。でも、幾ら不安を募らせようが、厄払いには寄与しない。無意味と承知するからこそ、心理的には余計に疲れるのだ。凡庸な自分は天命と諦めるべきであり、堂々巡りに思い悩むのは止めよう。そう何度も自分に言い聞かせた。
「母さん、身体を冷やすわよ」
昨夜までの
「2人とも大きくなりましたねえ。元気に育ってくれて、それが何よりです」
若い母親を慕って徘徊する姿に思わず目を細めた。娘の横から手を差し出し、
目に入れても痛くない程に溺愛する点はホノギも同じであった。2人が自分の元に近寄るや否や、両腕に抱き上げる。「ほらほら」と頬を擦り合わせながら、上半身を揺籠の様に揺らす。キャッキャと
「
家族団欒の場で父親が息子達に語り掛けた何気無い物言い。
ところが、「継ぐ」の一言がオオヤツ妃の心に影を落とす。別に不穏ではないものの、胸騒ぎを覚える。「兆しを見逃すな」と、女の直感が警告を発するのだった。
香春から戻ったナムジと合流し、旧宅に帰ったオオヤツ妃。ふとした瞬間に
――ホノギは、年長の娘夫婦が集落を率いると、単純に思い込んでいるのか?
邪馬台城は女王の統べる女系社会。城の出身者には自然な発想かも知れない。後継者の指名を先送る自分の優柔不断さが娘婿を煽っているのか。その可能性に気付くと、背筋に冷たいものが走る。
でも、男系社会の黒木郷では、息子ナムジが
――筋を通したら、ホノギは
期待を裏切られたと激高するだろうか。彼の実力を知るだけに、反駁される場面を想像するだけで血の気が失せる。
――もしかして・・・・・・?
――彼の考える家族に私やナムジも含まれているのか?
仮に家族の一員として見做されていない場合、邪魔な存在と認識された途端に殺され兼ねない。重要な確認事項ではあるが、本人に問うても
――アマツとカツヒは
恐ろしい仮説だが、不自然に事故が重なった事と言い、蓋然性は高そうに感じる。
反面、2人の息子を喪って以降、自身の精神状態に自信を持てないでいた。
鬱々とした長雨は彼女の脳裏すらも濃霧で覆っていた。不毛な自問自答を繰り返すのみで、丸で思考の迷路に幽閉された囚人。梅雨明けまで閉塞と焦燥に惑わされた後、厚い雲間に一筋の光明を見出した。苦労の末に導き出した結論は最善の策に違いない。
「御前は何歳になりましたか?」
「先の田植えで16歳です」
「そう。16歳ですか・・・・・・」
唐突な質問に違和感を覚えたナムジは、少し不審顔をして母親の顔を見詰める。
「妻を娶り、新たな家庭を営む年頃になりましたね」
――早く嫁を貰えと言う意味か?
「この黒木に想いを寄せる娘は居るのですか?」
母親の真意が全く読めないが、正直に首を振って恋人の不在を白状する。
「それは良かった」
――嫁取りの催促ではなさそうだ。じゃあ、何を言いたいのだろう?
「見聞を広げ経験を積んでこそ立派な
説教の内容に異存は無い。無言で頷き首肯の意思を伝えると、その先を促した。
「外の世界に旅立ちなさい。数年の間、未知なる
「外の世界?」
突然の指示に戸惑った彼は母親の口から出た単語を繰り返す。
「兄達は道半ばで
「外の世界って、何処です?」
「
種子島や屋久島の南にも転々と小島が浮かぶ。邪馬台国との間で貝細工等の海上交易を細々と営んでいたが、核となる奄美大島までは約300キロの距離。対馬海峡――
それに、トカラ列島を構成する島嶼群は社会勉強を積む舞台としては相応しくない。個々の島ごとに村長が乱立し、集団としての
「それでは、北の方角?。でも、香春だって、今の私には勝手知ったる
「更に先を目指すのです。香春より東の方角には未知なる土地が果てしなく続いているそうです」
突拍子も無い提案であったが、オオヤツ妃が懊悩の末に導き出した結論であった。大事な末息子の
「決心が着いたら、義兄さんに相談しなさい」
助言の域を超え、反論を許さぬ響きを帯びた宣告の声音。険しい目付きで自分を睨む母親を前にして、ナムジも真剣に考えようと腹を据える。
その数日後、ナムジは
末弟の決断に驚いたハナサクは「何故そんな危ない真似を?」と暴挙を諫めた。生き残った唯一の弟が天涯に去って行く。今でも対面の機会は少ないが、望めば直ぐに会えるとの安心感が有った。明日からは違うのだと考えると、精神的に辛い。
「それで、何処に向かうの?」
大の男2人には抗えないと、諦めの境地で訊く。
「東・・・・・・」
「東って、何処よ?」
本人にとっては未踏の地であり、
「そんな生半な状態で大丈夫なの?。貴方まで喪ったら、私・・・・・・」
感極まって嗚咽を漏らすハナサク。姉の詰問に窮するナムジに対して、ホノギが助け舟を出す。
「ミカヅチ様に拠ると、海を越えた東の地には『出雲』なる
「出雲?」
「ウム。香春人に先導を求めるのが無難だろう」
「香春と出雲は交流しているのですね」
心配顔の妻に強く肯き、その華奢な手を握り包んで安心させる。
「収穫の秋には残りの疎開民を香春に連れ戻す。その時に頼めば、ミカヅチ様の快諾は必定だ」
ナムジが発した「馬と米は?」との実務的な疑問にも鷹揚に応じ、(俺の采配に抜かりは無い)と言う風に
「香春へはサルタを同行させよう。
旅立ちまでの数ヶ月間。ハナサクは、一緒に過ごせる最後の時を惜しみ、双子を連れて里帰りした。ホノギの反応を聞いたオオヤツ妃は(やっぱり)と思う。
――確かめる
尚、日本神話に拠れば、大国主は兄弟神に2度殺され、その度に生き返る。けれども、3度目を危惧した母親(
登場する母親はオオヤツ妃を雛形に造像された。素直に名前を明記すれば、ホノギの陰謀を臭わし兼ねない。だから、編纂者は偽装した。でも、非現実的な復活の
「黒木から受けた恩は計り知れない。貴様を出雲に案内するくらい、屁でもないわ」
豪快に胸を叩いた偉丈夫は、いとも簡単に旅路の段取りを引き受ける。根掘り葉掘り詮索されるだろうと身構えていたナムジは、
一方、アマツ暗殺の実行犯にとって、画策者の魂胆は明々白々だ。
――邪魔者を
共犯者としての阿吽の呼吸。婿養子の立場を盤石とするなら、目障りな直系男子を追放するに限る。ホノギの権力強化は密約の既定路線でもある。
「近々、出雲に船を出す。丁度良い時期に訪れたぞ」
両地域の交易関係を知りつつも、てっきり陸路を使うとばかり思い込んでいた。海路で運搬する程に大規模なのだろうか。「互いに求め合う物が、そんなに・・・・・・?」との懐疑的な質問をミカヅチが笑い飛ばす。
「大量の白き粉を運ぶのだ。
彼の言う『白き粉』とは
出雲郷では砂鉄を原料とする
また、製鉄法は、砂鉄原料の違い――『
ケラ押し法とは、真砂から作る鋼を鍛冶職人が鍛錬し、
他方のズク押し法とは、赤目から作る溶銑を鋳型に流し込み、随意形状の鉄器に仕上げる製法だ。専門用語的には鋼と区別し、溶銑の固まった鉄を鋳鉄と呼ぶ。
このズク押し法に不可欠な鋳型を石膏で作るのだ。川砂製の鋳型を使った場合、製品の表面がザラザラと粗くなる。石膏製の鋳型なら耐熱性に優れるし、外観の滑らかな製品が出来上がる。
「それにな。新しく作った
ミカヅチが期待を寄せる試作品とは耐熱性を高めた代物。粉状に砕いた石灰石と硅石を混ぜて焼き固めると、初歩的な耐火煉瓦となる。
邪馬台城と袂を分かって以来、香春郷は新たな
砂鉄(酸化鉄)の還元時に生じる熱量は非常に強く、製錬炉内の温度は優に1000℃を越える。数日に
各種鉱石の粉末製品を詰めた麻袋や耐火煉瓦を馬背に載せ、
――外海を
空中筏の甲板の長さは10メートル前後、幅は5メートル強と相当に広い。双胴船の中でも大型の部類に入るが、30畳余りの空間は積荷と食糧、飲料水を容れた瓢箪の山で溢れんばかり。3頭の雄馬も同乗。その結果、舷側の上の方まで喫水線が迫っている。
甲板中央に佇立する
この山陰航路は
遠賀川の河口から出雲までの距離は約200キロ。日本海の沿岸を航海すれば、片道2日の行程。対馬海流に運ばれる航海は順風満帆だった。荒波の揺れを無しとはしないが、安定性こそが双胴船の長所である。甲板で馬が騒ぐ事も無く、桟橋の突き出た小さな漁港に辿り着く。
上陸地点は稲佐の浜、出雲平野の西海岸である。現代に至るまで、彼の地は神無月に全国の神々が船で集う玄関口だ、と言い伝えられている。
「黒木では馬を使って
「そりゃ~凄い!。その馬とやらが
「春になると、原っぱが埋まる程に多くの馬が集まります」
しかし、御国自慢に
「黒木と
「彼らの欲しがる物を集めさえすれば、何だって手に入るでしょう」
「そんな物が出雲に有るんかい?」
「私が故郷で
勢いに任せて大見得を切ったが、ナムジが
最初に驚いた利器は鉄鍋――半球形の鋳型を使った鋳物製品――である。直火でも割れない点が最大の長所だ。
鋳鉄製の矢尻や槍刃も絶大なる訴求力を示すに違いない。九州各地で目にした物は全て黒曜石製だ。それらとは鋭利さが全く違う。殺傷力に優れ、鳥や獣を獲り損なう確率は低い。
意外に思えるだろうが、先端技術の導入に貪欲な邪馬台城も鋳造技術には関心を示さなかった。再加熱した
実は、顔料のリモナイトが赤い理由は鉄分を含むからだ。自然界での生成過程に共通点は無いが、泥状の砂鉄と解釈できる。もしも朝鮮半島の
鋳造技術は鉄鍋以外にも活かされている。珍奇な道具として、
その銅鐸に限らず、浜辺で漁師の手入れする漁具を指差しては「あれは何です?」と郷長に質問を浴びせるナムジ。鬱陶しがられたのだろう。「百聞は一見に如かずだ」と、翌朝未明の出漁に同行する運びとなった。漁船に乗り込んだ彼は、船酔いに悩まされながらも、異国の先進的な漁法に驚嘆する。
九州各地の近海でも盛んな
その後は
ところが、出雲の遣り方は違った。銅鐸を掲げた船が終始、漁網陣の中心に停泊する。海面下への投光が誘き寄せる魚群は
十分な獲物を掻き集めたと見極めたら、団長船が円陣の中央に進み出る。
漁獲物の内、
数々の独自技術が花開く別天地。出雲郷の抱える唯一最大の弱点は地形だろう。端的には、稲作に適した平地が狭い。山陰地方で最大の出雲平野ですら面積は約100平方キロ。
その狭い平野を蛇行する天井河川――河床が周囲の土地よりも高い――が曲者なのだ。中世から近代に至るまで、各時代の為政者は堤防改修を重ね、大掛かりな治水事業を断行した。その結果、現代では、東向きの
弥生時代の当時、両河川は西に合流して大河となり、稲佐の浜に大きな河口を広げていた。上流で産出する良質な砂鉄が製鉄の恵みを
一方、約5千人の人口を抱える出雲郷は、人口密度で評価し直すと黒木郷の2倍。鉄器を駆使して豊富な山海の食糧を調達していたからだ。但し、寒冷地ゆえに農耕面では苦労が多く、籾米の蓄えは薄い。だからこそ、邪馬台城の経済圏から隔絶した状態で栄えたとも言える。
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