第28話 神武東征

 日向ひゅうが集落の愛宕あたご屋敷に到着したナムジは、後に神武天皇となるイワレ。そのイワレの義弟、イツセ、イナヒ、ミケヌの3人を前にして、卑弥呼と話し合った内容を説明した。

 義弟の3人は、日本神話に五瀬命いつせのみこと稲飯命いなひのみこと御毛沼命みけぬのみこととして登場する、鸕鷀草葺不合尊うがやふきあえずのみこと玉依姫たまよりひめの間に生まれた息子達であった。

「シオツチ。邪馬台城の提案をどう思う?」

 若くして集落長となったイワレがシオツチに意見を求めた。

 イワレは15歳。一方のシオツチは60歳になろうかとしていた。自分は若輩者だと言う自覚の有るイワレは、事の重大さにシオツチの意見を聞かずには居られない。

『イワレ様。私が考えるに、合意すべきかと存じます』

「その理由は?」

『失礼ながら、イワレ様に十分な御経験が有るとは決して申せません。

 このまま戦争を続けていては、海千山千の邪馬台城を相手に有利な立ち位置を維持し続けられるか、どうか・・・・・・』

「俺にはシオツチが付いているではないか!」

『イワレ様。私を御覧ください。いつまで生きて、イワレ様にお仕え出来るか・・・・・・。有利に講和できるチャンスを逃さぬ事が肝要です』

「果たして有利な講和と言えるのか? 邪馬台城は滅びておらんぞ!」

 決心が着き兼ねるイワレに、ナムジも理を説き始める。

「イワレ。それは違うぞ。今の邪馬台城は一旦滅びるのだよ」

 ナムジの言葉を理解できないと言う表情で、イワレは大叔父の顔を見た。

「邪馬台城にとって要は卑弥呼様とミカヅチ殿、そしてオモイカネの3人だ。この内、卑弥呼様とオモイカネは生命いのちを絶つのだ。

 まあ、ミカヅチ殿は存命だが、仮にミカヅチ殿が生命を絶ったとしても、邪馬台城の周辺集落の人々に変わりはない。別の人間が三つの地位を引き継ぎ、人々から必要とされる限り、邪馬台城と言うシステムは続くだろう。

 世の理とは、そう言うものなのだ。

 卑弥呼様と話し合った講和条件では、オモイカネには私の息子が就く。ミカヅチ殿は信用するに足りる人物だ。私の前で彼が流した涙と謝罪の言葉に嘘偽りは無いと断言できる。

 そうならば、新たな邪馬台城とは、日向集落に好意的な存在と言える。かつての日向集落や出雲集落に仇を為した邪馬台城とは中身がまるで違う」

「大叔父も、私が講和すべきと・・・・・・?」

「ああ。講和すべきだ。まして、お前は集落長。日向集落の人々の幸せを考えねばならぬ」

 ――自分の御意見番である2人が異口同音に講和を薦めるならば、それが正しい道なのだろう。

「分かりました。日向人の為、出雲人の為、私は日向集落を立ち去り、東の新天地を目指しましょう。

 シオツチよ。今と同じ様に、これからも至らぬ私を指南してくれるか?」

 この時、イワレの求めにシオツチは即答できなかった。

如何どうした?」

『イワレ様。東方に遠征するとなれば、色々と困難にも遭いましょう』

「そうだろう。だからこそ、シオツチの助けが要る」

『有り難い御言葉。

 ですが、この老骨に鞭を打ったとしても、私は足手まといになるだけでしょう。

 ニニギ様に続き、ウガヤ様をも喪った後、私の心にはポッカリと穴が開いたままなのです。

 弱り切った身体が揺るがぬ精神を保てなくなっております。

 そろそろ、おいとまを頂けないものでしょうか?』

 想像しなかったシオツチの返答にイワレは驚いた。

如何どうするのだ?」

『はい。お許し頂けるのであれば、この日向集落に留まり、亡き金官きんかん国の妃と姫に最後まで仕えたく存じます』

 シオツチは両手を床板に着け、深々と頭を下げた。

「そうであったな。シオツチは弁韓べんかんの武将であったな・・・・・・」

 ――こんなに小さな身体だっただろうか? 決して自分が比肩できぬ程、もっと大きな背中をしていたとばかり思い込んでいた・・・・・・。

 シオツチの丸まった背中を眺めつつ、イワレは感慨に耽った。

 ――シオツチは自分の半生を日向集落に捧げ、本当にく尽くしてくれた。老後を安らかに過ごさせて遣る事もまた、自分の務めなのだろう。

「これまで長い間、祖父ニニギと父ウガヤに仕えてくれて、本当に御苦労様でした」

 集落長としてではなく、自分を鍛えてくれた師匠に向かう弟子として、素直に感謝の言葉がイワレの口から紡がれた。

「イワレよ。私も日向集落に残ります」

 残存の意思を告げる2人目は、イワレの母、タマヨリ妃であった。

「母上も! ・・・・・・ですか?」

「ええ。新天地は若者の手で切り拓くもの。

 それにね。全員が日向集落から出て行っては、誰が貴方を後方から支援するの? 私は日向集落に留まり、母親として貴方の背中を支えましょう」

「私は独りぼっちですか?」

 イワレが寂しげに呟く。

「そんな事はないわ。弟達が貴方を助けるわよ」

 タマヨリ妃の言葉に、イツセ、イナヒ、ミケヌの3人が威勢よく相槌を打つ。

 この時、イツセは11歳、イナヒは10歳、ミケヌは7歳であった。未だ幼いミケヌだけは深く考えてはいない。2人の兄に同調して相槌を打ったに過ぎない。

 タマヨリ姫は「貴方だけは、お母さんと留守番よ」とミケネの頭を撫でる。

「だから、貴方は独りぼっちじゃない。兄弟3人で力を合わせ、道を切り拓いて行くのです。

 それに、貴方達には補佐してくれる多くの者が付き従います。彼らの能力を頼むのです。

 お爺様やお父様だって、シオツチの力を頼んだでしょう? それと同じです。全て自分で遣ろうと力む必要は無く、従者を当てにすれば良いのです。

 寧ろ、従者が思う存分に働ける雰囲気を作る事こそが、指導者たる者に求められる大切な素質でもあります。貴方達にとって、東方遠征は恰好の訓練となるでしょう。

 私は、お父様の墳墓を守りながら、貴方達が逞しくなっていく様子を遠くから見守っています」

 弱冠15歳の若者が肩に背負うには余りにも重たい重責であった。肚を据えていなければ、直ぐにも意気が萎えそうになる。そんな躊躇の気持ちがイワレの表情に過ぎる。

「イワレ。私も出雲集落からお前達を見守っているぞ!

 東方遠征の途中だって、だ。

 瀬戸内各地の集落とは稲場いなばを通じて友諠を結んでいる。流石さすがに瀬戸内を抜けた東方の奥地までは分からないが、少なくとも道中の殆どの地域は、お前の味方になってくれると考えて構わない。

 それに、だ。

 私が日向集落を離れ、出雲集落に向かったのは15歳の時だ。お前も既に15歳、来年は16歳になるのだろう? 誰もが経験する旅立ちの時期なんだよ」

 イワレを元気付けようと、ナムジが大きな声を出した。イワレが強張った笑みを浮かべて、ナムジの激励に応えた。

「それで、大叔父。邪馬台城との取り決めでは、いつ出立すれば良いのですか?」

「卑弥呼様の自害が公になってからだ。

 自害する時期までは私にも分からないが、お前の出立は田植えの季節になるだろう」

「大叔父が連れて来た邪馬台城の女性2人の目的は、我らの話し合いの帰趨を知る事ですか?」

 イワレが広間の片隅に正座していた侍女2人を指差して、ナムジに問うた。

 ナムジは頭を掻きながら、どう説明すれば良いかをしばらく思案していたが、徐に口を開いた。

「イワレの指摘した目的も確かに有る。

 ・・・・・・だがな、本来の目的は、お前に嫁がせる為だ」

 イワレが眉間に皺を寄せる。

「私に、2人の妻を娶れ、と?」

「いいや。好きな方を1人」

「残る1人は?」

「私の嫁にする」

 その場に居た全員の顔に驚きの表情が広がる。2人の侍女だけは表情に変化が無い。

「いや、いや。誤解するなよ。これは政略結婚なんだ」

「政略結婚?」

「ああ。邪馬台城と日向集落、そして出雲集落との友諠の証だ。

 政略結婚なので、彼女達の役目は日向・出雲の双方が約束を履行しているかの確認でもある。

 但し、恋仲になったとしても、勿論、それはそれで良い。子供を産めば、なお良い」

「その政略結婚は、邪馬台城が求める講和の条件なのですか?」

「そうだ。だから、お前も結婚しなければならない。

 私はもう老齢だ。今更、邪馬台城の侍女と男女の仲になろうとは思わん。ヤガミ妃も居るからな。

 だが、お前は若い。異性に対する性欲が強い年頃だ。だから、お前が先に選べ」

 ナムジがそう言うと、2人の侍女は恭しく頭を下げた。

 歳の頃はイワレよりも少し年上だ。それだけ女性としての身体が成熟しており、両者とも魅力的である。侍女として召し上げられただけあって、理知的な顔付きをしている。物腰も柔らかい。

「ちょ、ちょっと、ここで直ぐに決めねばなりませんか?」

 イワレは動揺を隠せず、頬を赤く染めて照れた。

「いいや。暫く味見をしてからで構わない」

「いや、味見と言うか・・・・・・嫁を娶るならば、母上にも相談しなければ・・・・・・」

 赤面し口籠るイワレであった。

「ワっ、ハっ、ハっ。若いのう、イワレ。旅立ちの祝いと思い、好きに選べ!」

 豪快に笑うナムジであった。方々で女性遍歴を重ねたナムジと違い、イワレは人生で初めて直面する選択にたじろぐばかりであった。

『イワレ様。この政略結婚は邪馬台城との平和を維持するには必要な事です』

 厳かな口調で背中を押すシロツチ。

 ただ、『金官国の姫様を娶って頂ければ、私の肩の荷も随分と軽くなったのですが・・・・・・』と本気で悔しそうに言葉を続けた。


 日向ひゅうが集落に連行されたオモイカネは、捕縛されたままで数日を過ごした。

 その後、可愛岳えのだけの麓でニニギを祀る日向埃山陵で首を刎ねられた。

 イワレが刀剣を振り上げ、オモイカネの項に撃ち込んだ。それまで大声で泣き叫び、小便を漏らして醜態を晒していたオモイカネの首が地面に転がり、辺りは静かになった。

 この場には親族や主だった家臣だけに限らず、全ての小隊長が参列していた。参列者の総数は100人近くであった。

 列席した者は皆、黙して語らず、災禍の種を撒いた張本人をニニギの墓前で処刑できた事に、或る種の満足感を覚えていた。

 イワレは、血の滴るオモイカネの首を持ち上げ、高らかに宣言した。

「お爺様。私、イワレが仇敵の首を刎ねましたぞ。積年の恨み、確かに晴らしました。

 卑弥呼の首を直に刎ねる事は叶いませんが、自害するのは必定。

 どうか根の国で心安らかにお過ごしください」

 墓前に報告すると、イワレはクルリと振り返り、参列者の群衆に向かって宣言を続ける。

「祖父ニニギの天孫降臨の後、長い間、戦争に明け暮れていたが、この九州は安定しないでいる。

 この度、邪馬台城との講和が成立し、我らが東の土地に移れば、九州全域に平和が訪れる。

 我らが目指す東の土地は、四方を青々とした山並みが囲み、其処には豊穣の神が温かな日の光を降り注いでいると言う。

 我らは勇敢で気高き兵士。ならば、平和の為に自ら苦労を背負い込み、新天地を目指そうではないか!」

 イワレが口を閉ざすと、周囲からはウォー! と言う雄叫びが鳴り響いた。兵士達は手にした刀剣を青空に高々と掲げている。

 再びイワレは墓前に向き合い、オモイカネの首を下した。

「お爺様。どうか、我らの東方遠征を御守りください」

 と無事を祈願すると一礼し、参列者の元に踵を返した。


 この後、首を無くしたオモイカネの死骸は日向ひゅうが集落を南北に引き摺られ、日南市の速日峯山に造営されたウガヤの墳墓まで運ばれた。

 ニニギの墓前に首を供えたのと同様の儀式が執り行われたが、参列者は親族や主だった家臣に限られた。

 オモイカネの死骸は首と胴体とに分けられ、日向集落の北端と南端とに遠く離された。オモイカネの魂が根の国で安らぐ事の無いようにと、呪いを掛けたのだった。


 一連の儀式を済ますと、ナムジは侍女の1人を伴って、一旦は邪馬台城に戻った。最終的には出雲集落に帰還するのだが、事の顛末を卑弥呼に報告する為である。

 ナムジに同行した侍女はスセリと名乗った。日本神話に須勢理毘売すせりびめとして登場する女性であった。

 日本神話では、ナムジが根の国を訪れた際に出会ったスサノオの娘となっている。ナムジ自身がスサノオの孫であり、冷静に考えて、スセリ姫がスサノオの娘であるはずが無い。

 一方で、日本神話に邪馬台国は登場せず、或る意味、その存在は根の国、即ち死者の国と理解するのが適切である。その死者の国で出会った女性と言う観点から脚色が加えられた結果だと推察される。

 そのナムジとスセリ姫であるが、邪馬台城を退去した後、好古都集落に向かった。好古都集落は現在の博多に相当し、博多湾に面している。其処から末蘆まつろ人の船に乗り、出雲集落に帰るのだ。

 その帰路。島根県安来市に相当する須賀の沖を航海する船上で、ナムジは一首の和歌を詠む。

――八雲やくも立つ、出雲八重垣やえがき妻籠つまごめに、八重垣作る、その八重垣を。

 その意味は、海の向こうに見える八つの雲の下辺りに懐かしき出雲集落が在る。その出雲集落には、垣根が幾重にも張り巡らされ、まるで牢屋の檻の様である。愛する妻の事が恋しいが、その妻との再会を邪魔する垣根を自ら張り巡らさないといけない。何と恨めしい垣根だろうか。

 日本神話では、出雲でヤマタノオロチを退治したスサノオが、妻とした櫛名田比売くしなだひめを伴って須賀の地に赴き、其処で詠んだ日本最初の和歌とされている。

 真相は、ナムジの詠んだ和歌であった。邪馬台城との講和条件としてスセリ姫を正妻に据え、人生の大半を共に歩んできたヤガミ妃とは会えなくなった自分の境遇を儚んだのだ。

 ヤガミ妃は、キマタとヌナカワ姫が住む北陸の高志こし集落に疎開しており、ナムジと死に別れたわけではない。

 そうは言っても、ナムジがヤガミ妃と一緒に暮らせば、スセリ姫の正妻と言う位置付けがアヤフヤになってしまう。妻への愛情よりも邪馬台城との講和を優先させねばならない。それが集落長としての責務であった。

 そんな義理と人情のいたばさみに遭ったナムジが心情を吐露した和歌だったのである。

 ヤガミ妃の方も、ナムジの心情を十分に理解した上で、出雲集落には2度と戻らなかった。出雲集落と高志集落の間を使者が何度も往復したようだったが、既に2人とも老いており、肌を寄せ合わずとも心は通い合っていたようだ。

 そんな晩年を過ごしたナムジが亡くなった後、出雲集落には出雲大社が建立される。

 出雲大社の本殿は、太い杉を3本組とした柱を何本も建て、その上に構えられた。その空中楼閣から地上までは長いスロープが延ばされていた。

 本殿の高さは16丈(48m)も有り、現存する本殿の高さの2倍に相当する。

 日本神話では、国譲りの条件としてナムジが「我が住処として、皇孫の住処の様に太く深い柱で千木が空高くまで届く立派な宮を造営するならば、其処に隠れている」と求めた事になっている。

 真相は、国譲りを迫った邪馬台城が造営したのではなく、ナムジとスセリ姫を慕った出雲人達が建立した。スセリ姫が出雲人に慕われた理由は、一重ひとえにナムジ亡き後の善政に依る。

 ナムジ自身も日向ひゅうが集落でイワレ達に話していた通り、ナムジとスセリ姫の間に子供は生まれなかった。ナムジの死後、スセリ姫は集落長代行として出雲集落を率いた。

 卑弥呼候補生として侍女に召し上げられたスセリ姫である。自然の成り行きとして、人々を労り、集落の繁栄を願って施政に腐心した。

 出雲大社の本殿を空中楼閣とした理由は、スセリ姫の魂が其処から故郷を望めるようにと、出雲人が配慮した結果なのかもしれない。当時の本殿からは日本海の西の水平線が望めたであろう。西方には九州が在る。

 また、出雲大社の境内には、スセリ姫を祀った大神おほかみ大后おおきさき神社が有る一方で、ヤガミ妃を祀った社殿は無い。それもまた、政略結婚の駒として出雲集落に赴いたスセリ姫に配慮した結果なのかもしれない。


 邪馬台城では、卑弥呼が自害した。

 76年前に当時の卑弥呼が自害した方法と同じ様に、登り窯の有る工房を締め切り、工房の中で一酸化炭素中毒となって死亡した。桜色の染まった死に顔には笑みが浮かんでいた。

 その亡骸も76年前と同様、福岡県八女(やめ)市の山麓に埋葬された。

 此処は代々の卑弥呼の埋葬地となっている。卑弥呼だけでなく、ミカヅチやオモイカネ、そして侍女達も希望すれば、仕えた卑弥呼の墳墓に副葬された。

 終戦の講和成立の証として、邪馬台城、日向ひゅうが集落の間には、二つの玉手箱が準備された。

 玉手箱の中には、イワレとナムジの髪の毛が入っている。

 当時の男性は、長く伸びた髪の毛を左右二つに分け、束ねた髪の毛を両耳の辺りでトグロに巻き、8の字状に二つ結っていた。その結った左右の髪の毛の束を切り、それぞれの玉手箱に収めたのだ。

 イワレの髪の毛は姿を消す当事者の1人として、ナムジの髪の毛は立会人としての象徴だった。

 残る卑弥呼の遺髪を玉手箱に収めれば、証として完成する。一つの玉手箱は邪馬台城に留め、もう一つを日向集落に返却する。正確には東方遠征に乗り出すイワレが持参する事になる。

 その玉手箱を受領した後、イワレもまた、約束を守る為に船出の準備を整えた。


 愛宕あたご屋敷から日向灘を望む浜辺には約80隻の小型ジャンク船が並んでいる。

 海戦に赴くのではないので、1隻の小型ジャンク船に1個小隊12人が乗船する。タマヨリ妃が手塩に掛けて育て上げた水軍であった。船腹の空いたスペースには食糧や鉄鍋、武器を積載した。

 それ以外に50隻程の双胴船も浜辺には並んでいる。こちらには在来馬と軍馬を乗せている。勿論、土器や諸々の生活物資も載せている。

 当時としては空前絶後の大船団だった。

「それでは母上、行って参ります」

「行ってらっしゃい。イワレ、イツセ、イナヒ。兄弟3人で力を合わせるのですよ」

 3人の息子達が順番にタマヨリ妃と抱き合う。

 最初に母親と抱き合ったイワレは、次にシオツチの前に立った。

「シオツチ。今生の別れとなるやもしれん」

『イワレ様・・・・・・。イワレ様も、お達者で』

「ああ。シオツチには世話になった。この恩は一生、忘れはせんぞ」

『何をおっしゃる。

 私こそ、ニニギ様に拾われ、ウガヤ様には大事にされ、そしてイワレ様には慕われて、満足の行く人生を送る事が出来、どんなに感謝しても感謝し切れません』

「1日でも長く・・・・・・、長く生きてくれよ」

『有り難い御言葉です』

 シオツチはイワレの胸に顔を埋め、男泣きにむせぶ。

 足腰の立たなくなった祖母コノハナとは愛宕屋敷を出る時に別れを交わしてきた。

 日向集落の至る所で田植え作業が始まっていた。南国の生暖かい春風が兵士達の頬を撫でる。

「さあ! 皆の者! 漕ぎ出でるぞ!」

 イワレが合図を叫ぶと、兵士達はそれぞれの船に乗り込み、オールを漕ぎ始めた。帆を張るのは沖に出てからである。

 大半の小型ジャンク船が砂浜を離れたのを見定めると、イワレは邪馬台城から嫁いで来た侍女の前に立った。

 その侍女はアイラと名乗った。日本神話に吾平津姫あいらつひめとして登場する女性である。

 イワレがアイラを選んで以降、2人は夜毎に肌を重ね合った。アイラにとって、イワレの肌の温もりだけが、日向集落で感じる事の出来る安らぎの寄す処だった。

 侍女として召し上げられたアイラには男に抱かれた経験が無く、15歳でしかなかったイワレにも女を抱いた経験は無かった。2人とも初めての事だったので、当初は要領を得なかったが、男女の間に小難しい理屈は不要である。

 身体が求めるままに抱き合い、気持ちを通わせ始めていた。それでも、数カ月の営みでしかなかったので、気持ちが十分に通じ合ったと自信を持てるまでには至っていない。

 1人で敵地に残されるアイラにしてみれば、心を通わせ始めた唯一の相手が居なくなり、その事実が彼女の心を不安にさせていた。

――自分の方が年上なのに・・・・・・。

 そう思いながらも、黙ってイワレの指を探り、絡ませ合うアイラであった。そんなアイラを愛おしく感じるイワレであったが、後ろ髪を引かれる事は無かった。

「行ってくる」

 そう言うと、イワレは踵を返し、自分の乗る小型ジャンク船まで砂地を駆けて行った。

 アイラは黙ったまま、イワレの後ろ姿に小さく手を振った。


 アイラはイワレの最初の妻であったが、正妻とはならなかった。

 後年、イワレは出雲集落から別の女性を正妻として迎え入れる。その女性はイスズ姫と名乗った。日本神話に媛蹈鞴ひめたたら五十鈴媛命いすずひめとして登場する女性である。

 後に神武天皇となるイワレが初代天皇であり、イスズ姫が初代皇后である。

 アイラはイワレとの間に2人の息子を産む。長男にはタギシミミと名付け、次男にはキスミミと名付けた。日本神話に各々、手研耳命たぎしみみのみこと岐須美美命きすみみのみこととして登場する男性である。

 ところが、神武天皇の没後、手研耳命たぎしみみのみことは謀反を起こす。

 手研耳命が謀反を起こすに至った背景には、吾平津姫あいらつひめの境遇が大きく影響しているが、その事情を詳しく述べる機会は別の物語に譲りたい。

 神武天皇について言及しておくと、西暦247年に享年35歳で亡くなってしまう。始祖である邇邇藝命ににぎのみことの生誕から76年目の凶事であった。

 聡明で強い意志を持っていた神武天皇の早過ぎる崩御は、周囲から痛く惜しまれた。

 天界もまた神武天皇の崩御を惜しんだ。この年、日本では皆既日食が起きる。この日食は中国大陸でも観測され、三国志や晋書と言った中国の歴史書にも記載されている。

 なお、翌248年に手研耳命の謀反が失敗する。その際にも皆既日食が起こった。

 日の出直後の数時間、太陽が月の陰に隠れ、夜の世界が地上に舞い戻った。この現象の最中に手研耳命は謀反を起こそうとし、短時間の内に鎮圧された。謀反失敗と同時に太陽は再び姿を現した。

 但し、この時の日食は中国大陸では観測されず、中国の歴史書に記載される事は無かった。


 その中国でも、イワレが神武東征に出発した西暦227年以降、情勢が大きく動き始めていた。

 まず、翌228年に現在の中国遼寧省周辺では、公孫淵が自分の叔父に対して謀反を起こし、220年に建国したばかりの魏王朝から遼東太守に任じられた。

 しかし、公孫淵は魏王朝に忠誠を誓う事無く、魏王朝と対立していた呉王朝とも友諠を結ぼうとしていた。そして237年に独立を宣言し、燕国を建国する。

 ところが、234年、五丈原の戦いの最中に、蜀王朝の有名な軍師、諸葛孔明が病死する。それを境に蜀王朝は国力を失っていく。

 西に国境を接する蜀王朝に対峙する必要が薄れた魏王朝は、不義理を重ねていた東の公孫淵の討伐に動く。その結果、238年の遼隧の戦いで公孫一族は滅ぼされてしまう。

 一方、朝鮮半島南部の完全制圧か、或いは倭国侵攻かを決め兼ねていた斯蘆しろ国は、公孫一族の滅亡を受けて半島南部制圧に舵を切った。つまり、倭国への介入圧力が大きく後退し始めていた。

 この国際情勢の変化を見逃す邪馬台城ではなかった。

 それまで、公孫康・公孫淵の親子に邪魔立てされて、邪馬台城は中国に朝貢できずにいたのだが、燕国滅亡を機に魏王朝への朝貢を開始した。

 仇敵の呉王朝を背後から脅かすポジションに在る邪馬台城は、西暦220年に建国したばかりの魏王朝から重要な同盟国として位置付けられた。だから、西暦238年の朝貢使節団を歓待し、卑弥呼に「親魏倭王」と刻印した金印と銅鏡100枚を下賜した。

「親魏倭王」の称号は、斯蘆国を牽制する上で非常に大きな武器となった。斯蘆国の国王は魏王朝から「王」の称号を受けてはいない。外交的には邪馬台城の方が格上であった。魏王朝の後ろ盾を得た邪馬台城に対して、斯蘆国は不用意に手出し出来なくなったのだ。

 朝貢使節団を派遣した卑弥呼とは、自害した卑弥呼の跡を継いだ侍女で、タイヨと名乗っていた。卑弥呼を継いだ時のタイヨは僅か13歳に過ぎず、侍女達の中でも最年少の少女だった。

 オモイカネに就任したコトシロは、この人選に関与していない。自害する卑弥呼自身がタイヨを後継者に指名したのだった。

 そのタイヨも、西暦238年に使節団を送った時には、24歳の大人に成長していた。

 決して円熟したとは言えない年齢であったが、幼少の頃から倭国大乱の推移をの当たりに見続けたタイヨは、歴代の卑弥呼達が同じ年齢だった時と比べて洞察力に富み、深く熟慮する指導者に成長していた。

 そして何よりも、自らの生命いのちを犠牲にして世の乱れを治めた前任卑弥呼の姿を直に見ている。その卑弥呼から引き継いだ平和を何とか維持しなくてはならない。そう考える使命感は相当に強かった。

 だから、タイヨは魏王朝との外交を積極的に展開した。

 西暦240年には帯方郡の行政府からの使者を受け入れた。帯方郡とは、現在の韓国ソウル周辺のエリアで、漢王朝から長く続く辺境地の行政単位である。

 西暦243年には再び、魏王朝に朝貢使節団を派遣した。

 西暦247年には、楽浪郡の行政府に倭国の世情を報告している。狗奴くぬ集落と繰り広げていた内戦に関しての報告だった。倭国の内戦集結の為、魏王朝は張政と言う名の官吏を邪馬台城に派遣する。

 張政は「親魏倭王に楯突くのか? 邪馬台城と衝突を繰り返すのであれば、魏王朝が直々に相手をする事になるが、それでも構わないのか?」と、狗奴集落を恫喝したと言う。

 神武天皇が崩御された西暦247年。卑弥呼ことタイヨは33歳、オモイカネことコトシロは44歳であった。

 一連の外交政策をタイヨに助言・指南した者はコトシロであったが、最前線で働いた者の名はナントミと言う。コトシロが自分の後任として白羽の矢を立てた若者であった。

 内乱終結に功の有った張政にタイヨは大いに感謝し、張政が楽浪郡に帰る際には、エヤックと言う者を随行させた。エヤックは楽浪郡よりも更に西進し、魏王朝の王都洛陽まで朝貢品を運び、当時の皇帝に謁見を許された。

 コトシロは、ナントミに続き、エヤックと言う有為ういな人材の掘り起こしに成功していた。コトシロとしては、外交センスに優れた人材の層を厚くし、邪馬台城のバランス感覚を向上させる事が、倭国全体の平和を長続きさせる秘訣だと考えていた節が有る。


 九州に土着した弁韓べんかん人や辰韓しんかん人の事について、最後に語っておく。

 日向ひゅうが集落との講和を実現したタイヨは、長らく拝借していた兵士を斯蘆国に返還した。

 その際、兵士の一部は帰国を拒み、狗奴くぬ集落に逃げ込んだ。斯蘆国は、邪馬台城の謝礼品には関心を寄せても、兵士の数には頓着しない。所詮、兵士は消耗品に過ぎず、不足すれば占領地で徴兵すれば良いと考えていた。だから、逃亡兵士を追捕する事も無かった。

 辰韓人の逃亡兵士は草千里で軍馬の放牧に精励する。日向集落との戦争は終結しており、襲撃を受ける心配が無かったからだ。軍馬の数が増えれば、騎馬隊も育成しようと欲が出る。辰韓人兵士は狗奴人達を組織化し、彼らは狗奴集落を拠点とした軍閥に変貌して行った。

 降水量の多い熊本平野で収穫された余剰の籾米を保存するには、従前ならば、邪馬台城に預けるしかない。だが、ナムジが組織化した瀬戸内各地の稲場いなばに預けると言う選択肢を、狗奴軍閥は手にしていた。邪馬台城に隷属し続ける必要は全く無い。

 ところが、狗奴軍閥に依る独立戦争が勃発する。邪馬台城との経済交流を止めるだけで自立は成し遂げられるのだが、邪馬台城が国家として認める事に辰韓人は拘泥し、内紛が生じたのだった。

 その独立戦争の顛末は先に語った通り、張政の恫喝により空中分解してしまう。

 一方の弁韓人とは、ニニギが邪馬台城の攻城戦を仕掛けた折、日向集落に流れ込んだ奴婢ぬひ達の事であり、人数も圧倒的に多い。

 彼らは日向集落に土着し同化して行くのだが、振り返ってみると、奴婢として邪馬台城に囚われている間に対馬海賊の男達から夜な夜な強姦されている。日向集落に逃れた婦女子が産んだ子供達の大半は既に倭人と弁韓人のハーフであった。

 その後、日向集落に留まり続けた弁韓人は奴婢として扱われ、日向人と交わる事は少なかったが、それでも男女の間に関所は設けられず、時と共に少しずつ混血は進んで行く。

 今でも宮崎は、美人女性が多い事で有名である。卵形の顔に切れ長の目、薄い唇と言い、何処か韓国風の面影を感じさせる女性の多さが特徴だ。また、大らかだが、根っ子の処は気が強くて負けず嫌いと言う性格は、流民るみん当時に苦労した名残かもしれない。

 イワレの神武東征に参加した弁韓人も多かった。日向集落に留まる限り、奴婢の身分からは抜け出せない。ところが、新天地を目指すとなれば、日向人か弁韓人かに関係無く、実力本位で身を立てる事が期待できたからだ。


 血脈の系譜は、あざなえる縄の如し、である。って紡いだ2本の糸が互いに絡み合い、1本の太い綱となっていく。

 これまで私が語ってきた長い物語が、卑弥呼とスサノオの系譜である。

 次なる物語では、これらの血脈が離反し始め、反発し合い、互いに相手を滅ぼさんと欲し始める様を語って行こうと思う。

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