第23話 玉依姫、日向に向かう

 愛宕あたご屋敷に駆帰したホノギは、双胴船の船積み作業を中断させ、尾道へと向かわせる。乗船した伝令の手には翡翠ひすいの首飾り。見慣れた物証の出現に驚いたナムジは、数時間後には中国山地に分け入り、日向への道程を急ぎに急ぐ。

 それでも、移動日数は如何とも短縮し難く、両集落長の登城はタマヨリとの接触から二十日余りも経っている。一方、現人神あらひとがみ3人にとっては「常時いつもより間隔が短いが?」と訝しむ頃合いだった。

 宮殿大広間で相対する5人。卑弥呼は、予期せぬ要望に身構え、緊張と恐怖に表情を引きらせている。反対に、ホノギとナムジは不自然な程に柔和な面持ちであった。不気味にも口元には微笑みを浮かべている。

日向ひむかに居ても落ち着かず、良き兆しを求めて再び参りました」

「心中お察ししますが、進展は有りません」

「そうですか・・・・・・」

 ホノギの漏らす落胆の溜息は今や恒例の仕草であるが、今回は淡白な気配を漂わしている。用心しつつも、軽く肩の力を抜く卑弥呼。(最後まで焦臭きなくさい話が出ませんように――)と念じながら、物腰の柔らかな方へと顔を向ける。

「今日はナムジ殿も御一緒なんですね?」

 相対的にくみし易いとの判断が根底に在るが、久しき再来者への声掛けは社交辞令にも適う。

「ええ。別の用向きで伴いました」

「別の用向き?」

 愛想笑いを浮かべるナムジ。卑屈さを軽く匂わす表情は計算尽くだ。

「出雲の特産品を活かして、弁韓べんかんとのあきないを始めたいのです」

「それは良い話ですね」

 期せずして振られた前向きの話題に声が弾む。

「ところが、日向ひむかにも出雲にも言葉の分かる者が居ない。息子の嫁は誘拐されましたからな」

 皮肉を込めて牽制するホノギ。阿吽の呼吸で硬軟の役割を演じ分ける。

――結局は、その話か・・・・・・。

 三者三様の倦んざり顔を看過したナムジが事務的に用件を切り出す。

「そこで、韓人からびとの言葉を話す奴婢ぬひを何人か譲って頂きたい」

――奴婢を譲る?。存外に簡単な要請だな。

 丸で豆鉄砲を食らった鳩。「如何いかがです?」との念押しにもまばたきを繰り返すばかり。白昼夢を見ているかのようだ。何事も詮索せぬ卑弥呼が最も早く立ち直り、「お安い御用です」と請け負った。

「出雲との友好が深まるなら、何人でも望むだけ連れて行って下さい」

 厄介払い出来るなら・・・・・・との気持ちが濃厚に滲んだ即答。泡を食った反応を自省したか、殊勝にも「陰ながら成功を願っております」との声援を添える。彼女の場合、空世辞ではなく、本心であろう。

「有り難う。ところで、私達が自ら面談しても構いませんか?」

「勿論です。誰かに奴婢の住処すみかまで案内させましょう」

「それは助かります」

 穏やかな態度を保ち、ホノギとナムジは「これにて失礼」と腰を上げた。今日は自棄やけに呆気無い展開だ。常時いつもは、精神的苦痛を強いる作戦なのか、話題が尽きても長く居座る。実際、卑弥呼は気疲れから胃腸を悪くした。昨今では千振せんぶりの煮出汁を欠かさず飲んでいる。

 良薬は口に苦しと言うが、本当に不味い。その生薬茶を振る舞えと宗女に指示していたのだ。健康への配慮ではなく、単なる嫌がらせである。残念ながら客人の辞去には間に合わず、慌てた気配が裏方に漂う。

 強烈な威圧感を放つホノギの後姿が見えなくなると、3人は一斉に深い息を吐く。解放感だけではなく、犯罪者としてのやましさ、後悔。或いは、犯行を隠し通せたと言う安堵感。幾つもの不健全な感情が混濁した溜息だった。


 目当ての居住棟まで案内された2人は、駐在の者を呼び付ける一方で、宗女を体良く追い返す。

「御前はタマヨリと名乗る婢女はしためを知っているか?」

「知っていますが?」

「彼女を探し出せ」

炊屋かしきやに居ると思いますが・・・・・・」

「直ぐに連れて来い!」

 叱責めいた一喝で脱兎の如く駆け出した日向人ひゅうがびと。捜し人の手を引いて戻る時も全力疾走だ。遠巻きに取り囲む人垣を分かつ際には、「退いて、退いてっ」と露払いの濁声を張り上げる。

 彼に伴走する女人は嬉々として頬を紅潮させている。今か今かと首を長くして待った再会だ。歓喜に沸かずには居られない。馬上の救済者に抱き付かんばかりの勢いで、人集ひとだかりの前に躍り出た。

村長むらおさっ!。やっぱり来てくれたんだね」

「ああ。待たせたな」

 挫けそうになる心を懸命に鼓舞し、吉報を待ち侘びる忍耐が報われた。海賊娘は、似つかわしくない感無量の涙を目元に拭うと、晴れ晴れとした笑顔を見せる。

「イワレは此処に居るのか?」

「居るよ。連れて来るわ」

 タマヨリが人混みを縫って奥へと消える。天高く澄み切った青空を見上げると、翼を広げたとんびが悠然と環を描いている。普段であれば、気持ちを穏やかにする風景であるのに、今日は逆に気持ちを苛立たせる。待ち切れずに降馬するホノギ。

 数分後、幼子を抱いた彼女の姿を認めるや、「おおっ!」と言葉にならぬ声を上げた。両腕を大きく広げ、2人を抱き留める。初孫に接する老爺の行動に貴賤の別は無い。差し出されたイワレを両腕に抱き、何度も頬擦りする。

――イワレが長旅できるまでに成長したら、家族3人で日向ひむか郷帰さとがえりしよう。

 ホオリ夫婦の計画は実現せず、ホノギは初孫を抱きそびれていた。だから、念願の対面に感極まった挙句、衆人の目もはばからずに耽溺を続ける。しかし、此処は敵地。一刻も早い脱出が望まれた。

「タマヨリさん。日向ひむかまで一緒に来て下さい」

 冷静沈着さを失った義兄ホノギに替わり、ナムジが仕切役を引き継ぐ。

「詳しい話は馬上でお聞きします。まずは城を離れましょう」

「分かりました。ところで、ええっと――?」

「ナムジです」

「ナムジさん。仲間を誘いたいのですが・・・・・・お許し頂けますか?」

「大丈夫ですよ。10頭の馬を連れて来ましたから。でも、急いで下さい」

 タマヨリの引導で高霊キョンサン国の偽装家族が前に進み出た。安心させんとナムジが話し掛けるも、彼らとの意思疎通は叶わない。

「もしかして、韓人からびと?」

 人選に漏れる事を恐れたタマヨリが「駄目ですか?」と上目遣いに尋ねる。「いや、構わない」と、彼女の肩に手を添えるナムジ。彼は弱者への配慮を決して怠らない。髪を掻き上げながら、苦笑顔で弁明した。

韓言葉からことば倭言葉やまとことばを話す奴婢を求めた手前、共舌ともしたに長けた者を連れ出したい」

 欺瞞工作を疎かにしては、脱出計画が水泡に帰す。時間を惜しみつつも、「出来れば、何人もね」と追加の選抜を指示する。

 至る処に人脈を張り巡らせた彼女の仕事は早い。大して手間取りもせず、弁韓人の交易経験者を7人も誘い出す。何と口説いたのだろう。決め台詞せりふは定かでないが、高い人心掌握力は容易に窺えた。有能だからこそ無事にイワレを保護できたのだろう。そう合点するナムジであった。


 道中の休憩も程々に、一行は高千穂宮を目指す。八代海を臨む浜辺で1泊し、翌日には自陣入りした。薩摩人さつまびとの警護する此処まで引き揚げれば、もう安心だ。

 ホノギは「イワレの帰還を祝うのだ!」と高らかに宣言し、豪勢な料理を準備せよと命じる。ところが、意気軒昂な首長おびととは対照的に、神官達は一様に戸惑いの表情を浮かべた。

 建屋全体を赤く染め抜いた神殿では、火焔神ひのかみを祀る行事を何ら執り行っていない。常駐を命じられた男達も、神官とは名ばかりで、無聊ぶりょうかこっている。豊穣祭で浮かれ騒ぐ事しか知らないのだから、当然の結果と言える。発案者のホノギからして、祭祀行為に無知蒙昧なのだ。

 仕方無いので、彼らは傭兵達の世話役に徹している。平たく言えば、賄い夫。薩摩人が狩猟に明け暮れ、猟果を日向人が調理する分業体制だ。

 神官達は「如何どうやって饗宴とやらの体裁を整えるか?」と額を寄せ合った。しかし、人里離れた山奥では調達可能な食材も限られる。魚介や海草のたぐいは無く、常備された食糧は籾米と根菜のみ。頼みの綱は調味料。塩や魚醤ぎょしょうに加え、味噌も有る。

 数少ない食材に四苦八苦しながら、彼らは見事に幾種もの料理を作り出した。

 囲炉裏には大きな鉄鍋。味噌を溶き、里芋と猪肉を煮ている。その傍らには、兎肉の細切れに3種の調味料を別々に塗り、数切れずつ束ねた串を刺し並べる。前菜替りには茹卵が運ばれた。空腹に耐え兼ねた客人が一斉に手を伸ばす。恥の掻き捨てとばかり、頬張っては咀嚼する事に忙しい。

 茹卵で人心地を着ける頃には、串刺しの肉も焼け、味噌汁もグツグツと泡立ち始める。銘々が串に手を延ばし、神官達が獅子鍋を装った木椀を配る。熱々の料理に全員が舌鼓を打った。

 別室の厨房で炊飯した玄米御飯が最後を飾る。鍋の残り汁に放り込み、煮立った処で生卵を割る。身体は十分に温まっており、雑炊を胃袋に収める頃には額に季節外れの玉汗が浮かぶ。

 タマヨリには夢の様な至福の時だった。対馬島ではもっぱら椀一杯の撲掛ぶっかけ飯。それすら口に出来ない日だって珍しくない。邪馬台城では一日二度の食事が保証されていたけれど、相変わらず肉や魚とは縁が無かった。

 庶民のタンパク源は専ら大豆。参考までに言うと、空豆そらまめ豌豆えんどうの渡来時期は奈良時代から平安初期に掛けて。弥生時代は乾燥大豆に限られた。収穫期の初夏だけは例外で、茹でた枝豆を食する。

「凄いね!。これが人間の食事だなんて、とても信じられないわ」

 素直な感嘆を耳にしたホノギは大笑いする。すこぶる上機嫌だ。

「それにね、村長むらおさ。私、馬って初めて乗ったよ。あんなに温和おとなしい動物が居るのね」

 興奮した口調で人生初の経験を指折り数える。口角泡を飛ばす彼女にナムジが相槌を打ち、ホノギは腕に抱いた孫をあやし続ける。

「倭国って本当に大きいのね。対馬島なんて北から南まで歩いて2日よ」

 思わず放った言葉が辛い記憶を呼び戻す。親族に加わった若き女が下を向いて黙り込むと、庇護者2人が互いに目配せする。

徐々そろそろ、事の顛末を話してはくれぬか?」

 ホノギの優し気な問い掛けに促され、朴訥と語り始めるタマヨリ。途中々々で口籠り、嗚咽に中断する事も多い。しばらく涙を流して気を静めたら、深呼吸して話を再開する。悲譚の一部始終を語り尽くす頃には、すっかり夜も更け、鴟梟ふくろうの夜鳴きが遠くの樹々に木霊こだましていた。

 姉妹の悲遇を聞く内に、ナムジの目にも涙が浮かぶ。養女トヨタマの過去に対する憐憫れんびん、失われた未来に対する無念の発露であった。

 同様に黙して耳を傾けていたホノギの方は顔面を赤黒くしていた。激情が沸々とたぎっている事は傍目にも明らかだ。彼女が話し終えるや、「畜生!」と吠え、目前の食器を壁に投げ割った。

「酷い目に遭わせやがって、対馬の野郎。絶対、根絶やしにしてくれる」

 鬼の形相で奥歯を軋らせ、決意を語る。

「義兄さん。斯蘆しろと対馬海賊が組むなんて奇妙です」

「普通は有り得んな」

「それに、如何どうやって彼らはトヨタマの存在を知ったのでしょう?」

 ナムジの疑問に「それよ」とホノギが身を乗り出す。出雲集落の交易先は国内に限られる。弁韓人べんかんびとの漂着は20年も前の出来事。憶えている者は市井しせいに居ないだろう。ならば、異人と蛮人に狙われる可能性は無きに等しい。

おれ達以外に知る者は邪馬台の3人だけだ。奴らがそそのかしたと考えれば、全てに説明が着く」

「私も同じ考えです。彼らの余所々々しい態度こそ共犯のあかし

 断片的な情報から推理を深め、真相に辿り着いた2人。怜悧な思考力を取り戻した彼らは次なる行動に頭を巡らす。加害者への報復と言う凡俗な見地に止まらない。同盟への裏切りをも誅罰せねば、世間に示しが付かぬ。

「可哀想に、ホオリとトヨタマは嵌められたんです」

「ああ、弔い合戦を挑むべきだな」

如何どうします?」

「まずは戦人いくさびとを集めねば・・・・・・」

 談義を重ねる2人の輪にタマヨリが加わった。

「彼は高霊キョンサンの軍人です。助太力を乞うては如何いかがでしょう?」

 彼女の振り向いた先には亡命家族が控えている。これこそ天の配材と呼ぶべき巡り合せなのだろう。他の弁韓人に要所々々で耳打ちされ、話の流れを理解していた彼は声掛りを待っていたようだ。タマヨリを介した念押しにも『救って頂いた御恩に報いたい』とうやうやしく回答する。

 華僑の持ち込む兵書を精読したとの自負も有るし、会得した軍技を存分に奮いたいとの意欲も強い。圧倒的な戦力差を前に故国では惨敗を喫したが、汚名挽回の好機到来は望外の喜びと言えた。尚且つ、恩人の寄せる期待が大きいと知れば、誰もが粋に感じるだろう。

 自信に満ちた声で『私の知識と経験を十二分に活かす』と請け負う。

「それは心強い!」

 我が意を得たりと破顔するホノギ。自分の期待を伝えようとしてハタと困る。

「ところで、其方そなたの名は何と言う?」

 問われた方も暫しの間、口籠る。母国語の本名を教えた処で発音し辛いだろう。と言って、倭言葉やまとことばを殆ど知らない。強いて改名するなら、波乱万丈の亡命譚を表現してもらおうか。

波高き海峡を渡る際の不安と恐怖、倭国の港に辿り着いた時の安堵。れど、其処は安住の地ではなかった。でも、見出した光明に誘われるままに未踏の陸路を歩き流れて現在に至る。この歓喜をこそ謳い上げるべきだろう。

 そんな想いを託されたタマヨリは『潮津路しおつじ』と紹介した。無学な彼女に文才を求めても無理と言うもの。極めて素気無い名前である。また、気忙しい話し方をする彼女の発音は誤認を招いたようだ。由来を知らぬ日向人の耳には最後の濁音が「チ」と響く。

「シオツチよ。おれは城と海賊の両方を叩き潰したいのだ」

『二つの敵と同時に戦う作戦は下策です。順序を付け、一つずつ倒します』

「そうであれば、対馬海賊を先に潰す!」

貴方あなたの国に水軍は有りますか?』

「水軍?」

『船を操りながら戦う軍隊です』

「我らは海賊ではないのだ。水軍なんぞ無い。・・・・・・駄目か?」

『そうですね。直ぐには・・・・・・』

「それでは海賊退治は後回しだ。城を攻め落とそう!」

『あの堅固な城壁を思い出して下さい。籠城されたら中々に苦労しますよ』

 攻城側の必要兵力は籠城側の十倍、とは兵法の常識だ。軍師として差配するなら、未だ見ぬ集落の兵力を知っておく必要が有る。

『貴国の兵士は何人程ですか?』

「今は居ない」

 想定外の回答には絶句するしかない。部屋に重苦しい沈黙が充満する。流石さすがのホノギも、気拙きまずい雰囲気に慌て、頼みの綱が翻意せぬよう釈明を始める。

日向ひむかを豊かにするので精一杯でな、田畑を耕さぬ者を養うなんて考えなかった。野盗のたぐいとも無縁だし、戦人いくさびとは1人も抱えていない」

 既に兵隊が組織化されており、自分の課題は錬兵だと早合点していたシオツチ。ゼロからの軍隊創出と認識するや腕組みをして考え込む。大恩人の気持ちは痛いほど理解するものの、一筋縄では行かない。

 但し、困難な使命から逃げる積りは無い。不撓不屈の精神で眼前の困難を克服するのみだ。

『兎に角、戦争の準備を始めましょう。具体的な進言は日向の現状を視察した後に致します』


 帰還の途に就く翌朝、鶏鳴と同時に起き出したタマヨリは食膳の準備に加勢する。賄い婦としての経験を活かし、何かしら手伝いたいと思ったのだ。一宿一飯の恩義を忘れる彼女ではない。

 殊勝な心掛けに加え、向学心を刺激された結果でもある。目新しい食文化、特に味噌の存在には興味をそそられていた。適度に塩味の効いた芳醇な味。色んな食材に試してみたいが、手始めに習うべき料理は味噌汁だろう。

 神官達に厨房を一通り案内された後、下請け的な作業を指示される。機転の利く彼女は呑み込みも早く、直ぐに一人前の戦力として認められた。これまでも徒働ただばたらきを厭わず、雇用主から重宝される事で人生の活路を拓いて来たのだ。

 イワレを保護者の元に送り届け、肩の荷が降りた。今度は自身の去就を定めねばならない。

――しばらくは高千穂に身を寄せよう。まずは村長むらおさの許しを請わねば・・・・・・。

 彼女の申出に眉根を寄せるホノギ。当然だ。乳母役として同行すると思い込んでいた。「何故、日向ひむかを毛嫌いする?」と、不審顔で問う。

 首を横に振るタマヨリ。「だったら・・・・・・」との催促にも歯切れが悪い。押し問答の末に引き出した本音が「私・・・・・・海賊の娘だから」の一言だった。前夜に吐かれた怨嗟の声を聞き、身を引くのが最善だと結論付けたらしい。

「馬鹿な・・・・・・。御前は嫁の妹、我が身内だぞ!」

 哀しいかな。過去に慈愛の情を抱いた相手は実母のみ。血脈のつながらぬ者を家族と見做す発想が理解できない。猶も躊躇していると、「見縊みくびるな!」との一喝が飛んで来た。

「御前はイワレの恩人だぞ。それに、この子を育てねばならん」

 正鵠を射た指摘。勿論、彼女自身の心中でも成長を見届けたいとの気持ちは強い。背中を押されるようにして、英多あがた(現延岡)行きを決心する。

 神官達はタマヨリの出立しゅったつを惜しんだが、首長おびとの判断には逆らえない。餞別と感謝の印として、味噌を包んだ握飯にぎりめしを追加で拵え、彼女の手に握らせるのだった。


 愛宕屋敷では、ハナサク妃が到着した一行を小走りに出迎える。イワレを抱き締め、嬉し涙に濡れた頬を柔肌に擦り合わせた。そして、「次男ホオリ夫婦が自害した」と聞かされた時には、悲しみの余り泣き崩れる。覚悟はしていたものの、脱力に抗えなかった。

 悲報に接したホデリもた、母親の隣で落涙した。悔し涙である。家族の再会に立ち会ったタマヨリも貰い泣きに目を赤くした。


 屋敷の一室を宛がわれたタマヨリだったが、早々に暇を持て余し始める。ホノギ家の恩人、賓客である彼女は、上げ膳、据え膳の歓待を受けるのだが、気苦労ばかりが募る。何かしら働いていないと、自分の存在意義を見失いそうになるのだ。骨の髄まで貧乏性が沁みていた。

 乳母役を務めようと、ハナサク妃の部屋に入り浸ってみる。ところが、イワレは殆ど手の掛らぬ出来た子で、しかも孫を愛おしむ妃が手放さない。つまり、手持無沙汰な状況は変わらない。

 仕方が無いので、(最も暇な者は誰だろう?)と頭を巡らせてみる。

 恐らく隠居したホノギだろうが、最近は通訳を従え、自らシオツチの巡察に同行している。もっとも、身分や世代の大きく異なる男と対話しても気遅れするばかりだ。面白くない。

 消去法の必然として、彼女の足は年齢の近いホデリの居場所に向かい勝ちとなる。

貴方あなた、高千穂には行った事が有るの?」

「何度か、な」

彼処あそこに詰めた守人もりびとと一緒に食卓を囲んだ?」

 子供を叱る母親の様に、両手を腰に当てて問い質す。

「・・・・・・」

 一般兵と同じ釜の飯を食うなんて想像を絶するようだ。黙り込むホデリに投げた「屋敷の食事とは雲泥の差よ」との駄目出し。その彼女にしても、山砦に逃げ込んだ際には、その貧相な食事でさえ感激したものだ。ところが今や、すっかり舌が肥えている。

「賄いの婢女はしためを抱えた我家が殊更なだけで、日向ひむかの庶民は皆、似たり寄ったりだよ」

 口を尖らせての抗弁が返って来る。それを「いいえ」と言下に否定し、「人里から離れると食材が揃わないのよ」と補足する。

「山奥での唯一の楽しみですもの。何とか改められない?」

 浅薄な実情認識を見抜いた彼女は別の説得を試みる。理屈で押せぬなら、浪花節で攻めるしかない。

「彼らは雇われの身だからな。見返りの品は熊襲くまその村に届けているぞ」

 素気無い回答に「あのね」と嘆息する。分からず屋に採るべき態度は一つ。「イザとなれば、命を賭して戦うんでしょ!」と大声で叱責した。喧嘩別れしては元も子もないので、計算尽くの怒鳴声である。

 対馬島で苦労を重ねたタマヨリには末端に生きる者の悲哀がく理解できた。海賊社会では頭領が幅を利かせ、恐怖を以て構成員を統率している。はなから忠誠心を期待しておらず、手下の処遇なんぞかえりみない。男達は戦利品を秘かに窃取くすねて自衛し始め、組織内には欺瞞と猜疑心が渦巻く。

「交代で英多あがたに住まわせるって言うのは如何どうかしら?」

「住まわせる?」

「大宮に戻る時には干魚ほしうおや海草を持たせるの。生野菜を運ばせても良いわね。今だったら大根葉とか」

「女子供が薩摩人さつまびとを怖がるぞ」

 身形みなりを整えた男衆と暮らす婦女子にとって、毛むくじゃら姿の存在は魔物以外の何物でもない。

「そうかしら?。陽気で良い人達だったわよ」

「君は海賊を見慣れているから・・・・・・」

「だったら、私も野蛮人かしら?」

「いや、そんな事は・・・・・・」

 矢継ぎ早の指摘に口籠って仕舞う。父親ホノギに次ぐ立場の彼が詰問される場面は滅多に無い。だから、自分に意見するタマヨリには驚きを禁じ得ない。人間として「見直した」と言えば良いだろうか。心を惹かれる予兆に戸惑い、眼前の得意顔したりがおに視線が釘付けとなる。

 一方のタマヨリは、沈黙が賛同を意味すると早合点し、熱弁を振るい続けた。最後は、女らしい人情を加味した主張で締め括る見事な弁舌だ。

「それに、仮によ、誰かと恋仲になれば、その戦人いくさびとは死に物狂いで戦うわ」

 ホノギとシオツチの対談には2人も同席する。ホデリは集落長代行として、タマヨリは通訳として。だから、目下の課題が軍隊の創設だと両人が認識している。

 大勢の兵を集めるとなれば、薩摩人さつまびとを頼るしか手は無い。ところが、族長と話を付けても、成果の高が知れている。族長といえども強制は出来ず、最後は本人の自由裁量なのだから。彼らが自発的に応募する程に傭兵の魅力を高めねばならない。

――タマヨリの提案は一考に値する。

 得心したホデリが父親に裁可を仰ぎ、高千穂駐屯兵の交代制が始まった。


 タマヨリの起こした変化は他にも有る。最も歓迎された事例は新漁法だろう。

 対馬人つしまびとの全員が海賊だとの先入観は事実と異なる。女子供に加えて、虚弱体質や臆病な男も海賊行為に加担しない。日陰者の彼らは肩身の狭い思いをしつつ、もっぱら漁業に従事している。一方、朝鮮半島と対馬島とは指呼の距離。対岸の文化が入り易い土地柄だ。平たく言えば、漁具が洗練されている。

 伝統的な中華料理では食材として使われない真蛸。現代でも日本人と韓国人の蛸好きは突出している。酢を知らぬ古代人はブツ切りの肉塊に塩を振って食べた。但し、冬の間だけは例外で、橙果だいだいの絞汁を垂して酸味を楽しんだようだ。

 潜水夫は真蛸を手掴みで獲っているが、岩間に隠れた獲物を探す手間も一苦労。生産性の低い作業を観察中のタマヨリが提案した漁具が蛸壺だ。

 肉体的弱者が漁労に勤しむ対馬島では、省力化に資する道具を意欲的に取り入れていた。そんな事情と無縁の地にいても、大概の庶民は物臭者だ。須恵器すえきの壺を海中に沈めるだけの〝果報は寝て待て〟的な漁法は大歓迎される。

 また、囲網かこいあみ漁法では一般的に、麻紐を縦横に編み、底辺には石錘せきすいを、反対側の辺には木切れ(浮具)を幾つも結ぶ。投げ込まれたり海流に揉まれていると、丸みを帯びた石錘は結び目から抜け落ちる。それも結構な確率で。海中で漁網が漂流すると、それだけ魚群を取り逃がす。

 彼女の提案した漁労具は管状土錘かんじょうどすいだ。軸方向に穿孔した陶製のおもり。竹輪を想念イメージすると判り易い。麻紐が軸内を貫通するので、落失の懸念は無い。実際に漁獲量が大きく改善したので、瞬く間に普及した。尚、この管状土錘は年数を置かず出雲の鋳造製に取って変わられる。

 手始めに漁民の心を捉えたタマヨリは順調に仲間を増やして行く。足懸りを築いて仕舞えば、社交的な彼女の事だ。難無く集落に溶け込める。亡き母が望んだ通り、新天地での暮らしは彼女に平穏と安寧を約束するものとなった。


 稲刈りから田起しまでの冬の季節、集落長の務めは暇になる。タマヨリの案内役を買って出たホデリは日向の隅から隅まで連れ回した。彼女はホノギ家の賓客であったし、代行直々の紹介となれば知己も増やし易い。

 彼女が独りで出歩き始めると、御役御免となったホデリは自室に籠る事が多くなった。大の字に寝転がっては天井を見上げ、何やら思い悩んでいたようだ。悶々とする内に季節は廻り、梅花の蕾が膨らむ頃。導き出した結論を父親に願い出る。

「私の改名を許して下さい。ホオリに哀悼の気持ちを捧げたいのです」

「別に構わないが、何と改名する?」

「今日からウガヤと名乗ります」

 日子波瀲武ひこなぎさたけ鵜萱葺不合命うがやふきあえずのみこと。往々にして後ろ半分だけの鵜萱葺不合命うがやふきあえずのみことと呼ぶ。長い名前を一種の歌と解釈するならば、「太陽神の子として生まれるも、海鵜うみうごとく荒い浪間に漂うばかりで、自宅の屋根に萱を葺きもしない皇子」と言う意味だ。

 皇統に連なるに相応しい名前だとは到底思えない。それに、大集落の跡取り息子が「住処すみかの屋根さえ葺く余裕が無い」とは自虐以外の何物でもない。

 臥薪嘗胆がしんしょうたんの決意を秘めた改名。(自分だけ伸々のうのうと過ごすつもりは無い)との気持ちの表れだ。

「そして、イワレを私の養子に迎え、私の跡を継がせます」

 過剰な家族愛だと違和感を抱かれそうだが、双子とは精神的に一心同体の存在。特にオデリの場合、僅差の誕生時刻で分身を出雲に追い遣った、とやましく感じている。だから、(常世とこよの弟が望む展開は?)と考えるのは自然な反応だった。

「御前の覚悟は理解するし、イワレの養子縁組にも異存は無い。だがな。独り身の御前が如何どうやって育てるのだ?」

「タマヨリをめとりたいと思います」

「タマヨリか・・・・・・。申し分の無い女を選んだものだ」

 如何なる難局であろうとも臆せず果敢に立ち向かい、人生の同伴者として頼りになる。芯の通った言動に魅了される者は多く、現実に集落内での人望も厚い。あれほど妻として望ましい女は居ないだろう。

「しかし、肝心の彼女は?」

「これから確かめます」

 確かめると言いつつ、拒否されるとは考えていないようだ。飄々ひょうひょうとした表情からは気負いを感じない。父親の同意を得た彼は淡々とした足取りで退出して行った。

 呆れ顔のホノギが息子の背中を見守る。四半世紀前に口説いた妻の若かりし面影を思い出しながら。


 日本神話に拠ると、鵜萱葺不合命うがやふきあえずのみことを産んだ豊玉姫は、育児を妹の玉依姫たまよりひめに託し、自らは姿を隠す。成長した息子は養い親の玉依姫と結婚する。

 一説に拠ると、海鵜の羽根で葺かれた産屋うぶやが蔑称めいた名前の由来らしい。しかし、鳥の羽で葺いた屋根の存在は寡聞にして聞かず、編纂時に故事付けたと思われる。

 また、豊玉姫がわにの姿に戻って出産する描写は、既に語った通り、海賊が和珥わにに拉致した事件を暗に仄めかす記述だ。

 別の逸話エピソード『海幸彦・山幸彦の伝説』では、竜宮殿から帰還した山幸彦(弟)が意地悪な海幸彦(兄)を懲らしめ、その後に兄は消息を絶つ。次男が長男を追い落とす構図の背景には、想像を超える変事が隠れているものだ。

 改名後のウガヤは、自分の過去を消し去る一方、集落の祭事に臨む際には必ずホオリの席をしつらえさせた。あたかも弟が生きているかの様に――。

 豊玉姫と海幸彦の存在が消え、山幸彦とウガヤだけが庶民の人口じんこう膾炙かいしゃされる。後世に伝承される過程で逸話間の整合性が欠けて行くが、腑に落ちない脈絡はかる事情に縁る。


 父親の前を辞去したホデリ、いやウガヤは、その足でタマヨリの元に出向くと、藪から棒に求婚する。案の定、唐突な申し出は稚拙な冗談かと誤解され、一旦は「貴方あなた、馬鹿?」と軽くあしらわれる。しかし、求婚者の顔付きは何処までも真剣だ。

「私の素姓を知ってるんでしょ?。私、海賊の娘だよ!」

「そんな事、関係無い」

「関係するに決まってるじゃない!。貴方が気に留めなくても、家族が反対するわよ」

「大丈夫だ。父とは既に話した。輿入れには了解してもらっている」

 向きになって反論するタマヨリ。冷静沈着なウガヤが優しくなす。

――結婚・・・・・・。私の結婚。

 出生に負目を感じる彼女は人並みの幸せを諦めていた。心構えが全く出来ていない。でも、秘かに結婚には憧れを抱いていたし、心底では幸せな夫婦生活を夢見てもいた。願ったり叶ったりと喜ぶべき展開に違いないが、急に現実味を帯びると及び腰になる。

「御義母様は?」

「快く賛成してくれた」

 不安気な問いにウガヤは即答する。ハナサク妃とは未だ話していないが、反対するはずが無い。

「家族が良くったって、貴方は首長おびとと成る人よ。回りから不平不満が噴き出すわ」

「誰もがタマヨリをしたうさ。私が太鼓判を押す」

 不意打ちを受けては反論もままならない。俯いた視線の先では、2本の親指が無意味に擦り合っている。苦労を重ねた指は荒れ果て、男勝りに太い。姉の白く華奢な細指とは大違い。乙女の色香を微塵も感じさせないと重々承知している。

海女あまと変わらぬ容姿みてくれなのに・・・・・・」

 自嘲めいた呟きを打ち消すように、ウガヤが彼女の両手を優しく包み込む。

「君の人柄、心意気に惚れたんだ」

 視界が歪み、涙のしずくが足元に落ちる。人間らしい暮らしを満喫する内に、すっかり涙脆くなった。

「僕と結婚してくれるね?」

 消え入りそうな声で「はい」と一言。面映おもはゆい。頬の火照りを自覚する。恥ずかしくて顔面を上げられない。しばらくは彼の双眸を直視できないばかりか、会話すら出来そうになかった。


 結婚後、ウガヤとタマヨリは3人の息子達を儲ける。

 記紀に拠ると、息子の数は4人。その四男がイワレ(神武天皇)である。末弟の指揮する神武東征に兄達が従軍する構図は考え難い。更に信じ難い展開を指摘すれば、その末子が初代天皇に即位する。

 編纂の裏に隠れた真相はウガヤに配慮した執筆者の事実改変。イワレを四男と記述し、ウガヤと血脈のつながる息子達の序列を上げたのだ。

 先に言及した通り、鵜萱葺不合命うがやふきあえずのみことは叔母の玉依姫と結婚する。平均寿命の短い当時、一世代上の女性を娶る事が現実に起こり得るだろうか。して近親相姦の禁忌を犯す道理わけが無い。磐余彦いわれひこ火火出見尊ほほでみのみこと――豊玉姫の子――を玉依姫の子だと整理した痕跡が此処にも残る。


 少々時間を巻き戻すものの、特筆しておくべき逸話エピソードがもう一つ。

 西暦215年の春、ウガヤとタマヨリの新婚夫婦が目出度く誕生する。息子が身を固めた事を受け、ホノギも引退を表明。だから、婚儀の場は後継者披露の場ともなった。

 そして、祝宴に参列したナムジが出雲に帰ってから数週間後の出来事だ。ホノギが周囲も驚く奇怪な行動に出る。

 丸坊主に髪を剃り、額に赤い入墨を入れたのだ。直径5センチ程の真円と、その外周を描く一輪の環。リモナイトの赤い顔料で描かれた二重丸は大きな第三の眼を思わせる。

 本人の弁に拠ると、対馬海賊と邪馬台城の討伐を誓い、息子に倣って臥薪嘗胆の心意気を内外に示さんと考えた次第らしい。毛髪が伸びる度に剃髪を繰り返し、第三の赤眼は彼の代名詞ともなった。

 この故事に由来し、後世の人々は彼を邇邇藝命ににぎのみことと呼ぶ。赤色を意味する〝邇〟の漢字を二つ重ねた所以ゆえんである。ちなみに、諡号しごうを贈られた初代天皇は神武天皇であるが、その系譜を遡った彼こそが死後に諡名おくりなされた最初の人物である。

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