第10話 天孫降臨
西暦187年の夏。時の卑弥呼が高熱を発して倒れ、激しく嘔吐した。オモイカネやミカヅチ、宗女達が困惑する中、発症から数日で息を引き取る。即位より僅か7年後の凶事だった。
城内に同じ症状の患者を見出せず、食事を共にする宗女達にも異常が認められない。だから、
芹(日本原産)の生育地は
食中毒ならば大量の水を飲ませて胃を洗浄する。その対処法を知らぬ智臣ではないが、何しろ原因が判らない。安静に横たえ回復を待つ間に、女王の容態は急変した。現代人が無作為と糾弾しそうな様子見の姿勢も、医術と無縁の時代では通例の対応に過ぎない。
後継者を指名せずに急死したから、オモイカネやミカヅチの2人は途方に暮れる。卑弥呼の世代交代は先の話だ――と、思考停止していた。今さら危機管理の不備を嘆いても詮無いが、そうなった背景には両人の間に
やがて、一種の人災とも言える空位期間が邪馬台城に暗雲を招き入れる。
中国大陸に目を転じると、西暦184年に黄巾の乱が発生し、後漢王朝の治世が崩壊した。一説には、気候変動の煽りで東アジア全域が寒冷化し、農産物の凶作が続いたからだとも言う。真偽は
日本に影響する具体的な事象としては、後漢王朝の官吏だった公孫度の動向が挙げられる。彼は遼東半島周辺に半独立政権を樹立した。
その後も勢力拡大を企図し、西方に向けては、
西暦204年には公孫康(公孫度の息子)が楽浪郡の南隣に帯方郡を設置。「南朝鮮と倭国が公孫康に隷属した」との記述が中国の歴史書に残っているが、大陸に情報発信する
西暦238年に魏王朝が公孫一族を滅ぼすまで、朝鮮北部では蛮行が日常茶飯事と化し、日本にとっての緊迫状態は続いた。
伝統的に冊封政策を展開する中華帝国。中央政権が盤石な時代であれば、周辺国への締め付けは極めて緩い。皇帝を崇め、適当な朝貢活動でお茶を濁していれば済む。
ところが、公孫一族は中国統一に乗り出し、皇帝に成ろうと目論んでいる。当然ながら、幾度もの戦争を繰り広げる腹積りだ。「戦費の調達方法は?」と問えば、隷属国に相応の負担を要求するは必定。
だから、軍事を
――彼らの歓心を買う必要が有るのか?
――恭順の意思を表明しない場合、本当に邪馬台を侵攻して来るのか?
彼らは大陸制覇の野望を抱いている。華北での版図拡大を目指して争う限り兵力を欲し続けるだろう。それも喉から手を出す程に。対馬海峡で隔たった異国の併合作戦に割ける兵力は到底有るまい。要は優先順位の問題だと、
残念ながら、平和主義者の卑弥呼は、一時凌ぎと承知しつつも、智臣の意見に傾きつつあった。でも、冷静に洞察すればする程、賢い選択とは思えない。だから、表立って異議を唱えずとも、内心では強い疑問と不満を感じていた。
両者の反目は、上位裁定者の喪失を機に再燃し、先鋭化する。邪馬台城の将来を憂慮するからこその確執だったが、2人の向かう先は正反対。歩み寄る余地が全く無い。女王が亡くなった今、後事の相談を最優先すべきなのだが、宮殿内で会っても対話が深まらない。
鬱屈したミカヅチは
――どうせ戦うならば、邪馬台の防衛に殉じたい――
それが偽らざる心情である。志を同じくする城兵達の心に疑念が広がり、城内には不穏な空気が流れ始める。以心伝心。混乱の予兆を敏感に感じ取った城民は不安顔で日課作業に
そんな或る日。武臣が年長の宗女を
彼の向かう先はカルスト地形の広がる平尾台。福岡県田川市側の麓一帯は
スサノオの乱に懲りた邪馬台城の防備は
後任者の俗名を
彼の母親はハタトヨ。古事記に
中国大陸から渡来する先進文明を貪欲に学ぶ日本。苦労して試行錯誤を重ねた結果、養蚕が根付き始めていた。
今では、卑弥呼や宗女達に限らず、各工房の枢要な地位を占める者は皆、絹布の
生物の本能として、男は種付け先の積み増しを、女は産んだ子供の安全な養育環境を求める。遺伝子の多様化を図る観点でも素晴らしい風習だが、当事者達は愉悦を求めて続けるに過ぎない。敢えて言えば、多夫多婦制。邪馬台城の庶民全員が一つの家族と解釈するのが実感に沿う。
勿論、特定の異性と添い遂げたいと望む夫婦も現れる。その場合は城外に新居を構える。食い扶持に困れば、邪馬台の社会に出戻るだけ。犯罪者の追放とは異なり、孤立無援には陥らない。懐の深い大らかな社会なのだ。
大家族制の枠外に生きる者は、3人の
スサノオの乱から
その薩摩人から兵士を募り、欠員補充をも図る積りであった。交易再開は辺境の生活を豊かにするし、双方が旨味を感じる戦略提携だが、
九州北部の荒廃を
スサノオの奮闘により集落全体が富んでいる。生活圏は稲作に適した平野部全体に広がり、その中心地は宮崎大学の所在地辺り。オオヤツ(スサノオの娘)の嫁ぎ先はJR九州の日南線木花駅の近くである。
木花の地名――現代ではキハナと称するが、古くはコノハナと呼ばれていた――は、
西暦189年。裏阿蘇の南方を目指し、ホノギが10人の同僚兵を率いて
一行は豪農らしい立派な屋敷に到着した。竪穴住居と同様に
出迎えた当主はオオヤツ妃。夫が
17歳の長男、16歳の次男に続く長女ハナサクは15歳。
突然の訪問だし、手厚い供応を期待する方が無粋であろう。
「少し遠いのですが、温泉に入られては
「温泉?」
聞き慣れぬ単語に一堂が顔を見合わせた。
「ええ、湯に浸かるのです」
共同浴場の無い城内では井戸水で身体を洗い流す行水が一般的。「湯」と聞いた彼らは汁物と同程度に熱い湯を連想する。(煮殺されないか?)と疑いの目を向けると、親切顔で「疲れを癒せますよ」と返された。悪意は微塵も感じられない。
尚もホノギ達が戸惑っていると、「ほらっ、御案内しなさい」と長男に矛先が向く。物怖じしない彼は、遣使の隊長が自分と同い年だと知って、親近感を抱いたようだ。握手でも期待したのか、気軽に手を差し出す。
一方の受け手は、部下を従えている手前、体面を気遣わざるを得ない。
「まぁ良いや。裸の付き合いで気持ちは変わるもんだし――」
気を取り直した先導役に促され、休む間も無く再出発した一行。目指す青島温泉は南東の方角。屋敷からは徒歩で1時間強の道程だ。
草笛を鳴らし、
スサノオは大いに喜び、自分の村落から一日掛りの遠出となるにも拘らず、秘境の温泉地まで何度も足を運んだものだ。
日南海岸の奥まった砂岩層に湧出する青島温泉。其処から海洋を眺めれば、大福餅の如き形状の島が鎮座している。南洋植物の生い茂る島の一帯は不思議な景観を成しており、学術的に隆起波食台と命名された地形は『鬼の洗濯岩』とも呼ばれる。
島内に建立された青島神社には『海幸彦・山幸彦の伝説』に因んだ3柱が祀られ、石神社なる
温泉に到着すると、先陣を切ったアマツが
「皆さん!、素裸で浸って下さい。気持ち良いですよ」
入浴の手本を示した積りらしいが、乱暴で無邪気な振舞いにホノギ達が驚いた表情をする。
手足を伸ばす度に温和な鈍流が身体を愛撫し、炭酸水素塩泉の気泡が肌を
小一時間ほど湯船の中で身体を
屋敷に戻ると、約束通り、饗宴の準備が整えられていた。米飯に加え、魚介類や鶏肉の炭焼き、塩煮した山菜等が食卓を彩る。中でも、豊富な海産物が目を引く。黒潮の回遊魚が目と鼻の先に広がる日南海岸で水揚げされており、邪馬台城では珍しい種類ばかりだ。
日常の食事を全て手掴みで済ませたかと言えば、そうではない。箸は無くとも、
また、
得てして、列席者は食事に没頭する。並んだ料理の品々を吟味するのだが、それらは接待側の誠意ばかりか生活水準を映し出す鏡となる。その点、オオヤツ妃の采配は申し分なく、目移りする程の品数が豊かさを雄弁に語っていた。
繁栄の源泉は在来馬の存在だ。その恩恵は、銅貨の保有数に止まらず、物資調達の面にも表れている。
邪馬台城――九州経済圏の中心地――から遠く離れているばかりか、険峻な九州山地を越さねばならない。ところが、交通面の僻地であるにも
特にセメントと鉄器が
鉄器の中でも、
大広間では、邪馬台勢11人がホノギを中心に横並びで着座している。ホノギの対面にはオオヤツ妃とハナサクの2人が座り、息子達は彼女らの左右に並ぶ。員数合わせに集落の重鎮が加わり、サルタも歓待側の末席に連なった。
男性陣の服装は代わり映えのしない麻布の貫頭衣。絹布の小袖に着替えた女性2人が彩りを添えていた。藍染めされた絹布の濃い青緑色が容貌を引き締めて見せる。
当時の染色手法としては、山藍を使った藍染めが主流だ。奈良時代以降に普及した
更に言えば、軽量で貴重な絹布は重量基軸の物々交換に馴染まない。彼女らが身に纏う小袖は貸馬に感謝した邪馬台城からの下賜品である。養蚕や機織り、縫製等の先端技術の粋であり、希少価値を有する絹布は最適な威信財なのだ。
つまり、絹布を纏う者は高貴なる者。ハナサクの醸す貞淑さを衣装が引き立てている。容貌だって相当に秀逸だ。
ホノギは
理知的な風貌の好青年が愛娘に
「邪馬台の方は
「新しい卑弥呼様は決まりましたが、混乱は治まっていません。ミカヅチが出奔したのですからね」
「それでは、早急に新たなミカヅチ様を選び直さないと――」
「はい。私も候補者の1人なんですが、未熟者に務まるものか・・・・・・。正直、悩んでおります」
耳を疑う発言に随行者全員の食手が静止した。咀嚼を止め、身体を強張らせたと言って構わない。
――今、何と言った?
問い質したい気持ちは山々だが、その誘惑を押し殺す。ホノギとは気脈を通じた仲だ。足を引っ張る真似はしない。処世術に長けたサルタも、権力者に取り入る材料になると心算し、〝見ザル聞かザル言わザル〟を決め込む。
当のホノギは自問自答し、自らの野心を再確認していた。
――先代ミカヅチとは袂を分かち、迷わず城に居残った。何故か?
『鶏口と成るとも牛後と成る
――
我慾の延長で思考を巡らすと、辺境と
――黒木の繁栄は天井知らず。
女系社会の邪馬台城にあっては、男の自分が君臨するなんて思いも寄らない。
「ホノギ様は立派に重責を担える方だと、お見受けしましたよ。息子とは月と
「
急所を突いた指摘に、小柄な体躯ながらも存在感を感じさせる女当主が「そうなんです」と顔を曇らせる。
「
「そうですねえ。
「何故です?」
「
「本当に?」
半信半疑で居ながらも縋るような声音。彼女のみならず、為政者なら誰しも先々の見通しに不安を抱くものだ。天下った者の言葉に宿る信憑性の魔力で絡め取らんと、野心家が大きく頷く。
「馬余りを活かす地固めの時だと心得て、疎かにしていた田畑の繕いを進めましょう」
指折り数えさせた不便な施設に対し、邪馬台の経済状況を踏まえつつ、改善工事の順位付けに助言したり
「及ばずながら、私も助太刀します」
「有り難う御座います。そう言って頂けると凄く心強いです」
オオヤツ妃は、小躍りしたくなる気持ちを隠し切れず、両手を合わせて喜んだ。しかし、満面の笑みを浮かべたのも束の間、「でも・・・・・・」と憂いを宿した真顔に戻る。
「
上目遣いに遣使の事情を探る表情には心配性の性格が見え隠れしていた。治世者の地位には其れなりの気苦労が付き纏う。相談相手を欲する彼女の心情は明々白々だった。好機到来とばかりに、「心配御無用」と言い切るホノギ。
「卑弥呼様は『黒木の安堵こそが最優先。騒ぎが治まるまで現地に留まれ』と命じました」
「そうだったんですか!」
「ええ。勿論、皆さんが迷惑でなければ――の話ですが」
「滅相も無い!。私達は大歓迎です。ホノギ様に御滞在頂けるならば、無上の幸せです」
社交辞令とも思えぬ、喜色満面の歓びよう。実際、彼女なりの打算が有った。打算と言っても、母親としての
「折角ですから、息子達を鍛え直して下さい。御指導頂ければ、頼もしくなるでしょう」
ホノギの父親は不明だと先に語ったが、真相は微妙に異なる。還俗した母ハタトヨは、先々代ミカヅチと恋仲に落ち、処女の契りを結ぶ。
ところが、その事実を2人は城内で伏せ続ける。ミカヅチの方は複数の女性と
城外に下野すれば自らの家庭を営める。しかし、男は軍を率い、女は機織り工房の運営責任者。身勝手な選択を
父親の没後、初めて母親がホノギに素性を明かす。入隊を却下され続けた背景に得心した瞬間でもあった。でも、真相を知ると余計に胸中が騒いだ。父親の足跡を辿りたくなる心情は尊敬の念と比例する。再志願の時には理不尽な門前払いも起きず、目出度く採用の運びとなった。
入隊の遅れを取り戻そうと、彼は日々の精進に努める。そして、メキメキと頭角を現した。但し、先代ミカヅチとは年齢差も小さく、自分が武臣となる未来は訪れない。そう諦めた矢先に勃発した分裂騒動。つまり、垂涎の地位が空く。そんな好機を逃がすような彼ではない。
ただ、彼の心底では出世よりも家族を重んじる気持ちが強かったようだ。
父親は生前、ハタトヨの元を頻繁に訪れており、実の息子であるホノギをも可愛がった。実父と教えられずとも、幼い子供なら自分に親身な偉丈夫を甘え慕うだろう。親子3人で過ごした濃密な時間が人格形成の原点なのだ。
斯かる生い立ちの彼だからこそ、愛する女性と家庭を営む止まらず、権力者の閨閥にも連なる両得の機会を見過ごせなかったのだ。
オモイカネは、音信不通となったホノギに痺れを切らし、薩摩に第二の遣使を向かわせる。籾米を材料に釣り込む腹積もりであった。不審と警戒の眼で出迎える族長を説き伏せ、傭兵の確保にも成功する。
ところが、狩猟民族の起用は新たな問題を生む。城内出身の兵士と違い、統制に不慣れな人種だ。更に言えば、気性も荒い。角逐の構図に好戦的な彼らを招き入れた結果、却って膠着状態を
端的には局所的な小競り合いの頻発だ。出奔した旧兵達と薩摩出身の新兵達とは
一方、対峙するミカヅチは、石灰岩や石炭を採掘する
残念ながら、出荷の滞った鉱石在庫は宝の持ち腐れとなる。石灰石から
香春郷も苦境に喘いだが、経済活動の盛んな邪馬台城の方が大きな損害を被る。ミカヅチの判断は大局的に正しい。但し、対戦相手の性格を読み誤った感が有る。辛抱強く、理路重視の文人が積極的に戦端を開く
詰まる処、彼の決断は、雌雄を決する局面を
九州北部の人口を20万人程度だと推定するに、0・5%相当。大半の難民は朝鮮半島の奥深く――新羅の前身――まで移動せず、半島南部の沿海地域に止まっただろう。
前代未聞の大混乱だったと、読者も容易に想像できると思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます