第08話 敗者に残された道
世界有数のカルデラ地形を誇る阿蘇山は、太古の昔に大爆発を起こし、その際に空いた巨大噴火口の中央部から再び火柱を噴出させている。だから、航空写真を眺めると、山稜が二重丸に
標高1000メートル前後の山々が連なる外輪山。南北25キロ、東西18キロに及ぶ広大な絶壁であるが、西端にだけは切れ目が有る。つまり、高山を越さずとも内側への侵入が可能だ。其処までの道程は
一行は足裏を
スサノオ夫婦は一粒種の息子を儲けていた。今年の田植えで10歳を数えたばかり。父親には似ず、内気な男の子だった。イソタケと名乗り、
脱出の際に奪った計4本の石槍をスサノオ自身と3家族の妻が小脇に携える。銅貨も持てるだけ持参した。追手に捕まれば、懐柔手段として。無事に逃げ通せば、新生活の元手として使う積りだ。
中天の高みから届く白光は、生者から精気を吸い取るかのように、何処までも寒々しい。冷える一方の夜気が地表を歩む者の体温を奪い、彼らの抱く荒寥感を
集落の外れを抜ける迄に小一時間を要したが、未だ数刻は見張りも交代しない。
同じ平野部でも、田園地帯を通り過ぎれば、足場の悪い荒野が続く。
子供を背負わぬスサノオが先行し、通路を切り拓く。石槍で薙いだ枯草を踏み固め、後続者に細道を作りながら先を急ぐのだった。
但し、女達の
オギャー、オギャー。怖気を震わす泣声が夜陰に響く。しかし、静寂を断ち切った声は不自然に途切れ、
スサノオが様子を見に戻ると、後続の全員が困惑顔で赤児を眺めていた。アオホ家族だ。黙らせんと焦る父親に口を塞がれ、顔を
「
「赤児がムズがっている・・・・・・」
無理も無い。母親の腕の中で眠る
「腹が
アオホが諦めたように首を振る。
「毛皮が濡れて冷えたんだろう。多分、それが気持ち悪くて・・・・・・」
縫製技術の稚拙な弥生時代、麻布では小さな産着を作れない。だから、鹿よりも毛足の長い
「
焦りを隠そうともせず、スサノオは
――見張りの交代を待たずして、誰かが異変に気付いたら・・・・・・。
そう考えると、居ても立ってもいられない。今にも炎光の群れが現れそうな気がする。
「赤児の口を抑えて行くか?。途中で息を詰らせるかもしれんが・・・・・・」
選択の余地は無かった。捕まれば、邪馬台城の奴らに引き渡される。生贄として殺されるか、
「仕方無い。タエ、服を着ろ」
無表情な母親が物静かに貫頭衣を羽織り直す。億劫気に立ち上がると、小さな額を優しく撫でた。そして、夫に愛児を託す。だが、再び口を塞がれた赤児は、涙を浮かべ、必死に駄々を捏ね始めるのだった。
「妻に抱かせるなよ。母の気持ちが命取りとなる」
スサノオはアオホの肩に手を置き、「行くぞ」と出発を促す。非情な号令に全員が頷く。
雑草の生え茂る平原を抜け、外輪山の入口に到着した。絶壁に左右を挟まれた狭谷の底で、スサノオは休憩を入れた。此処で体力を回復させねば、途中で行き倒れるかも知れない。
裏阿蘇へと抜ける迄の行程を思い描いてみよう。まずはカルデラ盆地の半周踏破。直線距離でも10キロは下らない。平坦地とは言え、前人の踏み固めた道も無い。急いでも
依然として噴煙を吐き続ける中岳なれど、
三々五々に後続の家族もスサノオに追い付く。2人の父親に背負われた幼子達は安眠中。起きていれば、火山灰に怖気付き「目が痛い」と煩かった事だろう。
周囲を見渡せば、ゴツゴツとした凝灰岩ばかり。草木は殆ど生えておらず、歩行が楽になる。遠目にも発見され易くなるが、幸い、巡回を終えた満月は山稜の陰に隠れようとしていた。少なくとも盆地の大半を外輪山の黒影に覆われて進めそうだ。逃亡者には好都合な展開である。
反面、女子供に危険極まりない登山を強いる事になる。暗闇の中、手探りで岩肌の突起物を求め、険しい岩場を登るのだ。手本とする前進者の一挙一動を視認できないとの悪条件も重なる。素人が無手勝流で臨まねばならない。
加えて、川沿いの道を選ばなかった判断も浅慮と
せめて大口を開け、酸素を胸一杯に吸い込みたい。実際は、火山灰に深呼吸を封じられ、鼻呼吸で喘ぎを鎮めるのが精一杯。
岩場に腰を下ろし、
――駄目だったみたいだな・・・・・・。
新参夫婦を気の毒に思うも、無言で見守るしかない。肉体疲労も
――夜明け迄に向こう斜面を降りれば、逃げ切れる・・・・・・。
中岳から右の方に逸れた外輪山の一画を睨むスサノオ。願望の先走りは希望を生むが、彼らは
水蒸気、二酸化炭素、二酸化硫黄を主成分とする火山性ガスは空気より重い。多少の風では拡散せず、カルデラ盆地の中に滞留し続ける。噴火から数週間を経ても猶、硫黄独特の腐臭が鼻を突く。背負われた幼子達も顔を
途中、南郷谷を流れる白川で喉の渇きを癒そうと考えたが、軽石に覆い尽くされた川面を見るに付け、早々に断念せざるを得なかった。実際、川の水を掬ってはみたものの、大量の火山灰が浮遊しており、とても飲める代物ではなかった。
魅惑的な
足を引き摺るようにして数時間も歩き通し、一行は高森峠の麓に至る。眼前の山の斜面には大小様々の岩塊が積み重なっていた。大きい物で2
厳つい垂直面を
足元に注意を払い続けねば、
だから、死んだ赤児の帯同は早々に断念した。岩場の陰に遺体を安置し、全員で静かに冥福を祈る。仏教伝来前の所作であるから、合掌するでもなく、棒立ちの状態で別れを告げたに過ぎない。
簡素な弔いの
――あと一息・・・・・・。
当座の到着点を認め、気が緩んだのだろうか。妻を引き上げんと岩場で踏ん張る最中に突然、両腕に伝わる荷重が消え失せる。重心を失った背骨が仰け反り、背後の斜面に尻餅を突いた。唖然とするスサノオの眼前では、仄かに再現した天之河を黒曜石の刃先が差している。
即座に腹這いとなり、岩下を覗く。あんぐりと口を開けた
「母さんは?」
安否を問う言葉も耳に届いていないようで、無反応であった。首を振るでもなく、茫然自失の態。
「母さんはっ?」
両腕を揺らされながら浴びた怒鳴り声。父親の詰問で正気に返ったものの、少年の表情は瞬く間に強張った。月光に晒されずとも、血の気を失った顔色が
「落ちたのか?」
コクリと頷く
――日の出を待って、確認に降りるか?
肉体疲労と脱水症状。火山灰と火山性ガスが強いる浅い呼吸が酸素を欠乏させる。睡眠不足も加わり、集中力は散漫と成らざるを得ない。極限状態の中で石槍を掴む握力を一瞬だけ緩め、重力の虜となったのだろう。
後続のムルオ家族が(何事か?)と
――相当な時間を無駄にするが、
家族愛と非情な理性の
「
直下の岩盤で佇立するムルオが不安気な顔で問う。家長の動揺を見透かし、(馬鹿な判断は止めてくれ)と言わんばかりの眼差しだ。一族郎党の運命を優先するなら、結論は決まっている。
スサノオは苦虫を噛み潰したように口元を歪めた。公私相克の選択を迫られても即決は出来ない。そうこうする内に、アオホ夫婦やイノシ家族も間近に集合し、滑落事故の発生が共有化される。
全員が自信無げに探るような眼差しを注ぐ中、赤子を死なせたタエの放つ眼光だけが異様に険しい。丸で遺児の仇と逆恨みするかの様に挑戦的だ。その言わんとする主張は明白であった。
更に数十秒が経過しただろうか。目を逸らし闇の底を覗いていたスサノオは、立ち上がり、
「前に進もう!」
全幅の信頼を寄せていた父親から発せられた予想外の言葉。母親を見捨てるとの決断に瞠目する。嫌々と首を大きく左右に振り、承服し兼ねるとの意思を精一杯に伝える。
「助けに行かなくちゃ!」
母親の臀部に両手を添える自分が押し支えていれば、悲劇は起きなかった――。強い悔恨に苛まれていたイソタケは必至に抵抗する。
「駄目だ!」。「何故っ!?」。「母さんは助からない!」。「確かめもしないで!」。
押し問答が
「皆の
自分の非力を思い知らされた少年は、双眸から止めどない涙を溢れさせ、首を左右に振り続けている。
「母さんの事は・・・・・・諦めるんだ」
絞り出された低い声に呼応して、
しかし、母親への未練を理屈で断つ事なんぞ不可能。
結局の処、
10歳の子供が目の前で母親を喪ったのだ。慰撫すべき状況であっても、生命の分れ目に甘えは許されない。放心状態で尾根を目指せば、二の舞と成るだろう。スサノオは、
更に小一時間。登頂を果たす頃には、東の空も白み始め、背後に続く苛烈な岩肌も色彩を伴って姿を現し始めた。残念ながら、眼下の登坂路を見降ろしても、母親の姿は視認できない。岩場の陰になっているようだった。
荒い息と乱れた心を多少なりと整えた後、今度は外輪山の外側斜面を下り始める。中腹に至る山肌は登坂側と同様に剥き出しの岩地だが、陽光に見守られた歩行は危なげない。
中腹から疎らに生え始めた木々が山裾の方では森を成している。鬱蒼とした木陰に踏み入った処で軽い食事を摂る事にした。細い煙なら樹木が隠す。山頂からの視界を枝葉が遮り、仮眠も出来るだろう。
交代で山頂を窺いながら、焚火を
その後、安住の地を求め東南方向の海を目指す。現代地図で彼らの行程を
この地は
但し、損得勘定は別物である。集団を束ねる者ならば自分と同類に違いない。そう看破したスサノオは、1枚の銅貨(引換証)を差し出し、裁定者を懐柔し始める。80俵の籾米と交換可能な1枚。余所者を養っても十分に釣りが来る。
「村の誰かを邪馬台に遣わせて欲しい。
「邪馬台?」
十余年も前に一度、此処を訪れた薩摩出身の放浪者を思い出した。その男に拠れば、北の地には女神の統べる大集落が有るそうだ。豊かさ故に、野盗の心配も絶えんのだろう。屈強な男衆が、田畑で働きもせず、狼藉者に目を光らせているらしい。
――此の
スサノオは頑として素状を明かさない。警戒心を露わにした眼差しを見詰め返し、視線を逸らさずに言葉を継いだ。
「案ずるな。有象無象の
――素直に信じて構わないのか?
収穫量に恵まれぬ
――まあ、良い。城で窮地に陥っても、逃亡者の存在を白状するだけの事。
干乾びた指で銅貨を弄びながら、猶も考え続ける。
――邪馬台に垂れ込む方が手っ取り早くないか?
村長の脳裏を狡猾な思いが横切る。胡乱な瞳の奥に浮かぶ
「もし俺達を匿い続けるなら、銅貨を全て渡す」
「未だ有るのか?」
「ああ。山中に埋めてある」
自信満々の声。(喰い付いた!)と
――出任せの空手形ではなさそうだ。
小出しにされた情報は欲深者を魅了する。更なる判断材料を求め、問い続けずには居られない。
「何枚?」
「両手両足の指では数え切れないくらいだ」
期待値を超えた回答に心の天秤は大きく傾いた。真実ならば、突き出すよりも匿うべきだ。密告の報酬が多いとも思えない・・・・・・。
――だが、落人の告白を信じて良いものか?
疑い出せば
「承知した。だが、預米を引き出せねば、村から追い出すぞ?」
「構わない」
無事に銅貨は籾米と交換され、スサノオ達は宮崎平野の寒村――
また、
禊を終えた伊邪那岐の左眼からは
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