第08話 敗者に残された道

 世界有数のカルデラ地形を誇る阿蘇山は、太古の昔に大爆発を起こし、その際に空いた巨大噴火口の中央部から再び火柱を噴出させている。だから、航空写真を眺めると、山稜が二重丸に酷似そっくりな地形を描いている。

 標高1000メートル前後の山々が連なる外輪山。南北25キロ、東西18キロに及ぶ広大な絶壁であるが、西端にだけは切れ目が有る。つまり、高山を越さずとも内側への侵入が可能だ。其処までの道程は狗奴くぬ集落から真東の方角に徒歩で約3時間。

 一行は足裏をかじかませる夜の畦道を急ぎに急ぐ。生憎、日没時に現れた満月が随分と高くに昇っていた。視界を隠すものは何も無く、数珠じゅず連なりに揺れる背中が銀映写真にも似た光景の中で青白く浮き上がる。遠目にも判別し易い為、離脱を急がねば、集落民に発見されるだろう。

 スサノオ夫婦は一粒種の息子を儲けていた。今年の田植えで10歳を数えたばかり。父親には似ず、内気な男の子だった。イソタケと名乗り、五十猛神いそたけるのかみとして神話に登場する。他の3家族も其々それぞれに子供を抱えるが、いずれも幼く、内1人は乳飲み子だ。夫が幼子を背負い、全員が駆け足で夜道を進む。

 脱出の際に奪った計4本の石槍をスサノオ自身と3家族の妻が小脇に携える。銅貨も持てるだけ持参した。追手に捕まれば、懐柔手段として。無事に逃げ通せば、新生活の元手として使う積りだ。


 中天の高みから届く白光は、生者から精気を吸い取るかのように、何処までも寒々しい。冷える一方の夜気が地表を歩む者の体温を奪い、彼らの抱く荒寥感を愈々いよいよ深くする。

 集落の外れを抜ける迄に小一時間を要したが、未だ数刻は見張りも交代しない。此処ここまでは順調な逃亡劇と言えた。薄らと汗を浮かべた身体が滋養の源を求め、白い吐息を荒く吹き上げる。気が急くも、両脚を繰り出す調子ペースは緩慢となり、歩幅も狭まり始めた。

 同じ平野部でも、田園地帯を通り過ぎれば、足場の悪い荒野が続く。薄穂すすきやエノコログサ、野生種のアワやヒエ等の雑草類が胸を隠す高さまで生い茂り、隙間無く前途に立ち塞がる。茶色く立ち枯れてはいるが、歩行を妨げるに十分な障害物だ。

 子供を背負わぬスサノオが先行し、通路を切り拓く。石槍で薙いだ枯草を踏み固め、後続者に細道を作りながら先を急ぐのだった。

 但し、女達の貫頭衣かんとういは現代のワンピースに近い。膝まで長い丈の裾回りが歩幅を制約し、長距離歩行を難儀させる。逃走中の今は左右の結び目を断ち、側面裂スリットも入れているが、男達の直垂ひたたれほどの自由度は無い。抑々そもそも、男女の体力差は如何いかんともし難く、行軍速度は彼女らに律則される。


 オギャー、オギャー。怖気を震わす泣声が夜陰に響く。しかし、静寂を断ち切った声は不自然に途切れ、草叢くさむらを吹き抜ける寒風の奏でる葉擦れの音しか聞こえない空間が再出現する。

 スサノオが様子を見に戻ると、後続の全員が困惑顔で赤児を眺めていた。アオホ家族だ。黙らせんと焦る父親に口を塞がれ、顔を真赤まっかに染めている。座り込んだ母親が乳房を露わにする。だが、寝起きの赤児は機嫌が悪い。あてがわれた乳首を小さな手を押し退け、必死に何かを訴えている。

如何どうした?」

「赤児がムズがっている・・・・・・」

 無理も無い。母親の腕の中で眠る常時いつもとは違う。父親なりに気遣っても、所詮は歩きながらの所作。今まで目を覚まさなかった事こそ幸いであった。

「腹がいたんじゃないのか?」

 アオホが諦めたように首を振る。

「毛皮が濡れて冷えたんだろう。多分、それが気持ち悪くて・・・・・・」

 縫製技術の稚拙な弥生時代、麻布では小さな産着を作れない。だから、鹿よりも毛足の長い野猪いのししの毛皮で代用する。赤児を包んだ毛皮が小便に漏れているのだろう。手元に代えは無い・・・・・・。濡れた産着を剥げば、冷気に体温を奪われる。

如何どうする?、待てないぞ!。先を急がないと・・・・・・」

 焦りを隠そうともせず、スサノオは狗奴くぬ集落の方向を振り返る。幸い、追手の松明たいまつは見えない。

――見張りの交代を待たずして、誰かが異変に気付いたら・・・・・・。

 そう考えると、居ても立ってもいられない。今にも炎光の群れが現れそうな気がする。

「赤児の口を抑えて行くか?。途中で息を詰らせるかもしれんが・・・・・・」

 選択の余地は無かった。捕まれば、邪馬台城の奴らに引き渡される。生贄として殺されるか、奴婢ぬひとして扱われるか。将来を考えれば、隠密裏に逃げるしかない。

「仕方無い。タエ、服を着ろ」

 無表情な母親が物静かに貫頭衣を羽織り直す。億劫気に立ち上がると、小さな額を優しく撫でた。そして、夫に愛児を託す。だが、再び口を塞がれた赤児は、涙を浮かべ、必死に駄々を捏ね始めるのだった。

「妻に抱かせるなよ。母の気持ちが命取りとなる」

 スサノオはアオホの肩に手を置き、「行くぞ」と出発を促す。非情な号令に全員が頷く。


 雑草の生え茂る平原を抜け、外輪山の入口に到着した。絶壁に左右を挟まれた狭谷の底で、スサノオは休憩を入れた。此処で体力を回復させねば、途中で行き倒れるかも知れない。

 裏阿蘇へと抜ける迄の行程を思い描いてみよう。まずはカルデラ盆地の半周踏破。直線距離でも10キロは下らない。平坦地とは言え、前人の踏み固めた道も無い。急いでもつまずくのみ。踏み付けた小岩が転がらぬよう、用心して歩かねばなるまい。最後は標高差800メートル近くの尾根越えが待っている。

 依然として噴煙を吐き続ける中岳なれど、火山礫かざんれきや火山弾の飛来は止み、火山灰が吹雪然と降り注ぐばかりだ。撃死の恐れは無いにしろ、其れなりに火山灰も難物だ。涙目を薄く開け、辛うじて必要な視界を確保する。

 三々五々に後続の家族もスサノオに追い付く。2人の父親に背負われた幼子達は安眠中。起きていれば、火山灰に怖気付き「目が痛い」と煩かった事だろう。

 周囲を見渡せば、ゴツゴツとした凝灰岩ばかり。草木は殆ど生えておらず、歩行が楽になる。遠目にも発見され易くなるが、幸い、巡回を終えた満月は山稜の陰に隠れようとしていた。少なくとも盆地の大半を外輪山の黒影に覆われて進めそうだ。逃亡者には好都合な展開である。

 反面、女子供に危険極まりない登山を強いる事になる。暗闇の中、手探りで岩肌の突起物を求め、険しい岩場を登るのだ。手本とする前進者の一挙一動を視認できないとの悪条件も重なる。素人が無手勝流で臨まねばならない。

 加えて、川沿いの道を選ばなかった判断も浅慮とそしられるだろう。数時間も歩き通せば、喉の渇きも覚える。しかし、見通しの良い河原を逃走すれば発見され易い。加えて、迂遠な道程を選ぶ精神的余裕も無かった。

 せめて大口を開け、酸素を胸一杯に吸い込みたい。実際は、火山灰に深呼吸を封じられ、鼻呼吸で喘ぎを鎮めるのが精一杯。しかも、夜風が火照った身体を冷やし、汗に濡れた貫頭衣を重くする。スサノオ達が不遇ながらも休んでいると、最後尾のアオホ家族が姿を現した。

 岩場に腰を下ろし、いとおしそうに赤児を抱く母親。その妻の背中を慈しむように擦る夫。一見すると仲睦まじい親子の構図だが、何処か胡乱な雰囲気を漂わせている。そうかと言って、放心や虚脱とも違う。一種の現実逃避だった。

――駄目だったみたいだな・・・・・・。

 新参夫婦を気の毒に思うも、無言で見守るしかない。肉体疲労もことながら精神面の疲弊が心配だ。落胆の激しさは容易に窺える。先着組の休息は十分であったが、もうしばらく留まる事にした。

――夜明け迄に向こう斜面を降りれば、逃げ切れる・・・・・・。

 中岳から右の方に逸れた外輪山の一画を睨むスサノオ。願望の先走りは希望を生むが、彼らはようやく登山口に立ったばかり。難所は此れからである。


 水蒸気、二酸化炭素、二酸化硫黄を主成分とする火山性ガスは空気より重い。多少の風では拡散せず、カルデラ盆地の中に滞留し続ける。噴火から数週間を経ても猶、硫黄独特の腐臭が鼻を突く。背負われた幼子達も顔をしかめて目を覚ます。父親達も疲労を募らせており、此処からは自分の足で歩いてもらうしかない。

 途中、南郷谷を流れる白川で喉の渇きを癒そうと考えたが、軽石に覆い尽くされた川面を見るに付け、早々に断念せざるを得なかった。実際、川の水を掬ってはみたものの、大量の火山灰が浮遊しており、とても飲める代物ではなかった。

 魅惑的な細流せせらぎを聞きながらの暗夜行。飲水を許されない点では、熱射に耐えつつ砂漠で歩を進めるのと変わらない。逃げ延びる者に追い打ちを掛ける自然の冷酷さに限りは無かった。



 足を引き摺るようにして数時間も歩き通し、一行は高森峠の麓に至る。眼前の山の斜面には大小様々の岩塊が積み重なっていた。大きい物で2ひろの幅。両手を広げた大人2人分だ。とは言え、痘痕面あばたづらの岩肌に浮かぶ凹凸は不規則な段差と化し、平坦な足場を提供してくれはしない。

 厳つい垂直面をじ登り、小さな突起部に足を掛けて次なる岩塊の窪みに指を伸ばす。先に登った男が石槍の一端を降ろして子供に掴ませる。妻が子供の尻を押し、男が引き上げる。その後、殿尾しんがりの妻をも引き上げる。狭い空間に身を寄せ合いながら、一連の連携作業を家族毎に行った。

 足元に注意を払い続けねば、平衡バランスを崩しかねない。滑落の危険と隣合せの重労働。単純な動作の繰り返しでも、強いられる緊張は限度を超えていた。両手を使わねば、その実行は覚束無い。

 だから、死んだ赤児の帯同は早々に断念した。岩場の陰に遺体を安置し、全員で静かに冥福を祈る。仏教伝来前の所作であるから、合掌するでもなく、棒立ちの状態で別れを告げたに過ぎない。

 簡素な弔いの一時ひとときを束の間の休憩とし、一行は再び山頂を目指す。数時間も延々と登坂行為を繰り返し、間近に尾根筋を臨んだ頃だった。精神的に追い込まれ、肉体を酷使し続けた結果、誰もが疲労困憊の体だ。頑健なスサノオですら身体の動きを鈍らせている。

――あと一息・・・・・・。

 当座の到着点を認め、気が緩んだのだろうか。妻を引き上げんと岩場で踏ん張る最中に突然、両腕に伝わる荷重が消え失せる。重心を失った背骨が仰け反り、背後の斜面に尻餅を突いた。唖然とするスサノオの眼前では、仄かに再現した天之河を黒曜石の刃先が差している。

 即座に腹這いとなり、岩下を覗く。あんぐりと口を開けた息子イソタケが驚愕と虚脱の目付きで父親スサノオを見上げていた。中年太りに体重の嵩む妻は、慣れぬ遠足に息を上げ、たるんだ尻を押し上げてもらっていた。

「母さんは?」

 安否を問う言葉も耳に届いていないようで、無反応であった。首を振るでもなく、茫然自失の態。

「母さんはっ?」

 両腕を揺らされながら浴びた怒鳴り声。父親の詰問で正気に返ったものの、少年の表情は瞬く間に強張った。月光に晒されずとも、血の気を失った顔色が白黒モノクロの視界に浮かぶ。恐怖に震える小さな人差指が下方の暗闇を差し示した。

「落ちたのか?」

 コクリと頷く息子イソタケの横に降り立ち、腹這いになって岩下を覗き込んだ。目を凝らせども、夜陰に覆われた山肌の詳細は判然としない。

――日の出を待って、確認に降りるか?

 肉体疲労と脱水症状。火山灰と火山性ガスが強いる浅い呼吸が酸素を欠乏させる。睡眠不足も加わり、集中力は散漫と成らざるを得ない。極限状態の中で石槍を掴む握力を一瞬だけ緩め、重力の虜となったのだろう。

 後続のムルオ家族が(何事か?)と物問顔ものといがおで見上げている。柔らかい肉塊が転げ落ちても、落石と違って、物音を立てない。聴覚が異変を捉えずとも、父子の尋常ならざる様子が如実に物語っている。夫婦揃って背後を振り向き、再び先導者に向き直った。

――相当な時間を無駄にするが、狗奴くぬの追手に捕まらないか?

 家族愛と非情な理性のせめぎ合う自問自答が、スサノオの頭の中で渦巻く。残念ながら、妻は死んでいるだろう。仮令たとえ、九死に一生を得ていても、怪我人を担いで逃げ延びるのは不可能だ。

如何どうする?」

 直下の岩盤で佇立するムルオが不安気な顔で問う。家長の動揺を見透かし、(馬鹿な判断は止めてくれ)と言わんばかりの眼差しだ。一族郎党の運命を優先するなら、結論は決まっている。

 スサノオは苦虫を噛み潰したように口元を歪めた。公私相克の選択を迫られても即決は出来ない。そうこうする内に、アオホ夫婦やイノシ家族も間近に集合し、滑落事故の発生が共有化される。

 全員が自信無げに探るような眼差しを注ぐ中、赤子を死なせたタエの放つ眼光だけが異様に険しい。丸で遺児の仇と逆恨みするかの様に挑戦的だ。その言わんとする主張は明白であった。

 更に数十秒が経過しただろうか。目を逸らし闇の底を覗いていたスサノオは、立ち上がり、息子イソタケと向かい合う。

「前に進もう!」

 全幅の信頼を寄せていた父親から発せられた予想外の言葉。母親を見捨てるとの決断に瞠目する。嫌々と首を大きく左右に振り、承服し兼ねるとの意思を精一杯に伝える。

「助けに行かなくちゃ!」

 母親の臀部に両手を添える自分が押し支えていれば、悲劇は起きなかった――。強い悔恨に苛まれていたイソタケは必至に抵抗する。

「駄目だ!」。「何故っ!?」。「母さんは助からない!」。「確かめもしないで!」。

 押し問答がしばらく続く。我が子が初めて見せた頑迷さに戸惑うスサノオ。挙句、息子の横っ面を引っ叩く。横暴な遣り口には彼も忸怩たる思いを禁じ得ない。しかし、今は時間の浪費を忌避すべき火急の局面なのだ。

「皆の生命いのちを危うくする真似は出来ない・・・・・・」

 自分の非力を思い知らされた少年は、双眸から止めどない涙を溢れさせ、首を左右に振り続けている。

「母さんの事は・・・・・・諦めるんだ」

 絞り出された低い声に呼応して、嗚咽おえつが激しさを増す。酷だと知りながら、「泣くな!」「しっかりしろ!」と叱咤するしかない。しゃくり泣く口を右手で塞ぎ、左手で細い二の腕を強く掴む。何とか冷静さを取り戻して欲しかった。

 しかし、母親への未練を理屈で断つ事なんぞ不可能。むしろ抱き締めて慰めるべきだろうが、育児と縁遠い父親の頭には思い浮かばない。自らも目に涙を溜め、小さな両肩を何度も何度も押し引くしか能が無かった。


 結局の処、可也かなりの時を無駄にしたが、高ぶった感情を持続させるには精根エネルギーが要る。滂沱の涙には沈静の効果が有る。慟哭は勢いを失い、啜り泣きへと変わる。でも、泣き止んだと思ったら、今度は呆然と腑抜けてしまった。

 10歳の子供が目の前で母親を喪ったのだ。慰撫すべき状況であっても、生命の分れ目に甘えは許されない。放心状態で尾根を目指せば、二の舞と成るだろう。スサノオは、息子イソタケを先に登らせ、その尻を押し上げる事にした。

 更に小一時間。登頂を果たす頃には、東の空も白み始め、背後に続く苛烈な岩肌も色彩を伴って姿を現し始めた。残念ながら、眼下の登坂路を見降ろしても、母親の姿は視認できない。岩場の陰になっているようだった。

 荒い息と乱れた心を多少なりと整えた後、今度は外輪山の外側斜面を下り始める。中腹に至る山肌は登坂側と同様に剥き出しの岩地だが、陽光に見守られた歩行は危なげない。

 中腹から疎らに生え始めた木々が山裾の方では森を成している。鬱蒼とした木陰に踏み入った処で軽い食事を摂る事にした。細い煙なら樹木が隠す。山頂からの視界を枝葉が遮り、仮眠も出来るだろう。

 交代で山頂を窺いながら、焚火をおこす。キノコや木実きのみを集め、軽く炙って口に運ぶ。水や道具が無いので煮炊きが出来ず、真っ当な食事とは言い難いが、ようやく人心地が着いた。


 その後、安住の地を求め東南方向の海を目指す。現代地図で彼らの行程をなぞると、外輪山の東南斜面を踏み降り、高千穂経由で延岡に抜けて、日南海岸沿いを更に南下する。足を棒にして何日も歩き通し、宮崎平野の小さな村落まで落ち延びた。

 この地は熊襲くまそ族の中でも辺境域に暮らす分派の住処すみか。千メートル級の山々と日向灘に挟まれ、南北方向に延びた平野部を、地元住民は黒木と自称している。午後の早い時間に太陽が稜線の向こうに隠れ去り、鬱蒼と生えた杉やひのきの針葉樹林が山間への立ち入りを躊躇させるからだった。

 身窄みすぼらしい浮浪者と変わらぬ一行に不審の目を向ける村人達。(触らぬ神に崇り無し)とばかりに距離を置くも、放置は出来ない。対応に苦慮した挙句、判断を仰ごうと村長むらおさ宅に連行する。

 狗奴くぬのスサノオ邸に比べて少し小さ目の竪穴住居。背中を小突かれる侭に出入口を潜ると、囲炉裏越しの向こう正面には日焼け顔の老夫婦が不審気な視線を寄越している。無理もない。彼らは、最果ての地に生まれ、外界を知らずに朽ち果てる境遇なのだ。

 但し、損得勘定は別物である。集団を束ねる者ならば自分と同類に違いない。そう看破したスサノオは、1枚の銅貨(引換証)を差し出し、裁定者を懐柔し始める。80俵の籾米と交換可能な1枚。余所者を養っても十分に釣りが来る。

「村の誰かを邪馬台に遣わせて欲しい。理由わけ有って、俺達自身は行けない」

「邪馬台?」

 十余年も前に一度、此処を訪れた薩摩出身の放浪者を思い出した。その男に拠れば、北の地には女神の統べる大集落が有るそうだ。豊かさ故に、野盗の心配も絶えんのだろう。屈強な男衆が、田畑で働きもせず、狼藉者に目を光らせているらしい。

――此の者共ものどもは追われているのだろう。安易にかくまっては、我が身を危うくしないか?

 スサノオは頑として素状を明かさない。警戒心を露わにした眼差しを見詰め返し、視線を逸らさずに言葉を継いだ。

「案ずるな。有象無象の集落むらが出入りしている。御前達が疑われる事は有り得ない」

――素直に信じて構わないのか?

 収穫量に恵まれぬ黒木人くろきびとは貯米事業ビジネスとは無縁に生きている。彼らにとって銅貨は得体の知れぬ存在。現物を見せられても、その真偽を見極められない。

――まあ、良い。城で窮地に陥っても、逃亡者の存在を白状するだけの事。

 干乾びた指で銅貨を弄びながら、猶も考え続ける。

――邪馬台に垂れ込む方が手っ取り早くないか?

 村長の脳裏を狡猾な思いが横切る。胡乱な瞳の奥に浮かぶよこしまな気配。

「もし俺達を匿い続けるなら、銅貨を全て渡す」

 かさず繰り出された甘言。自分も余禄にあずかりたいとの賤劣な欲望を芽生えさす。そそのかされた方は(煤汚れた格好なのに・・・・・・)と半信半疑で探りを入れた。

「未だ有るのか?」

「ああ。山中に埋めてある」

 自信満々の声。(喰い付いた!)と北叟笑ほくそえむスサノオ。当人も予期せぬ嬉しい誤算で、控え目な笑みが疑心を溶かす。

――出任せの空手形ではなさそうだ。

 小出しにされた情報は欲深者を魅了する。更なる判断材料を求め、問い続けずには居られない。

「何枚?」

「両手両足の指では数え切れないくらいだ」

 期待値を超えた回答に心の天秤は大きく傾いた。真実ならば、突き出すよりも匿うべきだ。密告の報酬が多いとも思えない・・・・・・。

――だが、落人の告白を信じて良いものか?

 疑い出せばきりが無い。無意味な堂々巡りを何処で打ち切るか。欲を出せば、全てを失い兼ねない。

「承知した。だが、預米を引き出せねば、村から追い出すぞ?」

「構わない」


 無事に銅貨は籾米と交換され、スサノオ達は宮崎平野の寒村――檍原あわきがはら――に身を落ち着ける。村長は脚摩乳あしなづち、妻は手摩乳てなづちと名乗った。彼らは八岐大蛇やまたのおろちに娘を差し出す老夫婦として神話に登場する。

 また、伊邪那美いざなみに会わんと黄泉に赴いた伊邪那岐いざなぎは、変わり果てた妻の姿に驚き、現世うつしよへと逃げ帰る。その際にみそぎを行った地こそが檍原。後世、彼の地には江田神社――主祭神は伊邪那岐、配祀神は伊邪那美――が創建される。

 禊を終えた伊邪那岐の左眼からは天照大御神あまてらすおおみかみ、鼻からは須佐之男命すさのおのみことが生まれる。天照大御神とは卑弥呼の化身。彼女との確執を知る人々は、2人を姉弟とする神話との整合を優先し、スサノオを江田神社に祀らなかった。その代替として、男神の伊邪那岐を主祭神に据えた経緯が有る。

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