第07話 敗者に残された道

 放免されたスサノオは、死傷した狗奴くぬ人達を率い、帰還の途に着いた。邪馬台城に向けて意気揚々と出発した1カ月前の日々が懐かしい。あの時は、(熊襲くまそ族との共謀が功を奏し、豊かな暮らしへの切符を手にする筈だ)と、野望の成就を微塵も疑ってはいなかった。

 ところが、今は無残な潰走集団の先導者に成り下がっている。自分の後にはむくろや歩行困難な負傷者を載せた大八車が続き、数少ない健常者が押している有様。スサノオ自身は怪我一つ負っていなかったが、精神的には憔悴し切っていた。

 邪馬台城への突撃に賛同した狗奴人6千人の内、敗残の行列に連なる者は死者も合わせて千人足らず。全員が捕虜として捕えられた者だった。残りの者は、南城門が閉じられた後で城外に取り残され、阿蘇山の噴火を契機に逃げ帰っていた。

 つまり、スサノオの敗退は既に狗奴集落で誰もが知る処となっている。連日夕刻になると、家族の身を案じた村人達が何人も集落の入口まで出向き、首を長くしてスサノオ達の帰還を待っていた。

 疲労困憊でノロノロとしか進まない潰走集団。夕暮れの太陽を背にした男達の影絵を認めた村人達が歓声を上げて駆け出して行く。

 杖を突きながらも歩行可能な家人と再会した家族は幸いな部類と言えよう。歩ける者は家族の肩を借り、三々五々に自宅へと引き揚げる。

 家人の死骸を見付けた家族は茫然自失となり、そして悲嘆の喚き声を上げて大八車に取り縋った。集落の入口は阿鼻叫喚の場と化し、一行は立ち往生してしまう。それでも、次第に居残る人数は減り、潰走集団は雲散霧消しつつある。

 族長として最後まで遺族に引き取られる死骸を見届けねばならず、スサノオは愁嘆場の中に立ち竦んでいる。スサノオ自身の一族郎党が寄り添うように彼を取り囲む。

 狗奴集落にとって謀反の死傷者数は多過ぎた。混乱の渦中に投げ込まれた村人達の間に、スサノオを族長の地位から引き摺り下ろす動きは未だ見られないが、スサノオを憎悪する感情が沸々とたぎっている事は明白であった。スサノオ一族が築き上げた求心力なり権勢は瓦解したのだ。

 境遇の暗転を肌で感じるだけに、スサノオが無事に帰還しても、一族郎党は不安を拭えなかった。


 その夜。久しぶりに帰った茅葺屋根の竪穴式住居では、スサノオの家族だけでなく、一族郎党の5家族全員が深刻な顔付きをして囲炉裏を囲んだ。今後の対応を話し合う為である。

 スサノオ邸の基本構造は他の村人の住居と変わらない。米国原住民インディアンのテントみたく円錐形に葺いた茅葺屋根の一端に出入口が開いているだけで、窓に相当する隙間は無い。中央に囲炉裏を掘った円形の土間に茣蓙を敷いている。部屋を区切る間仕切りは無い。大部屋の面積は、他の村人の住居と比べると、かなり大きい。

 農作業に才能を発揮した代々のスサノオ一族は狗奴くぬ集落の中心的な存在だった。だからこそ族長を務め続けて来たのだが、当然ながら、彼らの住居は集落の中心に構えられている。

 普段ならば権威を象徴する所在地も、今夜に限っては村人に取り囲まれているとしか感じられず、言い知れぬ恐怖の原因となっていた。

(自分の住居が集落の外れにあったら、どんなに安心できた事だろう・・・・・・)

 それが、スサノオ邸に集う一族郎党の本心だった。

「スサノオよ。如何どうやって村人の怒りを宥めるんだ?」

 怪我一つせずに早々と戻っていた従弟が口を開く。彼の名はユダ。スサノオよりも年長なのだが、分家の出自と人望の無さゆえ、族長には推されなかった。

「早く宥めないと、俺達の身が危ないぞ!」

 2番目の従弟イノシが続いてスサノオを糾弾する。女達が身体を強張らせ、その緊張に怖気付いた子供達が母親に獅噛しがみ付いた。スサノオの妻も不安気な顔をして夫の横顔を覗いている。

 スサノオは何も言わず、囲炉裏の炎を凝視みつめ続けた。そんな指摘は言われなくても承知している。邪馬台城から戻る道すがら考え続け、そして、解決策を見出せずに居た。

「逃げるか? 今夜にでも」

 軽弾みに結論を急ぐ従弟をスサノオがジロリと睨む。

「逃げて如何どうする? 如何どうやって暮らして行く?」

 スサノオに詰問されると何も言い返せない。逃げた処で行き倒れる可能性が高い。

「おい、ムルオ!」

 わざと性格の温厚な従弟を呼ぶ。膝組みの中に俯いていたムルオが顔を上げる。

「明朝、集落の全員に言って回れ。働き手を失った家族にはスサノオの籾米を分け与える、と」

「そんな事をすれば、俺達が冬を越せなくなるぞ!」

 計算高いユダが反発する。自分達の高床式倉庫に貯蔵している籾米は一冬分の食糧でしかない。

「そんな事は分かっている。だが、ユダ。俺達が償う姿勢を示さないと、村人達の反発は募るばかりだ。何時いつまでも黙閉だんまりを決め込めないだろう?」

 スサノオの反論ももっともだ。それでも疑い深いユダは納得せず、同じ台詞せりふを静かな口調で繰り返す。

「そんな事をすれば、俺達が冬を越せなくなるぞ。如何どうする?」

「銅貨を籾米と交換する」

「邪馬台城が狗奴人との籾米の交換に応じると思うのか!」

 一度は冷静さを取り戻したユダだったが、激高して大声を上げる。張り詰めた空気に母親達が子供を抱き直す。

「狗奴以外の集落で協力者を探す」

「可能か?」

「コメに憧れる内海の民ならば説得可能だろう。俺達の替わりに籾米を引き出すだけで、幾許いくばくかの籾米を手にするんだ」

 有明海で漁業を生業なりわいとしている人々を内海の民と呼ぶ。

「スサノオよ」

「何だ?」

「銅貨を分散して隠さないか? 俺達4家族も少しずつ銅貨を隠し持てば、一族郎党としての用心になる。村人達が目を光らせる相手は族長のスサノオだ。俺達への監視は弱い」

 スサノオはユダの提案を吟味した。虎の子の秘匿方法としては一理有る。

「分かった。御前達に10枚ずつの銅貨を渡しておく。今夜は自分の家に戻れ」


 翌朝。血気盛んな若者がスサノオ邸の前で騒ぎ始めた。集落中心部の騒動を聞き付けた村人達が続々と集まり、若者を取り囲む。多勢を頼んで、意気軒昂に気炎を揚げる若者。

 不穏な空気を察知したスサノオが茅葺屋根の隙間から外に出た。

「族長! ユダの家が空っぽだぞ! 逃げたんじゃないのか!」

 群衆の間に響動どよめきが広がって行く。猜疑心を露わにしてスサノオを睨んでいる。此処で怯むと、却って暴動を招きそうな雲行きであった。

「本当か?」

 スサノオは大声で疑問の声を上げると、自身も怒り心頭だと態度で訴えた。

「本当だ! 今、ユダの家の中を見て来た。誰も居ない」

「何故、御前はユダの家を覗いたんだ?」

 非を咎められた若者が一瞬だけ怯む。だが、自分を鼓舞するように大声でスサノオに言い返す。

「そりゃあ、族長を信じられないからさ!」

 自棄糞やけくそな一言に誘発され、群衆の間に「そうだ! そうだ!」との声が連鎖する。

(人望を失う羽目に陥ったのならば、村人達をなだすかしても逆効果。寧ろ、外敵の存在を吹聴して脅した方が統率し易いだろう)

 スサノオは機転を利かせ、自ら望む方向へと人心誘導の才能を発揮させた。

「何故、信じられない? 俺は族長だぞ! これまでも狗奴くぬを率いて来たし、これからも率いて行く。

 今、狗奴集落は追い込まれている。邪馬台城の奴らに逆襲される恐れが有る。そんな時に団結を乱して、如何どうするんだ? 奴らの思う壺だぞ!」

 そう逆張りの論陣を敷いたスサノオだったが、

「それじゃあ、ユダは如何どうする?」

 と詰問する声が、今度は群衆の間に広がった。

「身内であっても、裏切りは許さない! 御前らはユダを探し出せ!」

 スサノオは親族討伐を命じた。普段ならばスサノオの命令で群衆は散った事だろう。でも、この日は動かなかった。スサノオに対する不信感が募り、唯々諾々と従う気にならない。

「族長は、籾米と交換する銅貨を独り占めにして、逃げようなんて考えていないだろうな?」

 血気盛んな1人が叫ぶと、再び「そうだ! そうだ!」と追随する声が広がる。

 スサノオは冷や汗を掻いていた。だが、ユダの逃亡は怒りの矛先を逸らせる好機かもしれない。今は目先の危機を乗り切る事こそを優先すべきだった。

「そんな事は考えていない!

 先刻さっきも言っただろう。今は邪馬台城の逆襲に備えて、一致団結すべき時なんだ!

 俺の言葉を信じられないならば、俺の家に見張りを立てれば良いだろう?」

 スサノオが大声で反論すると、「見張っていれば・・・・・・」と顔を見合わせ、ようやく逃亡者捜索の手順を合議し始めた。とは言え、スサノオが指示しなければ、組織立った動きの出来ない村人達であった。


 数日後の深夜。1人の男がスサノオ邸を訪れる。邪馬台城から引き揚げる際、斥候として現地残留を命じておいたのだ。

 その男は、3人の若者がスサノオ邸を巡回する状況を少しだけ怪訝に思ったが、深くは考えなかった。邪馬台兵の襲撃に備えた警護だろう、と早合点したのだ。

「族長に報告する事が有る」

「分かった。通れ」

 短い問答を交わした切りで、見張りは男をスサノオ邸に通した。族長の代行者は定まっておらず、重要な報告を受ける主体はスサノオ以外に居ない。見張りとしても男を拒みようが無い。

 スサノオの目の前で腰を下ろした男は、スサノオ邸に親戚一同が集う状況に少し驚いた。逃亡を防ぐ為に集められたのだが、男は(1カ月も留守にしていたのだから、寂しかったのだろう)と大して気にしない。

「族長! 邪馬台城で新たな動きが有りました」

 常時いつも以上に威厳を漂わせて「うむ」と頷くスサノオ。男は――族長が失脚寸前だ――なんて夢にも思わない。

「安心して下さい。奴らが狗奴くぬを襲って来る可能性は無くなりました。家の周囲に護衛を置く必要は無いですよ」

 男は護衛と見張りを完全に勘違いしている。スサノオも誤解を解くような真似はしない。

「邪馬台城で何が起きた?」

 男は「卑弥呼が自害し、墳墓の建造も始まった」と仔細に報告した。スサノオは眉間に皺を寄せて聞いている。

 ――卑弥呼の墳墓には生贄が捧げられる筈だ。誰を生贄にする?――

(知れた事、このスサノオだ)

 ――邪馬台城が「生贄を差し出せ」と要求したら、狗奴の庶民は如何どうするか?――

(知れた事。喜んで我が一族郎党の身柄を差し出すだろう。応じれば邪馬台城との和睦を期待できる)

 肉親の死を招いた憎き男といえども、相手が族長となれば血祭りに上げる事を躊躇ためらう。だが、替わりに邪馬台城が始末するならば、願ったり叶ったりだ――と北叟笑ほくそえむだろう。

(さて、困った展開になった・・・・・・)

 状況が如何いかに変化しようとも、情報を独占している限りは優勢を保てる。そう考えたスナノオは、男には「夜陰に乗じて狗奴に戻れ」と厳命しておいた。適切な判断がスサノオの活路を拓く。

 報告を終えた男は自宅に戻ろうと立ち上がる。スサノオも後に続く。スサノオ自ら戸口まで見送る行為に男は(族長の憶えが良くて何よりだ)と呑気に考え、何ら警戒心を抱かなかった。

 スサノオは男の背後に立つと、素早く右手で口を塞ぎ、左腕を首に回した。悶絶の挙句に気を失った男がくずおれる。ドサリと鈍い音。茣蓙に座った状態で身体を硬直させる一族郎党。ヒッと息を呑んでも、悲鳴は上げなかった。

「今から逃げるぞ。そうしないと・・・・・・明日には囚われの身となる」

「逃げると言ったって、何処に? ユダを追う者達が四方八方に散っているぞ」

「阿蘇の山奥だ。噴煙の上がる阿蘇山に逃げれば、おそれを成して追って来ない」

 確かに追手の心配は軽くなるが、いきり立つ火の神に自ら近寄るには勇気と胆力が必要だ。前面の虎、後面の狼。・・・・・・沈黙の刻が流れた。

「迷っている暇は無いぞ。コイツの話を聞いただろう?

 卑弥呼様が生命いのちを投げ出したんだ。俺達は一介の庶民に過ぎない。今更、火の神が俺達の生命なんて求めるか? 眼中に無いさ。

 だが、此処に留まれば、俺達は卑弥呼様への生贄として突き出されるぞ」

 スサノオの指摘に全員がうべなう。自分を納得させる為に強く頷いた。

「逃げる前に外の見張りをたおさねば・・・・・・。戦える男は俺も入れて4人。見張りは3人。

 まず、イノシとトクリ。小便に行くと言って、外で隠れていろ。戸口の反対側の方だ。

 ムルオと俺とで戸口の前に回って来た奴を襲う。それと同時に、イノシ達は残りの2人を斃せ。

 武器は無いから、俺がコイツをったように気絶させるだけで良い。決して声を立てさせるな。他の村人が押し寄せて来るからな。

 気絶させたら、此処ここまで引き摺って来い。そうすれば、見張りの交代時間までは逃亡の距離を稼げる」

 こうして、スサノオ達4家族は、夜陰に紛れて狗奴集落を脱出した。


 狗奴くぬ集落から阿蘇山に向かうには真東の方角に徒歩で約3時間。阿蘇山は世界有数のカルデラ地形である。太古の昔に大爆発を起こし、その際に空いた巨大な噴火口の中央部から再度の大噴火を起こして形成された地形だ。だから、航空写真を眺めると、巨大な二重丸に酷似そっくりな地形をしている。

 外側の円――外輪山――の大きさは南北25千米キロメートル、東西18千米キロメートルに及ぶ。その全周を標高1000メートル前後の山々が切れ目なく囲っている。西端だけには切れ目が有り、狗奴集落からは高い山を越さずとも外輪山の中に入り込む事が可能だった。

 スサノオ達は夜の畦道を東へと急いだ。生憎、今夜は半月。夜陰に紛れての逃亡は望めない。急いで集落から離脱しなければ、村人達に発見されるだろう。

 スサノオ夫婦には10歳を過ぎた息子が1人。名をイソタケと言う。日本神話に五十猛神いそたけるのかみとして登場する。

 他の3家族も其々それぞれに子供を抱えるが、年長のスサノオ夫婦と違い、足手まといに成り兼ねない幼子だった。1人は乳離れすら出来ていない赤児だった。幼子を夫が背負い、全員が駆け足で夜道を急いだ。

 軟禁中に自分らの石槍は没収されていたが、脱出の際に斥候の男と3人の見張りから奪った計4本が手元に有る。スサノオ自身と3家族の妻が石槍を握った。

 銅貨も持てるだけ持参している。追手に捕まれば、懐柔手段として。無事に逃げ通せば、その後の暮らしの元手として使う積りだ。


 一時間程で集落の外れを抜ける。見張りの交代までは未だ数刻の猶予。此処ここまでは順調な逃亡劇と言えた。

 天上の高みを目指す上弦の月が寒々とした白光を放つ。照らされた地表では、低下する一方の気温が愈々いよいよ荒寥を深くする。疲労困憊の身体が滋養の源を求め、白い吐息を荒く吹き上げる。気持ちだけは先を急ぐ駆け足の歩幅が狭まり、両脚を繰り出す調子ペースが緩やかとなる。

 基本的には平野部を抜ける行軍だが、田園地帯を通り過ぎた先は自然の支配する荒れ地。ススキやエノコログサ、野生種のアワやヒエ等、腰の高さを上回る程にビッシリと生えた雑草が前途に立ち塞がる。冬を迎えて殆どの雑草が茶色く枯れているが、十分に歩行を妨げる。

 子供を背負っていないスサノオが体力的に最も余裕があり、数百メートル先行している。先頭を切って雑草群に分け入り、踏み固め、後続者に細い獣道を作って行った。

 女の着る貫頭衣かんとういの外観は、現代女性の着用するワンピースに近い。丈が膝辺りまでと長いので、歩幅が裾回りで制約され、徒歩での行軍は男以上に疲れるのだ。逃走中の今は左右の結び目を切り、スリットを入れて歩き易くしているが、男女の体力差は如何いかんともし難い。

 火照った身体が夜風に吹かれる。雑草に邪魔されて歩行速度が落ちてくると、汗を吸った貫頭衣かんとういが冷たくなる。

 オギャー、オギャー。

 草叢の中で赤児の泣き声が響く。夜陰に響いた声は二泣き分だけ。その後は不自然に静寂を取り戻す。それでも不安を感じたスサノオは様子見に後方へと戻って行く。

 後続の誰もが困惑顔で赤児を眺めていた。貫頭衣を脱いで座り込んだ母親が乳房を露わにしている。一方の赤児は、乳首に口を着ける事無く、必死に何かを訴えようとしている。泣き声を上げさせまいと父親が小さな口を塞ぎ、赤児の顔を真っ赤に染めていた。

如何どうした?」

「赤児がムズがっている・・・・・・」

 無理もない。母親が優しく腕の中で揺らす常時いつもとは違う。父親なりに気を配っていても、所詮は歩きながらの所作である。今まで赤児が目を覚まさずに逃亡できた事こそ幸いであった。

「乳を飲みたいんじゃないのか?」

 父親が諦めたように首を振る。

「毛皮が濡れて冷えたんだろう。多分、それが気持ち悪くて・・・・・・」

 縫製技術の稚拙な弥生時代、麻布では小さな産着を作れない。だから、鹿よりも毛足の長い野猪いのししの毛皮で包んで赤児を温める。毛皮に漏らした小便が夜風で冷えたとしても、手元に代えの産着は無い・・・・・・。濡れた産着を剥いでは、赤子の体温が冷気に奪われるだろう。

如何どうする? 待てないぞ! 先を急がないと・・・・・・」

 不安そうな目付きで、スサノオは狗奴くぬ集落の方向を振り返る。追手の気配は無い。

 ――未だ見張り役の交代時間では無いが、誰かが見張りの立っていない事に気付いたら・・・・・・。

 そう考えると、今にも松明たいまつの群れが地平線の向こうに現れそうな気がする。

「赤児の口を抑えて行くか? 途中で息を詰らせるかもしれんが・・・・・・」

 選択の余地は無かった。狗奴の村人達に捕まれば、邪馬台城の奴らに引き渡される。生贄として殺されるか、奴婢ぬひとして扱われるか。それを考えれば、赤児の口を封じて、今は逃げるしかない。

「仕方無い。タエ。行こう。服を着ろ」

 父親はスサノオの方を向かず、地面に座り込んでいた妻に言った。疲弊した表情の母親が、諦めの感情を口元に浮かべ、無言で貫頭衣に身体を通した。ノッソリと立ち上がり、赤児の額を優しく撫でる。だが、口を塞がれた赤児は、涙を浮かべて必死に嫌がっていた。

「ムルオ。御前が抱き続けろよ。女に抱かせると、赤児をあやしたくなる。

 悪いが・・・・・・赤児に泣かれると、全員が捕まってしまう」

 スサノオは父親の肩に手を置くと、「行くぞ」と号令を掛けた。その号令に全員が頷く。


 雑草の生え茂る平原をようやく抜け、外輪山の裂け目に到着した処でスサノオは休憩を入れた。周囲はゴツゴツとした凝灰岩ばかり、草木は殆ど生えていない。此処からの歩行は楽になるが、その替わりに身を隠せなくなる。

 中岳は依然として噴煙を上げ続けているが、火山礫かざんれきや火山弾を降り注いではいない。中岳の山頂から約10千米キロメートルも離れている此処では、火山灰が雪の様に降り注いでいるばかりだ。目の奥に入り込んだ火山灰が眼球を痛め付ける。涙目を薄く開け、辛うじて必要な視界を確保した。

 三々五々に後続の家族もスサノオに追い付いた。2人の父親に背負われた幼子達は眠っている。起きていれば、慣れぬ火山灰に幼子達は「目が痛い」と煩かった事だろう。

 日没時には天頂近くにあった半月が随分と傾いて、外輪山の陰に隠れようとしている。少なくとも外輪山の内側は暗闇に覆われる筈だ。追捕の手から逃れるには好都合であった。

 反面、外輪山を周回して日向ひゅうが方面へと抜けるには、標高差800メートル近くの外輪山を越えねばならない。暗闇の岩肌に張り付き手探りで堅牢な突起物を求め、険しい岩場を登るのだ。しかも暗過ぎて前進者の一挙手一投足は参考にならない。つまり、危険極まりない行為を女子供にまで強いるのだ。

 加えて、外輪山まで川沿いを進まなかった事も浅慮とそしられるだろう。でも、河原の歩行は楽だが、身を隠せない。迂遠な道程を選ぶ精神的余裕も無かったから止むを得ないが、数時間も歩き通した誰もが喉の渇きを覚えていた。

 口を開けて深呼吸したかったが、火山灰が入った口をそそぐ事が出来ないので、仕方無く鼻呼吸で喘ぐ息を整えている。

 そう遣って、スサノオ達3家族が適当な岩に腰掛け、休んでいると、最後の家族が姿を現した。

 母親が赤児を愛おしそうに抱いている。だが、赤児は不自然に静かだった。赤児を抱いた妻を労わるように、夫が妻の背中に手を当てて歩いている。

 スサノオは何も言わず、ムルオ夫婦が岩に腰を下ろす様を眺めた。

 ――赤児は駄目だったみたいだな・・・・・・。

 ムルオ夫婦は最年少だったが、精神的なダメージから最も疲弊していた。スサノオ自身は体力を回復させていたが、もう少しの間、此処で休憩を取る事にした。

 ――夜明け迄には外輪山の頂きに登っておきたい。朝日が昇って明るくならなければ、山向こうの斜面を降りるのは無理だろう。だが、山頂に到達しておけば、逃げ切れる・・・・・・。

 スサノオは中岳から右の方に逸れた外輪山の一画を睨んだ。


 外輪山の内側は御椀の如き構造になっている。カルデラ地形は火山ガスが充満し易い構造なのだ。

 火山ガスの主成分は水蒸気、二酸化炭素、二酸化硫黄。大噴火から10日余りが経過しており、噴火直後に充満した火山ガスの大半は風に吹き散らされていた。それでも、幾許いくばくかの火山ガスは残留している。

 外輪山の裾を歩きながら、硫黄独特の卵の腐った様な臭いを嗅ぎ続けた。口で息をすれば火山灰を吸い込んでしまう。

 外輪山の切れ目で休憩した時には眠り続けていた幼子達も、硫黄の臭気に顔をしかめて目を覚ました。父親達の疲労も溜まっている。此処からは幼子達にも自分の足で歩いてもらうしかない。


 両手を広げた大人が2人でようやく周囲を抱えられる程の大きな岩石が積み重なり、山肌の斜面に埋まっている。厳つい岩石をじ登り、登った岩石を足場として次なる岩石の窪みに指を掛ける。

 先に攀じ登った男が石槍の一端を降ろして妻と子供に掴ませる。男は、妻が尻を押す子供を引き上げ、殿しんがりの妻を引き上げる。

 岩場に平坦な足場は殆ど無い。何人もの人間が同時に一つ処に留まる事は不可能だ。だから、一連の単純作業を家族毎に繰り返した。

 死んだ赤児を連れて行く事は、岩場の厳しくなり始めた段階で断念した。岩場の陰に赤児の遺体を安置すると、静かに冥福を祈った。仏教伝来前の仕草であるから、合掌するでもなく、全員が無言で亡骸を凝視《みつ)めたに過ぎない。

 簡素な弔いの間を唯一の休憩とし、一向は山頂を目指す。数時間も延々と登坂行動を繰り返し、山頂目前の標高まで到着した頃だった。

 ――あと一息・・・・・・。

 スサノオ自身の動きも緩慢になっている。岩場で踏ん張り、石槍で妻を引き上げていた最中。突然、石槍に架かっていた重さが消え失せた。予期せぬ現象に、スサノオは背後の斜面に尻餅を突く。

 唖然とするスサノオの眼前では、石槍の先端で黒曜石が漆黒の星空を差している。即座に岩上で腹這いとなり、岩石の下を覗く。息子のイソタケがあんぐりと口を開け、驚愕と虚脱の目付きでスサノオを見上げていた。

「母さんは?」

 イソタケは、首を振るでもなく、茫然自失の態で無反応であった。

「母さんは?」

 詰問調に叫んだスサノオの大声で我に返り、イソタケは右手で下方の暗闇を指差した。

「落ちたのか?」

 イソタケがコクリと頷く。スサノオはイソタケの横に降り立つと、またも腹這いになって覗き込んだ。

 だが、月光の陰となった山肌の様子を確認する事は出来ない。

 直ぐ後ろを登坂中の家族が(何事か?)と物問顔でスサノオを凝視みつめる。そして、夫婦揃って背後を振り向き、再びスサノオに視線を戻した。

 肉体的疲労と脱水症状。火山灰と火山ガスが強いる浅い呼吸と酸素欠乏。睡眠不足も追い打ちを掛ける集中力の散漫。極限状態の中で、スサノオの妻は石槍を掴む握力を一瞬だけ緩め、滑落したのだった。

 ――如何どうする? 日の出を待って、確認に降りるか?――

 ――相当な時間を無駄にするが、狗奴くぬの追手に捕まらないか?――

 ――残念ながら、妻は死んでいるだろう――

 ――仮令たとえ、虫の息で助けを待っていても、手負いの妻を担いで逃げ伸びるのは不可能だ・・・・・・。

 感情的な家族愛と非情な理性のせめぎ合う自問自答が、スサノオの頭の中で渦巻く。

如何どうする? スサノオ」

 直ぐ下の岩石で立ち竦む男が不安気な顔で質問する。スサノオの動揺を見透かし、(馬鹿な決断は止めてくれ)と言わんばかりの眼差し。

 スサノオは苦虫を噛み潰したように口元を歪めた。指導者として即断するならば、導かれる結論は決まったも同然。だが、心情的に即決できない。

 数十秒が経過しただろうか。闇の底を凝視していたスサノオは立ち上がり、イソタケと向かい合った。

「前に進もう!」

 母を見捨てる決断に息子が瞠目する。そして、嫌々と首を大きく左右に振った。

「母さんを助けに行かなくちゃ!」

「駄目だ! 母さんは助からない! 此処で時間を浪費しては、全員の生命いのちが危うくなる。そんな事は出来ない・・・・・・」

 イソタケの双眸から止めどなく涙が溢れ出た。首を左右に振り続けている。

「母さんの事は・・・・・・諦めるんだ」

 低い声を絞り出すスサノオ。イソタケの嗚咽おえつが激しさを増す。

「泣くな!」

「しっかりしろ!」と叱咤するスサノオ。しゃくり泣く息子の口を右手で塞ぎ、左手で掴んだ息子の腕を激しく揺する。

「御前まで死なす訳柄わけには行かん。母さんだって、御前が生き延びる事を望む筈だ!」

 猶も泣き止まないイソタケの頬を引っ叩く。何度も引っ叩いた。


 ようやく泣き止んだイソタケだったが、今度は抜け殻の様に腑抜けてしまった。10歳を過ぎたばかりの子供が目の前で母親を喪ったのだから、仕方の無い反応であった。とは言え、放心状態で尾根を目指せば、母親の二の舞に成り兼ねない。

 スサノオは、まずイソタケに岩石を登らせ、息子の尻を押し上げる事にした。

 更に小一時間。一行は外輪山の登頂を果たす。その頃には東の空も白み始めており、背後に続く悪夢の岩肌も色彩を伴って姿を現し始めた。残念ながら、眼下を見降ろしても、母親の姿は視認できない。岩場の陰になっているようだった。

 荒い息と乱れた心を少しなりと整えた後、今度は外輪山の外側斜面を下り始める。山頂から中腹に掛けての山肌は岩石に覆われているが、陽光の見守る足下は危なげない。

 中腹からは木々が生え始め、山裾の方では森を成している。森の木陰に踏み入った処で、一行は軽い仮眠を摂る事にした。身を隠す事が出来れば、精神的にも安心できる。

 交代で山頂を見張り、焚火をおこす。キノコや木の実を集め、軽く炙って口に運ぶ。須恵器すえきや水が無いので煮炊きが出来ず、真っ当な食事とは言えなかったが、漸く人心地が着いた。

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