第4話 美しき化身
美化は篠の屍を見詰めた。
「篠さん、悪く思うなよ。あんたが美人過ぎるから、淳乃介さまに気に入られるから、こうなるんだ。後は、任しな。淳乃介さまとねんごろになって、大いに楽しんでやるからさ。暫くあんたの肉体を借りるぜ。その代わり、あんたの肉体には、とびっきりええ目を見させてやるからさ」
美化は、無言で篠の屍に語り掛けた。
「あばよ」
美化は右手で敬礼をすると、楓家の屋敷に向って歩き始めた。
一歩。二歩。
三歩。四歩。五歩。
六歩。
七歩。
八歩。
九歩。
十歩。
そこで、摩訶不思議、美化に大きな異変が起こった。
猫の足から異変が起こり、異変は上へ上へと、大きく一気に変化が起こった。
あああああああああああああああああああああああッ。
猫が人間になった。
美化が篠に化身した。
化身した篠は、辺りを見渡した。
誰も人影は無い。
「これで、良し」
化身した篠は、一言呟くと、何事もなかったような顔をして、しゃなりしゃなりと歩き始めた。
(淳乃介さまに愛されたい。ぎゅ~と、力一杯抱き締められたい。人間として、淳乃介さまを自分の奥深くに迎え入れたい。そして、淳乃介さまを全身の細胞ひとつひとつで感じてみたい。ああ、長かった。何と、長かった事か。長年の夢が、いま叶う。嬉しい。嬉しい。嬉し過ぎる。私は、この瞬間の為に生きて来たのだから)
化身した篠は、内奥から泉のように湧き上がって来る深い深い喜びを、抑える事が出来なかった。
逸る思いに急き立てられ、楓家の屋敷に向う篠の足も、その分速くなった。
楓家の屋敷に着いた。
篠は大きな深呼吸をひとつした。
「落ち着いて。落ち着いて」
化身した篠は、全身の力む力をスーと抜いた。そして、両肩を少し上下に二三度動かせた。
「これで、良し」
「いざ、出陣」
篠が楓家の玄関前に立った。
「ごめん下さい。ごめん下さいませ」
屋敷に中に向って篠が声を掛けた。
「は~い。誰かしら」
急いで中から菊が出て来た。
「あら、篠さま。どうされたの」
菊が篠の顔を見て、何の用かと尋ねた。
「忘れ物をしまして。私とした事が申し訳ございません」
化身した篠が、篠の声色と、言葉遣いを出来るだけ真似て言った。
「何をお忘れになったの」
「扇子でございます。濡れたお茶が乾くまで部屋の隅で乾かしていた物です。ご足労かけて申し訳ございません」
「扇子ね。いま取って参りますので、少し待って下さる」
「すみません」
菊は中へ扇子を取りに行った。
篠は辺りにきょろきょろ目を動かせながら、勝手知った屋敷内を初めて見るような顔をして眺め回していた。
その時、人の気配が近付いて来た。
猫は気配を感ずる能力が、人より数倍優れている。
玄関に出て来たのは、あの憧れの淳乃介さまだった。
淳乃介は手に扇子を持っている。
菊にあなたが持って行くようにと、多分言われたのだろう。
「これ、お忘れ物の扇子です」
淳乃介が微笑みながら扇子を篠に手渡した。
「ありがとうございます。ぼーとしていて、呆れられたでしょう。私(わたくし)いつもこうなんですのよ」
篠が扇子を受け取りながら笑顔で答えた。
淳乃介は篠が化身した篠だとは、全く気付いていない様子。
声色、言葉遣い、化身した篠は、篠に成り切っている。
まるで、篠が化身した篠に、乗り移ったようだ。
「本当にご迷惑をお掛け致しました。では、これで失礼致しとうございます」
篠は頭を下げて、帰る素振りをした。
「陽も沈み女子の一人歩きは、何かと物騒かと。私が屋敷までお送り致します」
淳乃介が篠を送る事を申し出た。
篠は淳乃介がこう言うのを予め予期していた。
「淳之介さまが。それは、悪うございます。私(わたくし)がひとりで帰りますので」
篠は淳乃介の申出を一応辞退した。
「送らせて下さい」
淳乃介は、篠が辞退しても引き下がらない。
「淳之介さまが、そこまで言われるのでしたら、お言葉に甘えさせて頂きます。本当にありがとうございます」
篠の筋書き通りに物事が運んだ。
化身した篠は、内心にんまりとほくそえんだ。
武家の娘らしく篠が淳乃介から一歩下がるようにして、二人は歩き始めた。
篠は、あくまで気高い武士の娘を演じていた。
楚々と歩き、気安い行為やはしたない言葉を、篠は厳しく戒めていた。
(まだ、その時では無い)
篠は、歩きながら時を計っていた。
屋敷が立ち並ぶ一角から、すぐ近くの川沿いの一角に、最近、出会茶屋が出来たのを、篠は小耳に挟んだいた。
次の屋敷を通り過ぎた通りを右折すれば、そこに行ける。
ちなみに、篠の住む五谷家の屋敷は、右折せずにこのまま真っ直ぐ行った所にあった。
通りが交差する右折する地点に差し掛かった。
篠が、そこでぴくっと止まった。
「淳之介さま、最近、この近くに新しいお店が出来たのをご存知ですか」
化身した篠が妙に色っぽい目をした。
「新しいお店?どんなお店ですか」
淳乃介が篠の異常に輝く目を見て行った。
「出会茶屋です」
「えええええ- - -ッ!出会茶屋」
淳乃介が顔の相を変えて驚いた。
気高く楚々と振舞っている武家の娘 篠。
男子と並んで歩く事もしない、格式高き旗本の娘の口から、似ても似つかぬ言葉が火縄銃のように不意に飛び出して来たからだ。
「私、出会い茶屋とか言う新しきものに、非常に興味がありますの。淳乃介さま、もしお宜しければ、連れて行ってくださいませんか」
「ええ、私がですが・・・」
淳乃介は、余りの驚きに口をただぽか~んと開け、人差し指で自分の間抜けた顔を指指していた。
淳乃介は、出会い茶屋がどういう場所かは知っていた。剣術の道場仲間が嬉しそうに話しているのを、小耳に挟んだ事があった。
何でも、うら若き男女が密会を楽しむ場所らしい。凄い場所があったもんだ。こんな場所が商いになるとは、世も末だ。もちろん、淳之介は、まだ一度も、そんな場所に行った事が無い。
それが、それが・・・。今日初めて会った同じ旗本の気高き武家の娘と、行く事になろうとは、淳乃介は夢にも思わなかった。
嬉しい。いや、恥ずかしい。いやいや、怖い。いやいやいや、行ってみたい。いやいやいや、その前に、せめて、見学だけでもしてみたい。
淳乃介が妄想に浸っていると、
「おいやですか」
篠が淳乃介の顔を覗いた。
「いやいや、お供します。私も・・・・」
その後の言葉は、恥ずかしくて淳之介は、唾と一緒に飲み込んだ。
「淳乃介さま、それでは参りましょう」
篠は男子の後ろを楚々と歩く気高い女子が嘘のよう。
戦場にいさましく進軍する兵士のように、篠は胸を張って堂々と、淳之介の前を歩いて行った。
淳乃介は、自分の後ろを楚々と歩く篠と、自分の前を堂々と歩く篠が、全く別人のように思えた。
淳乃介は篠という女性が、良く分からなくなった。そして、今から何が始まるのか、不安を感じていた。
篠は淳之介と結ばれるのが夢だった。
物心付いた時から、淳乃介に憧れ、憧れ、苦しいほど憧れ、それが今では自分で制御できない危険水域にまで達していた。憧れを夢ではなく、現実にまで、篠は狂うように追い求めるようになっていた。
この機会こそ、化身した篠には、夢を現実にする絶好の機会だった。
思いが逸り、楚々と淳乃介の後に従っていた自分が、いつしか淳乃介の先を歩む積極的な自分に知らず知らず変わっていた。
篠は、それに、はっと気が付いた。
(猫を被るのは、よしにしよう。どうせ、すぐに分かる事だ。こうなりゃ、本性を全部見せてやる)
化身した篠は、一世一代の大戦(いくさ)を前にして、身震いし、開き直った。
二人は、それぞれの思いを胸に出会茶屋へと歩を進めた。
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