第31話【傷】

 ネルはパトリックのことを知らないはずなのだ。

 当然のことながら、一度も会ったことはない。

 子守をしていたエイミーにも確認したが、ネルにパトリックのことを話したことは無いという。


 このことがアイリスに与えた衝撃は大きかった。

 やっと落ち着きを取り戻し、冗談まで言えるほどに回復していたのだが、話を聞くやいなや、なか錯乱さくらん状態になってネルに問い詰めた。

 俺は慌ててアイリスを止めたが、ネルはおびえて泣き出してしまった。


「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・。」


 ルイッサに相談することにした俺は、いまだ泣き止まないネルを抱きかかえて会議室へ向かった。

 俺の後ろをついて歩くアイリスは、涙を流しながら繰り返し謝っていた。


 涙を流している理由は、恐らく本人にも良く分からないのだろう。

 パトリックの無事を確認できた喜び、そしてネルを怯えさせた後悔とが混ざり合った結果ではないか。




「・・・驚きました。恐らく、ハルファスを倒して呪いを1つ解呪した結果、呪いそのものの効力が弱まったのでしょう。」


 ルイッサはそう分析する。


「じゃ、じゃあ、兄さんは苦しみから救われたってこと!?」


 アイリスはそうルイッサに詰め寄った。

 ルイッサは首を横に振って言う。


「残念ながらそこまではまだ分かりません。ネル様が落ち着かれたようですので、詳しく尋ねてみましょう。」


 ここまでの道中、肩車をしてやるなどして俺は懸命にネルをあやしてきた。

 その甲斐かいあったのか、ネルは今、泣き止んでいる。


「ネル様、夢のお話を詳しく聞かせていただいてもよろしいですか?」


「・・・うん。」


「夢の中で出会った男性は、銀髪で青い瞳をしていましたか?」


「・・・うん。」


 それを聞いたアイリスが涙を流す。

 パトリックがネルに夢の中で接触を試みた、これに間違いないだろう。


「アイリス様のお兄様であると、その男性はおっしゃったのですね?」


「・・・うん。」


「怖くはなかったですか?」


「ううん、優しそうな人だった。カッコよかった!」


 機嫌が直ったのか、笑顔でそう答えるネル。

 アイリスは俺の横で嗚咽おえつしながら泣いている。


「・・・アイリスお姉ちゃん、大丈夫?」


 ネルがそんなアイリスを心配する。


「ああ、アイリスなら大丈夫だ。アイリスはパトリックのことが大好きなんだよ。だから会えなくて寂しがっているんだ。」


 アイリスの背中を撫でながら、俺はフォローを入れておいた。


「アイリスお姉ちゃん、パトリックさんに会いたいの?」


「・・・うん、とても会いたい。」


 涙を流しながら、そう答えるアイリス。

 それを聞いたネルは笑顔になって言う。


「じゃあ今度来たら会わせてあげるね! だからもう泣かないで、アイリスお姉ちゃん!」


「・・・うん、ありがとう。」


 ネルの優しさに、かすかな笑顔を見せるアイリス。

 だが、涙が止まることは無かった。


「ではネル様、パトリック様はその時、他に何かおっしゃっていましたか?」


「うーん、『レッドバレーに行きなさい。君はその村にある水車の家で生まれたのだよ。』って言ってた。もっとお話ししたかったんだけど、そこで目が覚めちゃった。」


 短い時間しか接触できなかったようだ。

 それでも、ネルの口から具体的な固有名詞が出てきたのは大きな進歩である。


「レッドバレー・・・ランチェスター王国にある村だな。たしかそこは―――。」


 俺はルイッサと目を合わせた。

 そう、レッドバレーは魔神モロクスに半壊させられた村だ。


 どうやら間違いはないようだ。

 だが、疑問も残る。


「パトリックはネルの素性を知っていたのか?」


 俺の疑問にルイッサが答える。


「パトリック様は王宮書庫でモロクスの被害状況についてお調べになっていました。恐らく、その全てを暗記しておいでだったと思われます。そしてネル様の中に入られた時、魔法探査を使ってそれと照合されたのでしょう。」


 恐れ入った。

 あの膨大な資料を丸暗記とは・・・。

 やはりパトリックは普通じゃなかった。

 暗記力もそうだが、こういう事態を予見していたというのは、さすがとしか言えない。


 王宮書庫で照合してみたが、残念なことに、その資料だけでは判別できなかった。

 直接ネルを連れて行った方が良いと判断した俺たちは、資料の一部を持って、そのレッドバレーに向かうことにした。


 盗賊ブラックの『忘却の塔タワー・オブ・オブリビオン』も同じランチェスター国内だ。

 うまくいけば1度に解決できるかもしれない。




 レッドバレーは馬車で半日の距離だった。

 山間やまあいにある、素朴で小さな村だった。


 モロクスの襲撃から10年ち、復興はほぼ完了しているようだ。

 破壊された教会も修復され、新たな入植者も多くいるようだ。


「この村も信心深い村のようだな。」


 村の大きさの割には教会が立派だった。


「ええルーファス、悪魔たちはそういう村を狙っていたようです。」


「くそっ、腹の立つ話だ!」


 虫酸むしずが走るとは、まさにこのことだ。

 この手に持った資料に記されている死者は、全て敬虔けいけんなクリスチャンだということか。


 だが、その時のルイッサの返答は俺の考え方を一変するものだった。


「・・・ルーファス、こういう言い方は不謹慎だと思いますが―――、」


 ルイッサは一呼吸おいて続けた。


「そうであればこそ、悪魔を倒して『解放』する価値があるとも言えます。パトリシアさんではありませんが、こういう村の住民であれば、みんなきっと天国へ行くことでしょう。」


 俺は思わず、呆気あっけに取られてルイッサを見た。


「・・・ルイッサ、やはりお前は大したもんだな。冷静にその考えに至れるというのは、素直にスゴいと思う。」


「ふふふ。誰かさんに怒られましたから、ね?」


 ルイッサは、そういってクスクスと笑った。




 水車の家だ。

 この家は半壊された状態のまま、雨ざらしになっている。

 水車自体も半分に割れ、全く回っていない。


「どうだい? 何か思い出せたかい?」


 ネルは水車のある庭先から家の中まで、くまなく見て回っていた。


「んーん、何も・・・。」


 寝室らしき部屋にはベッドがあるが、ひどくち果てており、元の面影は無いようだ。

 この状態で思い出すのは無理なのかもしれない。

 しかし、ネルは何かに気づいたようだ。


「あれ? でも・・・。」


 それは椅子だった。

 大きなテーブルがあるところを見ると、この部屋は食堂だろうか。

 そこにある椅子のようだ。

 だが、後ろの脚の1本だけが、ひどく傷ついている。


「あれ? あれ? 何でだろ? どうしてこのお椅子を見ていると涙が出てくるの?」


 ネルは大粒の涙を流している。

 アイリスがハンカチでぬぐうのだが、とめどなく流れてくる。

 あの椅子に何か意味があるのかもしれない。


 その時だった。


「そ、そんな・・・そんな、まさか!? どうして!?」


 声のする方を振り向くと、そこには老婆がいた。

 何かに驚き、腰を抜かしているようだ。

 近づいて話を聞こうとしたが、慌てて逃げだし、隣の家に入っていった。


「何かご存知のようですね。」


 俺たちが老婆の入っていった家の前に来ると、中からさっきの老婆とその夫とみられる老人が出てきた。

 老婆の言われるままにネルを見た老人が、老婆同様、ひどく驚いてガタガタ震えだした。


「な、なんと!? なぜ!? なぜじゃ!? ララ、お前は10年前のあの日に・・・。」

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