第6話 少女がテニスをする理由
「お疲れ様ですっ! すみません、お先に失礼しますっ!」
里菜とテニスをするため、部活の終盤になると自分の荷物を纏めて猛ダッシュで帰路に就く。
というのも、幼い妹の面倒を見なければならないという理由で、俺は練習後の後片付けを免除されていたりする。まぁ実際は幼いと言っても、それは容姿だけで、実際は中学二年生なので面倒を見る必要もないのだが。
しかし、少しでも俺のテニスの練習時間を増やすためだと、きっと皆は分かってくれるだろう。俺には、どうしてもテニスで有名にならなければならない理由があるから。
そして自転車を数分漕ぎ続けると、いつもの河川敷へと到着した。
「里菜、お待たせっ」
「お兄ちゃん、遅ーい」
「いや、いつも通りだろ? じゃあ、今日もストロークを重点的に練習しようか」
「うんっ。えーっと、ユキちゃんもそれで良いのかな?」
「おぅ、ユキちゃんも……ユキちゃんっ!?」
昨日同様にジャージ姿で出迎えてくれた里菜の視線の先へ目をやると、茜色に染まるテニスコートの真ん中で、やる気十分と言った感じでユキがストレッチをしている。
まだ寒いとまではいかないけど、ノースリーブの白いシャツに水色のスコート姿というのは夏の格好ではないだろうか。おまけにサンバイザーまで着けてるし。
まぁ動き易い服装であれば何でも構わないけどさ、日差しがきつくないからサンバイザーは要らないよね?
「来たわよ、瑞穂。さぁ、ウチにテニスを教えなさい!」
どうやら、昨日のトレーナーの話が続いているらしい。しかし、国レベルの大会で優勝を狙う選手が、俺をトレーナーにって本気で言っているのだろうか。
まぁでも、もしもユキが自国のトップクラスの選手だったとしたら、俺が教える事は無いにしても、俺が得られる事は沢山ありそうだ。
それに俺の方がテニスで格下だからとユキが呆れれば、もう来ないだろうし、そうすればいつもの里菜との練習に戻れる。とにかく、ユキがどれほどの実力なのかを見てみよう。
「わかった。じゃあ、まずユキ……さんが、どれくらいの実力なのかを見せてくれよ。でないと、俺も何をすれば良いか判断出来ないし」
「ゆ、ユキで良いわ。トレーナーになったんだし、ウチも瑞穂の事を名前で呼ぶ事にしたんだから」
……一応年上だけど、本人が名前で呼べと言っている以上、そう呼ぶしかないか。いや、照れてなんてないから。別に里菜以外の女の子を名前で呼ぶくらい、普通……そう、普通だしっ!
「お、おぅ。じゃあ、ゆ……ユキ。準備運動は……大丈夫みたいだな」
「えぇ、身体は温まっているわ」
どれだけ入念な準備運動をしていたのか、ラケットすら手にしていないユキが、水色のリストバンドで汗を拭ってみせる。
しかし、ユキは水色が好きなのだろうか。リストバンドにサンバイザー、スコートに昨日見た……おっと、また叫ばれても困るので、何も言わないでおこう。とにかく、水色が多かった。
「じゃあ、まずは俺が球出しをするから、軽くストロークを見せてくれ。里菜は、悪いけど少しだけ待っててくれるか? あ、隣のコートでサーブ練習しようか」
「わかったー。じゃあ、サーブ練習して待ってるね」
「悪いな」
双海高校の部活では五面のテニスコートを五十人近くで使うけど、ここならニ面のコートを三人で使えるので、みっちり練習出来る。まぁ、その分球拾いや後片付けが大変だけどさ。
聞くまでもないけど、ユキは外国人だし、テニスと言っているから硬式テニスの事だろう。里菜もそれが分かっているようで、何も言わずにソフトテニスのボールが入った籠を運んで行き、俺は硬式テニスのボールを準備する。
「よし、始めようか……って、ユキ。ラケットは?」
「……ご、ごめん! ウチ、家に忘れてきたみたい」
見てみれば、ユキが泣きそうな顔をしている。随分、本格的な格好だというのに……まぁ仕方ないか。
「家は近い? 取りに帰れる?」
「ううん。ウチの家は遠いから、無理かな。どうしよう……」
「いいよ、とりあえず俺のラケットを使おう。悪いけど、俺はハードヒッターだからガットのテンションも高めだし、グリップもユキのラケットより太いと思うけど……大丈夫?」
「えーっと……うん」
……あれ? 何か、そこはかとなく嫌な予感がする。
実力があるから、どんなラケットでも使いこなせるよって返事ではなく、何言ってるかわからないけど、とりあえず返事しておこうって感じが伝わってくるんだけど。
しかし、プレイを見てみない事には始まらないので、俺のラケット――フランスの老舗メーカー製、黒と水色を基調とした、初心者からトッププロまでが使用している硬式テニスラケットを手渡す。
「ちょっと大きいんだね」
「あぁ、さっきも言ったけど、ユキは手が小さいから。俺のラケットのグリップは太いと思うよ」
「あ、うん。そっちも、そうだね。ウチには、瑞穂のは太くて大きい……」
そっちも? まぁいいや。しかし、男子高校生としては標準的なサイズなんだけど、ユキの手が小さすぎるからな。
「じゃあ、ラケットじゃなくて手で球出しをするから。ラケットは使い難いかもしれないけど、打とうか」
「わかったわ」
ベースライン近くまで籠を移動させ、まず一球。下手投げでユキの近くへボールをふわりと投げてみた。
ユキがしっかりと足を止め、テイクバック――ラケットを後ろへ引いて、腰の回転を使って鞭のようにしならせた腕でラケットを振り抜くと、凄いスピードで飛んで行く……ラケットが!
「俺のラケットぉぉぉっ!」
「あれぇ?」
あれぇ? じゃねーよっ!
もちろん追いつける訳などないのだが、回転しながらネットの上を易々と飛び越えて行くラケットを追いかけて走り出す。
里菜には本当の事を言っていないけど、高校入学と共に硬式テニスへ転向するつもりで小遣いを貯め、用具一式を買い替えたんだ。その中で最も高かったラケットを、こんな事で壊されたら泣くぞっ!
――ふにゅっ……カラン
ネットどころか、反対側のベースラインを楽々と超えた俺のラケットは、防風ネットに当たって地面へ落ちた。
これが高校や有料施設のちゃんとしたテニスコートだったら、防風ネットのすぐ傍にフェンスがあるので、それにぶつかり最悪ラケットが折れていたかもしれない。だけど、この河川敷の無料コートには、風で揺れる些細な防風ネットしかなかった。
今回はそれが幸いし、防風ネットが優しくラケットを包み込んでくれたおかげで、大惨事は待逃れたようだ。よかった……ラケットが折れたら、諭吉さん一枚では到底足りない出費になっていた。
「無事で良かった……助かった」
「ご、ごめんね? あの、ウチがいつも使っているラケットより、重くて太くて大きいから」
「……とりあえず、不慣れなラケットだし、全力じゃなくていいからさ。実力の程がわかれば良いから、頼む……ぜ?」
いや、本音を言えば、もう貸したくないんだけどさ。
とりあえず、先程の様子を見る限りでは……全くの素人では無い。結果としては酷かったけど、足の運びや、身体の使い方に関節の柔らかさなど、目を見張るものがあった。
だけど……俺の推測だとユキは……
「瑞穂ー。もう一回。もう一回お願い」
「あぁ、空振りしても構わないから、ラケットから手を離すのだけは勘弁な」
「う、うん。頑張る」
そう言ってユキがラケットを構えたので、俺はあえて少し遠めに、そして高くボールを投げる。
ユキは軽やかなフットワークでボールの落下地点近くへ行き、そしてラケットを振り抜く。良かった、今度はラケットが空を飛んでいない。
ただ、ボールも飛んでいないが。俺の予想通り、ユキは空振りした。
「うん、わかった。ユキ……ユキは、別のスポーツをやっていたよね。それも、ラケットを使うスポーツ」
「……わかっちゃった?」
「あぁ。ユキはバドミントンをしてたでしょ。それも、かなり長い間。フォームが身体に染みつくくらいにさ」
ユキが小さくコクンと頷く。
俺自身は体育の授業でバドミントンをやった程度だから詳しくはわからないけれど、中学三年生の時――ソフトテニス部の部長だった時に入部してきた一年生の一人が、ユキと同じ特徴を持っていた。
それは、高いボールが来た時の空振りと、手首のスナップ。
前者はバドミントンのシャトルとテニスボールの違い。ふわりと高い球が来ると、バドミントンは羽が付いているからか、テニスボールよりもややゆっくり落ちて来る。そのため、バドミントンに慣れている人程タイミングがズレて空振りしてしまうらしい。
後者はバドミントンで低い位置のシャトルを打つ時に手首を使って打つ事。テニスは足から腰、肩から腕、そしてラケットへと、身体を鞭のようにしならせて打つのが基本だ。
だが、テニスよりもコートが狭くて相手との距離が近い上に、打球スピードがテニスよりも遥かに速いバドミントンでは、手首を使って打つ事が多いらしい。
双海中学ソフトテニス部の一年生は小学生の頃からバドミントンをやっていたそうで、その手首を使った打ち方の癖を矯正出来ず、手首を痛めて辞めてしまったという、苦い思い出があるのだ。
「ユキ、悪い事は言わない。今までバドミントンをしていたのなら、それを続ける方がユキのためだと思う。テニスとバドミントンは同じラケットを扱う球技で、似ているように思えるけど、全く別のスポーツだ」
バドミントンからテニスへの転向だけど、ソフトテニスからテニスへの転向でさえ、かなり苦労している。
いや、ソフトテニスの方がテニスに近しい分、尚更フォームの矯正が難しいのかもしれないが、転向前のスポーツに打ち込んでいればいるほど、似た別のスポーツへの転向は大変だと、俺は身を持って感じているんだ。
俺みたいに、やらなければならない理由があるのなら話は別だが、元々のバドミントンのフォームも崩れてしまい、今の俺の様にどちらも中途半端となってしまう可能性すらある。
遊び程度にやる分には止めないが、大きな大会で優勝を目指すと言う程やると言うのであれば……一ヶ月では時間が到底足りない。
「大丈夫。こう見えても、ウチは運動神経抜群だから。瑞穂が指導してくれたら、絶対に大丈夫だから」
「……どうしてそこまで俺の事を買ってくれているか分からないけれど、本気でテニスをするならフォームの改善が必須になる。その打ち方――手首のスナップで打っていると、確実に手首を痛める。そして、俺はそんな後輩を実際に目の当たりにしてきたんだ」
「フォームも改善する。すぐには無理かも……ううん、すぐに治してみせる!」
「俺がソフトテニスからテニスへ転向して半年経つ。俺はフォアハンドはともかく、打ち方が大きく異なるバックハンドを、未だに苦手としてしまっている。半年だぜ!? 毎日毎日練習しているのに。ユキの目標としている大会はいつだっけ? 一ヶ月後だろ? 無理だっ!」
学生である以上、授業に出ない訳にもいかない。うちの高校は、教育方針に文武両道が掲げられているため、夏休みでさえ夏季講習があったし、部活の時間だって制限されてしまっている。
ユキの運動神経が天才的なものだったとしても、一ヶ月というのは絶望的に時間が足りない。
俺がたったニ球の球出しで、ユキの願いを無理だと判断したためか、ユキがぎゅっと唇を噛み、俺を見上げてくる。
だけど、俺だって暇では無いんだ。テニスで有名になって、突然蒸発してしまった父さんに、俺を見てもらうんだ。かつて、プロのテニスプレイヤーだった父さんに。そして、家に帰って来てもらわなくちゃいけないんだっ!
「それでも……それでも、何とかするからっ! お願い、ウチにテニスを教えてっ!」
見ればユキが目を紅く染めていた。既に瞳から涙が決壊しており、頬に一筋の跡が残っている。
「どうしてだ? どうして、そこまでテニスに拘るんだ?」
「……ウチが住むウォククは小さな王国だから、絶対王政とまでは言わないけど、王族の気まぐれで様々なイベントが開催されるの。……今回のテニスもそう。王族の誰かがテニスにハマって、突然大会を開くって通知があったの」
ユキが俯きながらも、言葉を紡いでいく。だが、自国の事があまり好きではないのか、それとも何か事情があるのか、言い難そうに言葉を選びながら話している感じがする。
「それでね。国内初めてのテニス大会を盛り上げたいからか、全国民がエントリー可能で、かつ成績上位者には凄い賞金と賞品が出るの」
「……まさか、その賞金目当てって事か? それなら、一ヶ月後だなんて無茶な大会を狙わなくても、以降の大会に出場すればいいんじゃないのか?」
「ううん。お金のために、わざわざ遠い日本までやって来ないわ。けど、気まぐれで開かれた大会だから、テニスがそこまで普及していないウチの国だと、次の大会が開かれる保証も無いし……」
「じゃあ、何が目的なんだよ? 有名になりたいとか、そういう事なのか?」
「そう……ね。大きく分けると、そうなっちゃうかな」
随分と歯切れが悪い。そして、ついにはユキが俯いてしまった。
だが、それでも俺を説得するためか、ポツリポツリと口を開く。
「その……ウチの家は、お父さんが居ないから……この大会で優勝出来れば……」
「待った。分かったから……皆まで言わなくていい」
あまり家の話はしたくないのだろう。声が暗く、更に小さくなっていくユキを制して、説明を止めさせた。
俺だってそうだ。ひたすらテニスに励む本当の理由なんて、母さんにも里菜にだって話していない。言えば、母さんが気を使うだろうし、里菜もソフトテニスからテニスへ転向するとか言いかねない。
父さんを探す役割は俺だけで十分だ。里菜まで巻き込む必要無いし、そんな事を気にしないで好きな事を思いっきりやって欲しいと思っている。……まぁこう思ってしまうのも、父さんが居ないから、里菜の兄であり、父親役みたいに過ごしてきたからかもしれないが。
とにかく、ユキは俺と同じなんだ。居なくなった父を取り戻すために、テニスをする。今、藁にも縋ろうとしているユキを身捨てて、俺は父さんに胸を張って会えるだろうか。
「はぁ……俺もお人好しが過ぎるのかな。わかったよ。ユキに協力する。だけど、期限は一ヶ月だけ。ユキと同じように、俺も目的があるから」
「瑞穂っ! ……ありがとうっ!」
俯いていたユキが俺の言葉で顔を上げ、今まで俺に向けた事の無い笑顔で、顔を輝かせている。
くっ……里菜もだけど、この天使のような美少女スマイルはズルい。こんな笑顔を向けられたら、もう何が何でもやるしかないじゃないか。
そんな事を思っていると、護ってあげなければと思える程、小さく見えていたユキが、唐突に仁王立ちとなる。
「じゃあ、瑞穂。早速ウチをしっかり指導しなさいっ!」
「……どうして、そこで急に態度が変わるんだよっ!」
しおらしくしていれば、ユキは可憐な美少女だというのに。
小さく溜め息を吐き、俺は時間の許す範囲でユキに協力してあげようと決めたのだった。
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