殺された絵画
その絵画は引き裂かれた。S市立博物館は日本でも有数の著名な画家であるK氏の最後の絵画を展示していた。題名は人魚。なんでもそれは、K氏の没後百年を記念した展示会のため、遺族によって氏が余生を過ごした別荘を整理していたところ、発見されたらしい。
赤い背景に、繊細なタッチでとても可憐な人魚が描かれた、美しく芸術的価値のある絵画である。
それは展示初日に起こったのだった。そのとき私は、学芸員として博物館に常駐していて、異常を知らせるけたたましいサイレン音を聞いた。飲んでいたインスタントコーヒーを置き、どうしたのだろうかと席を立つ。
「なんですかこれは」
私が駆け付けると、男が警備員に取りおさえられていた。絵画は刃物のようなものでずたずたにされている。思わず私は「ああ」と声を漏らしながら、その絵画に駆け寄った。なんてひどいことを。額縁のなかの人魚は顔を中心に切り刻まれており、修復は不可能に見える。犯人は若い男で、警備員に取りおさえられているのにもかかわらず、全く抵抗がなく、また無表情で、それがとても不気味だった。周りのほかの客はおびえながらも、警備員の迅速な対応に安心したのか、遠巻きに成り行きを眺めている。
「君、私は警察の対応をするから、こいつを見張っていてくれないか」
恰幅のいい館長がどすんどすんと足音を立てて館長室から出てきて私にそう言い、汗をぬぐいながら足早に去っていった。
それからというもの私はこの独房のような博物館の控室で彼と二人きり、机を挟んで彼の睨めつけるような視線にさらされていた。悪いことをしたのは彼だっていうのになんだか自分が取り調べを受けているような気持ちになる。嫌な沈黙が流れ、いてもたってもいられない。こちらの弱気を悟られないように、堂々と刑事のような声色を出すようにして質問した。
「どうしたって、あんなことをしたんだい。きみ」
「あいつを殺さないと。死ねないんだ」
彼はうつろな瞳を揺らしながら言った。あいつとは絵のなかの人魚のことだろうか。それぐらいに執着していて、道づれにしたいというわけか。狂人に相対して話すと、こんなにも私たちが信ずる所の道徳が壊れているものなのかと思わされる。
こういう問答を二度繰り返したあと、部屋の外から館長に呼び出された。
「なに、ちょっと大変なことになった」
「どうなさったんですか」
館長はいつもよりはるかに汗だくで、それに加えなぜだか顔色が青みがかっていた。
「警察の調べたところによるとだ。あいつ、人魚の絵を切り刻んだあいつ。殺人犯らしいんだ」
私は「はぁ」と間の抜けた返事をしたあと、ようやく頭の回転が追いついた。狂人とは思っていたが、人殺しとは。自分の身に危険が迫っていたことを思い身震いした。二人きりの時下手な質問でもしていたら、あの人魚のように顔を認識できぬほどに切り刻まれていたのかもしれない。
そこで、ふいに大きな音がする。それは炭鉱夫が大岩につるはしを一思いに振り下ろしたかのような鋭く重い音だった。音は控室から。急いでドアを開くと、そこには頭から血を流したそいつがいた。机の上に置かれたガラス製の灰皿で自分の頭をかち割ったのだろうか。破片がそこここに散らばって、きらりと光った。彼は気絶しているように身じろぎ一つすらしていない。
「おいおい、絵画を駄目にされた上に死なれちゃ困るよ」
館長は大急ぎでその場をあとにし、固定電話があるところに駆けていった。しばらくして、大声で住所を告げる声が聞こえる。救急車を呼んだのだろう。
私はともかく彼が生きているか確認しようと、近づいた。そうしている間にも血の水たまりは広がり続けていて、それは床が次々に赤く凍結しているようだった。口元に耳を寄せ、呼吸を確認する。すると彼が気絶もせず、何かをしきりに呟いてるのが聞こえた。
「人魚がまだ消えてくれない」
彼が涙を流しているように見えた。
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