人魚の恋
私は身を焦がすような恋をしたの。あるいは身を燃やすようなといってもいいわ。それは破滅でしかないことは間違いがなかったのだけれど。
冬の冷たい雨が降り、小さな虹がかかった日の午後の海辺で、彼に出会った。彼は私には持っていないものすべてを持っていたわ。たとえば、笑顔。たとえば、やさしさ。たとえば、足。彼といると、私が私でいることがなぜだか恥ずかしく感じられて、頭がぼうっとするの。
思い出すだけでもおかしくなっちゃう。彼は私を見たとき、たいそう驚いていたんだから。
「きみは何をしているんだい?」
彼は岩場に座る私を見て、目を丸くしながらそう言った。おかしいでしょう? 普通、人魚に出会った人間はそんなことは言わないわ。「なんてこった」とか「ぎゃあ」とかなら何度も言われたけれど。人間というのはしじゅう失礼な生き物よ。でも彼は違ったの。それで、私、彼に興味を持ってしまったわ。
「日光浴ですの」
本当は空を飛ぶ戦闘機がぽんぽんと爆弾を落とすのが間抜けなさかなのようでおかしくって見ていたのだけれど、なぜだか嘘をついてしまったの。彼によく思われたかったのかもしれないわね。彼はそれに対して「いいね」というと、にこりと笑った。その笑顔はとてもぎこちないものだったけれど、雲のように柔らかくて私を安心させたわ。人間とは話してはいけないと言われていたのだけれど、この人となら、そう思ってしまったの。
「こんなに人目につくところにいていいのかい?」
彼はこちらをうかがうように言ったわ。
「ええ、本当はいけませんわ。こんなところを悪い人に見られでもしたら大変ですから」
「僕が見てしまったのだけれど」
「だってあなたはきっと悪い人ではないでしょう?」
「自分では判断がつかないね」
そう言うと、彼は照れたように頬を掻き、そうして黙ってしまった。ああ、なんてかわいい人なの! 思い返せば私はもうこのときから彼の虜だったのかもしれないわ。
それから何度も海岸で会ったの。禁断の恋というと安っぽい感じがするのだけれど。私と彼は熱くひりつくような真実の恋をしたわ。
あるときは私がずっと岩場で待っていたこともあったし、あるときは水面からふと顔を出すと彼が砂浜に座りじっと待っていてくれたこともあったわ。私と彼は空が夕景に染まるまでずっと、ほんとうにずっと語らっていたの。とてもくだらない話だけれど、宝石のようにキラキラした時間。それは海では味わえないスリリングで刺激的な体験だったのよ。いつも彼は砂浜に座り、私は一番近い岩場に腰かけていたわ。海の底は暖かく、見渡す限りのサンゴの上をふわふわと泳ぐ海月がきれいなのとか。人間たちは争っていてさかなのようなあの戦闘機で、真剣に戦っているとか。彼が「僕もきっと戦場で死ぬのだろう」と湿っぽくシリアスにそう言うのがまたおかしくってたまらなかったの。
「きみに触れていいかい?」ある日彼は、そう言ったの。「きみは本当に美しい」とも言ってくれたわ。彼は緊張していたのか思いつめた顔をしていて、指先はかすかに震えていたの。とてもうれしくって全身に血が一気に流れて飛び上がりそうになったのを今でも覚えているわ。そう、今でも覚えているの。
そして彼は海にざぶざぶと入り、私に触れた。とても熱い手のひらだった。海に住む生物には人間の体温は高すぎるらしいわ。「あっ」と私が言うと彼は驚いたように手を引っ込めて「ごめん」といったけど、私は少しも怒っていなかったの、むしろうれしかった。好きな人に触れることができて。そのとき、この世のものは全て醜く、彼だけが唯一、美しく見えたのを今でも熱さと共に覚えているわ。触れた肩は浅黒くやけどしてしまって、彼は申し訳なさそうにそれをまじまじと見つめていた。そんな顔、しなくていいのに。
彼はそれっきり黙り込んで、しばらくして「さようなら、だ」と告げたの。
「僕は明日、戦場に行く。帰っては来れないだろう」
彼はそう言うと神妙な顔をしたの。
私はしばらく彼にあえないと思うと悲しくなったのだけれど、少しの間だと思いなおし「そう」とだけ言ったわ。
「もし帰ってこれたなら、きみと海の深いところまで行ってみたいよ」
彼はそう言うと、寂しげに笑い、きびすを返してしまったわ。だから私、「一年後、ここでまた会いましょう」って言ったの。
「もし生きていたら」と彼は振り返らずに自嘲気味に言ったわ。でも私は彼が死んでしまわないことを知っていたの。
だって彼が死ぬと私が悲しいじゃない?
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