人魚についての手記
ある朝、私は人魚を見た。比喩や誇張ではなく、下半身が魚で上半身が可憐な少女である人魚を。そのことを書き留めておこうと思う。
それは朝日のまぶしさに目を覚まし、何度かの睡魔を乗り越えてから起き、ブレイクファーストにベーコンエッグを調理しているときのことだった。引っ越してきたばかりで勝手がわからぬ新居にやきもきしながら、ふと目線を上げると、朝露にぬれた窓の向こうの寒々とした四月の海の岩場に彼女はいた。こちらには気づいていないのだろう、物憂げな表情で陸を見つめていた。かつてコペンハーゲンで人魚の像を見たとき、それはただの鉄の塊で情緒がなくて白けてしまったが、実物の人魚はその存在を額縁に放り込んだかのように完成されたものに見えた。水にぬれた肌は絹のようだが、尾ひれはしなやかで力強く無骨だ。しばらく見つめているうちに、加熱していた卵は固まり、ベーコンは黒焦げになっていた。遠くでは空襲の音が聞こえていたのを覚えている。
それからというもの、人魚はいつもその岩場に現れるようになった。上半身は一糸まとわず、寒さにさらされているその姿はどの絵画に描かれている女性より美しく、心を奪われる。この人魚のことは、生涯を果たして誰にも伝えなかった。この美を独り占めにしたいという私の当然の欲望をだれが責められようか?
しかし、一方この美を何らかの形で残しておかねばならないという衝動にも駆られた。それは本当に鋭く鈍い衝動だった。その暴力のような衝動に突き動かされ、とうとう、もう握らないであろうと思っていた筆を手に取るに至った。筆に乗せる絵の具の多くは群青。そして少しのベージュ。それで足りた。いつもは老いのせいか、手が震えて堪らないものであったが、その時は不思議と思い通りに動いていたように感じる。その絵をまるで神話をつづるかのように描く。人魚はいつも岩場に腰かけ、何を思っているのかわからない表情で陸を見つめては、しばらくしてその身を海に沈めていく。あるいは、表情なんてものはないのかもしれない。人間における感情という仮面をかぶっていない彼女はどこまでいってもそのままで限りなく美しかった。
季節が寒さを忘れ始めたころ、戦争は加速していき、私の絵は完成した。カンバスに閉じ込められた人魚とその背景の群青。この作品を彼女に見せたいと思った。思ってしまった。今になって後悔をしても遅いのだが。
人魚はいつもの岩場にいた。久しく外出をしていなかったせいか、日の光がまぶしくよろけてしまう。抱えたカンバスを汚さぬよう慎重に運んだ。
「あなたは?」初めて聞く彼女の声は平生のようだが少し悲しみを感じる声だった。どうやら人魚も日本語を話せるらしい。「私は向こうの家に住むものだが」と言うと、彼女は少しおびえた表情をした。表情がないなんて私の勘違いだったらしい。
「これを見てもらいたくて」と私が口早に言い、カンバスを彼女に見せた。
「これは私でしょうか」困ったような顔、尾ひれがぱたんとかすかに水面を叩いた。水しぶき。
「ええ、あなたがあまりに美しいので」
「そうかしら」彼女はそう言った。
「あなたも私も醜いわ」
そのあと、人魚は波間に消えてしまった。春の海辺だというのに寒気がしたことを、今も昨日のように覚えている。
次の日、近くで石油タンカーが爆撃されたそうだ。海は黒く染まり、日光を虹色に反射させている。それは地獄と天国をごく短時間に連続で再生しているような光景だった。その日から、一度も人魚はあの岩場には現れなかった。石油に呑まれもがき苦しみ、窒息死したのだろうか。それともそんなことは関係なく別の場所に移住してしまったのだろうか。私は心の底で前者を期待しているようだった。彼女は悲劇がよく似合う人魚であった。
私は彼女の絵の群青を朱に塗り替えた。
――画家であるK氏はこの手記を書き終えた三日後、老衰死しているところを発見された。
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