第一幕 されど、姫君は剣をかざす③

 親睦を深めるために必要なのは、相手を知ることだ。

 隣国といっても、リュカリスがヴィッセン帝国について知っていることはそう多くない。

 皇都はこの世のすべてが手に入ると謳われるほど物流がよいことと、星王国を毛嫌いしていること、そしてなにより科学者や学者などが時に王侯貴族よりも尊ばれることくらい。

「調べるといえば……書庫……」

 休みをもらったリュカリスは苦い顔になる。

(私、本とか読まないんだよなぁ……すぐ眠くなっちゃうし……)

 だが、皇太子に嫁ぐならそんなことは言っていられないだろう。

「よし! 気合いだ! 気合いさえ入れればなんでもできる!」

「――ふふ」

「うわっ!?」

 気配を殺して近づいていたのだろう。背後から抱きこまれ、リュカリスは飛びのいた。

 振り返った先には、薄絹をまとった美人が立っている。大きな一枚布から作られた衣装は簡素な意匠だからこそ、美しさをよりいっそう際立たせて見えた。

 相手は腰元まである白金の髪を揺らし、袖口から垂れるドレープで口許を押さえている。

「リリスちゃんったら、本当にかわいいわぁ」

「殿下もいつもながら気配を殺すのが上手いですね。今回も気づけませんでした」

「あら? その他人行儀な口調はいやだわぁ、お兄ちゃんって呼んでちょうだい」

 ぷくりと片頬を膨らませる相手はどこからどう見ても『お兄ちゃん』ではない。

 そこには触れず、リュカリスは恒例の建前を返す。

「これでも一応〈星騎士〉の一員、公私を分けないと示しがつかないですから」

「やだやだやだぁ! お兄ちゃんって呼んでくれないと、廊下でごろごろするわよぉ!」

「キーリ兄上、せっかくの服が乱れちゃうからごろごろはやめてね」

 リュカリスは苦笑いしながら口調を和らげる。

 キーリ兄上――現在王位にもっとも近い王子にして、リュカリスの二番目の異父兄だ。

 吊り上がった目尻に差した朱と相まって蠱惑的な美人――童顔なせいか、美女と呼ぶにはかわいらしい分類に入るが、背は高いし、れっきとした成人男性である。しかもかなりの強者だ。

 いつから女装しはじめたのか定かではないが、今日もまばゆいばかりに似合っている。

「今日も女装なんだね。キーリ兄上、それ動きづらくない?」

「動きやすさなんてどうにでもなるわぁ、人生には遊び心が大事よぉ! あーあ、あいつも早く帰ってこないかしらぁ。からかいがいのある人間がいなくて退屈よぉ」

 あいつとは、今は修行の旅に出ている第一王子――リュカリスの同父兄のことだろう。

 生真面目で桁外れに気位の高い実兄ゼノンはキーリを激しく嫌っているので、さすがのリュカリスも「あ、ははは」と笑ってごまかした。

「あまりゼノン兄上をからかわないであげてね」

「だぁってぇ、この姿だとあいつ怒り狂って面白いんだもーん。戦闘力百倍になるしぃ」

「その百倍相手に勝てるキーリ兄上を、私は尊敬するよ。私の鍛錬もまだまだだね」

 生身ならわからないが、王族はまず生身では戦闘しない。

 その状態だと自分は絶対に勝てないし、他の〈星騎士〉でも勝ち目は薄いだろう。

 けれど、強者であってこそ星王国の王族たりえるのである。

 すべては独立と、永世中立の理念を貫き、国民を護るために。

(でも――今度は、私だって力になれるんだ!)

 星女王の命令を思い出すと胸が躍る。そんなリュカリスに、キーリが小首をかしげた。

「リリスちゃん、なにかいいことでもあったのかしらぁ? いいお顔ねぇ」

「この恰好の時にリリスは――まぁいいけど。あ! キーリ兄上も、母上から聞いた?」

「なぁにぃ? まぁた星女様の気まぐれでも起きたのぉ?」

 星女とは、星女王の敬称の一つである。

 ……あれは気まぐれに分類されるだろうか? 異父兄の揶揄に、首を横に振っておく。

「ちゃんとした命令だよ。私、嫁ぐことになったんだ! もうすぐでキーリ兄上やみんなと気軽に会えなくなると思うと寂しくなるね」

「へえ、ちゃんとした命令なんてめずら………………と、とつぐ……? や、やぁねぇ。あたくし、『研ぎ師に弟子入り』を『嫁ぐ』と聞き間違いしてしまったわぁ」

「弟子入りも興味深いけど、ヴィッセン帝国の皇太子と結婚することになったんだ」

 すぐにではないけど、とも言い添えれば、キーリは目を見開いたまま固まった。

「そうだ! 書庫でヴィッセン帝国について調べるつもりだったのに、忘れていたよ。キーリ兄上、ごめんね。私そろそろ――」

「あぁん!? 俺様の妹が結婚……!?」

「急に大声を出してどうしたの? あと、口調が素に戻っているよ?」

 中途半端を好まない異父兄は女装中だと女言葉を徹底しているのに珍しい。

 リュカリスが指摘しても、キーリの形相は白目をむいたまま変わらなかった。

「んなこたぁどうでもいい! お前、嫁ぐって本気か!?」

「もちろん本気だよ。よりよい未来を切り開く一石になれるようにがんばるよ!」

 握りこぶしを作ってみせると、異父兄はなぜか泡を食って肩を揺さぶってくる。

「そういうことでもねぇ! ……リリス、帝国なんてつまんないぞ? あそこは科学大国だ、誰もお前の稽古の相手なんてできないし! 結婚しなけりゃお兄ちゃんが三百六十五日二十四時間相手をしてやれるぞ?」

「大丈夫だよ! イマジナリー兄弟稽古で補うから!」

「イマジナリー兄弟稽古!? ……いや! それに、帝国の嫁いびりはきついはずだ! 間違いない! 星女にはお兄ちゃんが言っとくから、結婚はやめよう!」

 そう言い募るキーリの必死な様子で、どうも心配してくれているのだと理解した。

 しかしリュカリスも家訓は心得ているので胸を張る。

「三日死闘せすれば男女の別なく絆は深まるって、初代星王の金言だよね。喧嘩を売られた時は拳ひと突きで解決する、はキーリ兄上の言葉だけどさ。心配いらないよ!」

「んんっ期待していた答えじゃないな!」

「楽しみだなぁ。ヴィッセン帝国ってどんなところだろう!」

 にこにこして思いを馳せていると、キーリが廊下に膝をついた。

「だ、ダメだ……初めてのお遣いを任された幼児並みにわくわくしてやがる……!」

「初めてのお遣い! こんな大役は初めてだから言いえて妙だね。さすがキーリ兄上!」

「あぁ~! 俺様の妹ばかわいい! でもそうじゃねぇ!」

「それじゃあ、キーリ兄上。私は書庫で調べ物をするからまたあとでね! 近いうちに私の婚約者が来るらしいから、それまでに勉強しときたいんだ」

 手を振ってから身を翻す。

 だからその背後で呟かれた意味深な一言は、足早に書庫へ向かうリュカリスには聞こえていなかった。

「婚約者が、くる……? ふぅん――なるほど」

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