序章 そして、星は騎士にほほえむ。
「せ、先刻まで昼だったというのに、国境を越えた途端にこれとは……」
声に出すつもりはなかったのだろう。一瞬で夜に切り替わった空を見上げていた側近のハインリヒは、ズレた野暮ったい眼鏡を上げて頭を下げる。
「殿下の御前で、失礼いたしました」
「んー……別にいいよ」
殿下、という呼びかけで背後の話し声が一瞬静まったものの、すぐ「これが例の……」「化け物の国とはまさに……」などといった囁きが聞こえてくる。
煩わしいのも、まとわりつかれるのも嫌いだ。だから偏見の少ない、必要最低限の四人だけ連れてきたというのに、完全に偏見を持たないわけにはいかないようだ。
(……化け物の国、ねぇ)
肩をほぐしながらあくびをする。
自分たちの母国ヴィッセン帝国の隣国にあたるここ――アルビレオ星王国は四方を大国に囲まれた小国だ。
とはいえ、そこらの吹けば飛ぶような小国とはわけが違う。
特別な鉱石や珍しい生糸の織物などの産業に、『交易の要所』であるため徴収できた通行税だけでもかなり豊かで栄えた国であった。
まさに金のなる国だがしかし――有史以来、アルビレオ星王国は無敗神話を誇っている。
一瞬にして夜になった不可思議な現象も含めて、それこそ、帝国人が星王国を『化け物の国』と呼ぶ由縁なのだ。
(……ま、俺にはどうでもいいことだけど)
伏せた瞼の裏に浮かんだのは、国元に残っている弟の姿だった。
出立の準備が終わった自分の前に、寝こみがちな弟が侍女に支えられて現れた。
『兄様……本当に行かれてしまうのですか』
『向こうがこっちに来るなら、一度は出向いとくのが義理らしいしね』
『…………おれは兄様の身が心配です』
弟は大きな目を潤ませて、
『早く、戻ってきてくださいね。おれ、兄様の帰りをずっと待っています』
天使の微笑みだとか讃えられている顔を見ても、これといった感慨はなかった。
ここが真実『化け物の国』でも、相手がどんな輩でも――異形の怪物どころか絶世の美姫だって、自分には関係ない。
心は凍てついたまま動くことはない。国の道具に、心は必要ないのだ。
一行は徒歩で丸二日かけて王都についた。
馬車であれば半日で行ける距離だが、今回だけは互いに敵意がないことを示すため使用できなかった。だから荷物も、同行者同様に最低限のものしかない。
見慣れぬ装束の老若男女が行きかう大通りは賑わいに満ちている。
笑声を背に進めば、王宮が見えてくる。神殿と見まがう純白の威容。そのきらびやかさに目を眇めていると、ハインリヒが耳打ちをしてきた。
「……殿下。あのぉ、なにやら入り口が騒がしいようで」
「迎えでもいるんじゃないの。面倒くさいなぁ……」
気乗りしなかったが、仕方なく近づいていく。
ハインリヒの言う通り、
「リュカリス様ぁ、本日は正面の警護ですのぉ?」
「そろそろ休憩を取られてはいかがです? 今日はまだ休憩を入れてませんでしょう?」
「まぁ大変! 仕事熱心なあなたは素敵だけれど、体を壊してしまいますわ!」
「ささ、こちらで少しゆっくりなさいまし!」
「ありがとう、でももう大丈夫――待ち人が到着したから」
刹那、人垣が割れる。そうして現れたのは、銀朱色の長髪をなびかせた若者だった。
線が細い涼しげな美貌で一瞬女かと思ったが、女官たちの反応と、なにより星王国特有の戦装束で男だと判断する。
星王国は君主以外について――王族とその特異性の情報は、ほぼ諸外国に流れてこない。
だが、戦装束の胸元できらめくブローチ。『星のきらめきと双剣』を模した徽章は、この国では最上位の騎士――〈
〈
つまり、自分たちを出迎えた相手はこの戦闘民族国家でも指折りの騎士ということだ。
ぴり、とハインリヒたちに緊張が走る。
(……このタイミングでの出迎えってことは、
年の頃合いは十九歳の自分よりいくつか下だろう。吹きこんだ風が、高く結い上げた銀朱色の長髪を揺らす。その様は遠い昔に見た、薄紅色の天の川を想起させた。
〈
「……君が、アルトゥール・フォン・ヴィッセン殿か」
切れ長の天藍石の目が柔らかく細まる。親しみをこめた眼差しに、ぞわりと鳥肌が立つ。
条件反射で顔をしかめるも、相手は気にせず一礼した。
「皇太子殿下ご一行の訪れを歓迎する。我が愛すべき故郷にようこそ――婚約者殿」
我が愛すべき故郷は、星王国人が自国を指す際の比喩だ。
にっこりと笑う若者の背後で、女官たちの顔色が顕著に変わっていく。
一瞬、沈黙が落ちた。
「こ、ここここここここ婚約者――――――!?」
叫んだ女官たちがばたばたと倒れると、どこからともなく白衣の集団が現れる。
「あーっ! みなさん、お気をしっかり!」
それぞれ簡易救急キットのようなものを広げていくところを見るに、王宮詰めの医者のようだ。先導していた年嵩の侍医が目頭を押さえた。
「どうしてこんなになるまで放っておいたんだ……!」
「恋はいつでも手遅れっていいますからね……重症です……」
「なんか違わないか……? いやぁしかし、これで恒例行事を見れなくなるのかと思うと寂しくなるなぁ……」
そんなのんきな会話をしながらも、侍医たちは手慣れた様子で処置していく。
「もう大丈夫? みんな、体が弱いのにいつも出迎えてくれてありがとう」
「いやいや、リュカリス様。彼女らは体が弱いのではなくてですな……別の要因が――」
「リュ、リュカリス様ぁ……心配していただくほどのことではありませんわ……!」
「やっぱり素敵ぃ……略奪愛……いける……!」
どこでいけると思った。なんて、突っこめる空気ではない。
護衛役のすっとぼけ具合からして、その主人であろう
だが今は異様としかいいようのない光景に、ただ呆然としてしまう。
――もっとも先進的にして排他的と謳われるヴィッセン帝国、皇太子アルトゥール。
(――――なんなのこれ)
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