第三章あるいは、酒場
街灯が暗くなり始め、夜の帳が降りてくる。半分の人々は、夜を恐れるように家に戻り引きこもる。そして半分の人々は、夜を楽しむために歓楽街を訪れる。
歓楽街には、酒場、カフェ、レストラン、劇場、風呂がある。酒場は三軒、カフェも三軒。レストランと劇場が二軒ずつで、風呂は五軒あった。
情報を集めるとき、おれは必ずこの歓楽街に来る。ここの情報は“生きて”いるからだ。大半は他愛もない酔っぱらいの戯れ言だったりするが、中には見逃せないような情報が時折ある。河原の砂利の中から宝石を探すような作業だが、その分“宝石を手にしたとき”の喜びは形容しがたいものがあった。
「とても賑やかな場所。いや、まぁそれほど人が大勢いるわけもでもないから、賑やかというよりは活気がある、の方がいいかも」
おれは煙草に火をつけてうなずいた。
「その通り。ここは昼間に蓄積された不満や愚痴を吐き出す場所で、人々の負の力によって成り立っている場所さ。恨み、妬み、不平、不満。そういった類のものがあちらこちらで渦巻いている。もちろん、そればかりではないけどな。ここに来るときは気をつけろ。油断していればそういったものに、あっという間に引きずり込まれるぞ」
過去、そうした人間を何人か見てきた。負の臭気にあてられ、気がつけばそれを吐き出す側になっている。そうなってしまうと楽で気持ち良いのだ。不満を言うだけいって、自分はすっきりする。問題解決への意識は皆無であり、ただ、吐き出すことに快感を覚える自慰行為だ。アルコールはその快感を増徴させる。歓楽街がそういった場所になるのは必然だった。
くわえていた煙草を吐き捨てる。それがおれなりのスタートの合図だった。
「おぉい、探偵!」
通りを挟んで向こう側に酒場があり、そこから何人かが手を振っている。くるりと体をそちらに向けると笑って手を振り替えす。だが、足取りを止めることはしない。下手なステップを踏むように歩きながら、ズボンの両ポケットに手を突っ込んだ。
「どこに行くんですか?」
科学者が僅かに不安の混じった声で尋ねる。「目的の酒場がある」とおれはこたえた。
その酒場は三軒の中で最も小さく、狭い酒場だった。おまけに、路地の奥まった部分にあるので、その存在もあまり知られていない。歓楽街にある酒場は二軒、と思っている人の方が多いかもしれない。実際に彼女も、路地に入ってからはずっと訝しげな表情をしていた。
屈まなければ入れない小さなドアを開ける。中は人一人やっと通れるスペースとカウンタ席が五つ。バーテンが読んでいた本から顔を上げ、微笑んだ。
「お久しぶりです。誰かをお連れになるのは、初めてですね」
「まぁ、ね……紹介するよ、科学者だ」
よく磨かれたスティールの丸椅子に腰掛けながら彼女を紹介する。二人は互いに挨拶をした。
「はじめまして、科学者です」
「はじめまして、バーテンダです。科学者、という職業は珍しいですね。“お客人”ですか?」
ウィスキのロックが二つ差し出される。
「そうだ。あんた、科学者という職業について、何か知っているかい?」
「いいえ、申し訳ございませんが存じ上げません」
バーテンダはそれが最も重い罪か何かであるように、目を閉じて静かに首を振る。だが、バーテンダの役割はこれで終わりではない。
「では、ここからは仕事の話だ。科学者という職業について、なにか情報を知っていそうなやつはいるか?」
「探偵様は、まだわたしをバーテンダとしては扱ってくれないのですね」
「あんたは夢をかなえた」
横にいる彼女が驚いているのがわかった。
「だがしかし、夢をかなえた人間が職業を放棄するわけではない。おれの仕事には、あんたのような職業が必須なのでね」
おれはどうだろう。脚本家になったら探偵をやめるだろうか。
「仰るとおりです。そうですね……お客人ということは、センタの登録者にはもうお会いになっていますね? あの老人が駄目だということであれば、図書館にいる知識の守人はいかがでしょうか。いまは……老婦人がいるはずです。彼女自身の知識ではありませんが、蔵書の中から、なにか有力な情報を選定するかもしれません」
「知識の守人も駄目だった。だからあんたのところに来たんだ。最長老はどうだ? なにか知らないだろうか」
バーテンダが再び首を振る。
「もし仮に知っていたとしても、恐らく駄目でしょう。近々、最長老が変わると医者様が仰っておりました。そのためか、最近は意識があるときの方が少ないと。
少し切り口を変えてみてはいかがでしょう。科学者様、差し支えなければあなた様の夢をお教えいただけますか?」
「太陽をつくることです」
おれはバーテンダが驚いているところを初めて見た。といっても、僅かに普段見せない表情が垣間見えただけだ。こんな突拍子もない夢を聞いたら、だれだって驚くだろう。
「さようでございますか。申し訳ございません、少々驚いてしまいました。職業もそうであれば、夢も初めてお聞きするものでしたので。
夢を取っ掛かりに何かわかるかと思いましたが、太陽と聞いて関連づけられるのは、明日の夜、太陽が出ると言っている男がいる、ということぐらいです。これはきっと、科学者様に直接関わりのあることではないでしょう」
ここでも満足のいく情報が得られず、おれは少し焦り始めていた。探偵が情報を集められない。脚本のネタにもならない状況だ。
「料金は?」と尋ねると、バーテンダは首を横に振る。おれは肩をすくめ、二杯分のウィスキ代をカウンタに置いて店を出た。
「なんなの、あの人。なんでバーテンダがあんな色々なことを知っているの」
「守人の時も思ったが、あんたにとってこの町は不思議なことだらけのようだ」
煙草に火をつけて、いま出てきた小さな酒場を振り返る。
「あいつの職業はバーテンダではない。情報屋だ。この町で、誰がどんなことを知っているのかということを常に把握している。バーテンダはあいつの夢だ。あいつは最後の一段をのぼりきった男なのさ」
「そうなの。あたし少し驚いた、あなたがバーテンダの夢のことを言ったとき。夢ってなにか、ほんの一握りの人しかかなえられないものだと思っていたから。目の前にそういう人がいるなんて信じられない、そんな気持ち」
「なるほど。確かにこの町で夢をかなえた人間は少ない。だが、最後には自分の気持ち次第だと思うこともある。自分の夢はかなった、かなわなかった。一体誰が決められる? 自分だ。
もし仮に、おれの書いた脚本が、スクールの学芸会で演じられたとしよう。なにかのきっかけで、書きたくもない子どもが演じる劇を書く。それを見て、誰か一人でも感動したり、いいねと思ってくれれば、おれはその時点で脚本家かもしれない。
つまりは、そういうことなんじゃないかと思うんだ。自分でどこまで持っていけるかだ。最後の一段を踏み外すやつは、自分でそれを高くしすぎたやつか、もしくは何もしないであと一段あといちだんと騒ぎ立てて、勝手に足を滑らせるやつかのどちらかさ」
「実際のところ、あなたはどうなの? あなたの脚本家としての頂上は、どこにあるの?」
先ほど飲んだウィスキが、口の中に粘っこく残っている。何度唾を飲んでもそのからみつくものは口の中から消えなかった。
「……劇場だ。この歓楽街にある劇場でおれの書いた脚本の劇が公演されることが、目的地だ」
「それは結構高いところにあると思う。あなたは、踏み外さない自信があるの?」
「決してそうではない」
だがそれでも体は酒を欲している。
「小さな階段を何段もなんだんものぼるんだ。高配のきつい階段をのぼるのではなく、その倍段がある、もしく倍以上のゆるやかなそれをのぼるのさ。そうすれば、最後の一歩だって、いつもと同じ、軽い足取りで踏み出せばいいんだ」
人通りの多い通りに戻り、あちらこちらから人のざわめきが聞こえる。それは雑音であり、砂嵐のようだ。自分がどちらを向いているのかわからない。回転する風景。人とひと、建物とたてものが混ざり合う。風の音が聴覚を支配した。
だけどそんな中、確かに彼女の存在だけは鮮明だった。
「あなたって、不思議なひと。夢を現実っていう型にはめて考えてるのに、目だけは夢を見失わないように輝かせている。それはある意味陳腐なことだとも思う。それなら足を踏み外した方が様になるかもしれない。だけどいまを、現実を、職業というルールにとらわれて必死に生きているのに、そういう目をしているからいい男なのかもね」
砂嵐が収まってくる。おれはなぜかあがりかけていた呼吸をやっとの思いで整えた。それに気付いた彼女が、おれの肩にそっと手を当てる。
「あたしのこと、ありがとう。まだよくわからないけれど、あなたはとてもよくしてくれていると思うし、いまなんとなく、そのお礼を言うときだと思ったの」
彼女はそこでくるりと回って見せた。白衣、という白い外套がわずかに広がる。
「おれは、探偵だ。客人の、案内役を勤めるのは、おれの義務だからな」
その後、彼女の提案で劇場に行くことになった。今日はちょうど、古い劇が演じられている。おれはその誘いを承諾した。ずっとこのままでいることはルール違反だが、別に客人の案内を何日以内に終わらせる、というルールはない。
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