第一章あるいは、知らない職業
知らないこと。それは愉快であり、恐怖であり、どう解釈するかは自由である。選択の自由。だがそれは、自身の経験、環境によりすでに定められているものであり、すなわち、文化である。他人がどう解釈するか、ということを考えるとき、ぼくは真っ先にその人の文化的な背景をみる。
雨降りだった。だが傘は持っていない。風邪を引くかもしれないと思ったが、自然にそのまま触れること、それがなにかを生み出すときには重要なことだとおれは経験上知っている。だから時折こうして、わざと雨に濡れながら町を歩いた。
この町でおれのことを知らない人間は少ない。探偵という唯一の職業だからだ。だから人はおれが脚本家という夢を持っていると知っているし、脚本家志望の探偵は雨の中傘をささない変人だと笑う。そう、こんな風に町を歩くのもまたおれだけだ。
アパートに戻った頃にはさすがに身体が冷え切っており、おれは粥屋によった。吹きさらしのテーブルには大きな傘が立てられており、そこには粥屋が煙草を吸いながら座っていた。
「変人と笑われるのにはもう慣れたか? 探偵」
向かいに腰掛けて同じように煙草に火をつける。
「探偵じゃない、脚本家だ」
いつもならここで粥屋が笑いながら店内に戻るが、今日は違った。黙って通りの向こうを見つめている。
「……久々の客人だ。いままでいろんな客人を見てきたが、お前と同じように傘をささないやつは初めてじゃないか?」
その言葉におれも目を向ける。見たことのない白い外套を羽織った女が傘をささずにこちらに歩いてくる。確かに「客人」だった。おれは大げさにため息をつく。
「執筆がいい感じで進んでいたのだが、中断か」
この町ではよく人がいなくなる。そして時折こうして、「客人」と呼ばれる人間が現れる。どこから来たのかもわからない。そういう人間の面倒を見るのが探偵という職業の義務だった。客人は自分がなぜこの町に来たのかを知らない。ここがどこなのかも知らない。そんな人間にとって探偵は案内人だった。ここがどんなところかを伝える。そのあとは知らない。気がつけばいなくなっている場合もあるし、居ついていつの間にかおれを、「変人」とほかのやつらと同じように笑っているときもある。案内人は最初の役割を果たした時点で、その人間にとっては不要となり、特別な存在ではなくなる。
そんなことはおれにとって些細なことだが、気が重いのは客人からは金をとれない、ということだ。タダ働き、という言葉が頭の上を飛び回る。まぁそれもいたしかたないことだ。それがルールなのだから。
「おい、ちょっとあんた。まぁ座りなよ。ここから先はまだ長い。道案内無しじゃ風邪引くぜ?」
黙って目の前を通り過ぎようとした女をおれは引き留める。瞳の大きい女だった。雨で髪が貼りついたようになっているが、それでも美人、という印象だ。その風変わりな白い外套をのぞけば。
女は不思議そうな表情で少し考えたあと、小さくうなずくと先ほどまで粥屋が座っていた椅子に腰掛けた。
「長い旅だったのか短い旅だったのか、それは知らない。いまあんたがわかっているのは、職業と、夢だけ。最大の疑問は、“ここはどこだろう?”で間違ってないか?」
「すごい……あたしみたいな人、多いの?」
なかなか頭の回転が速そうだ。これなら道案内も短い間で終わるかもしれない。
「多くはない。だが、あんたみたいな人間を最初に案内するのがおれの役目なんだ。だから、わかる。おれは探偵。この町唯一の探偵だ」
ここでは脚本家であるとは言えない。この町では職業が重要な意味を持つ。おれは脚本家ではないのだ。
「あたしは、科学者」
「カガクシャ? 初めて聞く職業だな。まぁいいか。では明日以降この町について案内する。まずは腹ごしらえだ。おれもあんたもびしょ濡れだからな。風邪を引く前に身体をあたためないと」
タイミング良く粥屋が粥を運んでくる。ぶっきらぼうにテーブルの上に置くと、なにも言わずにすぐに店内に引っ込む。この町の人間は「客人」を嫌う。だがカガクシャはそれを気にすることなく粥を食べ始めた。おれもそれに倣う。
「夢は? 一つあるだろう?」
「太陽をつくること」
「へぇ、これまた叶えるのが難しそうな夢だ。太陽は一ヵ月に一回しか見れない貴重なものだけど、それが毎日見れたら、人々の太陽に対するありがたみも変わるだろうな」
「どうだろう。稀少なものが溢れかえったって価値がさがるとは限らないでしょう? 一ヶ月に一度しか現れない太陽が毎日あればもっと色々な恩恵が受けられて、ますますありがたいものになると思うけど」
「太陽の恩恵ね……おれにはよくわからないけどな」
太陽はきれいだ。空の遠くでキラキラと光っている。この町の誰もが月に一度の太陽を待ち望んでいる、それは確かだろう。だが太陽は必ずしも全員が見れるわけではない。限られた人間のみ、時には一人ということもある。太陽を見れる条件はなにかということは、わかっていない。
「あなたにもあたしと同じような夢があるの?」
「脚本家になることだ。いつか誰もが笑えるような話を書いて、劇場で公演する」
「へぇ、叶うといいね」
「人ごとだな」
町を照らしている明かりの照度が少しずつ落ちてくる。やがて遠くから夜の訪れを告げる重々しい鐘の音が聞こえてきた。時計を見ると十七時を指している。
「夜になった。部屋に戻るぞ」
「探偵にはこのあと、役得があるの? だから探偵をやっていたりするの?」
女性らしいのか、そうでないのかわからない質問におれは苦笑して首を横に振る。
「探偵は、求められて動くものだ。自分からは動かない。求められなければ意味がない。あんたが俺に出会ったのも、ここはどこだろう、どうすればいいのだろう、と疑問を持ち、その答えを求めたからだ。だから、あんたが求めない限り、あんたが想像しているような役得はない。安心しろ。あんたはベッド、おれはソファだ」
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