第15章 意思表示
灯籠の灯りを背負い謎めいた笑みを浮かべるリオネールの心は、アサトとの再会で浮き足立っていた。
「いやーすごいなー。やっぱり君は強いな、惚れ惚れしちゃう戦いっぷりだったよ。
四日ぶりだねアサト、元気そうで何よりだ」
リオネールを見つめるアサトの心はじくじくと傷口が膿んでしまったかのような不規則で鈍い痛みに冒されていた。
その痛みから解放されたくて彼女が視線を落とした瞬間、眼前まで来ていたリオネールの冷たい手が彼女の頬を撫でた。
「敵に慈悲を与えない君の戦い方、残酷でとても愛おしいよ」
目尻を下げて微笑むリオネールが甘く囁くように言うと、アサトは呼吸を乱し震えながらしゃがみ込んだ。パニック状態だ。
状況が呑み込めないリオネールが呆然と彼女を見下ろしていると、キースが彼女に寄り添った。
「アサトは他人に触れられるとパニック状態に陥るんだ」
「パニック状態?」
「昔人間に受けた傷が原因で話すことも、他人と接触することもできないんだ。戦闘に集中している間は稀に接触も可能だが零に等しい」
「そう……君は人間にひどい目に遭わされてきたんだね」
リオネールから表情が消えると、その蒼い瞳が冷たく光輝し、キースに恐怖を感じさせた。だがそれも一瞬のことで、リオネールは再び快活な笑顔を見せた。
「でも僕たちの仲ならきっと大丈夫なはずだよ。ほらアサト、僕を見て」
「記憶がないんだ」
キースの言葉に彼女に手を伸ばそうとしたリオネールの動きが止まると、彼は目を見張ってキースを見下ろした。
「アサトには13年より以前の記憶がない、唯一覚えていたのは自分の名前くらいだった。
君は彼女と知り合いなのかもしれないが、彼女が君のことを覚えていたならこんな反応をするはずがないだろう?」
自身を抱きしめ、捨てられた子犬のように怯え震えるアサトを見つめるリオネールの瞳に悲愴な色が滲むと彼は苦笑した、とても哀しげに。
「ほんと、生きるのはつらいね。とても息苦しいよ」
切ない響きにアサトが顔を上げるとリオネールと目が合う。柔和な灯籠の灯りを映した蒼い瞳を見て、彼女はそれが綺麗だと思った。少し潤んだその瞳をもう少しだけ見ていたいと思った。
「ねぇアサト、僕は君のことを知ってる。君に僕と君のことを教えてあげることができる。信じるか信じないかは君次第だけど、それでも知ることを望むなら僕と一緒においで」
「君の望みもグリムの理想郷を作ることなのか? そのために彼女を利用しようと?」
「理想郷? ああ、それってセンジュくんが言ってたの? 違う違う、僕はそんなのに興味ないし、彼に加担する気もないよ。だから彼とは違う目的でアサトを誘ってるつもり」
それはなんだとキースが睨むように目で問うと、リオネールはふわりと笑って見せた。
「好きな子と一緒にいたいって思うのは当然だろ?」
臆面もなくそう言うリオネールを前に虚を突かれたキースは呆然とした。
突然の告白を受けた当のアサトと言えばパニック状態を乗り越え、ぼんやりとリオネールを見上げていた。だがその瞳だけは普段の無機質とはかけ離れた熱を孕んでいた。
彼の声を聴き、彼の姿を目にすれば彼女の胸は締め付けられる。それはいつも記憶を夢に見るあの男がリオネールなのかもしれないという期待のせいだ。そうであってほしいと彼女は思う。自分の心を乱すあの男が彼であってほしいと。彼女の身体は彼を拒絶する、でも心が知りたいと叫んでいた、彼と自身のことを。
立ち上がりリオネールを見つめるアサトが知りたいと意思表示をしようとした時、彼女の眼前で細い閃光が煌めいた。
それをこめかみに受けたリオネールは、衝撃に身を任せ横倒しになった。漆黒の矢が彼のこめかみに突き刺さったのだ。
アサトとキースが倒れたリオネールを呆然と見下ろしていると、矢が飛んで来た先で弓を構えていたスズネが二人の安否を懸念し大丈夫かと駆け寄った。
「ここを通り掛かったら彼の目が蒼く光ってるのが見えて咄嗟に射たの。怪我はない?」
「ああ無事だ」
キースの返答に安堵するスズネの横で、アサトはぼんやりと倒れたリオネールを見下ろしていた。
こめかみから溢れる鮮血は雪を赤く染め上げている。目を閉ざした彼は死んでしまったのかとアサトが考えていた時、彼は身じろぎ、おもむろに上体を起こした。
「いやぁ~、危なかったなぁ。矢が突き刺さった瞬間結晶化してなかったら脳みそに穴が空いちゃってたとこだよ」
冗談混じりに笑うリオネールが矢を抜き捨てると、こめかみはうっすらと蒼く結晶化されていた。彼の生存に特に疑問を持たないスズネだったが、それよりも疑問なのはグリムである彼に対し感知器が反応しないことだった。
狩人は感知器が反応を示さない〈特別な三人〉の存在をリョウガから報告され認知していた。うち二人がセンジュとアサトであり、残り一人がリオネールだという可能性も。
これらの情報と現状からスズネがリオネールが〈特別な三人〉だと確信した時、彼らの感知器が突然反応し一様にレーザーがリオネールに照射された。
「あらら、感知器が反応しちゃったね、タイムオーバー」
おどけたように笑うリオネールはこの状況を楽しんでいた。
スズネは素早く通信器で応援要請を求めると、至近距離でリオネールに向け弓を構えた。するとどこからともなく漆黒の矢が出現し弦に紡がれる。
「やめたほうがいいと思うよぉ? さっきは不意打ちを食っちゃったけど、次は当たる前に君を殺しちゃうから」
「やってみなさいよ」
「僕は争い事を好まないんだけどなぁ」
「だったら大人しく狩られなさいよ!」
スズネが怒声を上げ矢を放とうとした時、キースが彼女の腕を掴み阻止した。なぜ止めるのかと困惑した視線を彼に向ける。
「少し待ってほしい。アサトには選択すべきことがあるんだ」
わけが分からないと更に困惑を強めるスズネの視界に驚きの光景が飛び込んできた。
積雪に染み込んでいたリオネールの鮮血は刃のように結晶化され、今にも彼女の腹部を貫こうと伸びていた。だが事なきを得たのはアサトが結晶を掴み止めたからだ。
鋭利な結晶に素手で触れたアサトの掌は切れ鮮血を流し、鮮血は結晶を溶かしている。そしてアサト自身も結晶に触れたことで火傷を負った。
「バカだね、僕たちの血は互いを傷つけるんだよ。素手で触っちゃダメじゃないの」
リオネールが子供がしでかしたいたずらを笑って許すように苦笑すると、アサトが掴んでいた結晶は砕け散った。赤く染まった彼女の痛々しい手を見つめ、彼は小さく嘆息した。
「そんなに彼女が大事なの?」
その問いにアサトは、彼女の傷ついた手を見つめ顔を歪めているスズネを見つめた。
大事という感情がアサトには分からない。だが自身のために涙を流し心を痛めてくれる彼女を死なせたくないと思っていた、だからアサトは自身の予想に反した行動を取ったのだ。今まで他人の命は簡単に見捨て、そのことを気に留めることもなかったアサトだが、スズネが死んだらきっと心が痛むのだろうとアサトは自身の変化を実感していた。
長々と話し込んでいると、複数の足音を伴い応援要請を受けた狩人が駆け付けた。その先頭に立つのはリョウガだ。彼は戦闘状況でもないこの光景を怪訝に思った。
「〈特別な三人〉の出現を聞き付けたんだが、これはどういう状況だ?」
「あーあ、また面倒なのが来ちゃった」
リオネールが苦笑する横でキースが簡潔に説明をする。
「彼が〈特別な三人〉の一人です。恐らく彼は我々が手向かわない限り敵意を見せません。
彼の目的はアサトを連れて行くことのようです。共に来れば失われた彼女の記憶を話すと」
「記憶ね……信憑性のない話ではあるが、お前はいろいろと詳しく知っていそうだな」
リョウガがリオネールを見据えれば、彼は子供のような無邪気な笑顔を見せた。
「もちろん知ってるよ。でも君たちと話したくはないかな、それに君たちが知りたい情報をただ話すなんてつまらないこともしたくない。僕は大切な記憶をアサトと話したいだけだよ。
でも今回も退こうかな、邪魔者がうじゃうじゃ沸いちゃって鬱陶しいから」
「逃がさねぇよ。お前には生け捕りになって情報を吐いてもらう。拷問でもなんでもしてな」
怖いなぁと脅えるリオネールはちっとも怖い素振りを見せない、笑顔のままだ。その人をおちょくるような態度がリョウガに剣を向けさせた。
やれやれと肩を竦めるリオネールが踵を返すとアサトは弾かれたように彼の後を追う動作を見せた。それを阻んだのはリョウガだった。一瞬で駆け寄った彼は彼女を羽交い締めにしたのだ。
案の定パニック状態に陥った彼女だが、震えて縮こまる普段とは違い、今回は暴れ反抗を見せた。リオネールに手を伸ばし彼と行くことを全身で表現していた。
「初めてだな、お前が意思表示したのは。だがお前は狩人だろうが、あいつと行くことが裏切りに繋がるとわきまえて耐えろ」
アサトが記憶を知ることはグリムの情報を知ることにも繋がる可能性がある。リオネールの発案はリョウガにとっても魅力的なものではあったが、彼女を行かせることはできない。それはこれ以上アサトの立場が悪くならないための措置でもあった。
聖府は残酷なことも平気でやってのける、アサトの行動が裏切りだと判断されれば彼女は最悪処刑されることだってあり得る。そうなれば事態は今以上に深刻なものになるのだから。
リョウガの腕の中で必死にもがき暴れるアサトを見つめ、リオネールは心底嬉しく笑った。
「嬉しいなぁ。記憶をなくしても僕を求めてくれるんだね。でも、その差し伸ばされた手を握ったら君はきっと苦しむんだろうね」
リオネールの脳裏に先刻のアサトが苦しむ姿が思い起こされる。触れた瞬間の彼女の苦しむ姿は身が引き裂かれるほどの打撃を彼に残していた。
アサトとの別れを惜しみながらも、彼は満面の笑みを浮かべて彼女を見つめた。
「僕にはまだ少し時間がある。だからまた会おうね」
そう言ったリオネールは、人間の身体能力では到底追えない跳躍力で屋根を伝い飛び去って行った。
そんな彼の背中が見えなくなってしまうと、アサトは脱力したように抵抗することをやめ、リョウガの腕の中で震え過呼吸に苛まれていた。
今にも泣きそうな顔で震えるアサトを見つめキースは呟く。
「君がそこまで心乱すのは記憶を知りたいからなのか、それとも彼と行きたかったからなのか、どっちなんだろうな……」
そう問うたところでアサトが答えないことはキースは知っていた。だがアサトの中で答えはぼんやりと出ていた。彼女はまごうことなくリオネールに惹かれている、だから彼を知りたいと望み、彼と行きたかったのだ。
アサトはリオネールが去った方角を見上げた。その紅玉の瞳に切なさと灯籠の灯りを映し、彼の結晶がくれた掌の痛みを握り締めて。
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