第14章 鎮魂祭の夜に

手ですくった凍り付くような冷たさの水を顔に数回掛ければ、眠気はどこかへ吹き飛ぶ。滴を顔に張り付けたままアサトは鏡を覗き込んだ。


長く煩わしかった髪はキースによって肩に付くぐらいの長さまで散髪されていた。やっぱり短いほうがしっくりくるなと思いながら彼女は柔らかなタオルで顔を拭いた。

 

沈むベッドに腰掛け、一心同体でもあるウエストバッグから細長いスケッチブックと色鉛筆を取り出す。


ページをめくれば描かれているのは桜の絵ばかり。彼女の自室の壁面に描かれている桜も彼女の手によって描かれたもの。


桜は遥か昔に滅びたとされている。なぜ見たこともない桜をここまで好きなのだろうと内心疑問に思いながら、桜の絵を描いている時間は心地よいものだった。色彩豊かな色鉛筆も桜色だけが短く削がれていた。

 

何を思うでもなく無心に絵を描いていると、扉がノックされスズネが顔を出した。扉の外にはキースの姿も窺える。彼はアサトの監視としてほぼ常時こうして彼女の側にいるのだ。

 

「随分眠ってたみたいだね、もう夜だよ」

 

スズネの言葉にアサトは今が夜なのだと初めて知る。アサトの自室には窓も無ければ時計も無い、唯一時間確認が可能な銀のバングルも起動していなかったのだから知る由もなかった。

 

「今夜は鎮魂祭でしょ、そろそろ出発だから呼びに来たの。ルイとデュークも待ってるよ。もー、キースったら起こしてくれてもいいのにね」

 

苦笑するスズネを尻目にアサトは出発の準備に取り掛かる。ウエストバッグにスケッチブックと色鉛筆を詰め込み、斜めに背負った。

 

「ねぇ、それじゃあ背中の紋章が見えないんじゃない?」

 

スズネが疑問に思ったのはアサトのウエストバッグの背負い方だった。斜めに背負っているせいで背中に描かれたファングが掲げる獅子の紋章が隠れてしまっていた。


この背負い方に特にこだわりがあるわけではない彼女だが、変えたほうがいいのだろうかとスズネの顔色を窺っていると、当のスズネは特に深く考えてはおらず、行こうと笑顔でアサトを促していた。

 

「あ、そういえば髪切ったんだね。長いのも似合ってたけど、やっぱり短いほうが似合うね」

 

その言葉にアサトが微かに目を細めれば、スズネは満面の笑みを咲かせた。

 

 

リベルターでは毎月第一日曜日の夜、グリムに命を奪われた死者を慈しむため鎮魂祭が催される。参加者は持参した灯籠を夜空に放ち祈りを捧げるのだ。

 

だがこんな哀しみに満ちた時でさえも、時と場所を選ばないグリムは出現する。特に人が大勢集まる鎮魂祭のような場合はグリムの出現数も通常より増加するものだ。


だから毎月の鎮魂祭の夜は巡回に就く狩人の数も倍増されることになっていた。アサトもその一人。

 

街を行き交う人々の手には炎が灯された灯籠が乗っている。灯籠の形は様々だが、人々の顔は一様に悲愴に満ちていた。家族や友人をグリムに奪われたのだ、中には鼻を啜る者もいる。

 

キースと連れ立って巡回に就いていたアサトはそんな彼らを見て思った、彼らの中には自分が見捨てた犠牲者の家族もいるのだろうかと。


例え彼らに責められたとしても、アサトが謝罪することはない。彼女には謝罪の気持ちも罪悪感もないのだから。

 

21時の鐘が第13区を中心に鳴り響く。どこか切ない音色を合図に人々の手から一斉に灯籠が飛び出し、冬の夜空へと昇っていく。


人々の想いを乗せたそれを見上げていたアサトの元に、スズネ、ルイ、そしてデュークが駆け付けた。彼らの手には灯籠が乗っている。

 

「お店で買って来たの。アサトとキースも灯籠飛ばししよう!」

 

そう言ってスズネはアサトとキースに灯籠を手渡した。灯籠の中で揺らめく炎を見つめるアサトの横でスズネは祈りを込めた灯籠を夜空へ解き放った。


彼女に倣うようにルイ、デューク、キースも続けて解き放つ。各々の想いを乗せた灯籠は踊るように上昇すると、数多の想いの中に紛れ見えなくなった。

 

彼らの灯籠を見届けたアサトは自身の灯籠を解き放つことを躊躇っていた。捧げる祈りが見つからなかったのだ。


記憶喪失故に大切な人の死を忘れているだけなのかもしれない、そう思う彼女だが仮に忘れているにしても、今はどんなに心や記憶を探っても祈りの欠片すら見つからなかった。


それでもこの儀式じみた催しに祈りが必要なら、薄っぺらい祈りでも許されるなら捧げようとアサトは灯籠を顔に寄せ目を閉じた。


自分が見捨てた命が、残された者たちのために安らかに眠ってくれるようにと。


仄かな熱を彼女の掌に残し上昇した灯籠は隣に並んだ灯籠と触れ合い、左右に流れながら夜空を目指して飛んでいった。

 

 

スズネたちと別れたアサトはキースと巡回に戻り、人々で埋もれる街中を歩いていた。高層ビルのような建造物はこの周辺にはなく、下町のような雰囲気を持つそこも相変わらず人通りが多い。

 

上を仰げば無数の灯籠がふわふわと踊り、雪上には飛ぶことに疲れたような灯籠が低空浮遊している様がちらほらと窺えた。

 

こんな夜くらいは戦闘など忘れ、静かに感傷に浸りたいものだとキースが思えば、それを許さぬように感知器が反応する。


二人の前方に一体、後方に二体、左右の家屋の屋根に四体、少なくとも今確認できるグリムは七体、どれもアルファに見えるがベータが潜んでいる可能性も否定できない。二人の感知器は忙しなくレーザーを照射し続けている。

 

「行けるかアサト」

 

キースがグリムを警戒しながら問えばアサトは浅く頷く。

 

「君は前後のグリムを頼む。俺は屋根の上のグリムを狩る」

 

漆黒の武器バングルを起動し刀を手にしたアサト、その行動が了解を示していると判断したキースもまた紫紺のバングルを起動し大剣を手にした。

 

金色の眼に殺意を乗せた屋根のグリムが一斉に飛び出すと同時に、キースも地を蹴り飛躍すると、大剣を降りかざし三体のグリムを凪ぎ払った。


だがキースの一撃を回避した一体のグリムは標的をアサトに定め人狼が甲冑を纏ったような防御特化の兜型に覚醒すると、アサトの頭上から襲い掛かった。


その鋭利な爪と牙が突き立てられる寸前、キースが投げた大剣が人狼グリムの背に突き刺さった。


貫通とまではいかなかったが人狼グリムの標的はキースに変更され、傷口から溢れ出た血液が不気味に蠢くと結晶化が始まった。


そうはさせまいとキースが大剣目掛け屋根から飛び降りれば、彼の全体重を受けた大剣はグリムの胸を突き破る。


悲鳴を上げアサトの眼前に倒れか細く呼吸するグリムの血液は、彼らを殺すことを諦めないかのように力なく結晶化をするが、それはキースによって阻止された。彼は大剣を引き抜くとグリムの頭を斬り落としたのだ。

 

絶命したグリムの血液がアサトの頬に付着し結晶化すると、パラパラと剥がれ落ちる。


彼女は背後で一歩彼女らに接近する足音を聞き逃さず一瞬で間合いを詰めると、後方二体のグリムを斬り伏せた。


間髪入れず前方のグリムに接近した彼女の目先で、グリムはキースの倍もあろう巨大な騎士に覚醒を果たした。白銀の甲冑に身を包んだそれは間違いなく兜型。


グリムは自身の唇を噛み切り結晶で身の丈ほどもある大剣を手にすると、振りかざす姿勢を取った。あの巨体が醸す斬撃がかすっただけでも致命的だ。それを理解していたアサトだが臆する気もない。

 

彼女は刀を持つ右手に爪を食い込ませ血を滲ませると、グリムの腹部に潜り込み勢いを殺さず斬り掛かった。


ほぼ同時にグリムも大剣を振るったが、それがアサトの肉を断つことはなく、彼女の斬撃によって一方的な痛みを与えられただけだった。


彼女の掌から生まれた結晶が膜のように彼女自身に張り付き甲冑の役割を果たすことで、グリムの斬撃は虚しくも阻止されたのだ。


アサトの頭部では大剣が停止している、結晶を纏っていなかったら真っ二つになっていたことだろう。

 

浅くても腹を斬り裂かれた痛みは凄まじいもので、グリムは後方に一歩よろけた。それ以上よろけることすら許さぬとでも言うかのようにアサトは斬撃を放った。


数えきれないほどの斬撃で、邪魔な甲冑を破壊し、肉と骨を削ぎ、最後に心臓を一突きすればグリムは倒れ動かなくなった。

 

アサトが纏っていた結晶が砕け散る。建物の陰から傍観していた人々の囁きがキースの耳に届く。


それはアサトの素性を知ってしまった故の非難の声だった。アサトやキースがあのグリムたちを狩らなかったら彼らに被害が及んでいたというのに、彼らのアサトに対する態度にキースは内心呆れ返っていた。

 

これ以上彼らの非難をアサトに浴びせたくないからとキースが彼女と共に早々に立ち去ろうとすると、唐突に拍手が鳴り響いた。


建物の陰からひょっこり顔を出したのは、銀髪の男、リオネールだ。警戒するキースのことなどまるで眼中にないリオネールはアサトだけを見つめていた。

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