第10章 夢の中の男

薄れる意識の片隅でキースがアサトを呼んでいた、ひどく悲痛な声で。


そちらを向こうにも指一本動かせない、全身を激痛が蝕んでいた。彼女は捕縛されたキースの側へと空から落下したのだ。


全身の骨が折れ砕けてはいるが生きているのはグリムの強靭な肉体のお陰だろう、通常の人間なら即死だ。

 

地に降り立つセンジュがサクサクと雪を踏み締めながら彼女に接近する。


とどめを刺す気だと悟ったキースが声を荒げ身をよじってやめろと叫ぶが、センジュにそれに応える義理はない。


グリムの咆哮が消えたこの場所に代わりに響くキースの声、彼女から溢れ出た鮮血は純白の雪を赤く赤く染め上げていく。

 

黒雲から吐き出される綿雪を見上げるアサトは思う、いつも夢に見る景色と同じだと。


この場所を訪れた時、荒廃した景色を知っているような気がしていた。だが彼女の記憶は曖昧でそう断言することは難しい。

 

彼女の顔に影が落ちる。虚ろな彼女の視線の先には彼女を見下ろすセンジュがいる。静かな殺意を灯した金色の瞳を見つめ彼女は思った、自分はここで死ぬのだと。


彼女に命乞いする気はなかったが、例えしたとしても彼が聞き入れてくれるとは思えない。それが理由ではないが、彼女は生きることを諦めていた。


この世に未練などない、動ける身体ならまた戦っただろうがそうではない今、無くなる命ならもがく気もない、ただそれだけの理由だった。


ただ一つ心残りがあるとすれば、夢で見たあの切なく優しい声を持つ男の顔が最期まで分からなかったことぐらいだ。


きっと自身と彼は遠い昔に出会っていた、逢いたかったな、なんて内心呟いたアサトは目を閉ざした。

 

「どうか安らかに、アサト様」

 

センジュの声と共に剣を構える金属音が聞こえた。

 

アサトの瞼の裏に、幾度となく見てきたあの夢の光景が映し出される。霞む男の姿と声、断片的に理解できた言葉。夢から目覚める度に目尻を涙が伝っていた。


ただの漠然とした記憶のはずなのに、なぜこんなに逢いたくなるんだろう、と彼女が自問すれば目尻から熱い涙が伝った。

 

剣が降り下ろされる音が聞こえた瞬間、アサトは弾かれたように目を開き結晶で彼の剣を受け止めていた。思いがけない彼女の行動にセンジュもキースも愕然とした。

 

彼女が吐き出す息は細く弱々しい。結晶化する体力も気力も残っていないはずだったが、彼女はただ一つの記憶に、不確かな想いに突き動かされていた。


あの人に逢いたいと。

 

「見ーつけた!」

 

どこからともなく陽気な声が響いた途端、蒼い斬撃が空を斬りセンジュに襲い掛かった。


それを回避した彼が彼女から距離を取れば、彼女の視界を蒼く光るものが覆い尽くした。蒼い結晶だ。それが円を描くように彼女の周囲に外界から匿う壁のように隔てたのだ。

 

そこに、ちらつく綿雪と共に真っ白なマントの人物が降り立った。黒いリボンで長い銀髪を一括りにした蒼く光輝する瞳を持つ男。男は彼女の傍らに片膝をつくと妖艶で、だがどこか切なげに眉を下げ笑った。

 

「約束しただろ? 必ず君に逢いに行くって、だって僕は君が大好きだからね」

 

夢の中の男の顔はいつも霞んでいてアサトには分からなかったが、声だけは鮮明に覚えていた。同じだった。夢の中で低く、切なく響いていた心地の良い声が眼前の男の声と。


夢の中で紡いでいた言葉は、眼前で微笑む男が言った言葉なのかと彼女は戸惑っていた。でも同じなのだ、眼前の男を見つめ苦しくなる胸の痛みも。

 

「やっと逢えた、アサト」

 

そう言う彼は壊れたアサトの身体を優しく抱きしめた。


壊れた身体のせいなのか彼女はパニック状態にはならず、ただ彼の温もりを感じていた。


彼の手を汚す彼女の鮮血は彼に火傷を与えたが、彼が気に留めることはない。そんな小さなことよりもアサトの温もりを感じていたかったのだ。

 

「ああ、ちゃんと生きてる。心臓が力強く脈打ってる。夢じゃないんだね」

 

震える声で消え入りそうに言う彼はアサトのうなじに顔を埋めた。


頬に掛かる彼の髪をくすぐったいと感じながら、彼女の手が微かに跳ねる。彼を抱きしめたい、その思いから手を動かそうとするものの持ち上げることすら叶わず、もどかしさが募る。

 

彼がアサトが逢いたいと願う人物なのか確信など持てなかった、だがどうしようもなく切なくてただ今は彼を抱きしめたかったのだ。

 

「感動の再会の邪魔をして申し訳ありませんが、今は撤退したほうが良さそうですよリオネールさん」

 

結晶越しにセンジュがリオネールと呼んだ銀髪の男に声を掛ける。


リオネールが彼の目線を追うと、そこにはキースが要請した狩人の援軍が到達していた。その中にはルイやデュークの姿も確認できる。

 

「ほんと、感動の再会が台無しだね。仕方ないなぁ、撤退しますか」

 

リオネールは気だるげに笑うと彼女をそっと横たえ、殺意の眼差しと冷笑をセンジュに注いだ。

 

「よくもアサトをいたぶってくれたね。君にはあとでお礼しなきゃいけないね」


「私は今でも結構ですよ?」


「んー、今は遠慮しとこうかなぁ。せっかく逢えた彼女との余韻に浸りたいし、面倒なのが集まって来ちゃったから」

 

苦笑するリオネールの目先には大勢の狩人が彼らの動きを警戒していた。

 

「では私はお先に失礼致します。またお会いしましょう、アサト様、リオネールさん」

 

恭しく頭を下げ片目だけを隠していた仮面を装着したセンジュは背筋を伸ばし、毅然と歩き去って行った。

 

リオネールは優しい眼差しでアサトを見つめる。

 

「このまま連れ去りたいところだけど、君の傷が心配だから今はお別れ。でもまた必ず逢いに行くよ、だって僕は君が大好きだからね」

 

リオネールは花が咲いたような笑顔を見せるとアサトの冷たい唇に口付けをした。


唇から彼の温もりが離れるのと同時に周囲を覆っていた蒼い結晶は砕け散り、彼女にまたねと囁き歩き出した。


待って、とアサトは心で叫んでいた。自身の名を知っていた彼と話がしたかった、聞きたいことがたくさんある、初めて他人のことを知りたいと思ったのだ。あの優しくて切ない声を持つリオネールのことを。

 

遠ざかっていく彼は振り向かない、それが無性にアサトの胸の苦しみを煽り、彼女はいくつもの涙を溢した。

 

彼女は気付いていないのだ、彼女が彼を求め苦しみを抱くように、彼もまたアサトを求め苦しみを抱いていることを。

 

「ああ、苦しいなぁ……」

 

泣きそうな顔で呟かれた言葉は彼女に届くこともなく雪空へと消えていった。

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