第8章 交渉決裂の行く末

心音がうるさい。アサトはそんなことを思いながら対峙するセンジュを見据えていた。


内心取り乱していることは彼女自身がよく分かっていた。だがなぜだかセンジュを見ていると冷静ではいられない、殺さなければならない、そんな気がするのだからアサトは自身が不思議だった。


今までグリムを殺そうと思って殺したことはなかった。グリムは在ってはならない、そう植え付けられた概念から殺してきたのだ。だから今回のように自身の感情で殺そうと思ったのは初めてのことで、彼女はひどく戸惑っていた。


「お久しぶりです、アサト様。私を覚えていらっしゃいますか?」


恭しく胸に手を当て頭を下げるセンジュから、アサトは一瞬たりとも目を逸らさず見据えている。


お前のことなど知らない、彼女の目がそう物語っている。そんな彼女の言いたいことを察したセンジュは苦笑した。


「では改めて自己紹介を。私はカテゴリーAの生みの親、金色の王センジュと申します。この高層ビルは私がグリムを生み出すために利用していた場所です。

長い間あなたを捜し続けて来ましたが見つからないはずですね、まさか狩人になられていたとは。昔と随分雰囲気も変わられたようですね」


淡々と語られるセンジュの言葉にアサトはただ耳を傾けていた。


彼の背後には張り付けにされたガンズと狩人たちがいる。血を垂らし微動だにしない彼らの渦中で、ガンズは細く呼吸をしていた。四肢を縛られ、うなだれた頭を上げる力も目を開ける力もないが、聴力だけは働いていた。彼もまた静かにセンジュの話に耳を傾けた。


「彼らと出会い、あなたの名を聞くまでは彼らを泳がせておこうと考えていたのですが、それはやめにしました。すぐにでもあなたに会いたくなったのです、再会にふさわしい真っ赤な舞台の上で」


真っ赤な舞台とはガンズらの血で染まったこの場所を指している。


こんな状況を作ってしまった不甲斐なさから、ガンズの拳が僅かに力んだ。


「どうやら何も覚えていらっしゃらないようなので、随分昔にも提案した内容をもう一度あなたに言います。

アサト様、私と共にグリムだけの理想郷を創りませんか?」


この男は何を言っているのだろう、そんな怪訝な眼差しでアサトはセンジュを見据え続ける。


「人間とは醜く卑しい生き物です。馴れ合っていたかと思えば拒絶し、恩を忘れ掌を返したかのように裏切る。脆弱なりに画策し、力ある我々に束になって猛威を振るう。愚かでとても恐ろしいものです」


自分に言い聞かせるように語るセンジュの声はどこか感情的で、苦々しげに視線を足元に落とした。


「人間はとうに忘れてしまったでしょうが、グリムと人間の戦争は人間の裏切りによって引き起こされたのです。

グリムを狩ることで終戦する、それもいいですが我々はどこまでも抗う。人間が生きるために我々と戦うように、我々グリムも生きるために人間と戦う。そして人間のいないグリムだけの理想郷を創る。そのためにはあなたが必要なのですよ、アサト様」


センジュから微笑が消え、真摯にアサトを見つめると皮手袋をした手を差し出した。


彼の言葉に嘘偽りがないことはアサトにも伝わっていたが、グリムの理想郷を創る手助けとして必要だと言われても彼女には到底理解できないし、したくもなかった。


それよりも心底で沸々と煮えたぎる感情が煩わしくて仕方なかった。それはセンジュに対する身に覚えのない殺意だ。


今なお理性を留めているがそれも最早限界、彼の言葉に耳を傾けても彼女には何も響かない、彼の声を聞けば聞くほど苛立ちが募っていく。


たぎる殺意を隠していたはずが無意識にそれを双眸に乗せていた。その眼差しを受けたセンジュは嘆息し差し出した手を下ろした。


「分かり合えないのは残念です。では当初の目的通りあなたを殺すしかありませんね」


センジュが冷淡に言い放った瞬間、高層ビル内から数多の咆哮が雪空に轟いた。それは大地を揺らし、大気を震わすほど凄まじいものだった。


ビルの窓からグリムが溢れ出、人から化物の姿へと覚醒するベータの姿も多く見受けられた。


圧倒的グリムの数に戦慄するキースは苦渋の決断を下す。


「退却だ!」


その決断が腑に落ちないルイは思わず彼に食って掛かった。


「ちょっと待てよ、ガンズのおっさんらはどうすんだよ!? しかも俺らが逃げたらグリムは追って来る、市街地に入ったら一般人は殺されるだろ!」


「手は打ってある。本部に援軍を要請した、すでに出立したとのことだ。俺たちは援軍が到着するまで極力戦闘を避け、奴らを引き付けるんだ。

小隊長らに関しては……ここで見捨てて行く」


その言葉にルイもデュークも、狩人たちも衝撃を受けた。ルイは震える手ですがるようにキースの胸ぐらを掴み、彼の胸に額を押し付けた。


「仲間だろ……見捨てるなんて……」


「部隊を全滅させるわけにはいかない。今は俺たちが生き延び、知り得た僅かな情報を本部に届けることが重要だ」


「仲間の命は重要じゃねぇって言うのかよ!?」


涙を浮かべ、ルイはキースを責めた。だが、キースの顔を見た瞬間それ以上の言葉は出てこなかった、彼の顔はルイと同じ悲痛に満ちていたから。


彼だって仲間を助けたい気持ちは同じ、だが優先すべきものは他にある、ルイは痛む胸を押さえ彼の決断を受け入れた。


上階にまで姿を見せたアルファグリムはそこに人間がいると認識すると、腹を空かせた獣のようによだれを垂らし、その肉を食いちぎろうと彼らに押し迫った。キースチームはキースの指示通り生き延びることを優先し、地上へと無我夢中で走った。


背後から迫り来る死の気配に全身の毛が逆立つのを感じ、アサトは振り向きもせずそれ目掛け刀を一振りした。


すると、今正に彼女を引き裂こうと鋭利な爪が付いた手を振りかざしていたベータの首が飛ぶとセンジュの足元に転がり、血の雨が二人を汚した。


口内に侵入した鉄の味にアサトが一瞬渋い顔を見せれば、彼女は自身の唇を噛み切るという奇行に出た。


口端から鮮血が流れた瞬間、彼女の体を衝撃が襲い地面の感覚を失う。キースが突進する勢いで彼女を肩に担ぎ上げるという強行に出、センジュやグリムから逃れようと疾走したのだ。


案の定彼女はパニック状態に陥り、過呼吸になりながら手加減もなしにキースの背中を殴り続けた。


「どんなに殴られようと君を離す気はない。君は……君だけはどんなことになっても生き延びなければならない」


乱れる呼吸の中でキースは言った。その言葉が彼女に届かないことを知りながら、全身で離せと拒絶する彼女をきつく抱き締めて。


「逃がしませんよ」


不意に背後から聞こえた声にキースの背を悪寒が走った。僅かに振り向いた先には微笑を浮かべ、剣を降りかざしたセンジュがいた。


空を斬り、迫り来る剣がスローモーションのように見えた時、キースは冷静に思った。ここで終わるのかと。


一瞬生きることを諦めた彼だったが、その思いはアサトによって呆気なく砕かれた。斬撃を阻止したのだ。


口端から流れた鮮血が増殖し硬度を持ち、センジュと二人の間に壁を作り、そうまるでグリムの能力のように血液を結晶化させ、瞳を赤く光輝させて。

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