A.M. at T, at Sub A Me. ~子供なら簡単に読める?~

「かつての大戦において魔族は神に大敗した。以降、転生する魔族の一部を、記憶を封印したうえでこの地に召喚し、人間の手によって育てることで更生させるという方策が摂られており……」


「この地における魔族を監視、そして魔界そのものを弱体化させる目的でこの地に暮らすことを義務付けられている、魔族の三王は……」


「過去の記憶を持ったまま何度も転生を重ねてきた我々三王は、定期的に会合を開いて、魔族を、人間界を、秩序という名のレールから逸脱させぬよう綿密な調整を行いつつ……」


「ごめん、飛鳥あすか先生。眠い。もう授業は勘弁」

「すまん、飛鳥。寒い。もうお前の存在、勘弁」


 そうだな、姉ちゃんはいつだって正しい事を言う。

 今は眠気より寒さの方が問題だ。


 寒い。めちゃくちゃ寒い。


 ここは寒いウェヌス・アキダリアの、寒い寒いダイニングキッチン。

 毎週寒い日曜の寒い朝に行われる、魔族三王による寒い定例会談の真っただ中。

 だが、今日はいつもと違うところが三つある。


 一つ目、三王の会議なのに、王様が一人足りない。

 二つ目、いつもなすがままの姉ちゃんが珍しく怒ってる。

 そして三つ目。

 普段は真っ白。ぴかぴかに磨かれた大理石の床。

 ……それが無い。どこにも見えない。


 なぜなら、床の上に厚さ五十センチほどの分厚い氷がびっしり敷き詰められているからだ。


「貴様はばかなのか? あ、いや、これは失言だった。貴様と比べるなど、世界中のばかでいらっしゃる皆様に申し訳ないことをした」

「ふむ、これのことか」


 俺の正面に座ったスーツ姿の男は、エナメルの靴をキンキンに冷えた床で鳴らしながらそう言った。


 白髪のオールバックにインテリ眼鏡。

 神経質そうな視線を横に流す超イケメン。

 彼が三王の一人、海透かいとう飛鳥あすかさん。


 慣れてる俺でさえ、たまにこの人がまともなんじゃないかって勘違いしちまう。

 でも、今日の奇行を見れば誰だって飛鳥さんのことを理解してくれるだろう。


「前回の会合で農作物への被害の話が出ただろう。我がサーバントが調査を行ったところ、現地の土壌が例年に比べてかなり湿潤であることが判明した」

「おお、すげえな。そこの余分な水分を取り除いてここに持って来たんだ。どうしてこんなことできるの? 魔力? それとも科学? それともバカだから?」

雫流しずる君、いい質問だね。これは……」

「説明はいらない。とっとと何とかしなさい。そしてとっとと死になさい」


 姉ちゃん、俺が吐く白い息の向こうでご立腹。

 コート羽織ってるのに、歯の根もあってない。


 怒るゆるふわ茶髪を気にも留めないインテリ眼鏡。

 それが、いつもの無表情を崩して珍しく困ったような笑みを零した。


「おいおい、沙甜さてん。君がこの問題について身銭を切ると言ったからわざわざ大変な作業をしたのだぞ? 本来なら川に流せば済むところだ」

「やっぱりすげえな飛鳥さん。百パーセントの親切心で最悪の嫌がらせとか」

「もういい。あたしが悪かったから、とっととこの氷を消した後、死んでくれ」

「ふむ、それは少々待ってくれ。私はダーツという娯楽を体験したことが無くてな。あれをやるまで死ぬわけにはいかない」

「今すぐ準備してやるから服を脱ぎなさい。心臓を中心に的を書いてやる。交互に矢を投げ込んで、お前が先に中心に当てたなら殺さないでおいてやる」


 凄いな姉ちゃん。自らの手を汚さずに悪魔王を殺す気だよ。

 そしてあんたも凄いな、飛鳥さん。嬉しそうにジャケットを脱ぐな。


 とてもじゃないけど数億もの悪魔を束ねるトップの会話とは思えない。

 まあ、いつもはもっとめちゃくちゃだけど。


 なんたってもう一人の王様、毎度冷凍庫の中にあるもん勝手に食い散らかして、お腹がいたいとか言ってトイレで泣き出すメンドウなバカだし。

 今日は特に寒いから、きっと一口目でごろっぴだ。


「ふむ、ジャケットをかけておく場所が無い。……そうだな、ここにかけてやるか。いくら仇敵とは言え、レディーには優しく。そのままでは寒かろう」


 つるつるな氷の上をすっと歩く飛鳥さん。こういうところはかっこいい。

 きちっと伸びた背筋。

 折り目正しく腕にかけた上着。


 男の俺ですら見とれる優雅な足運びで向かった先の彫刻にジャケットを羽織らせると、そのままワイシャツに手をかけ始める。

 洗練された動きだけど、やってることはバカだ。


 ……ん? 彫刻だって?


 そんなもの屋敷に置くはずがない。

 だって、美優ちゃんに見つかったら即刻おんぶされて倒されちまう。


 そう思いながら飛鳥さんがジャケットをかけた氷の塊をじっくり見たが、確かにそこには彫刻が立っていた。

 氷に覆われた天使の彫刻は、胸の前で両手を組んで祈りを捧げ、膝まで伸ばした見覚えのある銀色の髪をぎゃーーーーーーー!


美嘉みか姉ちゃぁぁぁぁん!!!」


 滑る氷にドリフトしながら必死の思いで氷漬けにされた家族の元へ駆け寄って、涙ながらにインテリバカへと抗議した。


「究極の安眠グッズか!」

「天使はこんなことくらいじゃ死なないがな。かつて私も彼女に数世紀氷漬けにされたことがある。いいかい、雫流君。これを日本語では意趣いしゅ返しと……」

「いいからすぐに溶かせバカもん!」


 俺が𠮟りつけると、飛鳥さんはいつものへの字口のまま氷を人差し指で突いた。

 そこを起点に氷は砕け、美嘉姉ちゃんは俺の腕にぽふっと倒れこむ。


「だ、大丈夫か!」

「…………雫流ちゃん。今度一緒に行こう。子供たちが戯れる綺麗な河原」

「なにそれ? 子供が遊んでた?」

「…………小石を積む遊びをしてた。きっと楽しい」

「その子たち泣いてたでしょ絶対!」


 天使が死んでもあの一級河川に連れてかれるのか?

 そのへんのルールがどうなってるのかちゃんと知りたい。


「ならば、皆で行くか? 沙甜と雫流君も一緒に」

「…………アスタロト。おまえも来る。風光明媚」

「無論そのつもりだ。もっともその場合、魔力で固めた氷を溶かせる者が地球上に誰もいなくなることが問題だが」

「まずは一人で下見して来い」


 椅子から動こうともしないでうんざりしてる姉ちゃんと顔を見合わせて、同時に大きなため息。

 そうだった。そもそも飛鳥さんのことをまともに相手にしちゃいけなかったんだ。


「なんだ、溜息かね。それは良くない。幸せが逃げると聞くぞ?」

「全部逃げ出したから溜息ついたんだよ! このトンチキ!」

「ふむ、荒廃的な心情。悩み事と推測する。学友のことかな?」


 ん? ……そうな、一つ気になってることが無いわけじゃない。

 ちょっと大人の意見も聞いてみたい。

 こういうこと気楽に聞けるのが、飛鳥さんの唯一の美点だ。


「……朱里ちゃんがクラスの連中に嫌われてるみたいなんだ」

「ふむ、大変な事じゃないか。詳しく話しなさい」


 姉ちゃんも、さっきまでのジト目はどこへやら、真剣な表情になってる。


「うーん……。朱里ちゃんの方から、みんなとなるべく関わらないようにしてる? まあこんな学校だし、クラスの連中と接する機会が少ないからそういうもんなのかもしれないけど」


 アエスティマティオ優先だから、俺達種族はまともに授業に出ない。

 だから、クラスの連中と仲良くなろうとする意識は確かに低い。

 でも、彼女の性格的にちょっと違和感があるんだよな。


「……姉ちゃんはどう思う?」

「そんなの姉ちゃんに話してどうしろっていうのよ。自分で何とかしなさい。しー君は男の子でしょうが」

「おお、そこまで言われちゃしょうがねえ。……頑張るか」


 姉ちゃんも飛鳥さんも、ふわっと笑ってくれた。

 うん、大人がくれる笑顔って、なんか信用できる。

 俺の頑張り次第で解決できる。きっとそういうことなんだろう。


 鼻息と共に気合いを入れると、飛鳥さんがポンと肩を叩いてくれた。


「よし、私も少しだけ力を貸してあげよう」

「おお、何してくれるの?」

「朱里君を解剖して原因を探ろう」

「今すぐあんたの頭を解剖してやる」


 いつからだろう、この大物にタメ口を利くようになったのは。


「もちろん解剖には雫流君にも立ち会ってもらう。だが、高校生の君にショッキングな姿を見せるわけにもいくまい。下着姿までで我慢してくれ」


🐦がんっ


「ちょっと喜んじまったじゃねえか、バカ飛鳥」

「それでは早速、美優に連れてきてもらって服を脱がしてもらおう」


 俺が変人に文句を言おうとしたその瞬間、悲痛な叫び声がドアを開いてダイニングへ飛び込んできた。


「ふぇぇぇん! もうやだーーー! 誰か助けて!」


 いつものポニテがほどかれた赤いロングヘアーを振り乱し、半泣きになりながらパジャマ姿で入って来たのは俺の想い人、紅威くれない朱里あかりちゃんだ。

 いや、ちょっと間違い。パジャマ姿俺の想い人、朱里ちゃんと言った方がいいのか?


 下、穿いてない。上も半脱げ。

 ちらちら覗く下着は上下おそろいピンクにレース。

 俺のハートは、こんな凍てつく世界の中で一瞬のうちに沸騰した。


🐦ざばあ


「あっっっちーーーーーーっ! 熱湯っ! あーつあつあつあつっ!」


 鯛か? 美味しく霜降りになるのか!?

 思考ではなく本能に体を支配された俺は、床にダイブして急速冷却。

 氷で締めて歯ごたえまで良くなっちまった。


 朱里ちゃんを追うように、この騒ぎの元凶も乱入。

 今日はいつにも増して好き放題だな、美優ちゃん。


「逃げんな祥子! 美優にもっと剥かせろこれ!」

「素晴らしいな、美優。我が願い、伝える前に叶えてくれるとは」

「注文前に持ってくるピザ屋があるかっ!」


 ご注文いただく三十分くらい前にお届け! デリバリーピザはシャマインへご用命ください♡

 食う時冷めきっとるわ!


 ……朱里ちゃんと美優ちゃんが、椅子に座ったままの姉ちゃんを挟んで鬼ごっこ。

 二人が掴まるたびに氷上を地味に滑るひじ掛け椅子のせいで、バトルフィールドもちょっとずつ動く。


 もはやなすがままになって瞳の色が完全に消えた姉ちゃんが、椅子と共にくるくる回りながらどんどん服を脱がされている。

 美優ちゃんの中のエロ親父、大絶賛暴走中だ。


「美嘉姉ちゃん、助けてあげてよ」

「…………ここで見ている方が面白い」

「なんで姉ちゃんにだけ冷たいのさ」

「…………決してそのようなことは無い」

「だったら……」

「…………私は雫流ちゃん以外、すべての生物に分け隔てなく冷たい」


 最低だ。


「…………愛する妹以外に興味など無い。それより雫流ちゃん、熱湯、気を付ける。物理攻撃とちょっと違う。守れない」


 なるほど、そりゃ怖い。

 でも、そんなこと言っても朱里ちゃんの姿が刺激的過ぎて。

 今もふあっと捲れたパジャマから白いお腹まで見え


🐦ざばあ


 あつっ!

 さっきから目のやり場に


🐦ざばあ


 あつっ!

 一生記憶に残さねばもったいな


🐦ざばあ


「いてえ!」


 永遠に続くかと思われた熱湯打たせ湯が止まった。

 誰かに突き飛ばされたからだ。

 床に転がった俺の代わりに、熱湯を浴びたのは、


沙那しゃな!?」


 どこから現れたのやら、俺の王子様だった。


 長い、紫がかった黒髪がしとどに濡れ、悪だくみがこびり付いたようないつもの嫌味顔も影をひそめる。

 それもそのはず、あまりの熱さに歯を食いしばりながら、怖い顔してるから。

 牙みたいな犬歯が剥き出しだ。


 ……俺を守ってくれた。助けてくれた。

 こんな時、かけてやる言葉なんか一つだろう。


賀茂かもなすには夢があるっ!」


 薄手の白いタンクトップびしょびしょの紫がスケスケ。夢いっぱい。


🐦ざばあ 🐦ざばあ 🐦ざばあ


「あーーーーーつあつあつあつっ!」

「ばっ、バカかてめえ! 助けてやった意味ねえだろが!」


 こら、真っ赤な顔して照れながらブラを隠すな!

 そんならしくねえ姿、ギャップでドキドキし……てねえからなっ!


🐦ざばあ 🐦ざばあ 🐦ざばあ


「ぎゃーーーーーーーーーーーー!」


 バカ王子にドキドキするとか、一生の不覚っ!

 それより氷氷氷氷氷氷氷氷!


 氷の上をごろごろ転がってなんとか落ち着くと、耳とか顔とか、やたらとうずき出した。

 これ、火傷なのかしもやけなのか見当もつかねえ。


 せっかく沙那が体を張って助けてくれたのに台無しだ。

 でもお前、美優ちゃんの前に出ていいのか?

 天敵なのに。

 どうなっても知らんぞ。


「あーーーーっ! お前、あれだ! 久しぶりだな、アリクイ!」

「ウチはそんな名前じゃねえ! こっちくんな!」

「胸揉ませろ! そして…………、はあ、はあ、お、おんぶさせろよ~」

「ぅわああああああっ!」


 ダイニングから直接外に繋がった扉をこじ開けて沙那が逃げると、美優ちゃんは獣じみた勢いで後を追って行った。

 こういうのを嵐が去った後、なんて表現することあるけど、そんなの嵐に失礼だ。


 酷いぞ、これ。


 べそをかく朱里ちゃんには、姉ちゃんが自分のコートを着せてあげていた。

 肩口がビリビリに破けたプリンセスコートでも無いよりかまし。

 というか、下着を隠してくれないとまたざばあだ。


 まずは何からどうしたもんか。

 全身ずぶ濡れのまま悩む俺の耳に、携帯の着信音が響く。

 防水加工ってすげえ。


「おお、アエスティマティオの着信音だ。朱里ちゃんも見る?」


 俺はすいーっと氷を滑り、すちゃっとかっこよく止まろうとして転んで頭を打った後、何事も無かったように携帯を差し出した。


「……凄いかっこ悪い」

「うるさい」


 うん、バカの功名。

 泣いたカラスがムッとしてくれた。



  本日の進級試験

 褒賞無し:奉仕活動。校舎北部庭園入り口、十一時に集合。汚れても良い服装で参加の事。集合時に軍手支給。後のCランク試験に多少有利となる。

 Cランク:後ほど発表。



「珍しいよ、日曜なのにアエスティマティオがあるなんて」

「そうなんだ」


 俺にとっては登校を果たしてから初めての土日だからな、勝手が分からん。

 それにしても、肩を寄せて携帯を覗く朱里ちゃんからふわっと漂う香りが非常にヤバい。

 寝起きだからなのか? いつものミルクにイチゴシロップを溶かした甘い香りが、なんというか濃厚。


 左手ですくった長い髪を右の耳にかける仕草も色っぽくて、なんとかしないと二人揃ってあちちちちだ。


「…………雫流ちゃん。見せる」


 おお、助かった。他のことを考えるきっかけが音も無く近くに寄って来る。

 俺は氷の上を何事も無く歩く美嘉姉ちゃんに携帯を向けつつ、さりげなく朱里ちゃんから距離を取った。


「…………大変。危機的状況。急ぐ」

「え? ……なにそれ、ここに暗号でも仕込まれてるのか?」


 首を捻る俺に返事もせず美嘉姉ちゃんが廊下へ向かうと、朱里ちゃんもその後を追いかけた。

 そして扉に手をかけながら、俺に振り返る。


「準備して先に行ってるからね、雫流も来るのよ!」

「ええ!? 勾玉も出ないのに?」

「なに言ってるの! 学校のための奉仕活動、参加しないわけいかないでしょ!」


 うわあ、まじめさん。げっそりだ。

 でも、ここまで言われたら逃げることなんかできやしない。

 ……それに、朱里ちゃんが嫌われてる件、なんとかできるかもしれないし。


「分かったよ。後から行く」


 俺の返事に、朱里ちゃんは長い髪をふわりとなびかせてにっこりと笑ってくれた。

 可愛くてドキッとしたよ。


🐦がんっ


 ……うん、いつもの爽やかなタライの痛さ。やっぱこうでなきゃ。

 クラクラしながら氷のベッドに大の字になると、姉ちゃんが椅子の上から顔を覗き込む。

 そんなに心配そうな顔すんな、大丈夫だ。

 幸せそうな顔してるのは、おかしくなっちゃったせいじゃねえから。


「うーん。こっちも結構危険よね……。神は姑息な事を考えるものね」

「沙甜。姑息という言葉の用法が間違っているぞ。そもそもの意味は……」

「うるさい、いいのよ。言葉は時代とともに変化するの。細かい事をぐちぐちいう奴は石器時代の言葉だけでしゃべると良い。そして禿げてしまえ」

「ふむ、この間の一件もあるしな。確かに監視していないと危険だ」


 二人の会話、かみ合ってるのやらそうでもないのやら。

 いずれにしたって、俺にはレベルが高くてちと内容がわからない。


「……家では、沙甜が守ってやればいい。彼が学校にいる間は、私が目を光らせていることにしよう。病院には美優。これでどこでもカバーできる」

「感謝するわ。それでこの氷はチャラにしてあげる」

「常にチームメンバーと共にいるよう指示を出しておくがいい。目はいくつあっても邪魔になるものではないからな」

「そう言えば、あんたのとこはチーム作らないの?」


 なんの話だろう。唯一理解できたのは、飛鳥さんのチームって言葉。

 そんなの出来たら手ごわそう。


「必要が出来れば作るが……、美優の所の様子を見てから、だな」

「ああ、あの坊主ね。どうする気かしら」

「さあな。大人が介入することでは無いよ」


 ……困った。飛鳥さんがカッコよく見える。

 おかしいな。俺、最近頭でも打ったかな?


「それはそうだけど……。よし、もろもろ相談してみるか」


 姉ちゃんが携帯を取り出した。

 俺が聞いてもさっぱり分からない話ばかりだったけど、あの人なら分かるってことかよ。


 ……俺は嫉妬のような、諦めのような、とにかく嫌な気分で、姉ちゃんの指が優しくトントンと鳴らす音をずっと聞いていた。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 巨大な校舎。見果てぬ敷地。

 無駄になんでもでかい国立多羅たら高校には、様々な施設が点在している。


 南東、南西、二つのグラウンド。

 北東には庭園と体育館。北西に食堂棟と学生農場。

 そして北校舎を出た先には、北の庭園と呼ばれる施設がある。

 

 全面舗装されていてベンチの数も多い北東の庭園と比べて、北の庭園は南北に延々と続く目抜き通りが土の踏み固めなのであまり学生には人気が無い。

 でも、通りの左右に池や彫刻、ちょっとした広場や建物が並び、見どころ満載。

 と、沙那が言っていた。


 俺には風景とか芸術とかまるで分かんねえからな。

 単純に靴が汚れるから、こっちは嫌いだ。



 庭園の入り口、つまり北校舎から出てすぐの広場には、三十人ほどの悪魔と二十人ほどの人間が集まっていた。


 中には見知った顔がちらほらと。

 初登校した日に話しかけてくれた、サイドテールが可愛い柴咲さん。

 それに、大人しさが滲む優しいたれ目にメガネで三つ編み、同じクラスの遠山さんも可愛い私服姿で参加していた。

 

 そんな俺達が見つめる先には三人の天使。

 その中の一人が、膝までかかる銀の髪をさらりとなびかせながら一歩前に出る。


「…………よく集まった。これから花壇作る。レンガを積む。左官の手伝いを頼む」

「それでニッカボッカにねじり鉢巻きなんだ。似合わねえな、美嘉姉ちゃん」

「…………これはプロの戦闘服。真似しなくていい」

「髪とか顔とかに、セメント付いてるよ?」

「…………これはプロのメイクアップ。真似しなくていい」


 だれも真似せんわ、そんなメイクダウン。


 はりきり過ぎの美嘉姉ちゃんの後ろで、他の天使がブルーシートを捲りあげる。

 すると中から、レンガでできた巨大なピラミッドが姿を現した。

 

「…………花壇、通りに沿って二十か所。三時間ほど作業予定。休憩に昼食配布。質問は?」

「質問だらけだ。左官なんかやったことねえ」

「…………手本、見る。全員覚える事」


 天使二人がレンガとセメントを運び、目抜き通りを進む。

 その後について歩くと、通りの左右にぽつりぽつりと工事現場なんかで見かける赤いコーンが置かれていた。


 そのうち一つで立ち止まった美嘉姉ちゃんが、コーンを四角く囲むようにレンガを並べ、コテでセメントを塗り、さらにレンガを積み上げていく。

 ……なんだよそのスピード。見学者一同、口ぽかーんだ。


「いやいやいやいや、プロ過ぎるだろ。そんな早さでやれってか?」

「…………これはプロの速度。真似しなくていい」

「素早すぎて誤魔化されそうだけど、何か所か塗れてないぞ?」

「…………これはプロのちゃめっけ。真似しなくていい」


 すくっと立ちあがった美嘉姉ちゃんからそれでは作業開始と言われたものの、一同揃ってどこから手を付けたものかさっぱり分からず閉口だ。

 皆、不安な表情のままレンガとセメントが置かれた入り口へと歩き出した。


「まあ、ちょいちょい先生に聞きながらやればいいんだろ? 美嘉姉ちゃんもみんなの所をできるだけ回って欲しい」


 並んで歩いていた自称プロに声をかけると、いつもの無表情が悲壮なオーラを放ちだした。

 家族だからわかる。なんか、がっかりしてる。


「…………雫流ちゃんのやるもの、お姉ちゃんも一緒にやる。そう思って猛特訓。なのにふられた。今夜はやけ酒」

「そのかっこじゃ似合いすぎるだろ」


 じゃあ、晩飯はおでんだな。

 前に使ったリアカー、どこにしまったっけ?


「…………本当は違う者が担当。天使長権限で奪って作ったふれあい時間。離れて暮らすうち、悪い虫が付いたから悪い子に。雫流ちゃん、彼氏、どれ?」

「男子が俺から一斉に距離を取っただろうが。変なこと言うな」


 あと女子な。きゃーじゃねえ。

 どんだけ説明しても、美嘉姉ちゃんは俺を女の子と思ったまま。

 どうなってんだよこの人。


「…………雫流ちゃん、学園一のヒロイン。男子は近寄りがたい」

「美嘉姉ちゃん。俺はどれだけ頑張ってもヒロインにはなれないからね?」

「…………学校では先生。呼ぶ、美嘉ちゃん先生」


 へいへい。

 美嘉姉ちゃんのせいで、俺は一躍時の人だ。

 集まる視線が冷たい冷たい。


 がっくり落ちる肩の重みに耐えていた俺に、さらに厄介ごとが押し付けられた。

 これはわが家の犬と猿。

 なんでお前らはいっつもケンカしてんの?


「だから! 雫流はあたしと花壇を作るの!」

「うるっせえ奴だなてめぇは! ウチは雫流と遊びに行きてーんだ!」

「じゃあ、勝負よ紫丞しじょうさん! どっちが沢山花壇を作れるか!」

「どうなってんだよお前の頭。怖え。ウチは花壇なんか……、お? 姫!」


 いつものパターンだ。

 一見、二人が俺を取り合ってるように見える。

 でも、少なくとも一人はトカゲの尻尾が欲しいだけだ。


「こら姫! 似合わねえことやってねーでウチと女子更衣室覗きに行くぞ!」

「気付けば俺一人で何十人もの女子に暴行を受けることになるアレな。行かねえよ。これから花壇作るんだから」


 まったく、何が覗きだ、バカじゃねえの?

 今日は日曜だろうが。だれも着替えてねえ。


 沙那はあからさまな舌打ちをした後、朱里ちゃんをにらみつけた。

 負けじとにらみ返す赤髪ポニテ。

 むきー vs がるるるる。

 ビビったら負けよなあっぷっぷが始まった。


「ほんとおまえら、犬と猿みたいだな」

「まったくね」


 おや、呆れ顔の金髪ツインテもやって来た。


「おお、キジもそろった」

「黙りなさいきびだんご」


 ひでえ。

 でも、最近お肌がざらついてる気がするから言い得てみょう


「まったく……。沙那、あんた見た目と違って器用なんだから、手を貸しなさい」

「はあ!? 嫌だよふざけんな!」

「ほら、たまにはファンサービスくらいしなさいよ」


 花蓮が目線を投げる先には、女の子が五人でくっ付きながらキャーキャー黄色い声を上げる姿があった。


 ふっ、仕方のないお嬢さんたちだ。

 俺は乱切りの前髪を掻き上げながら一歩前に進み、ちょっと低めのトーンを意識して声をかける。


「俺とコレ、どっちのバカをご所望かな?」


 ……こら、返事しろ。

 前に立ったバカを邪魔だって顔でにらみながら後ろのバカに手を振るな。


「悔しくなんかねえからな」

「だせえなあウチの姫は。そんじゃ、ちょっくら浮気してくるか」


 中学時代からやたらと女子に人気がある黒髪が、へらへらと俺に嫌味顔を見せてから女の子達に近寄っていく。

 ほんと、ぜんぜん悔しくねえ。

 男を見る目がねえ女子なんて、こっちから願い下げだ。


「さて、と。案の定、みんな途方に暮れてるわね。変態、あんた私に高い方のお茶をご馳走しなさい。知恵というものを貸してあげるわ」

「なにさまだ」

「文句言わないでとっとと買ってきなさいよ。みんな困ってるでしょ?」


 もうやだこいつ。でも、なに言っても言い負かされるに決まってる。

 今回の人生は諦めたよ。雫流先生の次回作に期待だ。


 すっかり花蓮に急須きゅうす扱いされるようになった俺が自販機機に向かうと、花蓮は矢継ぎ早に指示を飛ばし始めた。

 そしてお茶を持って戻ってみれば、五十人程の兵隊がたった一人の司令官の指示でよどみなく作業している光景が広がっていた。

 そうだった。こいつ、凄い奴だった。


「そこの二人組の男子! レンガは上から取らないと足場が無くなるわ。彼らの下に二人、そこの二年生が入ってレンガを受け取りなさい。あと変態、早くそれよこしなさいよ」

「おお。……さすがだな、お前。かっこいい」


 褒めながらお茶を渡してやったら、切れ長の目をまあるく開いて一瞬停止。

 なんだよ、照れてんじゃねえ。こっちが照れくさくなるから。


「ふん! 変態バカに褒められても嬉しくないんだからね! ちょっと朱里、こっちに来て手を貸して!」


 不機嫌そうにレンガの山へ向かう金パツインテ。褒めて損した。

 でも、耳をすませば花蓮を称える声が至る所から聞こえてくる。

 全然悔しくないぞ、ちきしょう。


「チームヴィーナス、すげえな。紫丞といい鼓歌音こがねといい」

「あたし申請出してみようかな。沙那さん好きだし、花蓮ちゃんもかっこいいし」

「無理だろ。沙甜様の審査、厳しいらしいぜ?」

「ああ。それに、あの嫌われ者もいるしな……」

「そうだった。でも、無視してればいいじゃない」


 ん? 呼んだかね、君たち。

 中学の頃からうとまれてたからな、こんなの慣れっこだ。

 でも、俺のせいで沙那や花蓮の評価が下がるみたいでちょっと悪い気もする。


 頭上を見れば、いつもの丸いシルエット。

 こいつさえいなけりゃ普通にみんなと接することが出来るのに。


 ……とは言え、俺はそれを感じていた。

 今日は何かがいつもと違う。

 違和感の正体は、彼らの目線だった。


 その先にあるのはレンガの山。

 何を見てるんだ?


「……でもあたし、紅威くれないさんはいやだな。怒鳴りつけられたことあるし」

「ああ、中学の時も凄かったんだぜ? 仲良かったヤツに急に切れて机を投げつけやがった」

「あ、その話、ほんとだったんだ!」

「怖えな。なんだよそれ」


 …………なに言ってるんだ、こいつら。

 作り話にしたってひどすぎる。

 朱里ちゃんがそんなことするわけねえだろ。


 レンガの山へ振り向くと、花蓮と軽い口喧嘩をしながら笑っている真っ赤なポニーテールの姿があった。

 あの素敵な笑顔が偽りだとでも言いたいのか?


 花蓮に向かってレンガを落とすふりをしてくすくす笑った後、沢山のレンガを上から受け取って真剣な顔で山から下りる。

 それを手押し車に慎重に乗せると、難儀しながら車を押す先輩に優しく声をかけて励ました。


 信じることなんかできるわけねえだろ。

 俺の目に映ってる彼女こそ、本当の朱里ちゃんだ。


 ……俺の視線に気付いたのか、朱里ちゃんがトコトコ駆け寄って来た。

 なんで今まで笑ってたのに俺には膨れてんのさ。


「ちょっと雫流! 花蓮ちゃんばっかずるい! あたしにもお茶ちょうだい!」

「なに言い出したよこいつは。お前までたかる気?」

「うーん……、じゃあ、いつものお勉強クイズでいこう! 不正解だったら買ってきてね? 問題です!」


 こら、いいなんて一言も言ってねえぞ異次元プリンセス。出すな問題。


「レンガの半分くらいにね、鳥がレリーフされてるのよ。この鳥、なーんだ?」

「はあ? そんなの分かる訳……、いや、これ、見たことあるな」


 朱里ちゃんが差し出してきたレンガに彫られた、すいーっと飛ぶ鳥の姿。

 その尾っぽが二つに割れている。


「雫流のバカは良く知ってるからね、間違えても呆れた顔しないであげる。チャンスも三回あげちゃう! では、お答えください! この鳥の名前は?」

「名古屋コーチン」

「飛ばしちゃったかー」

「こら、いきなり呆れ顔してるじゃねえか。だ」

「それも外れ。あと一回」

「ちょっと待て! 数も勘定できねえのかよ! バいだろ!」

「ざんねーん! えへへ、じゃあ後でご馳走してもらうね?」

「え? どういうこと? だろ?」

「しつこいよ」


 あれ? チャンス三回って言ったよな?

 またあれか、天然なあれですかお嬢さん。


 狐につままれた俺の耳に、花蓮の甲高い可愛らしい声が響く。

 どうやら俺たちを呼んでいるようだ。

 仕方ない、手を貸すか。


 ……いつも通りの光景。でも、心にかかる白いもや

 俺は、噂話をしていた連中の視線に気付かないふりをしたまま、花蓮の元へと駆け寄った。


「変態、セメント足りなくなったから作っておいて」

「無茶言うね。やり方なんて知らねえよ?」


 目の前には水を被った砂の山。

 先輩が額に汗して手で混ぜてる。

 うわあ、大変そうだな。


「ほら、彼みたいにやればいいの。お肌がすべすべになるからやりなさい」

「すべすべ? どれ。…………嘘つくな。ざらざらになった」


 セメントでざらざらになった手を金パツインテに突き出すと、濡れたぞうきんで無理やり拭かれた。


 いてえ、なにすんだ。

 肌が傷だらけになっちま……、え?

 うそ、つるんつるん?


「やだ、モテちゃう!」

「それは大変ね。ちょっと妬けるわ」


 より一層のつるんつるんを目指してセメントの前にしゃがみ込むと、先輩が苦笑いで迎えてくれた。

 へへっ、負けねえぞ?

 そうだな、まずはほっぺたから……。


「花蓮ちゃん! これ、難しい!」


 俺が両手に魔法の泥んこを取って顔に塗りつけようとしていたら、朱里ちゃんの叫び声が聞こえた。

 ……ああ、それな。レンガを運ぶための一輪手押し車。

 ねこって呼ばれてるやつだ。難しいんだよ、それ。


「なんであんたはそんな力仕事を選ぶわけ?」

「ごめんね。ちょっと楽しそうだったから……」


 うん、気持ちは分かる。


「明らかにボトルネックになってる作業だから邪魔しないの。もっといい運搬方法があればいいんだけど。……そうね、試してみようかしら。そこのモテカワ美女!」

「俺を呼んだか?」

「こっちに来て……、ストップ。そのまま立ってなさい。朱里、あれを落ろせる?」

「あれ? えい」


がんっ――🐦


 こら、鞭で無理やりタライを落としたら紐を掴んでるハトが可哀そうだろうが。

 一緒に落とされて、こんなに怒っていらっしゃる。


「俺がちょっとモテるようになったからって嫌がらせすんな。いてえぞ」

「そうね、羨ましくて悔しいの。だからレンガをタライに詰めなさい」


 しょうがねえな、このやきもちやきめ。


 俺がレンガをタライに詰め終わると、次は朱里ちゃんに鞭を外すよう指示を出す。

 まさか。


「さあ神の使い魔! あんたの力、見せてもらおうじゃないの!」


 声を張る花蓮の目の前で、ゆっくりと浮かんでいくタライ。

 ハト、すげえ。まあ、そりゃ普通のハトじゃないけどさ。

 周りから一斉におおと感嘆の声が上がってるけど、ちょっと待て。


「なあ花蓮。俺、現在地球上で一番ピンチ」

「モテカワ美女の周りには危険がいっぱいなのよ。ほら、とっとと運びなさい」

「朱里ちゃん、あれ降ろす時はやさーしくな。やさーしく」

「うん。できるだけゆっくり雫流の頭に落とすね」


 俺はこのあと、ちょっと横に降ろしてもらえばいいという画期的な方法にたどり着くまで、十回ほど気絶する羽目になった。

 でも、ただ歩いただけなのに、参加者で一番の活躍ともてはやされたのはちょっと嬉しかった。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 作業が終わると、小さな歓声と拍手で辺りが満たされた。

 うん、こういう一体感は悪くない。

 俺も首に大量に巻かれたシップが剥がれないよう気にしながら、軍手をぽふぽふ鳴らす。


 皆が自然と集まった最初の広場。

 そこには巨大なピラミッドと形容されたレンガが、すでに小さな山と呼ぶべき姿で存在していた。


 そんな余ったレンガの周りに先生が二人。

 美嘉姉ちゃんはずいぶん離れた所で、長い銀髪を風になびかせていた。


「生徒諸君。協力感謝。知る、意義。正しい奉仕」


 終了の挨拶か何かだろうか。短髪の先生がおもむろに話し出す。

 この先生、単語メインの美嘉姉ちゃんタイプだ。

 慣れてるから聞き取りやすい。


「受け取らない、金銭。受け取らない、物品。受け取らない、謝辞。だが本日、昼食配布。これは奉仕にあらず。仕事という」


 まあ、そうだわな。ギャランティーは最低だが。


「神、推奨。日々、一つの奉仕。本日、家庭などでこれを行う。以上」


 うげえ。

 こんだけ大変な思いしたのにそんな話あるか?

 そして、君はどうしてそんなに目を輝かせてポニテをうんうんと振ってるの?

 間違いなく一緒に掃除しようとか言われる。

 ……どうやって逃げよう。


 周りを見渡すと、最初にいた人数より遥かに減っている。

 沙那を含めて、途中でふけた連中がいるようだ。

 最後まで残っていたのは全部で三十人ちょい。

 そんなメンバーのうち、半分ばかりが一斉に色めき立った。


 先生二人が高々と掲げた模造紙。

 そこに、アエスティマティオが書かれていたのだ。


 おお、粋なことする。そこは感心しよう。

 でもね、それは俺に対する嫌がらせ。

 英語なんか読めないです。



  本日の進級試験

 Cランク:A.M. at T, at Sub A Me. 最初に発見できた者に授与。妨害自由。鎌の使用は不可。



「雫流! 行くわよ!」

「どこにだよ。……って、もう読めたの?」

「読めない方がどうかしてるでしょ! ああ、こらまてっ!」


 うわあ。十五人くらいか、一斉にレンガの山に飛び込んでいった。

 そして競うようにレンガを地面に落とした後、一斉に不満の声を上げる。


「かてえ! なんだこれ?」

「さっきまでパカパカ割れてたのに!」

「細工。普通では面白くない。地味に角から削る、推奨」


 嫌がらせか。

 暗号なんか読めやしなかったのに、どこに勾玉があるか一発で分かったよ。


「……あれ? 花蓮は行かねえの?」


 気付けば横に並んだ金髪に声をかけると、溜息だけで返事をされた。

 力仕事だから諦めたのか?


 傍観している生徒は、俺たちを含めて全体の半分くらい。

 奉仕活動に来るような気の優しいメンバーだ、争い事に参加する気は無いんだろ。


 ……そんな平和チームの中に、遠山さんがいた。


 昨日、朱里ちゃんが好みの女性とか言ったからどうにも気になる。

 ついぼけっと眺めていたら、彼女と目が合った。

 優しく微笑む彼女がくれる暖かさは、中学の頃となにも変わってない。

 相変わらず素敵な子だ。


 彼女の性格を表すなら、無口で親切で文庫本でメガネで三つ編み。

 俺が嫌われ者になってからも分け隔てなく接してくれた優しい子。

 みんなからは気弱とか言われてるけど、本当に勇気のあるやつだと思う。


 俺が花蓮から離れて遠山さんの元に近寄ると、囁くような声が迎えてくれた。


七色そらはし君、行かない……の?」

「あ、うん。だって、読めないし」

「よめない? ……ローマ字、だよ?」

「イタリア語だったのか。そりゃ無理だ」


 遠山さんは、なぜかニコニコと笑い始める。

 ……ちょっと不安になってきた。

 みんな、やっぱ勉強してるんだな。イタリア語なんて普通に読めるんだ。

 俺も遠山さんみたいに本とか読むようにしないといけないのかな。


「余ったツバメって、書いてあるんだよ」

「……ツバメ? そんなのどこにいるの?」

「えっと……、レンガのね? 見える?」

「ああ、こらこら。昔っから言ってるだろ。危ないから離れてろって」


 この子、タライも気にせず近付いてくるから俺が悲しくなる。

 そのミニスカートが何かの拍子で捲れたりしたら大変だ。

 優しい奴が被害を受ける世の中なんて大間違い。

 俺の罰、そんな間違いの発生装置。最低な罰だよほんと。

 ……あれ? そういえばタライ、レンガ積んだままだよな?


 俺が頭上の丸い金色を眺めていたら、今度はすぐ傍から元気な声が飛んで来た。


「七色! 遠山に離れろとか言っちゃって、やっぱいいやつじゃん!」

「おお、柴咲さん。じゃねえ、肩を叩くな。お前も離れろ」


 この間の剣幕はどこへやら。

 どんな顔したらいいやら分かりゃしねえ。


「柴咲さんは行かないの? 当たればいい小遣いになるだろ」

「うん、山が減るまで見てる。あたしの相方の真似」


 そう言いながら、ねー、とか言って小さく花蓮に手を振る柴咲さん。

 へえ、知り合いだったんだ。


「花蓮が相方?」

「腐れ縁よ。あいつとは小学校からずっと一緒。花蓮に憧れて、可愛く凛々しくなろうと心がけてるの」

「ちょっと寿々すず! 変なこと言わないで!」


 おやおや、金パツインテが赤い顔で近付いてきた。

 てれてやんの。

 すず。柴咲さんのことか。可愛い名前だな。


「それじゃ、毎日お茶代大変だったろ? 百三十円もするしな」

「何の話よ?」

「あれ? ……おい花蓮。差別すんな」

「相変わらず変態は何言ってるのか分からないわね。自分で通訳しなさい」

「なんで俺にだけお茶をたかるんだ? 俺だってお前を見習って可愛く凛々しくなろうとしてるのに」


 こら、二人して笑うんじゃねえ。別に面白い話なんかしてねえだろ。

 もういいよ、遠山さんと話すから。

 ムッとしながら、すぐ横でしゃがんでいた遠山さんに視線を移す。

 …………うん。君も、何がおかしいんだ?


「遠山さんは行かないの?」

「あたしも、もうちょっと減ったら……、やってみようか、な」

「早くした方がいいんじゃない?」

「えっと、レンガ、花壇作るのにどれだけ使うか分からない……、よね?」

「うん」

「だから、絶対使わなそうな最後の方にある、と、思うの。鼓歌音こがねさんのまね」


 なるほどね。天才のやることはほんと参考になる。

 俺も花蓮の後に付いていくようにしよう。そして今後も利用され続けよう。


 ……待て。それは一生こいつの奴隷になりますって宣言と何が違うんだ?


 よく考えてみよう。

 腕を組んで空を見上げると、いつもの丸い影が視界に入って来た。


「……ん? 思い出した。そこにもあるんだった」


 俺が頭上を指差す。

 周りのみんなが見つめる先には重く揺れる金ダライ。


「変態。それ、めちゃくちゃ重いわよね?」

「おお。このシップで作られたコルセットを見よ。五重に巻いてある」


 このセリフに、全員が勢いよく離れた。


 うん、それでいいぞ。みんなその距離キープな。


「遠山! あんた、危ないわよ!」


 俺に向かって大声を上げてるのは柴咲さん。

 どんな近眼だよ。俺、ミニスカはいてねえだろ。


 何となく遠山さんがしゃがんでいた辺りに視線を落とすと、やっぱりそこには誰もいなかった。

 もっとも、そこからたった三十センチ先で尻もちをついてあわあわしてるメガネの子はいるけどね。


「うぉぉぉぉい! なんで転んでるの!? てか、見え……っ!?」


 純! 白! 


「な……!? ま、まずいっ!」


 上を向く暇なんかない!

 せめてこの子は守らないと!


🐦ごおおおおん!!!


 俺が遠山さんに被さるように抱き着くと同時に、激痛が体を貫いた。

 反射的に口をついた悲鳴は、今まで聞いたことが無いほどの、


「あはーーーん♡♡♡♡」


 ……色っぽい声。


 この快感、間違いない。

 朱里ちゃんが、間一髪俺達を救ってくれたのだ。


 勢い良く引っ張られて背中で地面を滑走した後、いつものように朱里ちゃんのスレンダーな足に頭を打ち付けて停止。

 首が激痛に悲鳴を上げてるけど、それよりも腕の中の遠山さんだ。


「大丈夫か!?」

「あ……、うん。だ、だいじょぶ……」


 表情を観察しても、無理してる感じはない。

 よかった……。


 ほっとして脱力。

 そんな俺たちの周りに、皆が集まって来た。

 アエスティマティオどころじゃない。

 全員が、心配そうな表情で俺達を見下ろしていた。


「怪我、無い。祝福ブレス間に合わなかった。大儀、紅威くれない


 天使が離れた所から声をかけてきた。

 なんたる役立たず。

 ……でも、これこそ怪我の功名か。

 みんなが朱里ちゃんを笑顔で見つめている。

 やった。分かってくれたんだ。


「朱里ちゃんはやっぱり、みんなの勇者様だ」

「え……?」


 優しい歓声と柔らかな拍手が朱里ちゃんを包む。

 俺が頑張ったわけじゃねえけど、鼻が高い。


 緩んだ鞭から遠山さんと共に立ち上がると、彼女はメガネをかけ直してはにかんだ笑顔を俺に向けてくれた。

 おいおい、違うだろ。

 その笑顔は、きっと照れくさそうに頭を掻いてるはずの勇者様に……、ん?


 なんだ?

 ……どうしてそんな怯えた顔してるんだよ。


 いや、違う。そんなもんじゃねえ。


 朱里ちゃんの顔には、絶望の色が張り付いていた。


「く……、紅威、さん。あの、ありがと……」


 遠山さんがしずしずとお辞儀をして、朱里ちゃんに一歩近づく。

 待って、何かおかしい。


 俺が遠山さんの肩を掴んでその歩みを止めた瞬間、地面から割れんばかりの激しい音が鳴り響いた。


 ……朱里ちゃんが、鞭で遠山さんの足元を力いっぱい叩いたせいだ。


 身を固くした遠山さんに、さらにドスの利いた怒号が浴びせられる。



「近寄るんじゃねえ! この薄汚い人間が!!」



 朱里ちゃんを見つめる皆の目。

 そこへ一斉に宿る、黒い嫌悪。

 世界は、たった一瞬のうちに氷の静寂へと姿を変えた。


 その世界でたった一つ、動くことを許されたもの。

 俺の目が、肩を大きく怒らせて荒々しく息を突く女の子の姿を捉える。


 ……いや、おかしい。言葉と表情がまるで違う。

 ずっと他人を観察ばかりして来た俺の目は、それを見逃さなかった。



 ――誰しも鼓動すら躊躇する、そんな空間に音を刻む二人の足音。

 遠山さんに近付き、その肩を優しく抱きしめたのは花蓮と柴咲さんだった。


 悲痛な表情で俯く花蓮。

 対して、柴咲さんは怒りをあらわにしながら一歩を踏み出す。


「みんな分かったわね! 今のがこいつの本性よ!」


 そして俯いたまま表情を隠す朱里ちゃんの頬に容赦のない平手を見舞った。


 乾いた音が、激しい痛みになって胸を貫く。

 朱里ちゃんは叩かれた頬を押さえながら、震える口を開いた。


「……寿々。あなたも……」

「安心して。あたしはあなたを、最低のクズだと思ってるから」


 言葉とは、ここまで誰かの人生をズタズタに引き裂くことが出来るのか。

 この場にいる誰もに嫌われてしまった哀れな女の子は、それ以上声を発することなく走り去った。



 朱里ちゃんの姿が庭園の奥に消えると共に、花蓮がぽつりとつぶやく。


「…………朱里は、何があっても友達に対してこんなことする子じゃなかった。自分がぼろぼろになっても、友達を愛せる子だったの。あたしは……、そんな朱里のことを、尊敬していたわ」


 いつも超然としている花蓮の目に、涙が滲んでいた。


「もう分かったでしょ。あの子は、開いたのよ………………。『魔眼まがん』を、ね」


 それがみんなにとって最も自然な解答なんだろう。


 でも、そんなことは無い。

 絶対に違うんだ。


 だって、俺の目は見逃さなかったから。



 遠山さんに対して大声を上げた朱里ちゃん。

 …………あのとき彼女は、悲しそうな顔をしていたんだ。



 花蓮と柴咲さんが制止する。

 そんな言葉に耳を貸さず、俺は朱里ちゃんの背中を追って駆け出した。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 目抜き通りをひたすら走る。

 北へ、まだ北へ。


 俺が何とかする。

 絶対に朱里ちゃんを救ってみせる。

 あんないいやつが酷い目に遭う世の中なんて、間違ってる!


 もうどれだけ走ったろう。広場へ戻るのも億劫おっくうになるほどの距離を駆け抜けると、通りは段階的に幅を狭め、今や野道と呼べるほどになっていた。


 草木の生え方が自然に近い。

 このあたり、既に庭園と呼ぶエリアから外に出ているのだろうか。


 道の踏み固めも甘くなって、土が柔らかく感じるようになった頃、ミルクの中にイチゴシロップを溶かしたような甘い香りがふっと途絶えた。

 振り返って地面をよく観察してみると、小路に向かう靴跡がある。

 若い竹笹を踏みしめながらそこを進むと、ぱっと開けた広場の真ん中に、朱里ちゃんの姿があった。


「……来てくれたんだ。嬉しいよ」


 震える、囁くような声。

 俯く朱里ちゃんの横顔は、涙に濡れていた。


「俺、ちょっと許せない。柴咲さんのこと」


 朱里ちゃんの正面に立つと、叩かれた左の頬が目に入る。

 爪が立ったのだろうか、そこには赤い傷が浮かんでいた。


「ううん。大丈夫、嬉しいから」

「ああ、お礼なんていい」

「違うよ。……叩かれて、嬉しいの」


 え? 君は、何を言って……。


「……ありがとう、寿々」


 唖然。彼女がさっきから、何を言っているのかまるで分からない。

 見開いた目で朱里ちゃんの表情を窺うと、彼女は背中を向けてしまった。


 ……分からない。でも、ウソをついているようには見えない。

 俺は、寂しそうな声で嬉しいとつぶやく彼女の真意を探ることにした。



 反射観察スチールリフレクス…………



 朱里ちゃん。自然に落とした肩。力の抜けた手指。安堵。あるいは達観。

 首の弛緩。安心感。左上を見上げた。過去の回想。

 手を胸に。組み方は見えないが、決意。終止符。または感謝の現れ。



 解答…………。彼女は、本当に感謝している。



 でも、あれに対して感謝だって?

 恐怖すら感じ始めた俺は、かける言葉も思い付かないまま朱里ちゃんの背中を見つめていた。


 そう、恐怖。

 さっき耳にした言葉が脳裏に浮かぶ。……それは、「魔眼」。


 過去の記憶を封印された悪魔が、何かのきっかけでそれを取り戻した時。

 その瞳が、本来の赤い色に染まる。

 これが、魔眼が開くということ。


 もともと過去の記憶を失っていない三王はこれを自由に使えるが、普通の悪魔が魔眼を開いた例はほとんどない。


 もし普通の悪魔が魔眼を開けば、身体能力や魔力が常人とは比べられないほどに跳ね上がる反面、愛という感情を知らなかった頃の自分を思い出した反動により、負の感情が一斉に噴き出して凶暴化するのだ。



 でも、絶対にそんなはずは無い。

 昨日、彼女自身も言っていたんだ、信じよう。

 他に理由があるはずだ。


 となると、思い当たるものは一つしかない。


 …………罰。


 だとしても、一体どんな罰なんだ?

 それが分かりさえすれば、きっと救ってやることが出来るのに。

 まったく想像がつかない。


「……情けねえ。なんで俺、バカなんだろう。こんなに救ってあげたいのに」


 あんまり悔しくて、つい声に出しちまった。


「ふふっ、違うわよ。……雫流はバカだから、最高なの。情けなく無いよ」


 朱里ちゃんが優しい笑顔を浮かべて俺に振り返る。

 でも、その頬に静かに涙が流れると、次第に無気力な表情に変わっていった。


「……そして最高だから、君のことが大嫌いなの」

「ごめん。……分からない」


 何を伝えたいのか、どうして欲しいのか。

 朱里ちゃんは寂しそうに力なく微笑むと、ゆっくりと近付いてきた。


 いつもの勝気な瞳が力なく淀み、震える唇には色も無い。

 息もかかるような距離で歩みを止めた彼女が、俺の目を見上げながらゆっくりと唇を開いた。


「もう、だめかも。……雫流を傷つけてもいい? 一つ、試してもいいかな」

「えっと……、俺に出来る事なら。力になってあげたい」

「あたし、雫流のこと、大っ嫌いなの」

「……それが傷つけるってこと? それで楽になるなら、何度言われてもいいぞ」


 俺の言葉に対して、朱里ちゃんは首を横に振った。

 なんだよ。これ以上傷つける気か?

 背筋にぞくりと冷たいものが走って、思わず腰が引けそうになる。

 でも、逃げ出すわけにはいかない。

 どれだけ傷ついてもいい。彼女を救いたい。


 覚悟を決めた俺の耳に、朱里ちゃんの震える声がかろうじて届いた。



「……そんなあたしと、…………付き合ってもらえませんか?」



 俺はただ、耳を疑った。

 返事も出来なかった。


 自暴自棄。悪意。打算。そんな物しか感じない。

 間違いなく、今の言葉に愛は無い。


 視界と意識にもやがかかり、世界はただ、白く塗りつぶされた。

 音も失って、立っている感覚すらない。

 感じることが出来たのは、甘いイチゴとミルクの香りだけ。


 ……朱里ちゃんの香りのおかげでようやく意識を取り戻したが、それは既に残り香とすら呼べないほど微かな物になっていた。


 無意識のうちに瞳に刻まれていた記憶が、頭の中でセピア色に描かれる。

 絵の中の朱里ちゃんは、返事もしない俺の前を涙と共に立ち去っていた。



 ……悔しい。


 愛の無い、付き合って欲しいという言葉。

 その言葉の意味、きっとそこに答えがあるはずなんだ。

 それさえ分かれば助けてあげることができるのに、俺には何もわからない。


 バカなことが、こんなにも悔しいなんて。


 悔しい。


 悔しい。


 悔しい。



 俺はこの日、初めて知った。



 …………悔しいと、こんなにも涙が流れるんだ。




 つづく。

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