一・白くて重い力ゲ。二・只反るだけのもの。十一・悪。十八・幾つもの一つの束 ~漢字のみ見ると~

 はくばの馬にのったおおじさま


 わたしのランどセルから、きのう、中学生が三入でたてぶえをとりました。たんぼのあぜ首です。

 あたまの上で、たてぶえが、キッヤッチボールしてたので、わたしはとりかいせなかった。

 でも、はくばの馬にのったおおじさまがたすけてくれました。


 おおきい馬にびっくりして、中字生はたんぼにとびこみました。

 わたしわ。びっくりして、うごけなかった。


 はくばのうまの上のおおじさまの手が、上からのばします。

 わたしは、でもこわかったのですがてをつかんだ。


 馬の上から見たのは、すごくとーくまで見えたけしきだった。きれいだったです。

 おおじさまはわたしのうんドセルをたたいて、はくばの馬からとび下りた。


 かっこいいなあと思もいました。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



沙甜さてんさん! もう! 沙甜さん!」

「可愛い子にばしばし叩かれるの、悪くないわね。彼がビリビリしながら鼻の下を伸ばしていた気持ちがちょっと理解できたかも。また愛情を一つ学んだわ」


 赤髪がポニテ可愛い紅威くれない朱里あかりちゃんは、原稿用紙片手に今日も朝から大はしゃぎ。

 いや、このテンションはいつも以上だな。


 ……ウェヌス・アキダリア、つまり俺達が暮らす巨大な洋館。

 ここはそんな屋敷から飛び出すように作られた白いダイニングキッチンだ。


 三方がガラス張りになったこの部屋は、至る所に飾られた季節の花が歌う、ちょっと気取った大人の空間。

 ダイニングの中央に置かれた真っ白なテーブルは、朝食にふさわしく軽いメニューで暖かく模様付けされていた。


「沙甜さんが子供の頃の作文! これ、居間で見つけちゃったんですけど!」

「そんなヘマしないわよ。あたしのじゃないと思うけど? もし本当だったら、恥ずかし過ぎてあたしか朱里のどちらかが自殺しちゃうレベル」


 うん、後者は他殺だよね。巧妙に偽装された。


 やっと朱里ちゃんの攻撃から解放された姉ちゃんが、紅茶を口にしながら原稿用紙に目を向ける。

 俺もちょっと興味が湧いたので、ロールパンを咥えながら席を立った。


「そうなんですか? なんだ、がっかり……。じゃあ、ここに住んでた女の子の作文なんですね! すっごく可愛い! ろまんちっく!」

「ああ、これね。しー君、覚えてる?」

「……おお、懐かしい。俺の作文じゃん」


 うわ、朱里ちゃんのにっがい顔。ブサイク。


「意味わかんない。なんでこの子が雫流しずるなの? 創作?」

「いや、俺が王子と初めて会った時の実話だ。小五の時だったかな」

「小五……、で、この文章。ひど」


 うそ? 良く書けてるじゃん。

 馬から見た景色の素晴らしさを皆に伝える渾身の作品だ。

 ……ははあ、さては嫉妬だな?


 そんな感情を抱いた腹いせだろう、朱里ちゃんは頬を真っ赤にしながら猛抗議してきた。


「返して! あたしのときめき返してよ!」

「うるせえやつだな。この後信じがたい展開になるんだけど、続きを書こうか?」

「書かなくていいから話して聞かせてよ。それに超展開とか無し! ときめき重視! この女の子がドレス着て舞踏会に行くシーンも入れよう!」

「お前はなんで俺の記憶にプロデューサーとして参加してるの?」


 舞踏会なら何とかねじ込めるけど、性別変えるのは無理。

 高校生にもなってブラデビューしてない女の子、今時いねえだろ。


「だって雫流の記憶なんだから、雫流が書き換えるのが正しいでしょ?」

「ああ、そうか。……いや待て。「だって」って言葉から先がまるでおかしい」


 気を付けて聞いてないと、普通に感じるから怖い。

 天然を超える新機軸。その名は「自然」。


「それ、ほんと怖い。あまりにも自然過ぎてほんとに書き換えちゃったじゃねえか。すでに記憶の中の俺、ランドセルが赤くなってる。パンツは猫さんだし」

「うわ……。君、変態だったんだね。昨日も女の子用の下着穿いてたんでしょ?」

「まてコラ! 猫もイチゴもお前の仕業だろうが! 罪を他人に押し付けといて蔑んだ目で見るな、この自然バカ!」

「バカとは何よ! 何でも人のせいにして!」

「あれ……? えっと、そうだっけ。悪かった。他人に罪を着せちゃいかんよな」

「そうだよ。セリヌンティウスが、死刑台を囲む群衆の中に殺せコールを煽ってるメロスを見かけたら激怒するでしょ?」

「確かに。辞世の句が「あそーれ、じゃねえ!」とか辛いものがある」


 俺がそんな言葉で話を締めると、朱里ちゃんと仲良く首を捻った。

 何の話してたんだっけ、俺達。


「あんたたちの会話聞いてると頭が痛くなるんだけど、歳かしら?」

「……正常な反応よ、沙甜。私も頭が痛いわ」


 開くドアの軋みと共に、新たな声が聞こえた。

 聞き覚えのある、甲高くてちょっと甘い、可愛らしい声。


「え? なんで……っ!? なんでお前がここにいるんだよ!」

「その言葉、熨斗のし付けてリプライさせてもらうわ、この変態!」


 子供のような風貌の、金髪ツインテール美少女。

 間違いない。こいつ、昨日のお騒がせ女っ!


「姉ちゃん! こいつは……」

「ええ、紹介するわ。彼女は鼓歌音こがね花蓮かれん。今日からあたしたち、チーム・ヴィーナスの一員よ。クラスもあんたたちと一緒になるから仲良くしなさい」

「うそだろ……」

「ふんっ! それも私のセリフよ!」


 金髪ツインテが、鼻で溜息をつきながらテーブルに近付いてくる。

 その足の運びは優雅で、見た目の気品と相まって高貴なイメージ。

 昨日あれだけひっかきまわされたのに、不覚にもかっこいいと思っちまった。


 朱里ちゃんよりさらに白い足。

 レースの折り返しが付いた高級そうなソックス。

 ローファーが響かせる音すらも、コツコツべちゃっと優雅に……、

 

「……優雅に顔面からこけたね、そんな何にもないところで」


 つるっとコケるならまだしも、何かにつっかかって顔から思いっきりいった。

 心配だけど、まあ、俺だって男の子。目は一点に固定で微動だにできない。


 転んだせいで捲れ上がる制服のスカート。

 丸見えになったレモン色。縁取りのシースルーなフリル。


 こいつに対する印象は最悪。関係性は険悪。

 なのにちょびっとだけドキドキする俺のピュアハート。

 ……男ってほんとバカね。


🐦こんっ かぱっ


 頭に落ちたレモンが二つに割れて足元に転がる。

 拾い上げてみると、それは精巧に作られたロウ細工だった。

 レモン色繋がりか。凝ってるな。


「割れた所も細かく作ってある。タネがぴったり合わさるぞ」


 俺がレモンをかっぱかっぱさせていると、まるで何事も無かったかのように金髪ツインテが起き上がった。

 そして俺のことをにらみつけ、レモンに目をやり、最後に天井をひょこひょこ移動するタライを見てびくうとする。


 この異様な光景。

 何か騒ぎ立てるものかと覚悟していたが、意外にもこいつは何も言わずにツインテを左右に揺らし、大きなため息をつくに留めてくれた。


 ……目は口ほどにものを言い。

 酷い奴だけど、こいつは他人の罰に言及するようなことはしない。

 つまり、罰を悪化させるような真似はしないというわけだ。

 優しくて、良識人。……なのかもしれない。


「……えっと、ありがとよ」

「お礼なんかいらない。変態がありがとうとかご馳走様とか言ったって、侮辱にしか聞こえないわよ」


 ちきしょう。やっぱ最悪だ、こいつ。

 でも、罰について何も言わないでくれたことには感謝だ。

 重ねて言おう。ありがとう。

 …………そしてご馳走様。


「花蓮ちゃん、おはよ!」

「……あんたも同じチームなのね」


 花蓮の冷ややかな目が朱里ちゃんへも向けられる。

 知り合いっぽいやり取りながら、良好な関係性じゃないような……。


 二人を見比べながらどんな仲なのかと想像していたら、不意にポケットから呑気なメロディーが鳴り響いた。

 これはアエスティマティオの通知。

 まったく、次から次へと。慌ただしい朝だな。


 制服を着た三人が、まるで同じ所作で携帯を見る。

 だが、その後の反応はそれぞれ違っていた。


 初めて見る英字に驚愕する者。

 鼻息荒く、何度も頷く者。

 もう一人は、そんな俺達を吟味するような目で見つめていた。



  本日の進級試験

 Cランク:十時より、体育館にて二時間耐久暗算マラソン。成績最上位者に勾玉まがたまを授与。カンニング不可。妨害不可。

 Aランク:十二時半に発表。



「うわ。Aランク……。初めて見たぜ」

「間違いなく全校生徒が参加するから、今までみたいにはいかないかも。Cランクの方も、雫流しずるには無理だよね」

「マラソンは得意だぞ? 気を付けの姿勢で二時間我慢すりゃいいんだから」

「違うわよ。暗算マラソンは、十秒に一問出題される計算問題を延々と解き続ける課題なのよ」

「なら同じことじゃねえか。そんなの、気を付けの姿勢で二時間我慢してることしかできん」


 なんだよ、間違ってねえだろ。

 だからそんな慈愛に満ちた目で肩を叩くな。


 金髪ツインテも同じ目で俺を一瞥した後、朱里ちゃんに問いかけた。


「朱里の学力は知ってるけど、そこのバカはどうなの?」

「もう答え出てるじゃねえか」

「うん。雫流のバカは、バカからバカにされるレベルのバカよりちょっと下」

「勉強してるよ! 昨日もドリルやった! 緋の字とか超得意!」

「うるさいわよ、二色ボールペン。じゃあ三色になったところを見せてもらおうじゃないの」

「かかってこい! 俺の奇跡の頭脳を見てビビるなよ!」


 俺は半目で見つめる花蓮を捨て置き、朱里ちゃんと相対した。

 いざ勝負!


「じゃあ、ルート3は?」

「いきなり分からん。新しい俺のあだ名か? だったら正解は七色そらはし雫流しずるだ」

「……衆議院議員、被選挙権を持つ条件は?」

「俺に昼飯くらいおごってくれる人」

「大化の改新に至るクーデター、乙巳いっしの変で殺された大和朝廷の大臣は?」

「日本人の二十五才以上のおっさん。いや、おばさんかもしれん」

「ありをりはべり」

「イルカ・ソガ」

「ちょっ、ちょっと待ちなさいあんた達! ……うそでしょ? 奇跡だわ」


 だろ?

 花蓮が俺の天才っぷりを見て、切れ長の目をこれでもかと広げて驚いている。


「あんたの頭、解答欄が一個ずれてる」


 ……何の話だ? すごく知的な表現っぽいけど、好意的な印象じぇねえ。

 ははあ、さては嫉妬だな。

 朱里ちゃん、お前から何か言ってやれ。


「……ほんとだ。自分の名前を一問目の解答欄に書いちゃったからこんなことになるのよ」

「あれ? 俺、朱里ちゃんにもバカにされてる?」

「やれやれ。……あんた達じゃ当てにならないわね」

「当てにならないとは聞き捨てならん。俺達コンビは二日連続でBランクの勾玉を手に入れてるんだぞ?」


 俺の文句に対して花蓮は真面目な顔で腕を組む。

 そして、一つ頷いた。


「そうだったわね。あんた達、Aランクの暗号解読、自信ある?」

「おお。任せろ」

「じゃ、決まりね。二つとも取りに行くわよ。だからあんた達はAランク試験まで休んでなさい。Cランクの勾玉は私が取る」

「え? 花蓮ちゃん、あたしはCランクの方も出るよ?」


 朱里ちゃんのやる気に、金髪ツインテは静かに水を差した。


「二時間ぶっ通しの試験の後、心身ともに疲れ切った状態でAランク試験なんか無理よ。暗算マラソンはあたしが、Aランクはあんたたちが挑むのが合理的」

「すげえなお前。指揮官みたい」


 感心して素直に褒めてみたけど、さも迷惑そうに無視された。

 どうして女子はみんな俺に冷たいんだろう。


「じゃあ、そういうことで。……予備の筆記用具と防寒用にひざ掛け……。準備があるから、私は行くわ」


 花蓮はそう言うと、きらめく金髪をなびかせながら気品に満ちた優雅さで廊下へ向けて振り返り、そして自分の足につまずいて転んだ。


 ……ちょっと尋常じゃない。

 まさかこいつの罰、ドジっ子なんてことは無いよね?

 そんな疑念を抱いていたのも一瞬の事、それはすぐに確信へと変わった。


 朱里ちゃんが駆け寄って差し出す手を無視して、自力で立ち上がろうとした花蓮。

 その足が自分のツインテを踏ん付けていたもんだから、朱里ちゃんまで巻き込みながら、またこける。


 ビバ、ドジっ子。お前は俺に夢と希望を運んでくれた。

 目の前に現れたのは、白っぽいピンクと艶やかな黄色。

 黄桃と白桃がもつれ合い、俺を一瞬でドキドキの楽園へと誘った。


「これがほんとの桃源きょごぼぼぼぼぼぼ」

「「「きゃーーーーーーー!」」」


 透明でどろどろなものが頭からかけられた。

 姉ちゃんまで叫び声をあげてるんだけど、なんだこりゃ!?


 液体と一緒に降ってきて足元に転がっているのは、半分にカットされた桃。

 かろうじて吸い込んだ空気が甘い。


 ……これ、桃の缶詰か?

 そりゃあ二人のお尻見た時に桃みたいって思ったけど、金ダライ一杯の桃缶なんていつから準備してたんだよ。感心するわ。

 でもさ、ひとこと言わせてくれ。


「こら、ハト! 食いもんを粗末にすんじゃねえ!」


 俺の叫びを聞いたハトが一羽、テーブルに乗って顎で床を指し示した。

 促されるままにシロップまみれの桃を一つ手に取ると、それはやたらと精巧に作られた食品サンプル。

 またロウ細工かよ。


「おお、悪かった。俺の勘違いみたいだ」


 謝罪と共にテーブルへ視線を投げると、彼は分かってくれればそれでいいのさとばかりに一つだけ顎を引いて、天井へと舞い戻って行った。


 ……ハトの顎ってどこなんだろう。


 まあ、そんなことよりこの状況だ。どうしろっての?

 ヴィジュアル的に大変な事になっているのは、おののいたまま床にへたり込む三人組を見れば何となく想像できる。

 でも、君らに助けてもらわないとどうしようもないんだが。


 俺は助けを求めて両腕を伸ばしながら一歩を踏み出すと、シロップに滑って転んで器用にも顎を床に打ち付けた。


 金ダライの比じゃねえ。むちゃくちゃ痛い。

 でも顔にかかるシロップフィルターの先には、仲良く並んだ白桃と黄桃、さらに紫のプラムまで加わった美しい世界が広がっていごぼぼぼぼぼぼぼ。


🐦だぱー🐦


「た、助けべべごぼごぼごぼ」

「「「きゃーーーーーーー!」」」


 シロップの海が彼女たちの足元を脅かす。

 でも、君らがお尻を地面に付いて下着を覗かせたままずりずりと後退し続けている限り、俺にその浸食を止めることは永遠にできないんだけど。


 結局、ハトが準備していた金ダライ三杯分のシロップが弾切れになるまで、俺は甘い海の中で溺れ続けていることしかできなかった。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 姉ちゃんによって、古都の妖魔『ぬるべたありんす』と名付けられた俺は、まるで十二単じゅうにひとえを引きずるようなフォルムでシロップの尾を曳きながら浴室に向かった。


 家中のシロップを掃除してくれたのは、姉ちゃんと朱里ちゃん。

 この惨状のきっかけとなったドジっ子金髪ツインテは、俺に一瞥をくれてとっとと登校しちまった。

 ごめんな二人とも。請求書はヤツに回しておいてくれ。


 しかし、掃除にここまで時間がかかるとは。

 時計の針は既に十一時。Cランクの試験も半分終わっている。

 とは言え試験会場の様子を見ておこうという話になり、朱里ちゃんと一緒に、閑散とした東校舎を体育館へ向けて歩いていた。


「この学校はね、空から見たら十文字に浮き上がって見えるの」

「知ってる。小さい頃からよく潜り込んでたからな」


 国立多羅たら高校。

 俺たち魔族を更生させるために作られた結界の中に建つ、唯一の高校だ。


 正門から校舎まで、幅広の通路が百メートル。

 その昇降口から西、北、東に向かって校舎が百メートルずつ続いている。


 校舎も巨大だが、敷地も広大。

 山や川なんかもエリアに含まれるせいで、正直どこからどこまでが学校の敷地なのかちゃんと知らない。


 ……試験会場は体育館。東校舎の端から、このちょっと重たい扉を開いて外へ出た所に建っている。

 校舎と体育館を繋ぐ通路は大きなアーケードになっていて、右手に各種自動販売機が並んでいた。


「そして、こんな感じで東西南北、校舎を出た所に自動販売機があるの」

「それも知って……、無い。南? 通路と校門しかねえだろ」

「校門を出るとその先には! 自動販売機並みにリーズナブル! 自動販売機よりもおいしい! ログハウス風喫茶店、シャマインへようこそ!」


🐦がんっ


 一言ずつポーズを決めるな、チラシを渡すな。可愛いじゃねえか。

 思わずチラシ受け取っちまったけど、これ刷ってるの俺だからね?


「飲み物買っていい?」

「おお、マイペース。好きにしろ」


 朱里ちゃんはメッセンジャーバッグに手を突っ込んで小銭を取り出すと、自動販売機を見上げながら悩みだした。


「……足りない」

「え?」

「高い方のお茶飲みたいんだけど、ちょっと足りない」


 朱里ちゃんが見上げる自販機には百円と百三十円のお茶が並んでいる。

 なるほど、足りないのね。

 三十円くらいならあるはずだ。俺はポケットを探ってみた。


「じゃあ貸しといてやる。後で返せよ」

「その分、現物で返すよ。中身はあたし。ペットボトルが君」


 えへへと意地悪にほほ笑みながら、朱里ちゃんは手を出してきた。

 なるほど、ペットボトルは俺か。


「一万円で足りる?」

「何言ってるの? 小銭ちょうだいよ」

「まあ、そう言わずに俺の全財産取っておけ。そのかわり、蓋はしないで欲しい」


 ポケットから取り出した全財産。

 俺は、五十円玉二つを朱里ちゃんの手の平へ落とした。

 すると二人合わせて百二十円分の小銭が、ちゃりんと楽しげに音を奏でる。


「ちょっと美人だからって、人生舐めてんじゃねえぞ?」

「しょうがないなあ。安い方のお茶でいいか」


 朱里ちゃんは小銭を二つ自販機に落としてお茶を手に入れると、二枚の十円玉と共にメッセンジャーバッグへ突っ込んだ。

 この自然バカ。せめてその銅貨は俺によこせ。


「……小銭もちょくかよ。雑な鞄だな」

「見た目のわりに、結構入るのよ?」


 そう言いながらバッグから出した白い手の平には、飴が乗っていた。

 なるほど、いろいろ出て来るな。

 でもさ、鞄の中の飴って、驚くほど昔から入れっぱなしだったりするんじゃね?


「それ、いつの飴?」

「多分最近」


 絶対最近じゃねえ。止めた方がいいのかな。

 でも、ニコニコしながら包み紙を開いてるし、そんなこと言うのも無粋かな?


 朱里ちゃんは、包み紙から出した黄色い粒を右手で持って、わざとらしく俺の目の前に掲げてきた。

 見せびらかすにしては妙だ。つい、その動きに目を奪われる。


 そして左の手の平に飴を押し付けると、その手をぎゅっと握った。

 そのまま握った手を差し出してきたから、俺は反射的に両手を受け皿にしてその下にセットする。

 だが、朱里ちゃんが手を開いても、何も落ちてこない。


「お?」


 俺の驚いた顔を見て満足そうに目を細めた朱里ちゃんは、右手で隠し持っていた飴を自分の口に放り込んで、軽く飛び跳ねながらくるりとスカートを翻した。


「えへへ。大事な物を取られたくない時の、あたしの必殺技よ!」


 かっ、可愛いっ!


 俺の事が大っ嫌いで、めちゃくちゃなことばっかしてくる自然バカ。

 なのにお前の笑顔は、いちいち俺をドキドキさせやがる。

 ……そして今日の流れだと、このドキドキで食らう攻撃は……。


🐦こんっ


 想定内だったから、鈍い俺でも反応できた。

 ハトが投げつけてきて、こめかみに当たった飴玉。

 落下するそれを、地面すれすれでなんとかキャッチ。


「こらハト! 食いもんを粗末にするな!」

「おお! よく落とさなかったね! 偉い!」

「いいか、ハト。せめて包み紙に入れろ。剥き出しじゃ地面に落ちたら三秒しか食えねえじゃねえか」

「違うよっ!? 雫流! ルールブックはちゃんと読みなさい!」


 何をムキになってるんだ。

 まあいい、これは地面に落ちてないから三秒ルールも関係ない。

 俺は地面にたたずむハトを一瞥しながら飴玉を口に入れ、一秒後、思い切り噴き出した。


「ロウ細工っ!」


 俺の怒りを涼しい顔で受け流しながら、半分に割れた飴玉もどきを両足で掴んだハトが飛び去る。

 ちきしょう。貴様らはいつでも俺を飽きさせねえな!


「ほら、遊んでないで。行くわよ」

「遊んでねえ。もてあそばれてはいたけど」


 朱里ちゃんに手を引かれて体育館に沿って歩いていくと、側面中央辺りの扉が開け放たれていた。


 扉の前には、両腕を背中に組んで直立不動の先生。

 その目を気にしながら試験会場を覗くと、何百人もの参加者がテーブル付きの椅子に腰かけ、単語帳サイズの機械をにらみながら答案用紙に書き込みをしていた。


 試験もまだ半ばだというのに、会場中の誰もが憔悴しょうすいしきっている。

 想像をはるかに上回る過酷なさまに、思わず絶句した。


「あの機械に、十秒に一つ数式が現れるの。簡単な足し算に混ざって、たまに掛け算とか割り算とか出てくるのよ」


 扉から少し距離を取りながら朱里ちゃんが説明し始めたので、俺も後を追う。


「そんな簡単なのに、なんであんなにヘロヘロなんだ? 算数なら得意だぞ。俺が出れば良かったな」

「五桁の掛け算とか混ざってるのよ?」

「それは俺が苦手な数学じゃねえか。疲労困憊なのも納得した」


 朱里ちゃんが片眉だけ落としたしかめっ面になる。

 また何か怒らせるようなことした?


「……太郎君が、八百屋でルート3個の梨が入った箱をルート12箱買いました」

「六個って言え。それで? 算数の問題なんか言い出してどうする気だ?」

「……アケメネス朝において、ほとんどの花子さんが信奉した宗教は」

「ゾロアスター教」


 朱里ちゃんが、俺の乱切りヘアーを搔き分けて頭皮を覗きだした。


「いてえな。なにすんだ」

「……今度、君の脳を研究機関に売り飛ばしていい?」

「いいわけあるか!」


 いけね、つい大声になった。

 扉のそばに座った何人かににらまれたけど、そりゃ当然だな。

 みんな必死に戦ってるのに。すまん。


 体育館に向けて両手を合わせて謝ると、一人の女子の異常に気付いた。

 扉に一番近くの子、脂汗が浮いたおでこをふらふらさせている。


「……先生。そこの子、具合悪そうなんですけど」


 俺が小声で先生に告げると、動かない眼球を正面に向けたまま、冷たい返事を平然と言い放たれた。


「会場内への一切の干渉を禁ずるのである。さらなる干渉をした場合、お前のチームメンバーが全員失格になるのである」


 ……これだから天使どもは嫌いなんだ。


 こいつらは教師として俺達悪魔を更生させるために地上で暮らしている。

 指導の他に、アエスティマティオや罰による事故を防止するのも仕事なんだが、石頭で融通が利かないからこういう時には邪魔者でしかない。


 朱里ちゃんにも様子が伝わったんだろう、不安な顔で立ち尽くしている。

 俺がそばまで戻ると、声をひそめて話しかけてきた。


「どうしよう。花蓮ちゃんを失格にさせる訳にいかないけど……、あの子、もう限界だよね」

「いや、悩むことねえだろ。俺が試験を一瞬止めるから、その間に彼女を連れだしてくれ」

「え? どうする気なの?」


 あれ? 結構簡単な事だと思うんだけど。

 朱里ちゃん、ほんとにひらめきが無いんだな。


「わりい、俺にはきっかけを作ることしかできん。メインの救出を全部任せることになるけど」

「ふーん。今回も、ゼロを1にしかできないんだ」

「悪かったな」

「ううん。それ、かっこいいよ」


 朱里ちゃんの優しい笑顔。

 危うくドキドキしそうになったけど、ここは徳俵でなんとか堪えた。

 さあ、急がなきゃ。


 俺は体育館に沿ってアーケードまで走って引き返す。

 そして、屋根の内側を這う太いケーブルを見上げた。


 体育館の電気は、あのケーブルで供給されている。

 小学生の頃、王子と二人で悪さして切断したことがあるから知っているんだ。

 思い出すなあ。お仕置きとして、姉ちゃんから一晩中電気アンマされたっけ。


 しかし、ただあれを切断したら試験への干渉扱いになるだろう。

 だからこの手を使うしかない。

 これから、あのケーブルが偶然、罰の効果によって切れるんだ。


 屋根から頭を出して上空を見上げると、タライがふわふわ舞っていた。

 それじゃ、ケーブルどころか屋根すら突破できない。

 最大級のドキドキを持ってこないと。

 ケーブルの下に立って、遠くから俺を見つめる朱里ちゃんに目をやった。


 スレンダーで健康的な足が綺麗。

 アーモンド形の、ちょっときつめの目がこれまたたまらん。

 腰まで伸びた、真っ赤なポニテも素敵。


「……困った。連日の恨みがあるから足りんな。ドキドキしねえ」


 よし、では男子高校生らしく、健全に……、



 妄想で! あのセーラー服を剥くっ!



 俺が男らしい真剣な目を向けると、朱里ちゃんは目を吊り上げて腕を組むようにして胸を隠した。

 ……うそだろ? 俺、何をするか口に出してないぞ? すげえな、女子の勘。

 だが、透視ならともかく、妄想の前にそんな格好をしても無意味!


 今日のパンツは白っぽいピンクだったから、上もおそろいかな?

 上……、か。まるで想像つかん。

 セーラー服じゃ大きさとか分からないし、脳内で勝手にイメージしよう。

 ……やだ朱里ちゃん、ぺったんこ。


 でも、可愛らしいピンクのブラジャー。興奮する。

 そしてブラジャーの奥には…………。


 俺の妄想が進むにつれ、朱里ちゃんの怒りのオーラも天井知らずに跳ね上がる。

 まさか、見えてるの?

 だが、負けるもんか! さらに先へ、俺は足を踏み入れる!


「きた……っ!」


 ここ最近最大級のドキドキ、来た来た来た来た来た!


「きたーーーーーーっ!!! 今の俺には、朱里ちゃんのチェリーがはっきりと見えるっ!」



🐦🐦🐦どかんっ!🐦🐦🐦



 巨大なロウ細工のサクランボが落下して、アーケードごと俺を押しつぶした。

 轟音に伴い、体育館は停電。のち、大パニック。


 そして体育館横に立っていた先生がこっちに向かって来る隙に、朱里ちゃんが女の子を無事に保護して校舎へ飛び込む。

 完璧だ。さすがは一を百にする、俺の勇者様。


 そんな朱里ちゃんの吊りあがった目には、涙が滲んでいた。

 顔も真っ赤にしてたし、惚れさせちゃったかな。

 しょうがねえよな。さっきの俺、最高にかっこよかったし。


 …………ど変態かっこいいとか、俺、ニュージャンル。


 すぐ横では、二人の天使がケーブルを直に手で繋いで復旧させている。

 電気工事に携わる人が見たら泣くだろうな、この光景。

 そして体育館からは、一分後に同じ問題から再開するとの声が響いた。


 俺は満足感に満たされながら、軋む体を起こして立ち上がった。

 足元に散らばる硬い破片も、ゴム底の上履きに踏まれてぱきんと粉々になる。

 超常現象。その正体。……俺の体は、青い光に包まれていた。


「罰の過剰発動を感知したのである。祝福ブレスで保護したが、注意して歩くのである」


 罰の被害、アエスティマティオでの事故。

 神が行使するものから俺達の命を必ず守ってくれる、天使の祝福ブレス

 わりい、利用させてもらったぜ。


 もうちょっとしきいを下げて、金ダライもブロックして欲しいけど。

 いてえんだぞ、あれ。

 あと、サクランボに潰された時もな。

 もうちょっと早く守ってくれたらここまで痛い思いしないで済んだのに。


「……サンキューな、先生」

「師へは、その言葉は不適切である」

「おお、ありがとうございました」


 俺は試験の再開を耳にしながら、朱里ちゃんが向かったであろう保健室へと軋む体を引きずった。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「…………朱里。このほっぺたが異様に腫れてる人、誰?」

「知らない」

「色々あってな、俺も人生に大切なことを学んだよ。往復ビンタって、人生を左右する力を秘めている」

「人相占いなら違う結果になるから納得ね。あんたの寿命、あと二往復って出てる」


 そうなんだ、危ないところだった。

 俺はボールみたいに腫れた頬をさすりながら、疲れた体でパイプ椅子を軋ませた。


 俺達は試験終了後に昇降口で落ち合って、すぐそばの事務室に潜り込んだ。

 普通なら怒られて叩きだされるところだろうけど、福笑いですら再現不能な般若顔をした朱里ちゃんに誰も声をかけることができないようだ。

 事務員さんごめんなさい。苦笑いさせてごめんなさい。


「さて、朱里。あんたも膨れてないで、よく聞きなさい」

「膨れてないもん」

「そうだな。俺の方が遥かに膨らんでるよな」

「うるさいだまれ口を閉じろ目をつぶれついでに耳と鼻も塞げ」

「……尻で呼吸しろと?」

「いいから真面目に聞きなさい! 試験でへとへとなんだから、これ以上疲れさせるんじゃないわよ!」


 怒っても怖くもなんともない花蓮だが、さすがに殊勝にならざるを得ない。

 俺と朱里ちゃんは、姿勢を正して暗算マラソンを制した指揮官に傾注した。


「ここからが本番よ。全校生徒が敵になる、Aランクのアエスティマティオ」


 花蓮が声を潜めて顔を寄せて来る。

 すると、気品を感じるフローラルな香りが鼻腔をくすぐり、危うく意識と全財産をこいつに持って行かれそうになった。

 ……まあ、金なら一円も無いけどね。


「でも、作戦はすでに準備済み。これから衝撃の事実を話すから、朱里が叫び声を上げたら一文字以内にあんたが口を押さえなさい」

「なんのこっちゃ」

「さっき、パートナーの登録変更しておいたの。この変態のパートナーは、私」

「え!? なんぷっ……」

「……ぐず」

「それなり早かったろうが」


 朱里ちゃんが俺を見ながら軽く頷いた。手を放しても大丈夫そうだな。

 ……そしてこの右手、一生洗わない。


「どうして!? 朝の作戦と違うじゃない!」


 ひそひそ声だけど、興奮してるな。

 また大声出すかも。そしたら、逆の手で押さえつけよう。


「あんたたち、二日連続でBランクの勾玉を手に入れてるでしょ? 確実にマークされてる。妨害、足止め、そして先回りされて、他の連中に取られてしまう」

「な、なるほど……。確かにそうだな」


 俺だって、逆の立場なら勝ち馬を利用しようって思うはずだ。

 危ない。そんなこと考えもしなかった。

 朱里ちゃんもしきりに感心しながら頷いている。

 ああ、そうだな。花蓮、凄いやつだな。


「しかも朱里はCランク試験に参加してない。Aランクに確実に現れると踏んでる。今頃は学校中、赤い髪のルーキーをどう利用するか作戦を練っているはずよ」

「なるほど。まさか朱里ちゃんがアエスティマティオに参加しないなんて誰も思わねえだろうな」

「じゃあ、あたしは花蓮ちゃんたちが勾玉を手に入れるまで、どこかで隠れてればいいの?」


 花蓮はこれを聞くと、笑みを浮かべながらさらに椅子を寄せた。


「逆。あんたは出題されたらすぐに、校舎中を走りまわるの。本気を出さないで、追いつかれないぎりぎりのスピードで。あらかた走ったら、校門から外に出ちゃっていいわ。……全校生徒を引き連れて」

「凄いよ花蓮ちゃん……。ワルだね」

「策士と呼んで欲しいわ」


 美女と美少女。あくどく笑う。

 超怖え。


「でも、一人で走ってたら怪しまれねえか?」

「朝のうちに丸太を準備しておいたんだけど、ついさっきもっといいものを手に入れたの。ちょっと!」


 花蓮が事務員さんに声をかけると、部屋の奥からおじさんが真っ白い人形を抱えて持ってきた。

 やりたい放題だな。


「体育館から戻る時、ハトがこれを背負って歩いてたから盗んでやったの」

「うおおい!? 俺のロウ人形じゃねえか!」


 え!? これを落とす準備をしてたってこと?

 ハトの気持ち、さすがに分からない!


 朱里ちゃんがメッセンジャーバッグからロッドを取り出して、真っ白な俺に優しく巻いていく。

 いつもみたくやったら真っ二つなことは分かるんだけど、なんだかジェラシー。


「じゃあ、そろそろ時間ね。あたしはスケベじゃない方の雫流と走り回って来る」

「せめて、顔が腫れてない方の俺って言ってくれ」

「同じ意味じゃん」


 ……ほんとだ。


「まあ、実力で他の奴に取られる可能性が高いから、そんなに期待しないで」

「ううん? 期待しちゃうよ。……そうだ、花蓮。あたしの話、二つだけ聞いて欲しいんだけど」

「……何?」


 花蓮の目、朝の食堂で見た不機嫌なものに変わった。

 警戒心とともに灰色の目に宿るのは、朱里ちゃんに対する不信感。

 ……二人は、どんな関係なんだ?


「このアエスティマティオが終わったら……、そっちの、どうしようもない方の雫流を返して欲しいの」

「相対評価、良くない」

「当然そうするわ。作戦だから仕方ないけど、パートナー登録できるなら毛虫の方がマシだと思ってるから」

「比べるってことは、双方に対して失礼だからな」


 泣きそうだ。お前もそうだろ、毛虫。


 潤んだ視界の端に、なぜだかほっとした様子の朱里ちゃんが見えた。

 そんな彼女が、アエスティマティオの通知を知らせるメロディーに負けじと、少しだけ大きな声を出した。


「あと、雫流は暗号解読については本物だから! 何があっても信じて! じゃあ、後は任せたわよ!」


 本物……、か。

 事務室の扉を開いて、颯爽と駆け出す赤いポニーテール。

 彼女の想いを無駄にはしたくない。俺も頑張ろう。


 制服の後ろポケットからルーズリーフと携帯を取り出して、机に広げる。

 花蓮は俺の後ろに立って、ちょっと机を借りるわよと、偉そうな声を上げていた。

 さて……、かかってこい!



  本日の進級試験

 Aランク:一・白くて重い力ゲ。二・只反るだけのもの。十一・悪。十八・幾つもの一つの束。この下に、勾玉がある。二人一組で解読する事。最も早く発見できた者に授与。ペア以外の者と協力した場合失格とする。



「……いろんな可能性が見えてくる暗号ね。さすがはAランク」

「おう。でも、その可能性ってやつが絞れたら簡単に読めるだろ?」

「どういう意味よ」

「俺、ヒントなら見つけられるんだ。後はさっぱりなんだが」


 呆れるかと思っていた花蓮は、興味深げに真剣な表情を浮かべた。


「ヒントを……、見つけることが出来る?」

「まあ、見てなって」


 今まで散々バカにされたけど、ちょっとは認めさせてやる!

 俺が視覚を研ぎ澄ますと、携帯の画面が赤く染まっていった。



 反射観察スチール・リフレクス…………。



 出題者、親父の意図を読む。

 漢数字。1、2、11、18。四字熟語、あるいは四文字の言葉。

 ナンバーの意味。間の補完。ナンバーからの連想。

 Aランク。変換手法が複数。二段階に変換。あるいは四ブロックの変換方法がそれぞれ異なる。

 白い、重い。カゲがカタカナ。

 只が漢字なのに、ものがひらがな。者、物。伏せることの意味。

 悪。シンプル。発想するならここが起点か。十一番目の悪。十一人の悪人。

 ナンバー、変換方法が複数、カタカナ、もの、十一…………



「ぐはあっ! …………な、なにも出て来ねえ!」


 集中が切れて、赤く染まった視界が正常に戻る。

 異様な疲労感に襲われてふらふらしていたら、花蓮が両肩を支えてくれた。


「こんなの初めてだ。分からないなら、分からないって答えが出るはずなのに……。集中力が切れてもまだ先があるなんて。さすが、Aランク」

「あ……、あんた、何をやってるのよ? 一瞬で汗びっしょりじゃない」


 首を反らすと、不安そうな顔が覗き込んできた。

 おいおい、そんな顔すんじゃねえよ。

 俺は、この学園の英雄になる男だぜ?


 眼球が痛い。こめかみはもっと痛い。

 目の裏のあたり、なんの部分だか見当もつかないところがあり得ないほど痛い。

 でも、続けなきゃ……。


 反射観察スチールリフレクス


「いてえっ!」

「大丈夫!? ちょっと、あんた!」


 激痛に目を閉じると、真っ暗な中にネットワークの模式図のような赤いラインがどくんどくんと脈を打つ。

 なんかやばげかも。

 でも……、マラソンを見ていて分かった。花蓮は泣き言一つ言わずに戦ったんだ。


 俺は、ゼロを1にすることしかできない。

 一を百にする朱里ちゃんの足元にもたどり着けない。

 疲労困憊だろうに、Aランクの暗号解読に挑もうとする花蓮に遠く及ばない。


 ちっちゃいことだけど、俺に出来ることはこれだけ。

 だから…………、だから! 絶対に成功させる!



 他の感覚をすべてシャットアウト。

 視覚に集中…………!


 ルーズリーフを取り出して、暗号を書き写していく。

 真っ赤な視界の中に、変な映像が混ざって頭がくらくらする。

 緑の島が雲の上にいくつも浮かんでいて、階段で繋がっている。

 俺は、誰かに手を引かれてそこを走っている。

 手を引くその人は、真っ赤な髪が腰までかかり、その口元に鋭い牙。

 目が燃えるように赤く光って……。この人……。



 ごんっと、眉間から鈍い音が聞こえた。

 これは、机が俺を殴った時の音。昔っから授業中によく聞いていたやつだ。

 ……そうか、一瞬だけ気を失ったのか。

 机に突っ伏した俺は、なけなしの体力で首だけ横に向けた。


「ちょっと……、もういいわよ! それ、やめなさい!」


 花蓮がルーズリーフを俺から取り上げる。

 そこに書き写した文章ものたうち回ってめちゃくちゃだ。


 ……でも、俺の目はそれを捉えていた。


「保健室……、いや、病院の方がいいわね。まったく、何やってるのよ!」

「お前こそ何やってんだよ。いいからお前はバトン持って走れ」

「え? ……これがヒントなの? さっぱり分からない……。てか、字が汚い」


 失礼な。よく見ろ。


「……丸で囲ってある、「力ゲ」? これがどうしたって言うのよ」

「それ、「カ」じゃねえよ。漢字のちからだ。だから、「重い力ゲ」は、動くって字になるんじゃねえか?」


 花蓮は、切れ長の目を見開いた。

 そしてルーズリーフを俺の手元に戻して、続きを書き込んでいく。


「……漢字の合成? 百、動く、……これは、販。次は……」

「すげえ。そうやって解くのか」


 ようやく頭のクラクラが収まって来た。

 俺は頭を持ち上げようとしたが、花蓮に手で押さえ付けられた。


「バトンは受け取ったんだから、あんたの出番は終わり。……お願いだから、そこで寝てなさい」

「いや、もう一個だけ……」


 俺は、最初から引っかかっていた「悪」の字に丸を付けた。


「一文字。何かがおかしい。Aランク。変換方法が複数……」

「……なるほど、いいヒントだったわ」

「え? 読めたの?」

「ううん。その丸自体がヒントになった。先に答えが分かったのよ」


 花蓮はそう言いながら、ルーズリーフの端になにか書き始めた。


 百 動 販 〇 機 東


「…………読めない」

「感心して損したわ。やっぱりあんた、バカなのね」


 昨日からお馴染みのセリフだが、険の無い優しい口調。

 花蓮は、さらに書き足していった、


 百× → 自

 十一・悪 → 十一ワル → 売


「…………おお」

「あんたがいなかったらこんな早さで読めるものじゃない。やるじゃない。……動ける? 病院行く?」

「いや。ちょっとこのままで休みたい」

「そう。じゃあ、後で寄るわ」


 花蓮は俺の乱切り頭をポンと叩くと、事務室をゆっくりと出て行った。

 大したもんだ。あれなら、まさか暗号が解けて勾玉を取りに行くところだとは誰も思わないだろう。


 花蓮も朱里ちゃんも、頭いいな。

 これからも、俺達の快進撃は続くだろう。

 姉ちゃんを、父ちゃんに会わせてあげられる日も近い。


 俺も……、あいつと会うのか。

 ちょっと想像つかないけど、嬉しくは無いかな。


 ゆっくりと机から頭を上げると、校内放送が始まった。


『……告知。全学、傾注。アエスティマティオ、ランクA。発見者一名確定。チームヴィーナス・鼓歌音花蓮。Aランク達成、最速記録。以上』


 放送が始まるなり校内を埋め尽くした絶望の声が、放送終了と共に感嘆の声に取って代わり、最後には大きな拍手と歓声になった。


 ……多羅高校に、新たな英雄が生まれた日となった。



 ………………

 …………

 ……



『伝達。一年B組、七色雫流。廊下にお前の首が落ちている。至急回収しておくように。以上』


 ……そして歓声が、悲鳴に変わった。


 多羅高校に、新たな変人が生まれた日となった。

 


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「朱里ちゃん、冷たいのか優しいのか分からん」


 ウェヌス・アキダリア、俺達が暮らす白亜の洋館。

 その目の前に広がる芝生に腰を下ろして、星空を眺める。


 これから暑くなると、またあの四人組が芝生の手入れに来るのかな。

 俺も、大好きな緑の絨毯の為に手伝わなきゃ。


 ふかふかさらさら。優しい緑の香り。

 俺が大の字に横たわると、星空がポニーテールの形に切り取られた。


「今日は大変だったんでしょ? 花蓮ちゃんから聞いたわよ」

「うん。あんなの初めてだ」


 あの時、目に浮かんだ光景。赤い髪の、牙が生えた人。

 どこかで見たような、初めて見たような。


「昼間あんなに怒ってたのに、心配してくれるんだ」

「……当たり前じゃない」


 ポニーテールのシルエットが、少し俯いた。

 しょんぼりさせちゃったか。

 今のは俺の言い方が悪かったな。

 なんか、気軽な話でもしよう。


「冷たくて優しい、両方持ってる朱里ちゃん、いいかも。ギャップ萌えってやつ」

「……変なの。男子って、そんなのがいいんだ」

「食べ物だってそういうのあるだろうが。あったかいものと冷たい物、一緒に食べるやつ。あれを食べると……」

「美味しく感じるの?」

「大人っぽく見える」

「……その発言がガキンチョ」


 うそ? おしゃれな食いもんって、全部そういうもんじゃない?


「だって、美味さがよく分かんなかった」

「食べたことあるんだ。……アフォガードとか?」

「ああ、それ。姉ちゃんが好物でさ、よくサラダに入ってるんだけど」

「……アフォガードが?」

「うん。メロンっぽいのに青臭い味だし、中途半端に柔らかいし」

「そう。君、間違ってるからね。正しい発音はアフォドだから。覚えときなさい」

「おお、博識だな、朱里ちゃん」

「……雫流だって、分からない。それ、本気なの? わざとなの?」


 くすくすと笑い声が聞こえると、星空がそれに合わせて揺れた。

 買いかぶりだよ。俺は、ただのバカだ。

 だけど、バカの効用くらい分かってるつもり。

 ぼっち生活が長いと、そんな能力ばっか身に付いちまうんだ。


「……あれ、使わないで欲しい」


 なんだよ、最初の話に戻っちまったな。

 でも……。


「そういう訳にいかんだろ」


 俺の返事に、星空は動かない。

 また、悲しませているのかな。

 ……太陽のような彼女は、夜にはかげることしか術を持たないのだろうか。


「……姉ちゃんの罰を解除したら、次は朱里ちゃんのを解除しような」


 そんな言葉しか浮かばなかったんだが、これが驚くような結果を招いた。


 ……寝ころぶ俺の目に、はっきりと朱里ちゃんの姿が映し出されたのだ。


「近いっ!」


 目の前に、アーモンド形の目が迫る。

 大好きな、ミルクの中にイチゴソースを溶かしたような甘い香りが思考を奪う。


「解除……、してくれるの?」

「…………朱里ちゃん…………、泣いてる?」


 頬に落ちる暖かな涙。

 ……いや、こんなに冷たい滴があるということを、俺は初めて知った。


「嬉しい……、ありがとう」


 ちょ…………、朱里ちゃん。まずい。猛烈にまずい。

 もしこのまま、タライが落ちて来たら、俺達…………。


 つやっぽい朱里ちゃんの唇が音を鳴らして開く。

 俺は、覚悟を決めて……。


「雫流……。大嫌いよ」

「なんでだよ!」


 混乱する俺に、寂しそうに微笑む。

 そんな朱里ちゃんは、また影となり、星空の中へと溶けていった。



 つづく。

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