矢吹真緋子 ~五月と言えば~

 ペットボトルというものがある。

 俺はこれを発明した人を知らないが、心から尊敬している。


 ほぼ五百ミリリットル。なんて完璧なサイズなんだ。

 中途半端に大きいから子供には飲み切れないわけで、俺は小学生の頃、好きだった女の子が残した紅茶を渡されたことがある。


 ……子供に夢を与える、実に素晴らしい発明品だ。


 ただこの発明家、詰めが甘いとも思う。

 渡された紅茶には、蓋がされていた。

 スクリューキャップはダメだ。拭いてどうする。


 だから俺は、子供たちの夢を守るため、大人になったらペットボトルの蓋をコルク栓にする仕事に就きたいと思う。

 よわい十五にしてここまで具体的に将来を見据える俺、やっぱりかっこいいよな。


「というわけでな、風呂上がりのフルーツ牛乳をペットボトルにしたら銭湯を利用するカップルが増えると思うんだよ」

「バカなこと言ってないで早くお風呂場から出てきなさいよ!」


 脱衣所の扉越しだからまるで見えやしないが、赤髪がポニテ可愛い美人さんである紅威くれない朱里あかりちゃんは、今日もご機嫌斜めな声を上げていた。


 ――ここは、ウェヌス・アキダリアと呼ばれる巨大な洋館。

 いつも姉ちゃんが紅茶を飲んでるログハウス風の喫茶店『シャマイン』から芝生の丘を登ったところに建っている。

 俺と姉ちゃんの家なわけだが、学生寮にもなっていて、朱里ちゃんもここの住人という訳だ。


 その共同大浴場で、俺は初登校前にひとっ風呂。

 脱衣所で自慢のぼさぼさ乱切りヘアーを拭いていたら、廊下で俺を待ってくれていた朱里ちゃんにかされた。


 でも、早くしろと連呼されると反抗したくなるのが人情だろう。

 自分の夢についてわざとだらだら語ってみたら、さすがに怒鳴られてしまった。


「でもさ、始業までまだ余裕あるだろ。なんでそんなに急ぐんだよ」

「そんなの決まってるじゃない! …………なんでよ?」

「知るかっ! なあ、お前の天然、俺にはまだ早すぎるみたい。萌えない」

「うるさい。何度も早くしてって言ってるうちに忘れちゃっただけよ。えっと……」


 ……昨日の夜、朱里ちゃんと一緒にご飯を食べながら話をして、彼女のことをよく知ることができた。

 この美人さん、驚くほどに天然。だというのに萌えない。

 しかもボケが自然過ぎて、ぼーっとしてると異世界に連れてかれる。

 ちょっとした超常現象だ。


「大丈夫だよ。学校に着いたら思い出すんじゃねえの?」

「無責任なこと言ってないで、君も早く思い出してよね」

「それそれ。怖い。一瞬の間に記憶が書き換えられてる気分になる」

「あ、思い出した! アエスティマティオの前に予習しておきたいのよ!」

「そんな理由だったのか。俺は学業で人の優劣を決める世界に警鐘けいしょうを鳴らすほどのバカだから、当てにするなよ?」


 脱衣籠に放り込んでおいた鞄をひっくり返して、中から出てきた携帯を見る。

 そこには一つだけ、俺にとって難易度のランク付けが明らかに間違った課題が表示されていた。



  本日の進級試験

 Eランク:十六時より十七時まで、校内清掃。男女ペアで参加の事。最も尽力したと判断された二組に勾玉を授与。妨害自由。

 Dランク:八時二十分より全校一斉学力テスト。成績最上位者に勾玉を授与。カンニング不可。

 Bランク:十二時三十分に発表。



「これは個人種目だから安心して。君に学力は期待してないから」

「そんな言われ方されると腹立つな。じゃあ気合入れる」

「イコール2の分際で気合入れても何も変わらないわよ。きっと3になるだけ」

「何のことだか分からん。数学は勘弁しろ。文系科目で勝負」

「……じゃ、スタンダールの代表作は?」

「なんだろ。二色ボールペン?」

「微妙にかすってて驚くわね」


 だから文系科目にしろって。それ、俺にとってはかなり理系。

 発明家の名前なんか、コンピューターを作ったニュートンくらいしか知らんよ。

 それにしても、朱里ちゃんは天然バカなくせに頭いいんだな。


 そんなことを考えながら鞄に携帯とルーズリーフ、あと二色ボールペンを詰め直して着替えをあさっていたら、大変なことに気付いた。


「やば。下着が無い」

「さっきまで着けてたやつで我慢しなさいよ」

「彼は今、泡にまみれてクルクル回ってるとこだから邪魔しちゃ悪いよ」

「君より価値があるもんね、下着。お風呂の時間が倍以上かかるのも頷けるわ。……たしか来客用の部屋に下着があったから、持ってくるね」


 俺はバスタオルを腰に巻きつつ、廊下を遠ざかっていく朱里ちゃんのローファーの音を耳にしていた。


 ……やっぱ俺の事、嫌ってるのかな?

 昨日もお構いなしに走り続けて、傷だらけにするし溺れさせるし。

 しまいには校門に叩き付けるとか、酷い奴だ。


 でも、美人さんだし明るいし、優しいところもあるんだよね。


 普通、空から降って来た男をキャッチしようなんて思わない。

 それに今だって、俺を放っておいて自分だけ学校に行けばいいはずだ。


 俺は天井で揺れるかなダライを見上げながら、釘を刺しておいた。


「というわけで、今のところイーブン。ドキドキしない程度にはひどい目に遭ってるから、そいつの出番はないと思え」


 まったく、神の使いだからってよそんちに上がり込むんじゃねえよ、ハト。


 屋内でもお構いなし。こいつらは、俺の罰を確実に遂行する。

 とっとと平穏な暮らしをしたいけど、姉ちゃんの罰を解除するまで俺は勾玉を使うなって言われてるからな……。


 でも、姉ちゃんの罰を消すまでいくつの勾玉が必要なんだろ。

 昨日手に入れたBランクの勾玉くらいじゃ、焼け石に熱湯かけるようなものだって話だし。


 考え込んでいた俺の耳に、ローファーの軽いリズムが舞い戻ってきた。


「はい、雫流しずる! 急いで着替えてよね!」

「おお、ありがと」


 朱里ちゃんはドアを少し開いて、小さなピンクのショッパーと四角い包みを差し出してきた。

 ショッパーの方にはパンツが入ってるんだよね。じゃあ、こっちの国語辞典くらいの包みはなに?


「これ、何の箱?」

「それは……、あれよ」

「なによ」

「昨日、雫流がヒントをくれたから勾玉を取れたわけで……」

「おお。まさかその恩を大人のでんしゃごっこで返されるとは思わなかったがな」


 車掌さんになった人を、「硬い門柱」という人生の終着駅まで連れて行くでんしゃごっこ。

 運転手は貴様だ。


「あとさ、足が痛いのに引っ張ってくれたじゃない。あれ、思い出したら急に嬉しくなって。だからお礼とお詫び……。沙甜さんに聞いたら、これがいいんじゃないかって言われたから」

「前振り長い。結局何が入ってんだよ」

「幼稚園の時にお父様が作って下さったんだって。沙甜さん、感動して泣いちゃったんだって」

「だから、中身なに?」

「パンダ」

「高圧縮!」


 ほんとお前のボケ、次元が違う。これがリーガエスパニョーラか。


「本物じゃないよ! ……パンダのお弁当作ってみたんだけど……」


🐦がんっ


 な……っ!? こ、これが伝説の!? 「女子から貰ったお弁当」なのか!?

 しかもキャラ弁とか、そんなのドキドキしないわけねえだろ。


 しかし初めて扱う品だから、どうしたらいいのかまるで分からん……。

 包みの結び目を、こうやって左手の薬指に通すんだっけ?

 あらやだ、サイズぴったり。


 だがまて、落ち着け。これ以上興奮したら命にかかわる。

 ここは涙を呑んで、ちょっと冷たい態度で突っぱねよう。

 ……くぅ、俺の初めての「女子から貰ったお弁当」。もったいないけど……。


「……あのなあ。大嫌いって宣言した女が無理に作った弁当なんか渡されて、喜ぶと思うか? せめて萌えゼリフぐらい添えて渡せっての。却下だ」

「なによその言い方! 自分の分の余りで作っただけで、わざわざ君の為に作ったわけじゃないんだからね!」


🐦がんっ


「合格ですっ! ……ごほん。ま、まあ、そこまで言われちゃしょうがねえや。軽いお礼のつもりで受け取ってやる」

「だったらぶつくさ言ってないで素直に受け取りなさいよ。……でも、初めて男子に作ったお弁当なんだから、もうちょっと感謝してくれてもいいんだよ?」


🐦がんっ


「……分かった、心から感謝する。感謝してやるから、俺に感謝する気があるならもう感謝しないで欲しい」

「ややこし。さっきから嫌そうだけど、いらないなら返してよ」

「死んでも返すものかーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!」


 俺は慌ててお弁当箱を抱きしめながら大声を上げた。

 朱里ちゃんから貰ったお弁当、それを返すなんてとんでもない。

 素直にはしゃぐ事ができないこの罰が憎い。


 暴れた拍子に扉を蹴とばすと、開いた隙間越しに朱里ちゃんと目が合った。


 彼女のアーモンド形のぱっちり可愛い目が大きく見開かれる。

 真っ白だった朱里ちゃんの頬も見る間に赤く染まっていく。

 ……これは、あれだ。

 きっと俺がバスタオル一枚って姿だから照れてるんだ。


 ……違うと困る。俺の気持ち、ばれると困る。


「そ、そんなに嬉しかった? おべんと……」

「ちがっ……! ぜんぜん? 何言ってんの?」

「へー。ふーん。そうなんだ。嬉しいんだ」


🐦がんっ


「べっ、別に、あんたの為に貰ったわけじゃないんだからね!?」

「そっかそっか。えへへ」


🐦がんっ


「でも、気持ちは嬉しいけど、あたしは君の事、大っ嫌いだからね?」


🐦がんっ


「おいハト! 今のはおかしいだろうが!」


 ……朱里ちゃん、セリフと表情が合ってねえ。

 なんでそんなに照れくさそうに可愛い仕草でばっさり切り捨てるんだよ。

 ふられてるのに、ドキドキしちまった。

 あ、それなら合ってるのか。怒鳴ったりしてごめんな、ハト。


「だったら照れてるんじゃねえよ。ほんとは俺の事、好きなんじゃねえの?」

「バカなの? 裸見たら誰だって照れるわよ。とっとと着替えなさい、バカの王様」

「今は裸の王様なんだが」


 自分で言って、改めて気付いた。俺、裸見られてるんだ。

 うわあ、恥ずかしい。でも、


🐦がんっ


 ドキドキするとか、俺は変態か?


「……裸の王様ってさ、実は裸でパレードした夜、木のうろに向かって「王様の趣味はロバプレイー!」って恍惚こうこつの表情で叫んでいたのではなかろうか」

「いいから早く服を着ろ!」


 すっごい剣幕。急いでるところ、ごめんね?

 扉の隙間から覗くと、朱里ちゃんの赤いポニテが俺に振り向いた。

 よし、とっとと着替えなきゃ。


 天然おバカなところもあるし、俺を嫌ってるように見える朱里ちゃん。

 でも本当は俺のことを気にしてくれて、感謝してくれて、親切で、そして……。


「うそだろ?」


 ……そして、途方もないバカだ。


 俺は、ショッパーの中を覗き込んで戦慄した。

 来客用。替えの下着。

 間違いない。彼女が口にした通りの物が入っている。入っているのだが。


「……こっちはギリ何とかなるかもしれんが、こっちはどうする。頭か?」


 巻いてみたが、思ったより紐が余るのできっと使い方が違うのだろう。


「まだなの? 早くしなさいよ!」

「おお。……でも、ブラデビューがイチゴ柄なんて、ハードル高くね?」


 やっぱりこいつの天然、次元が違う。これがメジャーか。


「ぶつぶつ小声で言われても聞こえないわよ。それより早く! ハリー!」


 慌てて下だけイチゴを履いて制服を装着。

 お弁当は寄っちゃうけど、横向きに鞄に詰めた。


 ……ここまでは簡単だ。だが、やはりこれが難題。

 いくら天然バカのやったこととはいえ、「形が崩れちゃうよ?」と言わんばかりに親切で渡されたものを無下むげには出来まい。


「なあ、高校生にもなって恥ずかしいんだけど、教えて欲しい事がある」

「時間切れ! 行くよ!」

「ホックがいくつも付いてるんだけど、俺のサイズだとどこをはふーん♡♡♡♡」


 扉の隙間から振るわれた鞭が体に巻き付くと、昨日体験した以上の激痛と快感が思考を停止させた。


 もう、何かのフラグだろうが知らん。構うもんか。


 俺はイチゴブラをポケットに押し込みながら、気を付け無心で引きずられた。


 ……芝生の丘を滑り降り、喫茶店の横を抜け、あれだけハトに阻止され続けていた校門も難なく越える。

 さすが、俺の勇者様。


 そして視界には、憧れの多羅たら高校。

 屋上に揺れるこいのぼりが五月の風をはらんで揺れる。


 視線を勇者様に戻せば、今日もピンクの桃源郷。

 今日の楽園は、ちょっとぴっちり小さめで可愛らしかった。


🐦がんっ


 ハトの攻撃、ミス。遥か五メートル程離れて落下。

 ふっ、ざまを見よ。

 貴様らの攻撃など、勇者様に引かれる俺に、かすることも出来まい。

 いつもこうしてもらえば、俺の罰など無いにも等しごはっ!


「あ、ごめん。思いっきり踏んじゃった。でも雫流は頑丈だから平気だよね!」


 ……そうさ。いつもこうしてもらえたら、ハトの罰なんて気にもならないね。

 だって朱里ちゃんの攻撃の方が楽に死ねそうだもん。


 俺は、正常な判断力を失うほど意識を朦朧もうろうとさせたまま、念願の初登校を果たしたのであった。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 ……予想通り、昼休みになっても俺の元に寄って来る連中はいない。


 一ヶ月も学校に来なかった男に話しかけるには勇気が必要。

 そんな当たり前の理由じゃないことくらいは、この罰と付き合い続けた二年半で嫌というほど学んできた。


 天井を器用にひょこひょこ歩くハトが六羽。

 彼らがぶら下げている金ダライ。

 この異変の発生源に対して向けられる視線が好意的なはずは無いのだ。


七色そらはし君、それ不憫ふびんねー」


 おいおい、酔狂なやつもいたもんだな。

 君には俺の真上でゆーらゆらしてる金ダライが見えないのかい?


 クラス中の皆が、驚きと尊敬をないまぜにした複雑な視線を一人の女子に注ぐ。

 その子はサイドテールに快活そうな笑顔をのぞかせながら近付いてきた。

 ……割と好みのタイプかも。ちょっと気合いを入れて応対しよう。


「俺には近寄らない方がいい。怪我するぜ、えっと……」

「あたしは柴咲しばさき。退院おめでとう、今日からよろしくね。……怪我するってことは、これ、落ちてくるの?」

「柴咲さんか、よろしくな。話しかけてくれてすっごく嬉しい。でも、俺に関わると火傷するぜ、お嬢さん」

「大丈夫よ、ここなら射程外でしょ」


 俺のダンディズム、スルーされるとただのバカ。

 突っ込めや。


 席から一メートルくらい、確かにその辺りなら平気と思われる位置で柴咲さんは立ち止まる。

 しかし高校生ともなると、変わった奴もいるもんだ。

 俺に近付いてくるヤツなんて、この罰を発生してから三人目。

 ……いや、人間では初めてだな。


「あのハト、どうやって天井にぶら下がってるの?」

蝙蝠こうもりみたいで不気味だよね。でも、その辺の話は勘弁してくれ」

「ああ、ごめん。やっぱり罰の効果、強くなっちゃうんだ」

「うん。これも元々はテニスボールだった」


 今では進化して金ダライ。

 ここからクラスチェンジされると、さすがにまずい。


「ふーん。それ、避けられないの?」

「それで他の人にぶつけるわけにいかんだろ。しょうがないから食らってるんだ」

「なんだ、いいやつじゃない。おっと」


🐦がんっ


 いい奴とか言うんじゃねえ、ドキドキさすな。俺から離れやがれ。

 ……しかしこの罰、ほんと難儀。

 忌み嫌われる俺に優しくしてくれる人ほど危険にさらすことになる。

 そんな優しい人たちを救うためには、自分から嫌われるしかないのだ。


「こんな感じだから、適度に嫌って離れていて欲しい」

「ああ……、七色君もそうなのね。OK、分かった」


 俺? どういうことさ。


「分かったけど……、ほんとに、嫌ってないから。それだけは信じてね」


 柴咲さんは、今までの元気な姿からは想像もできないほど低いトーンで俯いた。

 そんな彼女の目の横には、小さな古い傷跡。

 寂しそうな言葉と相まって、なんだか胸が苦しくなる。


 だが、背中越しにかけられた明るい声が、そんな重い空気を吹き飛ばしてくれた。


「雫流! 君、いきなりクラス一の嫌われ者ね!」

「おお、朱里ちゃん」


 暢気のんきに近寄る赤髪ポニテ。

 俺は椅子に座ったまま首だけ振り向いて、人差し指を真上のタライに向けた。


「まあ、こんな有様だからさ、朱里ちゃんも話しかけなくていいからね。あと柴咲さんも……あれ? 行っちゃった」


 俺達に背中を向ける前、柴咲さんの表情ににじんでいたのは嫌悪感。

 そうそう、その調子で俺を嫌ってくれると助かる。


 俺、優しい人が痛い目を見る世の中なんか、間違ってると思うんだ。

 まずは身の回りから、そんな不条理を正していかなきゃ。


「こら、女の子を目で追うんじゃないわよ。男子ってみんなそうなの? 気に入ったんなら、もっと紳士的にふるまいなさいよ」

「ちげえよ。っていうか、お前も俺に話しかけるな近寄るな」

「そんなわけにはいかないでしょ? 雫流、あたしのパートナーなんだから」


 ああ、そうだった。

 でもヘタすりゃ朱里ちゃんにタライをぶつけることになる。


 いくら俺のことが嫌いな子だからって。

 いくら俺のことを傷だらけにしたからって。

 いくら俺のことを溺れさせたからって。

 いくら俺のことを門柱に激突させた子だからって。


 …………ちきしょう。一発くらいお見舞いしてやる。


「朱里ちゃん、もしも頭にタライが落ちたらどうする?」

「その恨みを込めて君をタライで叩く」


 前言撤回。

 こいつの素振り、シャープな手首の返し。間違いない。

 朱里ちゃん、タライを知っている。


「じゃあ、せめて俺から離れろよ」


 誤爆したら殺されちまう。


「離れるのも無理よ」

「今日の様子見て分かるだろ? 嫌われ者のそばにいたら、朱里ちゃんも皆に嫌われちゃうっての」

「そうだね。嫌われ者のそばにいたら、嫌われちゃうよね」

「分かったら離れろよ」

「離れないよ? ……あのね、あたし、雫流がパートナーでよかったかも」


 朱里ちゃんは俺から目をらすと、机に両手をちょこんとかけて、そのまましゃがみ込んでしまった。

 おでこを机の端に付けているせいで、表情もまるで見えない。

 

「俺がパートナーでよかった? 何の話だよ」

「なんでもない」


 しゃがみ込む前、朱里ちゃんの目に涙が溜まっていたように見えた。

 赤いポニテも、心なしか元気を失っているようだ。

 彼女の心境も言葉の意味もさっぱり分からない。

 ならば、こいつに頼るしか無かろう。


 俺は他の感覚を切り離し、視覚だけに意識を集中した。

 すると、視界が赤く染まるようないつもの感覚が開始される。



 反射観察スチール・リフレクス…………。



 朱里ちゃん。机にかけた指。白く、第一関節を反らせるほどの力。苦痛、苦悩、くやしい気持ち……………………。


 無理だ、さっぱりわからん。情報量が少なすぎる。



 これ、万能じゃないからな。

 そもそも、このぼっち生活者の究極能力は、他人の悪意や嫌悪感を観察から読んで距離を計るためのものなわけだし。


 さて、しゃがみ込んだ朱里ちゃんに、どう声をかけよう。

 そんな悩める俺の耳に、教室のあちこちから救いのメロディーが届いた。


「おお、Bランクの暗号か。ほれ、見せ場だぞ。いつまで縮んでる気だよ」

「……そうね! 頑張らないと! 高ランクの勾玉は、あたし達だけじゃなくて人間の皆も狙ってるんだから!」


 急にスイッチが入って立ち上がった朱里ちゃんの言葉を聞いて、何人かのクラスメイト……、人間の皆が、俺を見て不敵に微笑んだ。

 かっこいいじゃねえか。でも……。


「なんで人間が?」

「罰を解除できないまま卒業しちゃった悪魔に売れるからね!」


 携帯をポケットから取り出しながら説明してくれる朱里ちゃんに、俺は思わず大声で返した。


「じゃあ姉ちゃんも買えば済むじゃん!」

「それがね、三人の王様は勾玉買っちゃいけないの。だから自分のチームを作って勾玉を回収してるのよ。……そんなことより早く携帯出しなさい!」


 なるほど。じゃあやっぱり俺達が頑張るしかないのね。

 俺はため息交じりに鞄から携帯を出して、届いたばかりの暗号に目を走らせた。



  本日の進級試験

 Bランク:

 吹

 真

 緋

 子

 このいずれかに、勾玉がある。二人一組で解読する事。最も早く発見できた者に授与。ペア以外の者と協力した場合失格とする。



「……だれ? 矢吹さん」

「名前じゃなくて暗号でしょ? ……しかし改行が酷いわね」


 朱里ちゃんは俺の鞄を勝手にあさってルーズリーフを取り出すと、二色ボールペンを抜いて机に開いた。


「ほら! ヒント担当! なんか思い付きなさい!」


 さっき発動したばかりだから、観察の集中力が残っていたようだ。

 携帯の画面の中、なぜか「緋」の字だけが赤く見える。


 朱里ちゃんは応援に回ったつもりだろうか、座ってる俺の後ろに立って、肩に手をかけて揉み始めた。

 肩なんか揉まれても、痛いばっかりで気持ち良くならねえよ?


 でも、このミルクの中にイチゴシロップを溶かしたような朱里ちゃんの香りは別。

 甘くて柔らかい、この香りに包まれていると幸せな気持ちになる。

 ……やばい、ドキドキしてきた。でも、この状態でタライが落ちたら……。


🐦がんっ


「いったーーーい!!! ちょっと! あたしにぶつけないでよ!」

「さすがは勇者様。今日もハトから俺を守ってくれた」


 あ、いかん。勇者様は禁句だったよな。

 朱里ちゃんの眉根が見る間に寄っていく。


「……その勇者様が執拗しつように悪を憎むバックボーン、仲間の壮絶な死を目の当たりにしたからってことにしていいかしら?」

「タライを持ち上げてどこに落とす気だよ勇者様! 勇者様を勇者様って呼んですいませんでした勇者様!」


 せっかく守ってくれたのに、元々食らう予定だったダメージを上回ってどうする。

 詐欺に騙されない魔法のツボを大金はたいて買ったら意味無いだろ。


「……今度その名前で読んだら、君の事は一生、二色ボールペンって呼ぶ」

「すいません。黒ばっか先に減ってすいません」

「そんな時は芯を逆にすればいいのよ。それより、思いついたこと無いの?」


 ああ、忘れてた。えっと、


「四文字目の、これが赤く読める」

「あたしにだってそれが赤だってことくらい分かるわよ。……ん? 君、「」の字が読めないの?」

「……帰ったら、書き取りドリルやります。赤の芯で」

「そうじゃなくて! 読めないのに赤く見えたの?」

「そうだよ! バカで悪かったな!」


 もう泣きたいよ。

 そんなにバカバカ言うんじゃねえ。

 バカだって、バカって言葉の意味くらい分かるんだぞ。


「赤……。緋色が赤いのは当たり前なんだけど、これがヒントなの?」

「あと、縦書きで、矢の字だけずれてる」


 そんなの言われなくても気付くか。

 でも、朱里ちゃんは俺の言葉を真剣な目で受け止めて頷いた。


 ……人の事さんざんバカって言っといて信頼するのかよ。

 変な奴。


「それも気になるってことはヒントなのよね。改行ミスだと思ってた。……えっと、先頭が「矢」。何かが四つ並んでいて、三番目が赤いもの…………、分かった!」


 え? もう解読できたの?


「朱里ちゃん! やっぱりお前は天才なんはっふーん♡♡♡♡」


 ……前言撤回。

 このバカ、また鞭を持ち出しやがった。

 急いでるのは分かるけど、これ、めちゃくちゃ痛いんだからな。

 今も、そしてこの後も。


 赤髪ポニテがまっすぐになびく。

 俺の色っぽい悲鳴を教室に響かせると、朱里ちゃんは風になった。


 二人の風は廊下を滑り、階段を駆け上がる。

 三段飛ばしで突き進む朱里ちゃんの足は、大胆で健康的。

 そりゃあもうドキドキする。


🐦ちょこん


 こら、おでこに乗るな、ハト。これほどの素晴らしい景色を邪魔しなさんな。


 重たい軋みのあと、急に明るいところに飛び出したということは、ここは屋上か。

 せっかく明るいところに出たんだ、絶対にもう一度黄金郷エルドラドへ辿り着いてみせる。

 ……このハト、頭を振れば落ちるかな?


 俺が首を大きく反らせると、頭を振る前にハトが飛び去る。

 よし! これで…………。

 これで、頭頂部が地面にこすりつけられるわけだ。


「ごががががががががががっ!」


 いたたたたたたたっ! 頭が後ろに持ってかれるっ!

 禿げるっ! もげるっ! 頭パーツが取れちゃ……っ! あれはっ!?


「あかかかかかかちゃんストトトトトッププププププ!」


 止まれバカ! 鉄柱がまっすぐ迫って来るっ!

 直撃コーーーーーース!


「ストラーーーーーーーイごふっ」


 ……ごーんと、命中を称える鈍い音が俺を祝福した。


 顔面から掲揚ポールに激突。

 体験したことが無いほど首が後ろに倒れ、ぐきりといやな音が響く。

 俺は薄れゆく意識の隅っこの方で、からからと何かを回す音を聞いていた。


「子鯉……、無い。緋鯉……、無い。真鯉……、無い」


 冷たくなっていく体に、布団がかけられていく。

 あったかいなあ、これ。

 ちょうど川を泳いで渡ってるとこだからな、冷えた体が温まって助かるよ。


 それにしたって、あんな木の船のくせにお金とるとか信じられん。

 ただで乗せてくれてもいいじゃねえか。

 ……おお、やっと向こう岸が見えてきた。


矢車やぐるまなんかどうやって降ろしたらいいのか分かんない。吹き流しに入ってなかったら困るんだけど……、ん? これは……、あったーーーー!!! 勾玉、あったよ! 雫流! 君はやっぱり最高っ!」


 あれ? 朱里ちゃんの声が聞こえる。どこからかな?

 あっちの、蓮の花が見える方?

 急いで行かないと。


 こら、鯉、じゃますんな。

 両足を咥えて元の岸に引っ張るんじゃないよ…………。


 俺は、川でもがいているうちに不思議な感覚に包まれた。

 ミルクとイチゴの混ざりあった、甘くて柔らかい香り。

 大好きな香りと共に誰かに抱きしめられているような、幸せな気持ち。


 だがその時。

 世界一の幸せを感じていた俺の耳に、世界一難解な言葉が突き付けられた。


「でも、あたしは……、君が最高だから、大っ嫌いなの」


 だれにも解読することなどできない。

 そんな暗号を頭の中でリフレインさせながら、俺は深い眠りについた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 世界から切り離された狭い空間にベッドが一つ。

 重たいまぶたをなんとか持ち上げると、そこには白い波が揺れていた。


 消毒液の香りもこの光景も、慣れ親しんだものだ。

 いままでどれだけの回数、この景色で目覚めたことだろう。


 薄手の毛布を横に折る。

 そしてベッドの縁から両足を床に落とすと、自然と上半身が起き上がった。


 ……頭、ちょー痛い。


 最後に食らったのは首への打撃だが、朝から食らい続けた頭頂部へのダメージが一斉に押し寄せてきた感じ。


 上履きに足を突っ込んで仕切りのカーテンを開くと、そこは無人の保健室だった。


「おお、病院じゃないのか」


 さて、まずはチェックしておかないと。

 扉の横に取り付けられた鏡を覗き込み、頭が治療されていないことを確認して胸を撫で下ろす。


 よかった。髪、無事だ。


 あれは拷問以外の何物でもない。

 小学生の時、でかいこぶを作ってごっそり頭頂部だけ毛を刈られたんだ。


 ……しばらくの間、俺のあだ名はフラダンスになった。

 医師は患者の外傷ばかりでなく、その後、心に負う傷にも目を向けるべきだ。


 校庭から聞こえるホイッスルと歓声。これは、サッカーか。

 時計を見ると、もう昼休みも終わって五限目も半ばに差し掛かっていた。


 じゃあ、この文句も納得だ。

 昼飯も食わずにいたことを思い出した腹が、さっきから俺に不平を鳴らし続けているのだ。


「……教室に戻ろう」


 そして、教科書で隠しながら「女子から貰ったお弁当」を食べるんだ。

 よかったよ、朱里ちゃんが暴走天然バカで。

 いくら好きとは言え適度に萎えるから、お弁当なんか貰ったのにドキドキしないで済んでいる。ほんと助かる。


 制服の上着は、ベッド横に置かれたサイドチェストにかけられていた。

 そこにはなぜか鞄が置いてあり、その下に半分折りにされたルーズリーフが一枚差し込まれていた。


 制服に袖を通してルーズリーフを開くと、現れたのは可愛らしい文字。

 どうやら朱里ちゃんからの手紙のようだ。


『ごめんね、痛かったよね。反省してます! でも、命には別状ないとのことなので安心しました』


「重いことをサラッと書くね。俺の命、お前にとっては放流する時バケツの底に残った鮭の稚魚くらいの扱いなんだろうな」


『あたしは勾玉を沙甜さんに渡してきます。それじゃあ、またあとでね! 追伸。お弁当持ってきておいたから、しっかり食べてね!』


🐦ぼふっ


 ……さすがだな、ハト。

 お前は憎むべき強敵だが、同時に信頼できる友のようにすら感じている。

 そう、これはドキドキというより、ほんわかあったか幸せな気持ち。


 俺はベッドに腰かけて鞄からお弁当包みを取り出すと、それを膝の上に置いた。

 そして頭の上に落とされた、ホカホカお手拭きで手をぬぐう。


 薬指にぴったりだった包みの結び目をほどくと、弁当箱の上には少し大きめの可愛らしいフォークが乗っていた。


 分かってるじゃねえか朱里ちゃん。あざといね。

 あたしもこれで食べるんだよ? なんだよこんなもんで食えるかよ恥ずかしいじゃねえかバーカバーカ。じゃあ食べなきゃいいじゃない! うるせえ奴だなあ。こ、これで文句ねえだろ? うん、かわいい! 🐦がんっ まで脳内再生されました。九十八点です。


 ほんとに天然バカなのか、計算高いのか分からないところだけど、むしろ計算に騙されたいとすら思う。いいね、フォーク。


 俺は今からの五分間、一生で一番の至福に包まれよう。

 そう思いながら、震える手をピンク色の蓋に添え、カポンと音を鳴らして開いた。


 ……朱里ちゃん、大嫌いと言いながら、この優しさはどうだ。

 俺のことを気にしてくれて、感謝してくれて、親切で、そして……。


 ……そして、途方もないバカだ。


 ピンクの弁当箱の中には型抜きされた食パンのパーツが六ヶ、ばらばらに転がっていた。


「フォーーーーク!」


 なんだよ! いらねえじゃんフォーク!

 あと、パンダのお弁当って言ってなかった?

 まさかクッキーの型でパンダにくり抜いたの?


「あいつ、ほんっと無駄のねえバカだな! 説教してくれる!」


 小さなパーツは手でつまんで口に放り込み、大きなパーツを咥えながら弁当箱と手紙を鞄に押し込んだ。

 その鞄を手に、小走りで扉へ向かう。


 ちきしょう、俺の純情をもてあそびやがって!

 こうなったら、ちゃんとした弁当を要求してやる!

 そのためなら土下座も辞さない!

 あと何だこれ、歩きにくいな。ズボンがずり落ちそう。ベルトが外れてるのか?


 勢いに任せて扉を開けておきながらベルトに意識を集中していたせいで、俺は奇跡を起こしてしまった。

 そう、いわゆる角パンだ。


 扉を開いて廊下へ飛び出した俺は、ちょうど保健室へ入ってこようとしていた誰かとおでこで衝突。

 反射的に目をつぶって盛大にしりもちをつくと、衝突相手からの声がいててと聞こえた。


 いけねえ、女の子だったか。すぐに謝らないと。

 痛むおでこを押さえながら目を開いたが、その視線は一点に釘付け。


 ……目をらせるはずもない。

 俺の視線の先には、旬を迎えた果物がたわわに実っていた。


「イチゴ………………、だと?」

「きゃーーーーーーーーーーーーっ! 見ないでよ変態!」


 ……………………惜しいなあ。男女逆ならテンプレだったのに。

 まあ、もしそうだったらタライどころか魚雷が空から降って来る。

 俺は思わず悲鳴を上げてしまった恥ずかしさを誤魔化すように、冷静な所作しょさでズボンを引き上げた。


「だれが変態よ! あんた………。なな、ななななんでそんなパ……ッ? へ、変態はあんたの方じゃない!」

「驚いた。俺と意見が合うやつが同学年にいるなんて」

「ちょっと変態! まずは謝りなさいよ!」

「……えっと、怒ってるのか、お前?」

「当たり前でしょ! この変態バカ!」


 なんだこりゃ?

 甲高くてちょっと甘い、そんな可愛らしい声のせいで、怒られてる気がまったくしない。

 金髪のツインテールを振り乱して喚き散らす彼女の怒り声は、むしろ萌える。


 そんな彼女は、子供のような風貌ながら、線の細い整った顔立ち。

 漂うフローラルな香りと灰色の瞳も高貴なイメージ。

 まさに美少女と呼ぶにふさわしかった。


 彼女の美しさをつぶさに観察していた俺の目が、その白い指先に留まる。

 転んだ時に何かで切ったのだろう、そこには血が滲んでいた。


「ちょっと動くな。指から血が出てる」


 えっと、何か拭くもの……、あった。

 俺は彼女の前に膝を突いて、白い手を取る。

 そしてポケットから出したハンカチで、優しく傷口を押さえてあげた。

 うん、大丈夫。血はすぐに止まったみたいだ。


 やっぱ俺、かっこいいよな。でも惚れるなよ? タライが怖いから。


 でも、彼女の反応はちょっと変。

 かっこいい男子に一目惚れしたくせに、目がハート型になってない。

 その方がドキドキしなくて助かるけど……、この子、不器用なのかな?

 今の君の顔、恐怖でひきつった時のやつだよ?


 しかし、ハンカチってなにかとフラグになるもんなんだ。侮ってた。

 やるじゃん俺。普段は持ち歩かないのに、こんな時に都合良くイチゴブラジャーを持っていて。


「うおぉぉい! おかしいだろ俺! 今まで気付かなかったの!?」


 自分ががたい。

 そして今までエネルギーを充填していた金髪ツインテが、とうとう物理法則を凌駕して逆立った。


「いやーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」

「待て! これもさっき話した天然バカのせいだ! 落ち着け!」

「上下、お揃いーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」


 金髪ツインテが一息に左右五発ずつ放つ、角度のあるフック。

 これが俺の首を一撃で百八十度ずつ変えていく。


「そ・の・つっ・こ・み・しゅ・う・い・つっ! がはぁっ!」


 彼女は最後に体重の乗った左を放ち、俺があおむけに倒れたのを見ると、


「イチゴーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」


 立ち上がりざまにサッカーボールキックを顔面に叩き込んで走り去ってしまった。


 …………さすがにこれ、酷いよね。

 そして次に彼女に会うとしたら、俺の方が謝らなくちゃいけないんだろ?

 これでも日本は男女平等と言えるのか?


 だが、せめてもの反撃は果たした。

 高校生男子の勇気、過小評価した貴様のミスだ。

 例え蹴りが来ると分かっていても、それに臆して目をつぶることなどありえない。


「ふっ……。まさか貴様も、俺とお揃いとはな……」


🐦がんっ


 三度目のダウン。

 TKO負けとなった俺は、鳴り響くゴングを耳に、再び気を失うのであった。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 結果、午後の授業はすべてサボタージュ。

 何とか意識を取り戻した俺が教室の前まで辿り着いた時、ちょうど終業の鐘が鳴ってしまった。

 先生と入れ違いで教室に戻った俺とハトと金ダライを、予想通り、皆は冷ややかな目で迎えてくれる。


 ……ただ、一人を除いて。


「雫流! やだ、顔がこんなに腫れて……。ごめんね、あたしのせいで」

「違う。これはお前のせいじゃねえ」


 通りすがりのハードパンチャー。やつが俺の体積を増やしたんだ。

 未だに足に来てるぜ。これがWBAか。


「あとはホームルームで終わりだから、Eランクの課題はパスして帰ろうね。休んだ方がいいよ」

「おお、そうさせてもらう。……で、それはさておき。やっぱ朱里ちゃん、俺とあんまり話さない方がいいんじゃないのかな」

「どうしてよ」


 今の俺以上にふくれた顔。

 その反応は嬉しいんだけど、この視線に朱里ちゃんを巻き込むわけにはいかない。


 意を決して向かう先は教卓。

 俺は、クラスの皆に向けて話しかけた。


「お前ら、俺を嫌うのはいいけどさ、朱里ちゃんは関係ねえだろ。そんな目で見るんじゃねえ」


 そう、俺は嫌われた方が助かるんだ。

 優しい奴は、気を遣って近付いてきやがるからな。

 俺に寂しい思いをさせまいとして、逆に寂しくさせていることにも気付かずに。


 でも、それは朱里ちゃんには関係ないはずだ。


「こいつ、今まで連戦連敗だったからバカにされてたようだけどさ、二日間連続でBランクの勾玉手に入れてるんだぜ? これが朱里ちゃんの実力だ!」


 制服の裾が引っ張られる。

 大丈夫。分かり難くて申し訳ないけど、これでも俺は朱里ちゃんのこと、好きなんだぜ。

 お前の平穏を守るためなら、この程度朝飯前さ。


「いいの、雫流。我慢して頂戴」

「いいや我慢ならん! 分かってくれ、みんな! 朱里ちゃんには冷たくするな!」


 こういう暑っ苦しいのは煙たがれるかと思ったけど、なかなかどうして。

 クラスの皆は、側のやつと目配せを始めた。

 そのうちに、何人かが俺の目を見つめる。


 苦笑いだったり、笑顔だったり。

 それぞれ受取ってくれた温度感は違えども、これだけの人たちが分かってくれたならきっとうまくいくはずだ。


 そんな中、サイドテールの活発そうな女子が勢いよく立ち上がった。

 あれは柴咲さん。助かる。

 俺に話しかけてくれるようなやつが協力してくれれば、きっと……。


「……七色、何も知らないのに余計なことしないで」


 …………え?


 あまりにも予想外な態度を取られて困惑する俺を、恨みで塗り固められた柴咲さんの視線が貫く。

 こんなの反射観察しなくたって分かる。

 彼女は、俺のしたことを憎んでいる。


 一瞬傾きかけたクラスの空気が、彼女の発言でどよめきを起こすほどの混沌に変化した。

 こうなると、自分の意思とか正義の話なんかどうでもよくなる。

 皆の興味は、なんで柴咲さんが俺に怒りをぶつけているのか、それに変わった。


 クラスに充満する酷い空気。

 隣に目を向けると、朱里ちゃんは俯いて下唇を噛み締めていた。


 ……俺は、余計なことをしてしまったのか?

 いや、勝負はこれからだ! 負けるものか!


「お……、俺達悪魔は! この罰が悪化するのがいやで、言いたいことも言えない時があるんだよ! だから、ほんとは辛いこと言われても笑ったり、嬉しくても怒ったりすることがあるんだ!」


 朱里ちゃんが、さらに強く俺の裾を握り締める。

 そうだよ、その反応。嬉しいからなのか、やめて欲しいのかまるで分からねえ。

 分からねえから、俺の正義を押し売りしてやる!


「それでも、ちゃんと見てやってくれ! よく観察してくれ! こいつはみんなに優しいはずだ! たった一日の付き合いだけど、それくらい俺にだってわかるさ! だから俺は、こんな優しい奴が悲しむ世の中なんて、嫌なんだ!」


 か、語っちまった……。正直、途中から自分が何を言ってたのかまるで分からん。

 でも、皆の目の色が変わった。伝わったんだ。

 良かった……。


 皆の熱い目線。嬉しいけどめちゃくちゃ恥ずかしい。ドキドキする。

 ……ドキドキする。


 ……あれ? ドキドキする。

 ……俺、ドキドキしてますよー。


 おかしい。天井に問いかけてみたが、金ダライからの返信が無い。

 何が起こった?


 教室内で停止したままのハトを見て、逆に恐怖を感じ始めた俺の耳に、聞き覚えのある叫び声が聞こえた。

 廊下に響くそれは、甲高くて、そしてちょっと甘い。


「ちょ……! なんでハトが追ってくるのよ! いやーーーーーーっ!」


 怒っているのになぜか萌える。

 そんな可愛らしい声が近付いて、教室に飛び込むなり後ろ手に扉を閉めた。


 肩で息をする金髪ツインテの安堵のため息。

 ……のち、俺を指差してからの怒り顔。


「あんた……っ! さっきイチゴパンツ出してあたしに見せてきた変態っ!」

「最悪な要素だけ見事に抽出!」


 そしてこのパターンは斬新。

 ハトめっ! 社会的な意味で殺しにきやがった!


 しかし、これはタイミングが見事。

 皆の信頼に満ちた熱い目が、半分だけ閉じていく。

 そう、これは冷ややかな目。ゴミを見る時のやつ。

 俺の熱弁で目覚めた愛も、半信半疑になるって話だ。


 なんか、すべてが終わった。


 怒ってるよね、朱里ちゃん。当たり前だよね。

 膝を折って崩れ落ちた俺は、恐る恐る彼女を見上げた。


 ……その時感じた衝撃を、俺は今後一生忘れることは無いだろう。

 予想外な事ばかり起こった今日一日だったが、これは極め付けだ。


 そこには、心の底から安堵して、優しく微笑む彼女の姿があった。


「……よかった……」

「それ……、なに? ……どういう意味なんだよっ!」


 俺の力じゃ、そんな暗号解けないさ。

 だって俺は、ゼロパーセントを1にしかできない男なんだから。


 ……俺の手を包むように握ってくれた朱里ちゃんは、最後に、涙を一つ零しながら優しい声音で呟いた。


「ありがとう、雫流。……大っ嫌いよ」



 つづく。

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