汚れた血

「見て。日が昇ってきたわ」


 残酷な太陽が、姿を現した。


「―――残念、あまりよく見えませんでしたわ。もう、網膜が灼けてしまったのですもの。でも…………きっと、綺麗なのでしょうね」


 地平線の向こうから隣に視線を移そうとした少女を、もう片方の少女が制止する。


 ”これ以上、私の醜い姿を見ないで”と。



「手が熱いわ」


「あなたもね」


 視界の隅に見える少女の手は、煙を上げて灰になりつつあった。


 流すまいと決めていた涙が、頬を伝う。



「――ねぇ、リーディア。舌が灼け落ちる前に、一つだけ言っておきたいのですけど」



「何?」



「あなたは――――」



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



「あ~、疲れた~!!」


 紫色の髪の少女、マキアはそう言いながらベッドに倒れ込んだ。

 

 旅の途中、アテにしていた荷馬車が街道をちっとも通らず、ひたすらてくてくと歩くはめになったのだ。


「素直に野営すりゃよかったじゃねェか」


 マキアが首に巻いたマフラーが独りでに持ち上がり、黒猫のような影へと変じる。彼女に取り憑いている魔物・カイである。


「やだ。ガサツなアンタは気にしないだろうけど、私はお風呂に入りたいし、ちゃんとベッドで寝たいの」


 日も落ちた後、ようやく小さな集落の明かりを見つけた時には安堵したものだ。村で唯一の宿屋の女将さんが、夜分遅いのに泊めてくれたのも助かった。


「――お食事、お持ちしました」


 ノックの音と共に、部屋に銀髪の少女が入ってきた。女将さんとどことなく面持ちが似ているところを見ると、娘だろうか。


「遅いので、簡単なもので申し訳ないのですが……」


 テーブルの上に、パンに川魚の焼き物、色々な野菜のピクルス、香草入りのチーズ、温かい豆のスープなどが並べられる。


「いただきまーす!」


 質素だが温かい食事にありつけて、マキアは舌鼓を打つ。ぱくぱくと食べるその様子を、銀髪の少女は微笑みながら見ていた。


「あっ……」


 しかしお茶を継ぎ足そうとしたところで、少女が眩暈めまいを起こした。マキアが慌ててその体を支えるが、その時、少女のうなじが間近に見えた。


「(……傷? いや、噛み跡?)」


 大声で女将さんを呼ぶと、慌てた様子で駆け込んできた。


「あらあら、どうもすいません。リーディア! 無茶するなって言ったろう!」


「……ごめんなさい。少しでもお手伝いしなきゃと思って」


 女将さんが肩を貸しながら、娘を自室へと連れていった。


「カイ。あの子の首、見た?」


「さすがにあれだけ大穴開いてりゃ、ニブいお前にも見えたか」


 物思いにふけりながら、黙々と食器を動かす。食後に、果物を持って女将さんが戻ってきた。


「お騒がせしちゃって。うちの娘なんですが、見ての通り体が弱くてねぇ……」


「……貧血ですか?」


 リーディアと呼ばれた娘は色白の美人だが、顔色がむしろ白すぎた。そして、あの首筋の傷。


「もともと、体が弱くてねぇ。そのくせ夜は出歩くもんだから、心配で。友達もろくにいないってのに、どこほっつき歩いてんだか……お客さん、年が近いようだから、気が向いたら話し相手にでもなってくださいな」


 手際よく食器を片付けながら、女将さんは困ったような顔をしていた。



「起きてるかな? ヒマだから、ちょっと話しましょ」


 女将さんの許可をもらって、今度はマキアがリーディアの部屋を訪れた。


 ベッドから身を起こしたリーディアは、思わぬ来客に嬉しそうな様子である。相変わらず顔色は優れない。


「……ずいぶん暗い部屋ね」


 マキアは部屋を見渡す。リーディアの部屋の窓には、木の板で厳重に目張りがしてあった。これでは日中も日の光は入るまい。


「私、お日様の光がダメなんです。ちょっとでも当たると火傷みたいになっちゃうの」


 もともと色素の薄い身体をしているとは思ったが、そういう体質らしい。そういえば母親である女将さんは、栗色の髪をしていた。


「だから昼間は外に出れなくて……お客さんの夕飯の時だけ仕事を手伝うんです」


 日中は寝るか、部屋の中で刺繍でもしているという。確かに部屋のあちこちに、彼女の手によると思われる、なかなか見事な作品が飾られていた。


「お母さん、心配してたよ。夜に出歩いてるって。まぁ、昼間に外出できないのは分かるけど……」


 そう言われて、なぜかリーディアはますます嬉しそうな顔で応えた。


「実は最近、はじめてお友達らしいお友達ができたんです。その子も夜しか出歩けないとかで、色々話が合って仲良しに」


 しばらくの間、リーディアはその友達の話をとめどなく話した。


 それはまるで、恋人のことを語る乙女のような、幸せに満ちた口調だった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「―――魅入られてんな、吸血鬼ヴァンパイアに。長くねェぜ、ありゃ」


 部屋に戻ると、開口一番カイがそう言った。


「あの首の噛み跡、やっぱりそうだよね。しかも、一度や二度じゃない」


 吸血鬼の吸血跡は魔力のない普通の人間の目には見えないので、女将さんも気付いてないのだろう。いや、本人すら自覚していない可能性もある。


「しっかし、吸血鬼に操られて毎晩呼び出されて吸血されてる……って感じでもねェんだよなァ。そういう奴はもっと目が濁ってるし、邪気を纏うもんだ」


 確かに、吸血鬼に襲われれば、一度でミイラのように吸い尽くされるのが普通だ。少量ずつ何度も吸血されているというのが、解せない。


 首をひねっていたカイだったが、すぐに忘れたようにベッドの枕元で丸くなった。


「まァ、どうでもいいや。さっさと寝て、明日は早く出発しようぜ」


 あまりにもあっさりとしたその態度に、マキアは思わず声を荒げる。


「ちょ、ちょっと! 放っておく気!?」


オレらにゃ関係ない話だろうが。吸血鬼ごときが何を食おうが知ったこっちゃねェよ」


 隻腕の代わりに尻尾を振って、カイが受け流す。いかにも魔物らしい意見だが、マキアはそれでは気が済まない。


「手遅れになる前に、助けないと!」


「ハァ!? おいおい。金になる依頼ってんならともかく、なんでそんな面倒くさいことしなけりゃならねェんだよ」


「人間には、一宿一飯の恩義ってやつがあるの!」


 カイが丸まったまま、ため息をつく。


「あのなァ……奴らにゃ奴らの事情があんだよ。それにいちいち付き合ってりゃキリねェだろうが。アホくさ」


 カイのあくまで気だるい態度に、マキアはついに業を煮やした。


「もういい! アンタにはもう頼まないわ、私だけでやるから! お休み!!」


 そう言うとマキアは布団を頭からかぶってしまった。


「ケッ。勝手にしな」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 翌日の夜。


 それとなくリーディアから聞き出した情報から、マキアは二人がいつも待ち合わせているという、街外れの崩れた礼拝堂の前にいた。


 女将さんには用事を言いつけてもらい、彼女が今晩、こちらに来ないように細工してある。


 マキアの首には、珍しくマフラーが巻かれていなかった。


「おいおいマジかよ……。考え直せよ、吸血鬼だぜ。お前一人じゃムリだって」


 その声は頭上から聞こえる。カイの黒い影は、礼拝堂の屋根の上にあった。今回は見物に徹する気らしい。


 マキアは背中に竜骨でできた大剣を背負って、静かに吸血鬼の訪れを待っている。相変わらずのふくれっ面で腕組みしながら、カイの声には一切答えようとしなかった。


 三日月が綺麗な夜であった。


 灯した松明の光の下で、どれだけ待ったか―――ふと、近くで鳴いていた虫の声がぱたりと止んだ。


「(来たわね)」


 無数の蝙蝠こうもりの羽音が聞こえたかと思うと、辺りに濃密な薔薇の香りと、妖気が充満する。そして―――


「雪だ――――」


 血の色のような、赤い雪。


 吸血鬼たちの魔力が結晶化したといわれるそれは、彼らが現れる夜に決まって降るという。


「―――見ないお顔ですわね。わたくしに用事かしら?」


 若い女性の声だった。 

 闇の中から姿を現したのは、真紅のドレスを纏った絶世の美貌の吸血鬼。


 やはり真紅のレース付きの日傘を差し、無数の蝙蝠たちが形作った椅子に腰掛けて中空に浮かんでいた。

 

 人とほとんど同じ外見だが、背中から大きな蝙蝠の羽が生えている。またその顔色は、リーディア以上に白かった。


「ミロスラヴァ、ね」


 教えた憶えのない自らの名を呼ばれ、吸血鬼は柳眉を少しだけ逆立てる。


「この場所を知っているということは……貴女、リーディアの知り合いですの?」


「あの子の家の宿屋の客よ。なんでリーディアをしつこく狙うのか知らないけど、もうあの子を吸血するのはやめて。本当に死んじゃうわ」


「――――――くすっ」


 しばらく沈黙していたミロスラヴァは、不意に破顔一笑した。


「ああ、可笑しい。わざわざ待ち伏せて何を言うかと思えば……。吸血鬼が人を襲うのは当然ですわ。貴女たち人間が家畜を食べるように、ね」


 そうでしょう? と吸血鬼は頭上を見上げてカイに問いかけた。


「その通りだな」


 カイが淡白に応える。


「よくよく見れば高貴なお方。あなたも、このお方のお連れですこと?」


「連れっちゃァ、連れだがよ。今日のオレはただの野次馬だ」


 カイの強さを一目で見抜いたミロスラヴァは、それを聞いて微笑んだ。


「それは安心しましたわ」 


 視線をマキアに戻すと、くるくると傘の柄を回しながら言う。


「なんであれ、人間の言うことを聞くつもりなどありませんわ。私とリーディアの仲など貴女には関係ないでしょう。お帰りなさい」


「そう……」


 マキアの右手が背中の大剣に伸びる。


「―――確かめておきますが……貴女、リーディアのご友人ではないのですよね?」


 マキアの殺気を浴びながらも、ミロスラヴァは余裕の笑みを崩さない。マキアがその問いに頷くと、またも艶然と笑った。


「では、遠慮なく」


 くるくると回していた傘がぴたりと止まったかと思うと、その傘の中から雫のように影が滴り落ちる。


 その影は地面に落ちると、狼の姿になった。それは血に飢えた咆哮を上げながら、マキアに襲い掛かる。


「はっ!!」


 マキアは気合と共に、両手持ちした大剣を振り下ろす。


 狼の影は両断され、なおも勢い余った剣風がミロスラヴァに飛来。その頬を浅く切り裂いて、後方に生えた樹の幹に深々と切り傷をつけた。


「…………」


 吸血鬼の高い再生力のおかげで、頬の傷は瞬く間にふさがる。ミロスラヴァの顔に張り付いた笑みが、さらに酷薄さを増したような気がした。


眷族けんぞくなんかを相手にする気はないわ。アンタがかかってきなさい」


 マキアはそう言って、剣の切っ先を向けた。



「おーおー。珍しく気合入ってんじゃねェか」


 礼拝堂の上のカイは、頭に赤い雪を積もらせながら、高みの見物を決め込んでいる。


 眼下では、傘を畳んだミロスラヴァがマキアに襲い掛かるところだった。


 紫色のマニキュアが塗られた両手の十指の爪が、それぞれ短剣ほどの長さにまで伸張した。人間とはかけ離れたはやさで刺突が繰り出される。


 大剣でそれに応じながら、マキアは叫んだ。


「なんで……っ! 友達づらしてまで……っ! あの娘を何度も襲うのよ……っ…!」


「ひといきに吸い殺すだけでは、興が無いでしょう?」


 息を切らすマキアに対して、こちらは涼しい顔である。


「あたしたちを……人間を、玩具にするなっ!!!」


 猛るマキアの剣が、ミロスラヴァの爪を砕いた。


「あらあら。お手入れしたばかりのネイルですのに」


 人を食ったような物言いは相変わらずだが、その目に宿る光に、さらに禍々しさが増す。


「アンタは遊びのつもりでも、昼間に出歩けないあの子にとっては……!」


「知っていますわよ、それくらい」


「!?」


 爪をいじりながら、素っ気無く答える。


「生まれついての虚弱な体。水っぽい、味の薄い血。あんな汚れた血を飲んであげていること自体、感謝して欲しいものですわね―――」


 そう言いながら、ミロスラヴァの顔からはなぜか笑みが消えた。

 

 フリルのついた真紅の傘から赤い雪を払い、剣のように構える。


「そんなにあの子を助けたいのなら―――ご自分の血を、代わりに差し出してはいかが?」


 畳んだ傘をレイピアのように構えた、神速の突撃。


「(はやいッ!?)」


 圧縮された空気の爆音と、甲高い金属音。


 虚空に跳ね飛ばされたのは―――マキアの大剣だった。



「………あ…………ぅ……」


 マキアの首筋に突き立てられる、ミロスラヴァの長く伸びた犬歯。


 鮮血が、マキアの首を伝い落ちた。



「あーあ。言わんこっちゃねェ」



 その様子を頭上から見ながら、カイはぼりぼりと頭を掻いた。



「殺されるぜ――――――――あの吸血鬼」



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「……がっ…………はぁ………」


 赤い雪で埋め尽くされつつある地面に、血がぼたぼたと零れ落ちる。


 血を吐き出しながら、喉を押さえて咳き込むのは――――ミロスラヴァのほうだった。


「……貴女………………どういう……血を…………ッ!?」


 その目の前に、マキアが、いや、先ほどまでマキアと呼ばれた少女がいた。



「――――汚れた血、と言ったね」


 首筋から流れた血で半身を赤く染めながら、それはあくまで無邪気に笑っていた。


「実はボクもそうなんだよ、ミロスラヴァ」


 肌を濡らす血と、両の瞳から、炯々とした魔力の燐光が発せられる。


「…………竜菌…………感染……者か…………ッ!!」


 吸血した血に喉と内臓はらわたを灼かれる激痛に耐えながら、声を絞り出す。


「普段は抑えてるんだけどね……君に吸血されたショックで、久々に出てきちゃったよ。いやぁいい夜だね」


 降り積もる赤い雪の中、まるで子供のようにスカートを翻してくるくると舞う。


 紫色だった髪の毛の色は、緑に変わっていた。口調も、雰囲気も様変わりしている。なにより、全身から放たれる威圧感がもはやヒトのそれではなかった。


「それに――――今夜は、キミが首に巻きついてないしねぇ、カイ?」


 舞いをぴたりと止めると、マキアは真上に向かって、にっ、と微笑みかけた。


「(やべっ!!!)」


 その様子に、カイは慌てて礼拝堂から飛び立った。珍しく慌てた様子で、人間には視認すらできない速度で木々の間を飛翔する――――


「どこに行くのカイ。ねぇ、彼女と遊びたいんだけどさ……」


 どのように移動したのかも分からないまま。

 それに一瞬で追い付いたマキアが、高い木の上に立ってカイの体を拘束する。


「ニャ――――!!!」


 思わず、外見通りのネコのような声が出てしまう。


「今のボクの力じゃ、この剣がもたないんだよね――」


 マキアはカイの黒猫のような体を完全に背後からホールドし、その首元に竜骨剣を食い込ませている。


「だからね。ちょっとだけ、キミの血を分けてほしいんだ……」


 振りほどこうにも、すさまじい力であった。


「わ、分かった!! やるから落ち着け!! ってか首、首ィィ!!」


 観念したカイが、左手をようよう動かして、指で剣の刃をなぞる。


 カイの青い血がほんの数滴分、刃についた。


 その瞬間、


 ”ドクン”


 竜骨剣から、鼓動の音が響く。


 マキアは、にっこりと笑う。


「ありがとう、カイ! ちょっと待っててね!」


 全く無邪気な少女そのままにカイをぎゅうっと抱きしめると、再びその姿が虚空に掻き消えた。



「お待たせ、ミロスラヴァ」


 まるで忘れ物を取りに帰った子供のような声で、マキアは再び赤い雪原に降り立つ。


「さぁ覚醒だよ、ボクの可愛いコスタ」


 その手に持つ竜骨の大剣が、禍々しい黒い光と共に形を変えた。


 柄の両端から2つの刃が伸びた、ダブル・ブレード。カイの生き血を吸い、秘めたる力を解放したのだ。


 白銀色の刀身も、奇怪な文様が刻まれた、黒光りする異形の刃と化していた。



「―――血に飢えた刃、とはよく言ったもんだぜ」


 カイも再び礼拝堂の上に舞い戻る。

 

 切れた指をしゃぶりながら、マキアの持つ魔剣に向かってぽつりとつぶやいた。


竜血りゅうけつ剣、マグナ・コスタ。未だに生き続ける竜の肋骨。アレこそが、なによりの”吸血鬼”かもしれねェなァ…………」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 マキアとミロスラヴァの戦いは、あまりに一方的なものだった。


 吸血鬼の誇りにかけて繰り出される秘技も魔術も、竜血剣の絶大な力の前には児戯に等しかった。


 再生も追い付かないほどに幾重にも切り刻まれ、ミロスラヴァは赤い雪を舞い上がらせながら、何度も地に転がる。


「……はぁ…………はぁ………もう殺しなさい……家畜の情けは……受けないわ……」


 その目にはもはや死の色が濃い。それでも、あくまで誇りを失ってはいなかった。


「うーん。たぶんマキアは、”汚れた血”って言葉に怒ったんじゃないかなぁ」


 どこか他人事のように言いながら、マキアはミロスラヴァの前髪を掴むと強引に目の高さにまで持ち上げた。

 

「くっ……!」


 痛みに顔をしかめるミロスラヴァ。


「そりゃキミたち吸血鬼は、純潔の高貴な血だろうけどさ。ボクやリーディアは、汚れた血のまま生きていくしかないわけでさ」


 捕食者と獲物の立場が逆転したことに畏怖しながら、それでもその口元には笑みが浮んだ。


「私たちが……高貴な血、ですって……? ふふ……ふふふ…………」


「――?」


 息も絶え絶えなミロスラヴァは、自嘲めいた口調で言葉をつないだ。


「……不死を得たところで…………かつえに悩まされ……獣のように血を啜る……。……そんな私たちが……?」


 鷲掴みにされた頭の、その瞳から、血の涙が流れ落ちた。


 仮面のように張り付けていた笑顔が、消える。


「……リーディアは美しかった。できることなら、仲間にしたかった。でも、あの美しい娘に、私たちの汚れた血なんて…………」



「――――マキアさんっ!?」



 夜に響いたのは、そのリーディアの声だった。

 足止めしたつもりだったが、街外れに降り続ける赤い雪を見て何かを察したのだろう。


 最初は様変わりしたマキアの様子に驚いた様子だったが、前髪を掴まれた血まみれのミロスラヴァの姿と周囲の争った様子から、何があったのかを察するのは容易だったろう。


「―――――っ!!」


 唇を噛むと、リーディアはつかつかとマキアに歩み寄り、力任せにその頬を張った。


「…………あ」


 驚いて頬をかばった少女は―――いつもの、紫色の髪のマキアに戻っていた。


 リーディアはマキアの手からミロスラヴァを奪い、その体を抱き支える。


「しっかりして!!」


「……貴女…………どうして……」


 その様子を頭上から見ていたカイが飛び降り、マフラーとなってマキアの首に巻きつく。


「―――潮時だな。帰るぞ、マキア」


 尻尾が竜血剣を一撫ですると、それも普段の竜骨剣に戻った。


「え、でも、カイ。あたし…………」


 呆けたように言うマキアを引っ張るように、カイはぐいぐいと宿屋に向かった。


「もういい。後はあいつら二人にしてやれや。もう―――時間切れだよ」


 そう言うカイの視線の先には、白み始めた東の空があった。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 赤い雪原に半ば埋もれながら、リーディアはひざまずいて吸血鬼の体を抱いた。


「あの人、どうしてこんな……ひどいことを……!」


 素人目にも、もうミロスラヴァは助からない。リーディアは泣きじゃくった。


「私のほうが襲ったのよ……あんなに強いとは、ね」


 力なく笑いながら、血まみれの指でその涙をぬぐう。


「今すぐ私の血を全部吸って!! そうすれば魔力も回復するでしょう、早く、夜明けが来る前に!!」


「…………嫌。あなたの血、美味しくないんですもの」


「どうして………!」


「ねぇ、そんなことより―――もっと眺めの良い所に連れていって頂戴」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 夜明け前の道を歩きながら、マキアはぽつりぽつりとつぶやいた。


「ねぇ、カイ……あの吸血鬼、もしかしたら本当にリーディアの友達だったのかも……でも、吸血鬼のプライドがあるから、そうは言えなくて、それで……」


 カイが苛立ち混じりで悪態をつく。


「いまさらそれを考えてどうする? 自分ひとりで突っ走ってケンカ売って、あいつを半殺しにしたのはお前だぜ」


「………………」


 マキアは黙りこんでしまった。


吸血鬼ヴァンパイアどもも下らねェ連中さ。輪廻のくびきから逃れて、仮初かりそめの不老不死になったところで、ああやって倦んで狂って自滅するヤツばっかりでよ。だからやめとけっつったんだ」


「………………」


「ま、これに懲りたら、今後は無駄なお節介はやめとくんだな、人間」


「………………っ」


 あまりの悪態にさすがにバツが悪くなったのか、カイはそこでトーンを落とした。


「――ま、まァなんだ。あのままじゃあの吸血鬼、娘を吸い殺すこともできず、かといって仲間にすることもできずに、ジリ貧だったろうぜ」


「………………っ」


「あの人間の娘にしても、血を吸われるのを口実に会ってたんだろうが、身体がもつはずもねェ。お前のお節介は、そんな状況を動かすいい”風”になったんだよ」


「………っ。……………っ」


 ぽたぽたと落ちてくる雫に、とうとうカイは声を荒げた。


「だあぁぁぁ、やりづれェェェェ!!! 悪かったよ、オレが言い過ぎた!! だから――――」


 カイのマフラーが、優しくその首を巻きなおす。


「もう、泣くな」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 見晴らしのいい土手の上に、二人の女性の姿があった。


 いつか、二人で朝日が見ましょう―――いつか冗談でそう言い合った約束を果たしたいと、ミロスラヴァが言ったからだ。


 空の色はいよいよ明るい。


 夜の終わりの訪れと、魔力もついに尽き果てて、赤い雪も止んでしまった。


 並んで座った二人は、互いの手を握り合った。


 やがて登る朝日の光を浴びれば、リーディアはかろうじて火傷で済むが、ミロスラヴァの命は無い。


 互いに最後の言葉を探し、しかし上手い言葉が見つからず、二人はただ黙ってお互いの手の感触だけを忘れまいと指に力を入れた。


 そして―――


 「見て。日が昇ってきたわ」


 残酷な太陽が、姿を現した。


「―――残念、あまりよく見えませんでしたわ。もう、網膜が灼けてしまったのですもの。でも…………きっと、綺麗なのでしょうね」


 地平線の向こうから隣に視線を移そうとしたリーディアを、ミロスラヴァが制止する。


 ”これ以上、私の醜い姿を見ないで”と。



「手が熱いわ」


「あなたもね」


 視界の隅に見えるミロスラヴァの手は、煙を上げて灰になりつつあった。


 流すまいと決めていた涙が、頬を伝う。



「――ねぇ、リーディア。舌が灼け落ちる前に、一つだけ言っておきたいのですけど」



「何?」



「あなたは――――昼の世界を生きて、ね」




 宿に戻ったマキアから、ことの顛末を聞いた女将さんと村人たちが駆けつけると。


 そこには二人の人影が―――否。


 一人の人影と、一つの人型の灰が、手をつないで並んで座っていた。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 数年後、この小さな村の名は都でも評判になった。


 この村に住む見事な腕前の刺繍作家の作品が、都でちょっとした流行になったのだ。


 なぜか人前には決して姿を見せないその作家の神秘性もあいまって、作品は飛ぶように売れたという。


 死ぬまでに膨大な数の作品を残したその作家は、後に周囲にこう語ったという。


「若い頃、何もかもに嫌気がさしていました。もうこの昼の世界に、私の居場所はないと思っていた。でも、ある人がそれを変えてくれたのです」と。


 赤い雪が降る中で、手を握り合う二人の少女をモチーフにした作品。


 代表作でもあるその作品を、彼女は終生作り続けたということである。

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