第3話 気紛れな夕日に包まれて

寝すぎてしまったという本人の言葉通り、午後の授業中に隣の席でヘドバンをすることも、鈍い打撃音が聞こえることもなかった。普段の私なら授業の邪魔をされないでよかったと安堵するところだが、今日に限っては真面目に授業を受ける気はなかったのであまり関係はなかった。


そんなこんなで午後の時間をすべて費やした学園観光ガイドは、ひとまず完成を迎えたのだった。観光ガイドといっても冊子になっているわけではなく、私の頭の中で情報を整理したに過ぎないのだが、一人の転校生に案内するだけなので十分だろう。


仮谷さんと学園を巡る旅、二人で。


んっ?これってもしかして...。


「デート!?」


「誰と?」


当り前すぎる質問に苛立ちを隠せない私は、


「そんなの、仮谷さんとに決まってるじゃない!」


語気を荒げてそう答えた。

ほかならぬ仮谷さんに。


「デートだなんて大袈裟~!!」


カラカラと笑う彼女の大声でハッと我に帰る。

どうやら大失言に焦ったのは私だけのようだ。

そりゃ普通の女子高生ならこんな言葉、冗談としか思わないでしょうね。ええ。


「ほら、早く行きましょう。」


「はいは~い。」


◆◆◆


1-1から順に全ての教室を案内して回っていたところ彼女から、


「私が使いそうな所だけでいいよ?」


というありがたい指摘を頂いたので、教室全制覇は断念した。私としては彼女と出来るだけ長い時間を過ごしたかっただけだったが、ごもっともな指摘を受けてしまったので仕方はない。こうなったら、隣を歩く彼女になるべく目を向け、どのような人物なのかを見極めなければ。


顔立ちは本当に私とそっくりだ。違いといえば眉毛が若干薄いくらいで、とても他人の空似とは思えない。しかしながらそこから生まれる豊かな表情は、わざとらしさの欠片もなく、同じ顔でこうも違ってくるのかと感心してしまう。

あまり感心しているといつの間にか彼女の頬に唇が触れそうになっていたので、自重する。それに気が付いたのか、不思議そうな顔を浮かべていたが、


「ケチャップ!ケチャップが付いていたから拭いたの!」


と言って、誤魔化したらすぐに納得してくれた。

彼女に見せた手のひらの赤い液体は、もちろん私の鮮血である。急いで舌を噛み切って血を出した甲斐があった。酸素を運ぶより役に立ったぞ、ヘモグロビン。


自己紹介の時に身長は私と変わらないように見えたが、実際に隣を歩いてみるとやや小さく感じる。というか、普通に歩いているはずなのにやけに動きが多いので、目測が狂ってしまう。

学園の廊下をこんなに騒がしく歩く生徒はかつていなかったのではないだろうか。


同じく自己紹介の時に触れた胸、やはり私より大きい。しかし胸というものは、主に男性を誘惑するときに使用するものなので、彼女を狙う分には私の胸が不利に働くことはないだろう。


「あなた、胸は大きい方が好き?」


いくら頭の中で言い聞かせても不安は拭えなかったようで、胸を凝視した数秒後には口からそんな言葉が飛び出していた。一生の不覚だ。


「胸?胸枕してもらうなら大きい方がいいよね!」


胸枕という聞きなれない単語が登場したが、彼女にとってはそれが常識なんだろうか。もしや、以前の学校には胸枕をしてもらえる深い関係の女性がいたのだろうか。根掘り葉掘り追求したいところだが、今度は口の内側を奥歯で固定して、勝手に言葉が出ないように対策を施した。出会ったその日になんでも聞いてしまうのはマナー違反だろう。

この頑張りのおかげで、今夜は気になって眠れないことは優等生の私にとって想定済みであった。もちろんその予感が的中したことは言うまでもない。


私の脳内がこうしてフル稼働している間にも、学園の案内は着々と進んでいった。図書館や体育館、プール等の施設から始まり、校舎に入って1階、2階と階段を上りながら進めてきたこの旅も、既に5階の特別教室まで来ている。ここまでくると残りはあそこしかない。


「私たちが使う主な教室はこのくらい。」


「こんなにたくさん、とても覚えきれないね。」


「しばらくは私が一緒に連れていくから安心して。」


「本当?ありがとう!」


やめて、その笑顔を私に向けないで!案内と同時進行であなたを視姦していた私の脳は既に負荷がかかりすぎて処理落ち寸前なの!今そんな顔されたら、私も脳は...!脳は...!!!


「あと残ってるのは屋上くらいね。」


黒崎蕾、生還。


「屋上!?入っていいの!?」


「もちろん、屋上で問題を起こすような不届き者なんてうちにはいないから。」


うちの生徒たちの屋上での過ごし方といえば、告白する、手をつなぐ、キスをするくらいのものだ。つまりはカップル専用。おかげで私には縁のない施設だったが、今日は相手がいるから大丈夫だろう。


「ちょうど今の時間は...。」


待ちきれなかったようで、仮谷さんは私が説明するよりも早く、思い切りドアを開けていた。

普段なら差し込むはずだった鮮やかな茜色の光は、残念なことに不発だった。


「夕日がきれいなんだけど今日は曇ってるわ、ごめんなさい。締めはここが最適だと思ったんだけど...。」


私の立てた計画を邪魔しやがって忌まわしい朧雲め!


「そっか~。」


そう呟いた彼女は、一目散に駆けていく。ここは、周りを高いフェンスで囲われているので、多少暴れても問題はないが、想像も出来ないことをやりかねない人間らしいので一応目を離さないようにしておく。もちろん1時間ほど彼女から目を離してはいないが、ここでは特に注意する。


なぜか全力で屋上を一周し終えたあとは、喜々としてフェンスを上ろうとしていたので体をつかんで全力で阻止しておいた。自らお触りの機会まで与えてくれるなんて、太っ腹な人だ。ますます惚れてしまうじゃないか!このペースで惚れていくと1週間後にはストーカーになってしまうぞ!いいのか!


そんな葛藤を知る由もない彼女は、


「これで終わり?」


と尋ねた。


「うん、終わり。」


この言葉を、先ほどまでと同じように言えていたのかは、屋上にいた仮谷さんしか分からない。

自分の顔が見えないのであくまで推測だが、この時の私は終わりたくない気持ちと真逆のことを言わなければならないストレスで血反吐を吐きそうだったので、かなりのしかめっ面をしていたのではないだろうか。


「晴れてるときにまた見に来ようね。」


仮谷さんからデートのお誘いを受けたので、返す言葉を考えているうちに


「教室まで競争だ!」


そう言ってまたも走り去ってしまった。


だからそんなことをする生徒、あなた以外誰もいないから...。

私の注意が届くよりずっと早く、彼女の背中は見えなくなっていた。


◆◆◆


教室に戻った時には、既に帰宅の準備を済ませていたが、待ってくれていることをあまり期待せずにノロノロと帰ってきた私を、またも笑顔で出迎えてくれた。


「遅かったね!」


「あなたが速いの。」


「ごめんごめん!」


「もう...。」


呆れたような雰囲気を醸し出してはいるが、実を言うと待っていてくれたことが嬉しく、あまり喋ると口角が瞬く間に上がってしまいそうだったので短く済ませただけである。


「あなた、どこに越してきたの?」


「引っ越してはいなくて、電車で帰るよ。最寄りは○○駅、一緒?」


「私は寮に住んでるから。」


「なんだ残念。」


今残念って言った?ねえ、残念って言った?何が残念なの?もしかして私と一緒に帰りたかったの!?


「せっかくだから学校の周りのことも案内してもらおうと思ってたのに...。」


そういうことか...。危うくオーケーサインと思って唇を奪ってしまうところだった...。

いや、勘違いしたフリをしてそのまま強引に奪ってしまうというのも...。


いけない、彼女といると私の優秀な頭脳に靄がかかって判断力が著しく低下してる。これ以上近くにいるとこの年で性犯罪者になってしまいそうだ。


「じゃあ校門までか~。」


「ええ。」


◆◆◆


先ほどまでと同じように並んで、二人きりの廊下を歩く。

願いが通じたのか雲が晴れてきたようで、窓から夕焼けが差し込んでいた。


光に照らされて長く伸びた私たちの影は、先の方が交わっていた。


今日はまだ、それだけ。


たったそれだけで私の心は満たされてしまうのだった。

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