11

 チョモスは動けない。恐怖による金縛りが肉体を拘束していた。

 クレイジーラビットは動かない二人の獲物を静かに睨んでいる。

 少しでもどちらかが動けば、それは狩りの始まりを意味する。現在の状況は狩りの直前、例えるならヒップホルスターの銃に手を掛け、互いに睨み合う西部劇のガンマン達。

 緊迫した空気が場に漂っている。


「グッグァァァァァァァ!」


 先に動き出したのはクレイジーラビットであった。食べかけの果物を投げ捨て、ヨダレで汚れた鋭い牙を剥き出しにしながら迫っていく。

 狩る側であり、獲物は怯えている。この状況なら仕掛ければ確実に勝てる。クレイジーラビットに、相手の動きを見極める必要などなかったのだ。

 高速で迫ってくる恐怖の化物。それに当然子供の二人は恐怖し、まともに動けるはずがない。

 しかし、チョモスは動いた。震える身体を感情で支配し、妹のリーシャの前で立ち塞がった。リーシャの盾に、身代わりになるために。

 クレイジーラビットとの距離は、もうほとんどない。数秒もしない間に食い殺されてしまうだろう。

 両者にとって予想外の展開が起きなければであるが。


「グェ!」


 クレイジーラビットが横へ倒れた。鼻は形を崩し流血している。

 突然のことに、チョモスは起きたことを全く飲み込めなていない。

 そんなチョモスの目の前に、夜太郎が現れた。額から汗を流している。

 チョモス達を守りクレイジーラビットを傷つけた正体、それは夜太郎であった。

 夜太郎は地面に落ちていた石を投げ、クレイジーラビットの鼻に命中させたのである。


「大丈夫か? ガキども」

「な、なんでここに?」


 予想外の夜太郎の登場にチョモスとリーシャは驚きを隠せなかった。


「いろいろあってな。まあ、そんなことはどうでもいい。この場は俺に任せて、とっとと逃げろ」

「任せろって……そんなことしたら殺されるぞ!」


 クレイジーラビットを傷つけたとはいえ、それはあくまで不意打ちであったから。正面からやりあったりなんかしたら勝てるはずがない。チョモスは、そう推測した。


「心配するな。ゲテモノウサギをモフモフするのなんて、イリスのお説教に耐えるより簡単だ」


 冗談を混じえながら言った。


「で、でも……」

「チョモス」


 夜太郎は真剣な眼差しでチョモスを見下ろす。


「お前は兄だろ。リーシャの兄だ。だったら俺の心配より優先することがあるはずだ」


 夜太郎が言っている言葉の意味をチョモスは理解した。自分より妹のことを優先しろ、と言っているのだと。


「それはそうだけど……でも!」

「優先事項を間違えるな。二頭を追えないなら一頭に絞れ。俺を切り捨てれば、守れるんだ」


 言い返せなかった。夜太郎の言葉を覆す力も否定する理由もなかった。チョモスは夜太郎なしでリーシャを守れるほど強くはなく、リーシャが一番大事な存在である。夜太郎に死んで欲しくないという思いに従ったら、最も大切なリーシャを守れない。

 だから、無理にでも納得するしかなかった。


「……分かった。この場は任せる」

「それでいい」


 チョモスはリーシャの手を取り、この場を去ろうとする。


「俺を切り捨てたこと、果物を取りに行こうとしたことを後悔するなよ。今回の事態は予想なんて出来なかった、防ぎようがなかった。……ただ運が悪かっただけだ」


 二人はその言葉を聞いてから去った。去り際に「死なないで」と言い残して。


「行ったか。……今回のことは俺に責任があるからな。落とし前はつけるさ」


 石を投げられ倒れた後、夜太郎から距離を取り、様子を窺っていたクレイジーラビットが夜太郎を睨みつける。

 その目には怒りが満ちていた。


「獲物を逃したことが憎いのか? それとも鼻を潰したことか? まあ、どっちでもいいことか」


 夜太郎は地面に落ちている木の枝を拾う。


「来いよ、ゲテモノウサギ。殺してやる」


 夜太郎から殺気が飛ばせれた。それが殺し合いの合図となる。


「グァァァァァァァ!」


 突撃、クレイジーラビットは怒りによって策もなしに突撃した。夜太郎の目の前まで近づき、鋭利な爪を付けた手を振り下ろす。

 夜太郎はそれを大きく横に転がって躱した。

 追撃するためにもう片方の手で夜太郎を刺そうするが、再び躱される。


「グァグァァァァァァァ!」


 手を振り下ろし躱され、刺して躱され、噛み付こうとして躱され。何度も何度も攻撃する。だが、夜太郎は全てを躱す。

 終わらない一方的な攻め、まるで夜太郎が為す術もなく防戦に徹しているようである。しかし、実際は違った。

 クレイジーラビットが攻撃するたびに夜太郎は躱す。その躱す間合い、クレイジーラビットの出された手や口と、夜太郎の身体との距離が一撃一撃繰り出されるに連れ縮まっているのである。

 夜太郎は、クレイジーラビットの射程と動作速度を徐々に把握していっているのだ。


「グァァ!」


 命中しないことに怒り、大振りで力任せな一撃を放つ。

 それを夜太郎は、クレイジーラビットの横を通り過ぎるかのように紙一重で躱す。そして、手に持った木の枝をクレイジーラビットの真っ赤な目に突き刺す。


「グァァァァァァァァァァァァァァァァァ!」


 木の枝が眼球を貫いた痛みに、絶叫をあげる。刺さった状態の木の枝に血の筋が流れていく。


「汚い声で泣くなよ。耳が腐るだろ」


 夜太郎はクレイジーラビットから離れて距離を取る。追撃するという手もあったが、クレイジーラビットが痛みで無闇矢鱈に攻撃してくる可能性を考慮して止めた。今の距離だと躱すのは難しかったのである。

 クレイジーラビットは残された片目で憎悪を燃やしながら、夜太郎へと突撃した。そして、再び大振りで力任せな一撃を放つ。

 夜太郎は後ろに下がって躱すために、前方へ片足を蹴る。

 躱しきった直後、クレイジーラビットは口から唾を吐き出した。唾は夜太郎の顔面へと飛んでいく。

 夜太郎はそれを反射的に左手を振って弾いてしまった。

 ザシュッ、唾と同時に放たれたクレイジーラビットの鋭利な爪が夜太郎の左腕を切り裂いた。


「グゥオグゥオ」


 やっと命中したことにクレイジーラビットは喜ぶ。

 唾を吐いたのは策略からではなく本能であった。そもそもクレイジーラビットに策略を練るほどの知性などない。

 本能によって放たれた唾、それを夜太郎は反射的に防いでしまった。そう、反射的に。

 殺し合いという状況、そして躱し続けていたことによる過敏になっていた神経、それらが考えるよりも先に行動させたのである。膝をハンマーで叩かれたら足が上がってしまう無条件反射のような現象。

 左手からは抉れた皮膚と肉から血が流れ出している。骨までは達しなかったが、軽傷といえるほど浅くもない。

 夜太郎は右手で傷口に触れる。手の平には血がベッタリと付着した。

 突然、視界が黒くなる。傷口に触れ自分の血を見たことで夜太郎の中で、何かが目を覚ました。

 かつての激情、漆黒の炎、怒りの幻影、この世界に飛ばされてからはただ生きているだけであった存在。

 それの片鱗が、目を覚ました。

 夜太郎の内で激情の炎が少しづつ大きくなっていく。


「グゥオ?」


 喜びに酔いしれていたクレイジーラビットは、夜太郎の様子の変化に気づく。


「グ……オオ」


 動物に近い存在であるクレイジーラビット。だから、当然動物的な感覚に長けている。

 それが、夜太郎から溢れてくる殺気に触れ、恐怖が芽生え始める。夜太郎はただの人間、しかしその背に怪物が立っているかのような幻想に襲われた。


「グゥァァァァ!」


 殺気の怪物を掻き消すために雄叫びを上げ、夜太郎へ一撃を放つ。夜太郎は後方へ下がって躱す。

 躱されることを、クレイジーラビットは予測していた。一度通じた手段、唾を再び吐こうとする。

 だが、それは出来なかった。吐きかけていた口に、靴が直撃したからである。

 夜太郎は後方へ下がる直前に片足の靴を脱ぎかけにし、下がると同時に飛ばしたのだ。

 死角からの一撃にクレイジーラビットは動きを止めてしまう。それは、この場では致命的な失態である。

 靴飛ばしから間髪入れずに、クレイジーラビットの顔を殴った。拳が残った目を抉る。


「グァァァァァ!」


 激痛に悲鳴を上げた。これでクレイジーラビットは両目を失ったことになる。

 先程までなら無闇矢鱈に攻撃してくる可能性を考慮して、ここからの追撃を夜太郎はしなかった。

 しかし、今は違う。クレイジーラビットが闇雲に手を振り回しているにも関わらず、蹴りを腹へと放つ。放った足を、鋭利な爪が微かに切り裂いた。


「グッオ!」


 肺から息を吐き出し、腰を屈めた体勢になる。それが勢い良く動いたせいで、抉れた目から溢れていた血が夜太郎の顔へと飛び散った。

 返り血など気にせず、夜太郎は腰を屈めた体勢の首に重い打撃を叩き落とす。

 クレイジーラビットは立つことが出来なくなり、地面へと倒れ込む。身体は痙攣している。

 夜太郎は特に尖った木の枝を拾ってきて、痙攣しているクレイジーラビットの首に振り下ろした。


「グァ!」


 小さな悲鳴を最後に、クレイジーラビットは動かなくなった。死んだのである。

 夜太郎は死体を静かに見下ろす。そうしていると、後方の茂みから草と草が擦れる音がした。

 新たな木の枝を拾い、後方へ神経を集中させる。

 音は少しずつ夜太郎へと近づいてくる。


「グゥオオオオオ!」


 音がすぐ後ろに差し掛かったと同時に、クレイジーラビットが茂みから雄叫びを上げながら姿を現した。別の場所にいた他のクレイジーラビットが、夜太郎達の存在に気づき迫っていたのだ。

 夜太郎は逆手に持った木の枝で、振り返るようにして新手の首を狙う。


「グァァ!」


 首を木の枝が貫くより前に、クレイジーラビットは断末魔とともに死んだ。クレイジーラビットの首には、木の枝ではなく農業で使われるピッチフォークが突き刺さっている。


「あっぶね~、ギリギリだったな」


 ピッチフォークの持ち主であり突き刺した人物オットーが、一安心と息をつく。


「生きてるか? 怪我は……しているか。まあ、それぐらいだったら唾を付けとけば治るな」


 陽気なオットーを見ていると、夜太郎を渦巻いていた心の高ぶりが静まっていった。表情を和らげ、オットーに話しかける。


「どうしてここにいるんだ?」

「お、やっぱり知りたいか。オットーさんの華麗な救出劇の裏側を知りたいんだよな。しょうがねえなあ。新入りには特別に、かっちゃんに語る前に聞かせてやるよ」


 オットーは髭を擦りながら得意げに話し出す。


「新入りが俺から去った後、どうも新入りの様子がおかしいと思ったわけよ。これは事件だなって。だから、俺は愛具であるこいつを持ってこの場所に向かったんだ」


 血に濡れたピッチフォークを夜太郎に見せつける。


「そしたら、森の途中でマーガレットとこのガキどもに偶然会ってな。そいつらから、新入りが魔物に襲われているから助けてくれって、頼まれたんだよ。それを聞いた瞬間、俺は全速力でこの場に向かった。それで着いてみたら、こいつが新入りをこっそり襲おうとしていたから……」


 死体と化した二体目のクレイジーラビットを指さす。


「愛具でズサッてわけよ」

「そうだったのか。助かった、ありがとう」

「気にするなって。それに新入りは、ガキどもを助けたんだろ。村の人間として俺の方が礼を言わないと」


 オットーは夜太郎の肩を叩く。


「それは受け取れない。村の人間が村の子供を助けただけだからな」

「ガハハそれもそうか。村の人間が村のガキを助けるのは当然。新入りはもう一員だもんな」

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