3-8 暗い朝

 午前五時十二分。望が部屋を出る直前に見た時計はその時刻を指していた。厚手の服に着替え、セットしていない髪型はキャスケット帽で紛らわし、化粧などはする暇もなかった。移動する泰紀は早足で、望は小走りで追いかけるのがやっとだった。


「何が起こったの?」

「函館の東端、恵山地域で異変が起きたらしい」

「異変?」

「バッタの大量発生だ。しかもその大群がこちらに接近している」


 詳しくは車内で。望が息を呑む間に、泰紀の焦るような声がロビーに響いた。

 ホテルを出て、泰紀に連れられた望の目に飛び込んだものは、正面に泊めてある一台の大型バンだった。車の傍には塁が立っていたが、閉眼して気を高めている彼の姿を見て察し、望はあえて挨拶をしなかった。そして彼女は泰紀に導かれるまま車に乗り込んだ。

 黒塗りで艶めいている仰々しいこの車両のことを、望は事前に渡された資料で確認していた。少数遠征の際に用意された、非戦闘隊員たちの戦いの場。移動型のゼナダカイアム司令室といったところだろうか。ゼトライヱが出動できる最低限の事柄を遂行できるよう、改造されてあるとの事だ。

 まだ夜明け前の薄暗い外とは逆に、車内は照明で明るく既に麦島、阿畑隊員が所定の位置についていた。車内中央には広い通路があって、彼らはその両サイドで背を向けるようにして座席に座り、備え付けの端末を巧みに操作している。二人とも私服の上からゼナダカイアムの制服を羽織っていて、望もそうすればよかったと少し恥じた。

 阿畑の隣に泰紀が着席し、望は彼の後ろに寄り添うようにして立った。自分が指示待ちの受身になっていることに気づいた望が声を上げる前に、聞き覚えのある男性の声がスピーカーから流れてくる。


『こちら古城。聞こえるか、安國?』

「こちら安國。感度良好。さっそく通信をつないで」


 声の主は古城だった。市役所からつないでいるのだろうか。詳細は定かではないが、一切遊びのない事務的なやりとりを聞いて、望は事の重大さを改めて感じた。


『わかった。……もしもし、市役所本部の古城です』

『恵山支所の濱口です! うわ、くそッ……! もしもし!?』

『濱口さん、落ち着いて状況を説明してください』


 古城がそう告げたのにもかかわらず、通信越しの壮年の男は焦燥感を露にして捲し立てた。


『これが落ち着いていられますか! 建物の中にまでバッタが侵入してきて、支所はおろか地域全体がパニック状態です! 東寄りの風に乗って、バッタの大群がそちらに迫っています! とてもじゃないが、外を出歩けるレベルのものじゃない……!』


 濱口がそう話す裏で、職員の悲鳴などの音が望たちの耳に届く。リアルタイムで伝わる物々しい雰囲気もそうだが、何より奇妙なのはタンタンという扉をノックするような音が、とめどなく不気味に聞こえてくることだった。


『いったい何の音ですか?』

『窓にバッタがぶつかってくるんです! これでもピークは過ぎたようですが、窓一面にバッタがびっしり張り付いて、真っ黒で外が見えません! これは間違いなく蝗害です!』


 その悍ましい光景が目に浮かび、隊員たちの背筋に悪寒が走る。草本類の全てを食い尽くすと言われる災害が、今まさに通信の向こうで起きているというのだ。

 自分に何ができるのか。強大な闇に飲み込まれそうな運命に抗おうとすれど、その踏み出し方がわからない。望は自分の役割を忘れて、ただ通信に聞き入り立ち尽くすばかりだった。


『消防団とは連携が取れていますか? もしもし、濱口さん? こちらから救助を要請した方がいいですか?』

『いや、我々のことはもういい! それより、一つだけ伝えねばならない事が!』


 先を見通せない霧中のような事態だったが、その濱口の言葉に隊員たちは光明の糸を見た。冷静極まる声で古城が聞き返す。


『それは何ですか?』

『つつじ公園を見に行った職員が言っていました! 咲き乱れ……に怪しげな光が……! その後バッ……押し寄せてきたと!』

『濱口さん、電波の状態が悪いようです!』

『函館及びその近隣の住民には、窓などを開けずに……して、決して外出しないよ……さい! 指定の避難場……も危険です! 貴方たちも、はやく――』


 ブツリという鈍い音と共に、濱口の声は途絶えてしまった。安否が気になるところだが、隊員たちは顔を見合わせて彼の言葉を吟味した。


「切れた……。怪しげな光って聞こえたよね?」

「前例の報告と非常に似た証言です。バッタの群生相が現れる直前に、景色が輝いて見えた。おそらくこれと同じ現象でしょう」

「そして、この不可解な通信障害には覚えがある。僕たちが真に気をつけるべきは蝗害じゃない。その元凶だ」


 阿畑に続いて、泰紀も確かな口調で言い放つ。予兆として最も有力な証拠、それは原因不明の通信障害が起きるというものだった。ユートピア現象、そして蝗害をもたらすのは彼の脅威的存在に違いない。漠然としたものが確信に変わる。凍るように張り詰めた空気を不意に受け、望は思わず腕を抱いた。

 一方で、車両の外で精神統一をしていた塁も――適合者故の直感なのか――ゆっくりと開眼し、徐々に明るさを増していく東の空に向かって低い声で呟いた。


「……来る」


 望まぬ来訪者、地球外生命体ヨルゴス。災いが災いを連れてくる。

 函館の暗い朝が明けようとしていた。

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