3-7 乙女の夜

 一台の車がテールランプを灯して、一車線の道路を走り去っていく。宿泊先のホテルの前で、望は車の姿が見えなくなってもじっと暗い道路を見つめていた。日中と比べると大分冷え込み、肌寒いを通り越して凍えてしまいそうな気温の中、望は茫然と立ち尽くし、脱いだキャスケット帽を胸の辺りでぎゅっと握った。

 いつまでそうしていただろうか。実際は一分にも満たない時間だったが、色々な想いを募らせる女性の体感は、その何倍も永いものに感じさせた。自身の名を呼ばれるまで、彼女は寒空の下にいることすら忘れていた。


「あれぇ? 望じゃん」

「あ……」


 望が振り返った先には、二人の男女の姿があった。私服の志藤塁と麦島二尉だった。挨拶とは言えない声を漏らした望は、言いようもない罪悪感を胸に抱いた。人の道理に反するような事はしていないのに心が疼く。望は無意識の内に塁から顔を逸らした。

 上下のスポーツウェアという出で立ちの塁と、ゴスロリファッションを着飾る麦島。それぞれ単体で見れば何も問題はないはずなのに、これほどマッチしない男女の組み合わせもないだろう。変装のはずが却って目立ちまくっている。

 しかし、先刻までの事もあってか、望の目には塁たちが身長差のあるカップルのように映った。お洒落に無頓着な男と、眼帯まで拵えるゴスロリ女。男の方が女に貢いでいるのか、それとも女の方が男に依存しているのか。そのような妄想を催す自分の頭を、望は壁に叩きつけてやりたいと思った。

 そして、想起するのは古城の姿。何てことない普通のスーツ姿だったが、より紳士的にかっこよく思い浮かべるのは眼前の幼馴染の所為に他ならない。望は顔を逸らしつつも、多少の憎しみを含んだ視線だけは塁に向けた。

 当の本人はそんな望の胸の内など露程も知らず、能天気な声で彼女に話しかけるのだった。


「いやぁ、麦島ちゃんが色々調べたいって言うから俺も手伝ったんだけど、こんな時間になっちゃった」

「興味深いデータが豊富に揃いました。これから部屋に戻って解析三昧です」


 麦島は満足げにフンスと鼻を鳴らす。普段が無口なだけに、その成果は想像以上のものだったのだろう。荷物一式を全て持たされていた塁は素っ頓狂な声を上げた。


「解析三昧!? 俺は要らないよね?」

「女性の部屋に易々と入り込むつもりですか。ゼトライヱの適合者ともあろうお方が、破廉恥ですね」

「が、頑張ってね。何かあったら望に頼むといいよ。がさつそうに見えて、割と気配りができるやつだから。な?」


 唐突に合わさった幼馴染の目は、相変わらず全幅の信頼を望に寄せているものだった。その優しさが、彼女の口を強張らせる。


「う、うん……」

「どうした? ぼーっとして」

「何でもない。じゃ、おやすみ」


 望は素っ気なくそう言うと、二人を残して自動ドアの向こうへと立ち去った。

 らしくない振る舞いの彼女の背中に向かって、塁は怪訝そうに口を開いた。


「何だあいつ。風邪でも引いたか?」

「顔がいつもより紅潮していました」

「ほぉ。てことは、やっぱ風邪か」

「志藤さんは実に馬鹿ですね」

「マジで?」


 悪気のない塁の天然っぷりに呆れるように、麦島は嘆息を吐いた。無論、麦島も塁と同様、望の身に起こった出来事などは知る由もない。けれど、麦島の女として通ずる感覚が、もっと私を心配してという望の声を確かに受け取ったのだ。気の利く男性――モテる男なら、それを敏感に感じ取って彼女をフォローしたに違いない。

 だが、せっかく自分がヒントまで出してやったというのに、この男はどこまで朴念仁なのだろうか。麦島の鋭い視線の意味を、志藤塁は眠たいのかなぁと更に勘違いしたまま、函館の夜は更けていくのであった。


                  ***


 夜の九時にもなった頃、望は不意に服を脱ぎ始めた。シャワーで済ませようと思ったが、ぬるま湯に全身を浸す必要性を感じたのだ。薄い化粧は部屋に戻ってすぐに拭き取った。それからベッドに寝転がったり、椅子に座ってぼーっとしたりしたが、何をしても落ち着きはやって来なかった。外気に晒されていた手先や太ももは冷たいのに、体は依然として火照っているような状態だ。風邪も疑ったが、体温計は平温を示した。わかりきっていた事だ。

 さっとシャワーを浴びた後、望は湯の張った浴槽にその身を沈めた。ぬるま湯のつもりだったが思いのほか熱く、それでいて心地よい。胸の動悸を紛れさせるのに十分な温度だった。自然のままに吐息が漏れる。大小様々な感情が押し寄せ、処理しきれなかったものの残溜だ。

 ……考え過ぎだろうか。あまり考えずに保留していた事を、よもや北の大地に足を運んだ際に考えねばならないなんて。


 湯面に浮かぶのはひとりの男性の顔。子どもの頃は快活だけが取り柄の顔つきだったのに、やがてそれが勇壮さを帯びて随分と大人らしくなった。情熱は人を変え、また、夢を一途に追い求めるその姿は周囲の人をも変える。できないをできるに変える力の持ち主だ。彼の瞳にはいつも希望の色があって、今は少し輝きが小さくなったけれど、前向きな光は健在だ。自分もその光を追っていきたいと、望は思った。

 次に浮かんだのは、別の男性の顔。顔つきでその人の人柄がどんなものかわかると言われるが、彼が実直な性格であるというのは第一印象から変わらなかった。思春期の頃は背伸びをしがちで、危なっかしい魅力を放つ異性を想うものだ。けれど大抵は幻想で、背伸びをやめると正反対のものを求めるようになる。自分の物差しを等身大に戻したとき、あらためて彼の持つ水準の高いステータスに気づくことだろう。自分がそうだったように。


 肩まで浸かっていても悩みの元を取り除くことはできず、望は浴槽の縁にもたれかかるような態勢で思考を続けた。背中がいい感じに冷めて心地よい。湯気が立ち昇って浴室が曇る様子を、望はぼやけた視界から見上げていた。

 自分の性格のダメなところが出ている。女子だから恋愛話はよくするし、友人の悩みも聞くし、アドバイスだってする。望の野球で培った男勝りな性格は、男子の劣情をよくわかっていると評判だった。

 ところが、自分のこととなるとてんで弱弱しくなり、奥手になり、乙女になる。宇津木望の本性は実はそういうものだった。困っている人に手を差しのべて世話を焼く、焼かずにはいられない献身の心は、やがて自身の悩ましい純情をひた隠しにした。誰よりも大切な自分自身から、ある意味で目を背け続けてきたのだ。

 そして、先刻古城の真っ直ぐな眼差しを受けて、望は自分の心に正直に向き合わなければならなくなった。それは彼に対する最低限の礼儀であり、誠意である。すぐに返答した方がよかったのだが、心に迷いが生じた。夢を見続ける人と、自分を見続けてくれた人。選べないという言い訳は最早できない。自分を思いやらなかったツケが回ってきたとでも言うのだろうか。

 塁がゼトライヱにならなければ函館に来るはずもなかったし、古城が函館に就職しなければ彼と再会することもなかった。奇妙な縁、どのような因果がこの地に渦巻いているのか。理想郷と化した場所で何が起ころうとしているのか。俯瞰で観ればどれだけ興味がそそられただろうか。だが、今は自分の目と心で直面しなければならない。海峡を越えた先にあるものは、いつも通り変わらない確然とした瞬間いまなのだから。


 それだけ理解していても、望の遅疑は止まらなかった。湯気でぼやける視界や揺蕩う湯面のように不安定で、ひとつの決心に辿り着くことは叶わなかった。汗ばんだ体にいっその事冷たいシャワーでも浴びせたら、ポンと音を出して頭に良い答えが浮かんできやしないだろうか。実際に望が実行したのは、ぬるめのシャワーで髪と身体を洗うだけの日常的行為だった。

 いつの間にか女性的になった膨らみに手を添える。野球をするうえで邪魔な物体としか思っていなかったのに、今では自分の大切な一部となっている。女であることの象徴、なのにいざ問いかけても返ってくるのは疼きだけ。都合のいいときだけ頼らないでと拒絶されているようだった。

 髪を乾かした後、すぐ横になっても当然のように寝付けない。薄暗い常夜灯の中で、望は再びベッドに横になるのと椅子に座るという意味のない行動を繰り返した。椅子で微睡んでも、ベッドに入ると悶々として目が覚める。布団の温もりに段々と煩わしさを覚えるも、足を外に出したら度が過ぎる冷気に全身が震え上がる。半端な苦痛に気をやられてしまいそうだった。時計の針の音を数えればいつか寝られるだろうと試みて、秒針が一周するのを六〇回、すなわち一時間を律儀に数え上げてしまった。


 こうして乙女の悩ましい夜は、乙女が諦観の境地に達したことで幕を下ろした。下ろしたはずだった。ところが幕は完全に下りることなく、何者かによって強制的に上げられたのだ。そのような異質さを孕む暴挙は、人間の成せる所業ではない。

 ドンドンドンと、扉を叩く不吉な音で望は目を覚ました。枕元のスマートフォンも鳴り続けている。やっと寝られたのにという苛立ちをも打ち消す、乱暴な騒音。望は部屋に入ってから、ここで初めて自身の懊悩から抜け出したのだが、それを意識するほどの余裕を持つことはできなかった。


「望、起きてくれ! 緊急事態だ! 望ー!」


 暗闇に包まれた明け方。焦燥に滲む男の声。不穏な予感。

 特異の来訪者、そして彼の存在がもたらす災いが、理想郷と化した函館に迫ってきている。全く不運な事に、望の直感は的中していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る