2-9 浄化をもたらす者

 本来はライトアップされて煌びやかにそびえ立つ洋風の城が、今は陽の光が僅かに差し込むだけの寂寥感に晒されている。晴天の昼間だというのに、体育館ほどの広さのテーマパーク内は新月の晩のような闇が蔓延っていた。密室の孤城の周りを蠢く徘徊者たちが時折嗚咽のようなうめき声を上げる度に、望は背筋から寒気を感じた。

 泰紀は望を連れて孤城近くの鉄製の高台――設備メンテナンス用の足場に逃げ込んでいた。なんでも、泰紀はこういう場所でアルバイト経験があるらしく、襲撃に遭ったとき咄嗟にこの高台を思い浮かべたそうだ。関係者専用の扉を躊躇なく開けて、城の裏側から梯子を上ったときに望は多少罪悪感を感じたが、地上の惨劇を目の当たりにしてその考えは変わった。

 襲われた人々が数瞬の間を置いて、襲った人々と同じように凶暴な人格に移り変わる様子は、まるでホラー映画を観ているような気分だった。避けられない集団感染なのか、はたまた非科学的な心霊現象なのか。テーマパーク内には親子連れが大勢いて、望は居ても立っても居られず地上へ降りて彼らを高台へと誘導した。やむを得ず泰紀も決死の覚悟を決めて、それに助力することになった。

 結局、全員を高台へ避難させるのは叶わなかったが、扉を封鎖することで親子連れの何組かを救うことができた。けれども、逆を言えばそれ以外の人たちを見殺しにしまったという事実を、望は辛くも呑みこまねばならなかった。救いの手を差し伸べられなかった人たちの怨嗟のうめきが、地上にのさばっている。


 しかし、気落ちする望の肩にそっと手が置かれた。そうしたのは泰紀で、彼は望とは異なる神妙な面持ちで地上の惨劇を見下ろしていた。危険を知らせるための仕草ではなかったため、望もある程度の落ち着きを持って観察することができたのだ。

 逃げ遅れた母娘が、亡者たちによって城壁に追いやられていた。母親が身を挺して、五歳くらいの娘を庇う。身の毛がよだつような結末を思い浮かべて望は戦慄したが、勇気を振り絞ってそれを直視することにした。

 一人のゾンビが、若い母親の首筋を食い千切ろうとする。遠目にはそう見えたかもしれないが、高台から見下ろしていた望たちはその真実を垣間見た。ゾンビは噛みつこうとしたのではない、母親の顔を両手で荒々しく掴み、額と額が触れ合うくらいに顔を近づけた――それだけだった。恐怖に満ちていた瞳は色を失い、母親はその場に力無く倒れた。が、すぐに開眼すると、今度は母親が怯える愛娘に対して同じ行為をおこなった。こうして、母娘は揃ってまともでない姿に変貌したのだ。

 テーマパークに残った人間が全てゾンビに変わるまでに、そのような光景を望たちは幾度も目撃することになった。その頃にはもう望も落ち着きを取り戻し、事態の奇妙さを怪訝に思う言葉を口に出していた。


「泰紀、やっぱり何かおかしいよ」

「望も気づいたか。彼らは人に危害を加えていない。襲っているようにみせているだけだ」


 徘徊する者たちを眼下に泰紀はそう言い切った。誰が何と言おうと、自分のこの目でしかと見たものは認めざるを得ない。望は黙って頷き、頼れる幼馴染の言葉を促した。


「だとすれば、彼らは死んでいないはずだ。生きたまま誰かに操られている可能性が高い」

「誰かって……まさかヨルゴス?」


 望は泰紀の方を向いたが、泰紀は視点を変えずに口を開いた。


「おそらくだけど」

「でも変じゃない? ヨルゴスの仕業なら、こんなまわりくどい事をせずに人や町を襲うはずよ。大七日がそうだったでしょ?」

「こんな電波障害はそうそう起きない。望も知ってるだろ? ヨルゴスが出たら、そういう現象が起きるって事は」


 反応のない通信端末を手中で遊ばせながら泰紀はそう言った。だが、望の疑問に答えたわけではなかった。確かに彼女の言う通り、場所を限定するというのは地球外生命体らしからぬやり方だ。もっと言えば、人間らしい手口のようにも思える。そして、襲撃を目論んだ存在の目的が集団感染ならば、フラドロを封鎖する理由が謎だ。しかも妙な事に、今回の襲撃は集団感染に見せかけた何かであるということ。

 その何かに辿り着くまでに、自分たちは無事生き残ることができるのだろうか。


「とにかく、あんなに地上をうろつかれは迂闊に行動できない。テーマパークの外も同じような状況だろう。何か突破口があれば……」


 泰紀がそう口走った矢先、地鳴りのような衝撃が彼らを襲った。店内側の窓が盛大にぶち破られ、緑色に輝く物体が転がりながら無人のトロッコに激突した。否、それは物体ではなく常盤色の戦士ゼトライヱだった。

 戦士は膝をついて周囲を見渡す。物々しい雰囲気を感じ取ったようだった。常人よりも身体が一回り大きく甲冑を纏った姿だが、どこかオーガニック的である唯一無二の存在。資料でしか見たことのなかった生命体が、自身の幼馴染と同一の存在であるという事を理解するのに、望は呼吸二つ分の時間を要した。


「くそ、この中もダメか!?」

「塁ーッ!」


 戦士はハッとして声のする方を見上げた。彼らは物心ついた頃から一緒にいた兄弟のような関係だ。たとえ姿形が違えども、その一挙手一投足を見れば見分けがつく。あの戦士は紛れもなく志藤塁だった。


「望!? 無事だったのか!?」


 望は涙ぐみながら力強く頷いた。登場の仕方はかっこよくなかったけれど、危機的状況の中に駆けつけてくれたというのが望にとって何より大きかった。心の拠り所があれば、どんなにピンチでも活路を見出そうとする勇気が湧いてくる。あの常盤色に煌めく光は勇気の源とも言えよう。望の瞳に光が宿ったのは決して涙の所為ではない、希望そのものを感じて受け取ったのだ。


「塁、彼らはおそらくヨルゴスに操られている!」泰紀は再会を喜ぶような素振りは見せなかった。話が早いのは男同士の友情の特権である。「何か大きな音を出せば正気に戻るかもしれない!」

「わかった!」


 既にゾンビたちは塁の周りを取り囲むようにゆっくりと近づいていた。だが、彼らが本物のゾンビでないと知った今、塁の心に渦巻いていた恐怖は消え去り、空いた部分を埋めるように大勇が彼の意志を強くさせた。

 戦士は腰のあたりにある細身の警棒のようなものを取り出すと、威勢の良い声でスキルコードを唱えた。


「コードC.B!」


 すると、直棒は常盤色の光を帯びたまま見る見るうちに形状を変えた。その物体は何だと訊かれたら、大多数の人はこう答えるだろう。バットです、と。配色センスのない金属バットの先を、ゼトライヱはゾンビの群れに向けた。敵と味方というわかりやすい構図であれば、望も素直に戦士を応援していただろうが、今は状況が複雑だ。声を交わさずとも、二人は心を通じ合わせていた。

 その面妖な武器は誰かを叩き殴るためのものではない。無差別に向けられた悪意だけを打ち砕く、そのために具現化された聖なる神器だ。


「従業員さん、ごめんなさァい!」


 塁はそう叫び、振り向きざま背後のトロッコに向かってバットを振りぬいた。暗かった室内に轟く衝撃と共に、常盤色の粒子が辺り一面に飛び散って降り注がれる。煌めく粒子には沐浴のような力が秘められていた。心に安らぎを与え、悪しきものを浄化する力。

 粒子に当てられたゾンビたちは次々と膝から崩れ落ち、気を失った。先ほどの母娘も抱き合ったまま眠ってしまったが、その顔つきには人間らしい穏やかさが戻っていた。

 バットを下ろした戦士は、事の終わりを告げるように深く頷いた。その泰然とした御姿を見て、望は安堵のあまり頬を緩ませた。まだ危機的状況の一つから脱したに過ぎないが、塁なら何とかしてくれる、ゼトライヱなら私たちを救ってくれると心から信じられたのだ。


                 ***


 その頃、気を失ったユリウスは、フラドロ内のある一室に連れ去られていた。

 扉からソファ、それにグラスなどの小物まで、置かれている全ての物が通常より格式高いその部屋は、相応の身分でなければ入ることができない一室だ。企業の重役やアスリートや芸能人、役職の上に一流という言葉がつくのが最低条件とされている。映画館内を高所から一望でき、高級ワインを嗜みながら映画鑑賞も楽しめる贅沢な部屋だ。

 だが、眼下に広がる館内の様子は物々しいものがあった。赤い液体の飛沫が至る所に飛び散っており、泥濘のような闇も相俟って異様な雰囲気を漂わせている。

 その上にあるVIP専用ルームから現在、似つかわしくない荒々しい呼吸が室内に響いていた。テーブルに仰向けの状態で置かれたユリウス。彼の上着のチャックが男の手によってゆっくりと開かれる。ユリウスの左腕にはZレガシーが装着されていた。男が取り外そうと試みたものの、どうやらできなかったようだ。


「よし……そうだ……いいぞォ」


 外見からは一流の人間とは思えない髭面の男が、そう呟きながら眠る美青年の服を不器用な手つきでずらしていく。普段はキリッとした勇ましい顔つきのユリウスであるが、瞳を閉じて寝息を立てる姿は官能的な麗しさがあった。

 男の手はついにユリウスの肌着へと到達し、それを丁重にめくり上げる。露になった柔らかそうな素肌、バランス良く発達した筋肉。暖色の照明に照らされた裸体を前に、髭面の男は感嘆の吐息を漏らした。


「素晴らしい……!」


 心の内から溢れ出る感情を男は抑えることができなかった。未体験の感覚が男の表層に表れる。


「なるほど。気持ちが昂ると手が震えだすというのは、このことか……」


 恍惚とした笑みを浮かべながら、男は体内の熱が上がっていくのを甘んじて受け入れた。そうなると下腹部のある部位が異様に膨張するという現象は、既に体験済みであった。汚らわしい欲望は男を支配し、目の前の馳走に指を這わせた。

 程よい体温、新鮮さを彷彿とさせる肌色に、滑らかな肌触り。

 指を伝わせていく度に、得も言われぬ興奮が醜い男の体内にほとばしる。


「これぞ生命がもたらした神秘! 俺の追い求めた理想の器!」


 声を荒げてもなお、男の催す興奮は冷めるどころか怒張を極めていった。できる事なら豊かに実った果実を今すぐにでも貪りたいところだが、それはまだ早い。器を入れ替える時間は限りなく神聖であり、そこに一滴の穢れも落とすことは許されない。

 畏怖すら覚える男の矜持は、男自身を支配していたのだ。


「まずは邪魔者を排除せねばな。グフ、グフフフ……!」


 残る標的は傀儡に脅え逃げ回るゼトライヱのみ。考えうる展開を選別し最高のシーンを演出すべく、彼の戦士を倒す準備に取り掛かる必要がある。

 しかし、あまりの多幸感に男は感情のコントロールを忘れ、下卑た笑いと下腹部の怒張はしばらくの間鎮まることはなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る