2-2 フラドロ、試練の場

 延々と人の行き交う賑やかな場所を、負けじと突き進む宇津木望うつきのぞみの姿があった。土日祝日はどこも混み合うものだが、昼時の都内のショッピングモールとくればその傾向は顕著だ。老若男女の人波に目が回りそうになりながら、望はスマートフォンに書き留めたメモを見るため立ち止まる。慣れない疲労が首周りをもやもやとさせていたからか、望は思わず天を仰いだ。

 澄み渡るような青空が望の視界に広がる。蒸し暑さや雑多な群衆の中にいるのを少しだけ忘れられる、そんな効果のありそうな薄水色の空だ。望だけでなく、ふと上空を見上げる人たちがちらほらといる。二階のテラスにいる若いカップル、傍にいる老いた男性に子どもを預ける母親。仲睦まじく手をつないで歩く外国人の老夫婦。この建物を考えた建築家の思惑に、皆が見事にはまっているようだ。自分が晴れ女であることに感謝しなさい――とはやや言い過ぎかもしれないが、望はそれを誇りに思った。

 午前から歩き回っていたので、足が少しムズムズする。今日はスニーカーで正解だったと足首をストレッチする望の後方から、疲弊した男の声が耳に届いた。


「あのー、望さん」

「ん、なあに?」


 望は何食わぬ顔をして後ろを振り返った。そこには荷物を両手に抱えて引き気味に微笑む安國泰紀やすくにたいきがいた。肘を直角に曲げて紙袋の持ち手の部分をそこに提げ、空いた手で三つの箱を器用に抱えている。目線の高さまで到達した箱の奥から、全ての荷物を自分に押しつけた張本人を幾度もの瞬きをして見つめた。

 言わなくてもわかるよねというサインのつもりだったが、泰紀はすぐに悟った。世話を焼くの正反対の行為は、彼女なりの信頼の表れなのだ。事実、あまり接点のない人には優しい一面を見せる望だが、幼馴染である塁と泰紀にはこれでもかというほど図々しくなる習性をもっていた。

 溜息をひとつ小さく吐いた後、泰紀は角が立たないような言い方で望に問いかけた。


「いくら経費で支払われるとはいえ、これは買い過ぎでは……」

「おばさんに不自由な生活させる気? 急な引っ越しだもん、ストレスがかからないように良い商品を買わないと」望はそう言って、泰紀の方を一瞥した。「それにしても、さすがフラドロ。何でも揃うわね」


 主導権が彼女の方にあるカップルのやりとりと、傍から見ればそのように映るかもしれないが、望も泰紀もこれが任務であるという事を忘れてはいなかった。ゼトライヱとなって戦う志藤塁。彼の母親である志藤温子を安全な場所に移すに当たり、望たちは民間人を装って必要な物資を購入していた。

 そこで彼女たちが選んだ店はFryDrop――俗にフラドロと呼ばれる百貨店だ。フラドロは近年国内で発展した百貨店で、全ての店舗が奇抜な形で統一されているという特徴をもっている。その奇抜な形を例えるなら、長方形のレアチーズケーキの中央を、雫の形をくり抜いたような建造物になっているのだ。雫の形を勾玉の形と言い換えれば少しは伝わるだろうか。

 くり抜かれた部分は当然の如く青天井のフロアとなっており、また、建物の外観は絵本に出てくる格式ばっていない西洋のお城風に仕上がっている。ポップな色合いも相俟って、多くの人がその場に立つと一種のテーマパークにいるかのような錯覚を覚えるだろう。

 事実、正面入口から入ってすぐの所には子供向けのテーマパークがあり、低速周回する乗り物や登れるサイズのお城がどっしりと構えてある。防護ネットが何層にも重なって設けられているので、多少見栄えは悪くなっているが安全性については問題ない。

 また、屋上にはフラドロの守護者、フライドロンのヒーローショーが毎週土日に行われている。雫の戦士なのに天候が悪いとショーを中止して、客を誘導する警備員となる姿がシュールで、特撮好きの少年たちからの人気はまずまずだそうだ。


 商品価格や催されるイベントも然る事ながら、「あの場所に行きたい」と親や祖父母に乞うほど幼心に響かせる企業戦略が功を奏し、フラドロは大手百貨店の仲間入りを果たしたと言われている。

 望の地元にもフラドロの店舗はあったのだが、ここまで混雑を極めた状態だというのは全くの予想外だった。これが都会と田舎の違いとでもいうのだろうか。入る前に店を変えようかと泰紀に言われたけれども、都会人に負けるわけにはいかないという謎の対抗心が望の首を横に振らせた。それに、単なる仕事ではなく任務と謳われたこともあって、望は気合いが入っていたのだ。

 その代償と言うと聞こえが悪いが、荷物持ちとして駆り出された泰紀の積載量は既にオーバー気味であった。相槌を打った泰紀は、鈍感な幼馴染に向かって早々に音を上げることにした。


「品揃えが良すぎて、ついつい色んなものを買ってしまうんだよね。すぐに両手が塞がっちゃうくらい。ねぇ、一回荷物を置きに戻らない?」

「男のコでしょ、頑張んなさい。……ん?」


 乾いた笑いをする泰紀をよそに、望は視界に映ったある場所に注目した。二階から続く行列が階段を渡り、一階フロアにまで侵食している。客層は親子連れがちらほらといるくらいで、あとは若い集団が多い印象だった。後列の方は、何があるのかわからないけどとりあえず並んでみた、という感じにも見える。流行に敏感な、人生を謳歌している人たちとも言えよう。

 ただ、どちらかというと宇津木望はそのような集団を不思議に思う性格の持ち主だった。待つという行為が絶望的にへたくそ、というのは彼女に対する泰紀の見解だ。


「何あの行列?」

「映画の試写会だってさ。『メガクライシス』。最近よくテレビで宣伝してたでしょ」

「ふーん。で、あんなに並んでまで観る価値のある映画なの?」

「それはわからないけど、あっと驚くようなイベントがあるらしいね」


 大抵の事は、泰紀に聞けばわかる。望とこの場にいない塁にも同様の認識があった。あまりそそられる話題ではなかったが、望は黙って泰紀の言葉を促した。


「アメリカでも同じようなイベントをやったみたいだけど、とにかくすごいらしいよ」

「何がとにかくすごいのよ?」

「それがネタバレ厳禁だそうで、情報が全く出回ってないんだ。今のところリークもなし。まあ、そういう設定かもしれないし、話題性込みの方が今の時代に合っているのかもね」


 列に並ぶ人たちを見ると、同じ小冊子を持っているのがわかる。タイトルから察しがついてはいたが、その表紙には血と膿にまみれた人間が普通の人間を襲わんとしている様子が描かれていた。


「でも、ゾンビ映画でしょ? おおかた放映中に、ゾンビに扮した人でも歩き回るんじゃないの? 血が降ってきたりとか」

「斬新な手法かもしれないけど、映画においてはご法度でしょうに。ともかく、これだけの人が試写会に来たんだから、掴みはバッチリだね」


 今時ゾンビものという使い古されたジャンルの映画が流行るものなのだろうか。望の頭に疑問符が浮かび上がるが、何が流行るかわからないのが世の常だとも承知していた。平穏な世の中だからこそ、身を危険にさらすスリルを味わいたくなるというもの。それにしてもつい先日、ヨルゴスが現れたのをこの人たちは知らないのだろうか。

 望の頭をすっきりとさせたのは、自分が今任務遂行中だという気づきと、白の渦巻く魅惑的な甘味の看板だった。


「暇があれば観に行ってもよかったけど、まだ買い物の途中だし。おばさんのために必要な物は買い揃えておかなくちゃ。それより泰紀、あそこのソフトクリーム屋さん、少し寄ってかない?」

「僕は別にいいけど、望はいいの?」

「何が?」


 きょとんとする望に対し、泰紀は少し意地悪そうに微笑んだ。


「本当はこういうこと、僕じゃなくて塁としたかったんでしょ?」

「なっ……!?」

「靴を見ればわかるよ」


 言葉を詰まらせた望は、すぐさま自分の足元を見下ろした。何てことない普通のスニーカーであったが、それが迂闊だった。気になっている人と出かけるとなれば、こんな色気のないスニーカーなど履かずに、小洒落たパンプスやブーツを履くのが当然だ。現に望も、お気に入りの黒いパンプスを持っていたが、今日は敢えてそれを履いてこなかった。

 頭の良い泰紀にとって、望の考えることは全てお見通しだったのだ。顔の火照りを自覚しながらも、望はそれを抑えることができなかった。


「ま、デートの予行演習なら、それはそれでかまわないよ」

「……やっぱ、ソフトクリームいらない」

「えー、どうして? 僕、両手が塞がっててつらいんだけど」

「泰紀のバカ! 次は日用品買いに行くわよ!」

「はいはい」


 傍目にはやはり、彼氏が意地悪をして彼女を怒らせてしまったように見えていただろう。列を並ぶ人らの生温かい視線から逃れるように、望は映画館とは逆方向の道に歩を進める。

 ぷんすかと人混みの中を大股で突き進んでいく幼馴染の背中を、泰紀はやれやれといった表情で見つめた。そして、荷物を一旦下ろす口実を自ら失ってしまったことに気づき、口は災い元を改めて痛感することとなった。


                 ***


 それから数刻経ち、試写会のために並んでいた客が館内に通された。八百ほどある全ての座席が埋まり、監督達ての要望で七十名ほどの立ち見客も入場する。後方の通路が人でごった返す中、試写会の前に舞台挨拶が執り行われた。

 ホアン・マクレモア監督は足を悪くしており、杖をついての登場だったが、観客の温かい拍手で迎えられ手を挙げてそれに応えた。ホアンは癖毛の頭に野球帽を被り、サングラスをかけた髭面という出で立ちで、まず始めに観客に対して感謝の意を述べた。

 そして、汗を垂らしながら今回の映画についての熱弁をふるうと、客の方も監督が杖をついていることを忘れるくらい話に聞き入っていた。熱意溢れる者の雄弁な語りというのは、たとえ言語が通じずとも伝わるものがある。流行を追って観にきただけの客たちも、これから上映される映画に益々の期待を膨らませた。

 最後に観客に向けて一言と司会に催促されると、ホアンはこのように締めくくった。


『今日、私はこの場所に人間が忘れた恐怖を届けに来た。足を運んで来てくれた皆さんには、ぜひともこの究極のスリルを味わっていただきたい。あぁ、もし心臓が悪い人がいれば観るのは遠慮してほしい。私はゾンビより幽霊の方が苦手だからね』

「ホアン・マクレモア監督からのご挨拶でした。どうもありがとうございました」


 笑いと拍手が沸き起こる中、ホアンは通訳と共に舞台袖から姿を消した。

 ホアンは控室に戻らずに、館内の全貌を望むことのできる一室へ入り、用意された高級ソファに腰を下ろした。大粒の汗が滴る顔をハンカチで拭うと、ホアンは思わず深く息を吐いた。


「慣れないことはするものじゃないな」


 人間の身体に慣れているホアンとはいえ、脚光を浴びて人前に立つという行為は緊張するものがあった。緊張という反応は、未確認生命体であるホアンが人間の肉体に適応しつつある証拠なのか。少なくともソファにもたれる男の姿は、いかにも人間然としていた。


「愚かで醜い人間共め。これからどんな目に遭うかも知らずに」


 眼下で蠢く有象無象を眺めながら呟くホアン。付き添いのスーツ姿の通訳はただの人間であり、今の発言は聞き捨てならないと思うのが普通だが、彼は口を閉じてタブレット端末をホアンの前に差し出すだけだった。その双眸は既に本来の光を失っていた。彼は舞台に立っている時よりも前から、ホアンの力により傀儡と化していたのだ。

 端末には、報酬として提示された件のブロンド髪の麗しい青年が映っている。数時間後に彼と遭遇することを想像すると、ホアンは下腹部に体験したことのない滾りを覚えた。異星人に対する愚直な関心が彼の体内で燃え盛り、性的興奮という形で表れたのだ。


「ああ、そうだ。俺は此奴の皮さえあればいい。もうすぐこれが手に入ると思うと、たまらないね。もうすぐの辛抱だ、ホアン。この暑苦しい肉襦袢とももうお別れだ」


 欲望を満たす点においては人間とほぼ同じホアンであったが、愛着という感情の芽生えはついに訪れなかった。ぬるぬると脂ぎって醜い造形、黄金比の存在など全否定するかのような余分な腹の脂肪を鷲掴むホアンを、傀儡が扇子で軽やかに扇いだ。扇子の花の優しい香りとホアンの体臭が混じり、形容し難い複雑な臭いが部屋に立ち込める。


「さて、それでは楽しませてもらおうか」


 上映開始を告げるブザーが鳴り響く。徐々に暗転していく館内、一瞬にして静まり返る観衆。匣の中の彼ら全員が、自分の下僕に成り下がるというこの上ない愉悦。六波羅ユリウスという理想の皮をもうじき手に入れられるという多幸感。


「狂乱の宴の始まりだ」


 まるで品のない笑みがホアンの顔にこぼれる。腐敗した人間共が、ショッピングモール内を阿鼻叫喚の巷と化すまで後一時間。もはや誰も逃れることも、誰にも止められることもできはしない。

 内部にいる宇津木望と安國泰紀も、これから起こる混沌の試練など知る由もなかった。

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