第2話 涓滴は水面を揺らすか

2-1 波乱の前触れ

 灯りの閉ざされた闇の中に、ぼうっと二つの火が灯る。深紅の蝋燭に照らされた暗闇の輪郭をなぞっていくと、そこに女性のシルエットが浮かび上がっていく。横に並べられた背の低い蝋燭を境に、二人の若い女性が互いの顔を見つめ合っている。ツヤがあってきめ細かい肌、微かに潤んだ瞳にふっくらとした官能的な唇。蝋燭の火に妖しく照らされた二人は、狭間の深淵に引き込まれるかのように徐々に顔を近づけていく。


「ゆーっくり、深呼吸して」


 微睡む赤子に子守歌を囁くかの如く、一方の女は口を開いた。漏れた吐息がもう一方の鼻にかかる。こそばゆい感覚に体が反応しそうになったが、もう一方の女は素直に指示に従った。

 不意に、二人の間に奇妙なものが垂らされた。メトロノームのように規則的な運動を繰り返す糸の先には、穴の空いた硬貨が同じ場所を行き来している。蝋燭の火によってその残像が色濃く落ちて、ずっと眺めていると夢の中にいるような不思議な気分になる。


「五円玉の穴だけに注目してください。それはあなたの心の瞳です」

「…………」


 恍惚とも無表情とも取れる眼差しで、女は言われるがまま黄銅色の硬貨の穴を目で追った。垂れる糸の向こうでは、相手の女性が目を爛々と輝かせてこちらを覗いている。どちらもおよそ尋常な表情でないことは確かだった。

 衣擦れさえも起こらない沈黙に焦れたのか、糸を操る女がもう一方に問いかける。


「何か人のようなものが見えますか?」

「……見える」

「それはあなたが今、一番気になっている人です。さあ、誰が映っていますか?」

「……β―Ⅴ型」


 女は目に浮かぶものを正直に答えた。それが奇しくも人ならざる存在、人の名前らしからぬ角ばった名称であった故、神秘的な雰囲気は何処へと消え去ってしまった。単純に好きな男の名を口にしてほしかったのに、とは訊ねた方の女性の心境だ。


「麦ちゃん、仕事のし過ぎです……! ま、まだ何か見えませんか!?」


 食い下がる女の意表を突くように、もう一方の女は彼女を指差した。


「……瀬奈」

「私ぃ!? や、やだなぁ麦ちゃん。私は将来男の人と結婚するつもりなのに……」

「何やってるんです?」


 秘密の花園と化していた空間に男の一声が紛れ込む。同時に白色の電灯が照らされて、部屋の全貌が露になる。秘密の花園は、瞬く間に面白味の無い会議室へと姿を変えた。蝋燭の火だけが、かろうじてその名残を残している。

 蓮見は怪訝な表情をして二人の後輩を眺めた。いくら若いとはいえ、いつまでも学生気分だと困りものだ。叱りの言葉を二三述べようとした蓮見だったが、先手を打たれてしまった。


「あぁ、もーう、電気点けないでください。せっかくいいところだったのに」


 五円玉を垂らした糸を手に持ったまま、一人の後輩が口を尖らせた。まるで反省していない口振りに、蓮見は何を指摘してくれようかと眼鏡を光らせた。先輩のお節介なのか、それとも後輩の行き過ぎた行いなのか。どちらにせよ、見知らぬ敵と戦う組織の一員がこんな気楽な様子では、務まるものも務まらないということだ。

 煩わしい小言と思われてもいい。蓮見は少し語気を強めて後輩に告げることにした。


「また変なもの買って……。もう僕のスペースは貸しませんからね」

「小物だもん、デスクの上に置いとけばいいもん。麦ちゃんも楽しかったよね?」

「アロマキャンドル、いい匂い……」


 会議室にそぐわない甘ったるい匂いが、蓮見の鼻腔をつく。いい匂いと妄信すればそうかもしれないが、今の蓮見はそのように思わなかった。真っ暗な会議室でアロマキャンドルを焚いて、それらしい道具を用いて恋占い。よくもまあ考えつくものだ。その発想力だけは買ってやってもいいかもしれない。

 彼女たちがなぜ小学生じみた遊びに興じているのかというと、それには理由があった。属している組織の特殊性、さらに組織結成以来二度目となる警戒態勢。いつ来るかわからないが、近いうちに必ず来るという避けようのない災害。そのために、蓮見たちは待ち構えておかねばならなかった。

 それを思うと、蓮見も異性の後輩たちに同情の弁を述べるのも自然なことだった。


「昼休みに外に出てランチを取りに……とできないのが、ここの難点ですよね」

「お給料は魅力的なのに、ちっとも買い物に行けないんですもん。通販じゃなくて、外に出て麦ちゃんと色んなお店を回りたかったなぁ」

「ネットの記事を眺めて悶々と過ごす日々……」


 麦ちゃんと呼ばれる女性隊員がそう呟く。語尾が消え入りそうなのが、彼女の口調の特徴だった。麦ちゃんこと麦島隊員は、いつも右目に眼帯をつけて瞼を重そうにしているミステリアスな人物だ。愛嬌があって子犬のような小向隊員とは対照的に見えるが、彼女たちは親しい間柄で、休憩時間中は今のように二人でいることがほとんどだった。

 どちらかと言えば、おまじないを仕掛ける方が麦島で、仕掛けられるのは小向の方がいいのではないか。そんな蓮見の提言を汲み取ったかのように、麦島は小向の手から例の小道具を取って、それを小向の前で揺らし始めた。

 頬杖をついて不満顔をする後輩に、蓮見は声をかけた。


「外出許可が下りた二人が、よっぽど羨ましいようですね」

「望さんにはたくさんお使いを頼みました。ついでに、私が行きたかったオススメのお店も教えておきました」

「結構な事で」


 宇津木望と安國泰紀の両名は、先日蓮見たちのいる総務課に配属されることになった。役回りはもちろん、適合者である志藤塁のサポートだが、まだ研修を終えたばかりの新人であることに変わりはない。

 しかし、小向にとってはややこしい事態だった。総務課で――ゼナダカイアム内で唯一、彼女だけが未成年の隊員であることから、立場的には望たちより上だが年齢的には下になるという面倒が起きたのだ。

 志藤塁の母親が保護のため都内に引っ越すに当たり、諸々の手伝いをするようにとの通達が、望と泰紀に与えられた。滅多に下りることのない外出許可が、新人の二人に下りたのだ。それを聞いた小向の切なげな羨望の眼差しを、蓮見はよく覚えていた。


「あれから一向にヨルゴスが現れないし、とんだ骨折り損ですよ」


 左右に揺れる五円玉を目で追いながら、小向は恨み節めいたことを言う。ヤタガラス出現により、緊迫した時間を隊員たちは強いられることになったが、あれから八日間も何もない時間が経っていた。小向はよくできた人材ではあるが、消耗が過ぎると所謂電池切れの状態になる性質を持っていた。

 彼女にとって、この焦れるような時間は苦痛だろう。だからこそ蓮見は忠告をした。


「そんな事言っていると、本当に今日現れたりして」

「いつでもバッチ来い……」小向の代わりに答えたのは、サムズアップをする麦島だった。

「麦島さんは仕事熱心ですね。君も見習ったら?」


 そう言って蓮見は小向の方を向いたが、返答は帰ってこなかった。代わりにスゥスゥと、気持ちよさそうな寝息が聞こえるばかりだった。


「むにゃ……」

「瀬奈は寝てしまいました……」

「業務に戻る時間ですよ」


 小向の寝息をかき消すかのように、蓮見は重い溜息を吐いた。


                  ***


 その頃、屋外では男女二人の隊員が佇んでいた。監視の目を盗んでというわけではないが、基地の中心から黙視できないように建物の陰でひっそりと談話している。彼らの正面には敷地の境目となる背の高いフェンスがあり、その向こうには雑木林が深緑の葉を揺らしている。風の音や小鳥のさえずりが聞こえる中、隊員の一人であるユリウスは奇妙な物体を手に取っていた。


「な、何じゃこりゃ……」

「ポムちゃん人形。かわいいでしょ?」


 したり顔で答えたのは、ユリウスの幼馴染である三登里だった。ポムちゃん人形と呼ばれた厚みのあるピンク色の小さなぬいぐるみが、困惑するユリウスの顔の前で左右に揺れている。目と口を大きく開けている間抜けな様は、このキャラの性格を表しているのだろうか。


「いやお前……。これ、俺にどうしろと?」

「お腹を押すと喋るの。ほら」

『ガンバルノダー!』


 想像通りの騒々しい甲高い声に、ユリウスはハリセンで頭をしばかれたような衝撃を受けた。世話好きの幼馴染に色々よくしてもらっているのはありがたいが、プレゼント選びのセンスだけは壊滅的なのを何とかしてはくれまいか。ユリウスはそういう哀願こもった眼差しを彼女に向けたが、三登里はにこやかな笑顔で痛烈な要求を口に出したのだ。


「御守りとして身につけて?」

「御守りなら、もっとちゃんとしたやつあるだろ。よりによってどうしてこんな……」

「通販でちゃんとした御守りを買うのもどうかと思って。それなら、こういうキャラものの方がいいじゃない?」

「全ッ然よくない。大体、こんなんかさばって戦闘の邪魔になるだけだ」

「つべこべ言わないの。ズボンのポケットには入るでしょ」


 抵抗むなしく、幼馴染の魔の手がユリウスの下半身のポケットに忍び寄る。


『ガンバルノダー!』


 その拍子で人形のお腹が押されたのか、パツンパツンに膨らんだポケットの中から甲高い声が届いた。ショックを通り越した感情が、ユリウスの声を震わせる。


「ありえねぇ……」

「そういえば、志藤さんは?」三登里は気にする素振りもなく話題を切り替えた。

「知らん。訓練の途中でへばったから、たぶん治療室で主任の餌食になってるだろう」


 辟易した様子でユリウスは答えた。仙石主任はその役職の通り、適合者の身体管理の責任を担っている。ヨルゴスの地球侵略阻止においても特に重要な任務のはずだが、本人は興味関心の赴くままに行動しているようだ。

 ともかく、その矛先が自分から志藤塁に向けられるのならば、それに優る喜びはないというのがユリウスの率直な思いだった。ニヤリと口角が上がる彼を見て、三登里は窘めるように言った。


「八つ当たりは良くないと思うな」

「何の事だ? 俺は至極真面目に訓練に取り組んでいるだけだ」

「毎回気絶させておいて、よく言うわね」


 ゼトライヱの適合者といっても、訓練内容はそこいらの軍隊のものと変わらないものだった。まずは基礎体力をつける段階から始め、科学的観点からヨルゴスを打倒するための座学、通常時及び来臨形態時の戦闘術は専用マシンを用いて体に叩き込み、意思決定簡略化のためにP.Z操作の反復作業を行う。極め付けは適合者同士の実戦形式の訓練だった。

 一般的に、敵対象に向けて攻撃するという行為は、訓練された者でなければ困難なことである。確かに潜在的能力は志藤塁の方が上かもしれないが、経験値で言えば圧倒的にユリウスに分がある。適合者の先輩としても、その力の差を見せつけるのはユリウスにしてみれば当然の事柄であった。その結果が、塁を毎日のように気絶させるという荒業に至ったのだ。

 ユリウスは雑木林の方を渋い表情で見つめながらこう言った。


「あいつのことはまだ微塵も仲間だと思っちゃいないが、根性だけは認めてやらんこともない。俺がどんだけ殴り倒しても、まるでゾンビのように立ち上がってきやがる」


 防具をつけての白兵戦とはいえ、手を抜くような真似をするユリウスではなかった。防具の上からでも傷を負わせるくらいの、そして溜まっていた鬱憤を晴らす殴打の連続を、ユリウスは志藤塁にお見舞いしていた。昏倒する塁だったが、翌日になるとけろっと回復した姿を見せるものだから、ユリウスはこれでもかと前日以上の勢いで憎き適合者を倒しにかかったのだ。

 そんな恨めしさを込めて言い放ったつもりだったが、それを聞いた三登里はクスクスと笑いだしたので、ユリウスは少し戸惑った。


「ん、何で笑うんだ?」

「何でもない」

「変なやつ」


 そう言ってまた雑木林の方を向く幼馴染の金髪が風に揺れる。彼はまだ気づいていない。志藤塁のことを仲間でないと言っておきながら、徐々にその存在を認めつつあるという事に。彼らが和解する時もそう遠くはないだろう。三登里もユリウスと同じ方向を見つめ、長閑なひとときを共に過ごした。

 しかしながら、三登里もまたある事に気づいていなかった。静かな時の流れというのは、必ずその前に激しくうねり狂う事の起こりがあるという事を。平和な日常というものは所詮、前後の波乱の間にある僅かな沈黙に過ぎないという事を。

 そして事の起こりが、今日その日に訪れるという事を……。

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