1.5-9 次の塁を目指して

 時間の経過をこれほど長く感じるとは。腕時計の秒針を十秒毎に確認する志藤温子は、終始落ち着かない様子でその時を待った。時刻は夜の十時をとうに過ぎている。今日が幸福な今日であったなら、自宅で息子の人生の門出を祝い、丹精込めて作った料理を一緒に食べて、奮発して買ったケーキとワインを嗜んだ後、亡き夫に悲願の実りを報告していたはずだった。

 実在する温子の現在は、影が色濃く落ちる照明の下でパイプ椅子に座り、手の平の皺をぼうっと眺めているという不気味なものだった。もう一度温子は時刻を確認する。まだ五秒しか経っていない。言いようのないこの空間の息苦しさは、目の前にある透明なアクリル板の所為に他ならなかった。顔の正面には、板の向こうの声を通す通声穴がある。

 長い間温子は沈黙に身を置いていたので、どこかしらから聞こえる足音を敏感に聞き取ることができた。胸が変に強く締めつけられる。足音はひとつではなく、複数だった。アクリル板の向こうの扉が静かに開く。見覚えのある黒服の男が部屋に入ってきた。温子の自宅の玄関で言葉を交わした男だった。何かを訴えるような切ない眼差しを向ける温子を一瞥し、男は告げる。


「面会時間は五分です。それ以上は認められません」

「いいから早く息子に会わせて」


 温子が心の奥からそう訴えると、一人の青年が部屋の中に通された。白を基調とする見慣れたスポーツウェア。それを身につけた青年と目が合うと、温子は思わず立ち上がった。


「母さん?」

「塁……!」


 胸の締めつけから解放され、温子は声を詰まらせた。その身を案ずる言葉を色々と考えていたのに、息子の顔を見た途端にそれらが全部吹き飛んでしまったのだ。親子は板越しに、それぞれの手を合わせた。熱こそ感じ取れないけれど、息子は確かにそこにいる。親子はしばらくの間、無言の中で想いを通じ合わせていた。面会室の重たい空気が情動の吐息に溶かされていく。黒服の和泉も咳払いの振りをして、顔がほころぶのを抑えていた。

 息子との再会を喜ぶ一方で、温子は穏やかでない機微を感じ取った。洞察力の類ではなく、母親としての感性がそれを知らせたのだ。通声穴から通して見る息子の表情は、始めこそ驚きと少しの喜びが混じっていたものの、日が没する際の空模様のように段々と影を落としていった。


「母さん。母さん、俺……」


 罪悪感さえ彷彿とさせる塁の肉声。温子の顔から笑顔が消え、優しくも真剣な眼差しで愛する我が子を見つめた。息子が自分に何を伝えたいか、口を結ばせるほど何を言いあぐねているのかは、もうわかっていた。

 大事な事ははっきり伝えなさいと教育したのは温子だ。けれども、傷心の我が子を目前にして助力せずにはいられなかった。それもまた優しさなのかもしれない。


「ゼトライヱになったんでしょ?」


 次の言葉を待たずに温子がそう言うと、塁はハッと驚き、何とも言えない表情で頷いた。その信じ難い事実を、温子は息子の同級生二人から数刻前に聞いていたのだ。望と泰紀も、まだ頭の方が追いついていないような感じだった。事前に伝えるのを望はためらっていたが、温子の哀願に折れてついに口を割った。

 自分が異形の者になってしまったことが、塁の懊悩ではなかった。亡き父と目指してきた夢を叶えられなかった、それと同義の事実を母親に報せることに、思わず躊躇してしまったのだろう。


「ごめん。親父に何て言ったらいいか……」


 試合でヘマした時よりも意気消沈している塁の姿は珍しかった。力無く項垂れながらパイプ椅子に腰を下ろす息子の表情には、今は亡き夫の面影があった。応援する球団が敗北を喫すると、必ずと言っていいほど見せた悔しがる顔が温子の目に浮かぶ。

 そんな時はいつも励ましてあげてたっけ。包み込むような声音で温子は言った。


「いいのよ、塁が無事ならそれで。お父さんの仏壇にはビール注いでおくから」

「許してもらえないよ、そんなんで……」

「お父さんが生きてたら、角が生えてカンカンに怒ってたかもしれないわね」

「……飛行機がさ」

「ん?」


 より神妙な口調で塁が切り出すものだから、温子だけでなく付き添いの黒服たちも思わず耳を傾けた。


「飛行機が大七日スタジアムに墜落しそうになった時、親父の顔を思い出したんだ。親父が生きていたら、きっとものすごく悲しんで、怒ってたと思う」

「そうね。お父さん、病気になってからもずっと球場に通ってたもんね」

「不思議なんだ。親父がいなかったらプロ野球選手を目指してなかったと思うし、プロテストも受けに行かなかっただろうし、ゼトライヱに来臨することもなかった。昨日までは、こんな事考えもしなかったのに」


 大きな問題に直面した時、人は思わずたじろいで歩みを止めてしまいがちだ。乗り越えられれば成長できるが、人生というのはそう上手くいくものではない。

 思えば、塁には反抗期なるものが存在しなかった。幸か不幸か、素直すぎる性格が彼に努力する習慣を身につけさせ、これといった失敗を経験させずに彼の人生のレールを敷いていたのかもしれない。

 こういう形で躓くとは彼自身も、そして母の温子も思いもよらなかった。十代の頃に訪れなかった自分の在り方について考える時期が、地球外生命体の再来の日と運悪く重なってしまった。その数奇な巡り合わせが、真っ直ぐな塁を困らせているのだろう。


「……俺、どうすればいいのかな」


 気落ちする健気な我が子を見ているうちに、彼の父がまだ健在だった時の日常風景が温子の脳裏に蘇る。思うように野球が上手くならなくてシュンとなっている塁少年に、夫の武史はよく滔々と語っていたものだ。真面目な話をしているのに母親が小さく笑みを浮かばせるものだから、塁は目を丸くしてとても不思議がった。


「なんで笑うの?」

「あんたって子は、忘れたの? 耳にタコができるくらい、お父さんから聞かされていたでしょ」


 そう温子が答えても、塁は首を傾げるばかりだった。いつの間にか見上げるくらいの背丈になっても、根っこの部分は全く変わらない愛しい我が子。温子の胸の内にあった憂いや不安は既に消え、息子を精神的に支えようとする親心が彼女の口を動かした。


「お父さんはね、こう言ってたと思う。『次の塁を目指せ』って」その言葉を口にした途端、塁の瞳に輝きが戻った。温子は続ける。「プロテストが受けられなかった、ヨルゴスに邪魔された。それだけでプロになるのを諦めるつもり? 来年だって再来年だってチャンスはあるし、社会人野球の強い企業に入ってそこで頑張る方法もある。失敗したり遠回りしても、次の塁を目指すことに意味がある。そういう人間になってほしくて、お父さんとお母さんはあなたのことを塁と名付けたの」


 言った方も言われた方も、親子揃ってすっかり忘れていた子どもの名前の由来。夫婦の野球好きが高じて名付けられたものだが、実際のところ意味は後付けで温子がそういう風に提案し、それを塁の父親がえらく気に入って何度も口にするようになった。

 父親が亡くなり、最近では滅多に耳にすることがなくなった台詞を、温子が代わりに説いたのだ。塁の心に強く響いている様が、母親の温子には手に取るようにわかった。


「今はやるべき事をやりなさい。それが終わったら、野球選手を目指しましょう」

「うん……」


 それから温子たちが二言三言会話をした後、束の間の余韻に浸る間もなく黒服の和泉が「時間です」と告げた。短すぎる再会に不満がないはずがなかったけれど、温子の胸には思いの丈を伝えられたという充足感があった。交わす言葉の数よりも、心で通じ合えることが塁にとって何よりの薬だった。

 じゃあまた、と言って立ち上がる息子の顔の曇りは取れて、色濃く落ちていた影も温子には薄くなっているように感じた。部屋から去ろうとする我が子の背中を眺めていると、温子の胸中には充足感だけでなく物寂しさも掻き立てられた。要するに、志藤温子は根っからの寂しがりやだったのだ。


「あ、そうだ」そんな空気を察したのか、塁は不意に母親の方を振り返って、

「ごめん、予約してたケーキ、取りに行けなかった」と、決まりが悪そうな顔をした。

「また今度、ね」


 その様子が、何とも言えぬいつもらしさを漂わせていたものだから、温子もいつもと変わらぬ振る舞いで一時の別れを告げた。今朝方、実家から息子を見送る際にも涙したというのに、温子はまた同じように目頭が熱くなるのを抑えることができなかった。

 面会室にしくしくと、一人の母親の涙をすする音が響く。黒服の和泉は、彼女を退室させようとする部下を無言で止めた。それが自分にできる最善の行動であると判断したからだ。

 ゼトライヱに来臨した人間、そしてその母親はどのような特性を持っているのか。その疑問は全くの誤りであると和泉は悟った。特別な愛情を我が子に捧げる。そこに特別なものなどあってはならないのだ。

 泣き終わった温子を見送った後、和泉は部下に対して諄諄とそう諭したという。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る