第1.5話 ホームベースに集う

1.5-1 遠ざかる平穏

 その日のテレビ欄はチリ紙のように無意味なものとなった。退屈な報道番組は急遽内容を変更し、再び活動の兆しを表した地球外生命体の情報が垂れ流されている。その生命体が及ぼした大七日市の被害状況を、各局のアナウンサーが繰り返し読み上げている状態だ。

 どこの局も内容は似通っていて、唯一別の話題を取り上げているお気楽なチャンネルもあったが、何やらパニックホラー映画の宣伝のようでこちらも穏やかな様相ではない。だから仕方なく、淡々と確実な情報を伝える国営放送にチャンネルを戻し、今年齢五十になる女は深い溜息を吐いた。

 四人が座れる食卓の台所に一番近い席について、女は次に携帯電話に手をかける。もう何十回と息子の番号にかけているのに、繋がる気配は一向にない。それでも今度は繋がるかもと再度リダイヤルのボタンを押す。女に落ち着く素振りが見られないのは当然だった。今まさにテレビ画面上に映っている穴の空いた球場に、息子が出向いていたのだから。

 ヨルゴスという災害に息子の塁が見舞われて安否がわからない現在、女は大きすぎる不安で心臓が押し潰されそうになっていた。愛する夫が病死した時の哀しみも尋常ではなかったが、それとは全く異なる畏怖の念が彼女の平常心を黒く濁らせている。地方住まいの一軒家で独りのまま。自分が作った料理に舌鼓を打つ在りし日の父子の姿が見えた途端、すぐに現実が舞い戻る。アナログ時計の針の音だけが妙に耳にこびりつく。


女は既にやれるだけの事はやり尽くしていた。球場職員と球団職員、そして救急隊に警察と問い合わせたが、何度確認しても怪我人の中に息子の名前は見当たらなかった。まずは自宅で待機し、息子さんの電話にかけ続けてください。御辛いでしょうが……と、頭を下げた年輩の警官の言葉に彼女は従う他なかった。

 しかし居ても立ってもいられず、女は仏間に行き仏壇の前に座って手を合わせた。これももう、何度目の合掌かわからない。亡き夫に頼る言葉も同じだった。

 お父さん、どうか塁を守って。塁がそっちに行きそうになったら、思い切りこっちに突き放して。お願いだから――。

 その祈りが通じたのかは定かではないが、家の呼び鈴がピンポンと淡白に鳴った。女はドキリとした。息子の安否がわかる報せに違いない。良からぬ結果が頭を過ぎる。立ち上がった際にふらつくも、女はインターホンも見ずに急いで玄関へ向かった。


志藤温子しどうあつこさん、ですね?」


 そこにいた男の佇まいに、温子と呼ばれた女は不審感を覚えた。フォーマルな黒のスーツに目元を覆うサングラス。夜の帳は一時間ほど前に下りている。背丈は息子と同じくらいだろうか、威圧感こそないが一八〇cmを超えれば大柄であることは違いない。化粧品の営業でも郵便配達でもない遅い時間の訪問者。はいそうですが、と怪訝な表情を浮かべて温子は言い、男の言葉を促した。


「こちらにお住まいの志藤塁さんについて、うかがいたい事があります。よろしければ同行願えませんか。ちなみに――」感情のぼやけた男の物言いの後、男の後ろからバタンと車のドアが閉まる音がした。男と同じ黒ずくめの恰好をした者々がこちらに近寄ってくる。「貴方が指示に従わなかった場合、少々強引な手段を取る事になります。それは双方にとって具合が悪い。どうか賢明なご判断を」


 温子は知らぬ間に自身に選択を迫られていることを悟った。それも抵抗するか否かという選択で、どうあがいても同行は必須のようだ。しかし、温子は逆に男に訊ねた。自分より大切な我が子のことで頭がいっぱいだったのだ。


「息子は無事なんですか!?」


 男たちは無言で顔を向き合い、一人が頷いた。事実を伝えた方が得策だろう、と温子には聞こえたような気がした。


「はい。我々の方で身元を預かっています」

「怪我は? 息子は今どこに?」

「所在はお答えできませんが、彼は軽傷です。命に別状はありません」


 息子の情報を耳にする度、温子の胸にあった不安が取り除かれていく。心臓がぼうっと温まって、冷えきっていた手足の先に熱が帯びていく。温子は何よりもまず亡き夫に感謝した。きっとあの人が息子を助けたに違いないと。この目で確かめるまで確信はできないけど、最愛の息子が無事でよかった。ひとまずの安堵感が温子の瞳を潤わせた。


「同行、願いますね」

「……はい」


 最低限の貴重品をハンドバッグに詰め込み、部屋着の上に厚めのカーディガンを羽織った温子は車の後部座席に誘導された。だが、今になって温子は車乗を躊躇った。眼前の黒塗りの車は高級そうというより、分厚いという印象のほうが大きい。乗せる人を守る、もしくは匿うとでもいうような不気味な分厚さだ。冷静に考えてみれば、これはただ単に同行というよりも、闇夜に紛れたもっと禍々しい行いのように温子は感じた。そう、これは拉致というものなのでは……。


「おばさん!」


 男たちに車乗を促されるよりも前に、そのような若い女の声が温子の耳に届いた。ショートカットの髪型で介護士の服装の女は、走ってきたのか息を切らしている。塁の幼馴染である宇都木望うつきのぞみだ。彼女の隣には、もう一人の息子の幼馴染が立っていた。安國泰紀やすくにたいきという名前で柔和な笑顔が印象的な青年だ。彼の方はストライプの入った紺色のスーツを着用している。どちらもかつて同じクラブで塁と一緒に野球をしていた仲良しで、二人とも地元に就職した立派な若者だ。プロ野球選手になるという塁の夢を応援し続けてくれており、塁も彼らと頻繁に連絡を取り合っていたのは温子も知っていた。

 温子の元に駆け寄った望は強気な視線で黒ずくめの者々を牽制した後、そのまま温子の手を握りしめて心配そうに声をかけた。


「おばさん、大丈夫!?」

「えぇ。私は……」

「あ、塁はどうなったんですか? 球場があんな風になっちゃって、全然連絡も取れないし」

「心配しないで。どこかで治療してもらってるみたい」

「どこかって?」

「それが……」


 言い淀んだ温子は、黒服の男に曖昧な眼差しを向けた。望たちはきっと、大七日スタジアムの凄惨な状況を目の当たりにして自分と同じ心境に至り、家が近所だからこちらに徒歩で来てくれたのだろう。双方が見たこともない不安げな表情を浮かべていた。

 泰紀がすぐに気を取り直し、温子を囲う男たちに向けて毅然として告げる。


「この人をどこに連れていくつもりですか? 貴方たちが社会的に認められているのであれば、それを証明した方が身のためですよ」


 泰紀は塁の友人の中でも学業の成績が一際良く、聡明な人物だった。子どもの頃から大人びているとは温子も思っていたが、今ほど頼りになるとは想像していなかった。泰紀という青年もまた、塁と同じく成長していたのだ。

 しかし、事態は好転しなかった。温子たちが気づいた時には、黒塗りの車のライトが志藤家の周囲を照らし、アイドリング音を唸らせていたのだ。男勝りな性格の望も、これには少したじろいだ様子を見せる。


「やばいよ、泰紀。囲まれてる……!」


 背と背を合わせるようにして、望と泰紀はただならぬ事態を察知する。表情こそ変わらなかったものの、泰紀の吐息に緊張が走っていた。

 温子と始めに会話した黒服の男が咳払いを一つして、再び訊ねる。


「志藤さん、こちらの方々は?」

「息子の友人です。古くからのつきあいで」

「ということは、塁さんのことを昔からよく知っていらっしゃる?」

「え、えぇ。それがどうか……?」


 思考の見えない男の逡巡。囲まれた温子たちは、ただその静寂を受け入れるしかなかった。十秒にも満たない間にも、温子は息子の朗らかな顔を思い浮かべていた。

 やがて男は重たい口を開く。


「本当は志藤さんだけの予定でしたが、こうなった以上は仕方ありません。貴方がたも重要参考人として、我々の基地に同行していただきます。お勤め先には我々から一報を入れておきましょう。お二人とも、一身上の都合で退職すると」

「何だって?」

「何の権利があって仕事を辞めなきゃいけないのよ!? そんなのまかり通るわけないでしょ!」


 望が大声を上げて刃向かうと、数人の黒服が自身の懐に手を伸ばした。さすがにばつが悪いと思ったのか、望は叱られた子どものようにそっぽを向いて押し黙った。


「地球外生命体ヨルゴス――」男の妙な切り出し方に、温子と泰紀はおろか望も思わずそちらに顔を向ける。「彼らの活動再開に、志藤塁が何らかのかたちで関与しているとしたら?」


 一瞬だけ、三人の思考が混乱に陥る。志藤塁とヨルゴス、予想だにしなかった二つの関係性を問われては、冷静になって考えろというのが無理な話だ。

 驚いて手で口を覆った温子に代わるように、相槌は泰紀が打った。大人びた彼もまた、珍しく動揺した反応を見せていた。


「る、塁が? まさか、そんな」

「おばさん、ほんとなの?」

「わからないけど……。すぐにでも息子に会わせてもらえるんでしょう?」


 そう訊ねた温子の眼差しは弱弱しいものだった。息子の容態を知っているのは、目の前の怪しい男しかいないのだから。そんな温子の藁にも縋る思いを汲み取ったのか、黒服の男は力強く頷いた。それは彼が初めて見せた人間味のある仕草だった。


「それは必ず約束します。可能であれば今日中にでも。さあ、もう立ち話をしている時間はありません。おい」


 男は仲間を使い、望と泰紀を拘束した。


「ち、ちょっと何すんのよ!?」

「望、今はおとなしくした方がいい」

「あんたは落ち着きすぎなの!」

「僕らは重要参考人なんだ。丁重に扱ってもらえるはずさ。ですよね?」


 腕を掴んできた黒服の一人に泰紀は訊ねる。黒服から返答はなかったが、それは肯定と受け取ってもよいという事だ。未だ抵抗している望を落ち着かせるように、泰紀は静かな口調で彼女に言う。


「それに塁のことも気になる」

「……それはそうだけど、勝手に仕事辞めさせられるなんて意味わかんないじゃん」

「ヨルゴスが動き始めたんだ。むしろ今までが平和すぎたのかもしれない」


 泰紀の言葉を受けて、温子はあらためて息子の塁を想う。

 息子の人生の岐路というべき日に、災害認定された地球外生命体が偶然現れ、地元の人々を混沌の渦に陥れたかにみえた。しかしそれは偶然の出来事ではないと、男はほのめかす。

 父子で掴み取ろうとした、プロ野球選手になるという純朴な夢。それを実現しようとこれまで人生を捧げてきた最愛の息子が、謎の生命体と関与している。到底信じられない話だ。

 何があったか本人に聞いてみるまで、努めて気丈に振る舞わねばならない。たとえこの男たちが悪い輩であったとしても、今は信じるしか道はない。


 どうか志藤温子の冷静さを欠いた判断を責めないでほしい。彼女の判断は大人としてとても正しいとは言い難いが、一人の母親として息子と会うための最適解を選んでいる。

 深い闇夜とともに、志藤塁に関わる三人を乗せた車は厳重な警護態勢を敷いて高速道路を往く。行き先を示す青看板には日本の首都名が書かれている。東京。ヨルゴス対策本部があると言われる土地名を車窓から見て、望はいよいよ泰紀の放った台詞を噛み締めることとなる。

 今までが平和すぎたのかもしれない。先日まで確かにあった平穏な現実は、望の生まれ育った土地とともに段々と遠ざかっていくのだった。

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