1-15 バットは

 瞬く間に戦士の姿になった自らの体を、塁は見つめた。緋色のゼトライヱとは色が異なり、白い光沢を帯びた甲冑の上に、常盤色が疎らに広がったような風貌だった。常盤とは、杉や松などの常緑樹に見られる色合いのことである。無機質でありながらも、どこか柔和な温かみさえ感じるのはそのためだろう。

 そして、視線が地面に遠いと感じた塁の感覚は間違っていなかった。ゼトライヱとなったことで、体がひと回りほど大きくなっていたのだ。ゼナダカイアムの一員らは歓声を上げていたが、塁は彼らほど浮かれていなかった。目的は来臨を果たすことではなく、ヨルゴスを退けること。考えるよりも先に、塁の両脚は動き出していた。


『来臨成功です! 生体情報、P.Z反応ともに異常なし。以降は、新たに誕生したゼトライヱをα―Ⅲ型と仮称します』

『よし、聞こえるか、志藤塁。手短に説明するぞ。まず、お前に格闘技の心得があるか……って!?』

「うおおおぉぉぉ!」

『人の話を聞けぇ!』


 大和の忠告は聞こえてはいたが、走り出した塁は止まろうとしなかった。それには彼の楽観的な訳があって、あまりの速さに驚愕して止まれなかったのと、この速さなら鴉の化け物を捕まえられるか、そうでなくても激突するだろうというものだった。


「おおうッ!?」


 そんな戦意むき出しの体当たりが功を奏すはずもなく、ヤタガラスは翼を使って悠々とそれを躱した。掴みかかった両手が空を切り、塁はなす術もなく車道に積もったコンクリートの瓦礫と衝突した。「がぁッ!」ごつんごつんと、粒の大きな礫がゼトライヱの身体に降り注がれる。


「痛っててて……。あれ? あんま痛くねぇ。つーか、痛くねぇ!」

『たわけ! 何も知らずに突っ込む奴がいるか! 初めてゼトライヱになった者は、しばらく来臨酔いの状態が続くんだ』

「ら、来臨酔い? 何だそれ」

『説明は後だ! 来るぞ、右前方!』

「え? うわッ!?」


 Zレガシーから目を移すと、その方向から折れた道路標識が塁の方に向かってきた。慌てて前転してそれを避けると、塁は改めて翼をはためかせるヤタガラスと相対した。化け物の周囲には、落下物が謎の力で宙を漂っている。ゼトライヱとしてでなく人間としての予測の範疇で、塁は敵の次の攻撃を読んだ。

 三階ほどの高さから、石礫と車の金属片が塁の方へ接近してくる。速度として時速一二〇から一三〇kmぐらいか。避ける方向を選ぶ程度の余裕を持っていた塁は、数ある選択肢の中から横に逃げることを選んだ。駆け出す一歩目、そして二歩目と三歩目と足を運ばせる中で、塁の動揺はさらに膨れ上がった。その動揺を表すように、常盤色の戦士は勢い余って建物の壁に激突する。歩幅から俊敏性に至るまで、何もかもが塁の予想をはるかに上回っていたのだ。

 ヤタガラスの攻撃は止まらない。郵便ポストに銀行の看板、さらに花壇の煉瓦など地面に落ちていた固い物体が飛来し、次々とゼトライヱに襲いかかる。塁は感覚のギャップに苦しみながらも、ヨルゴスの不可解な攻撃に耐えた。嬉しい誤算だったのは、体に飛来物が命中したのは二度や三度ではないものの、怪我を負うような傷は受けなかったことだ。生身の状態であれば危うい当たり方でも、強固になった肉体で衝撃は緩和されていた。


 来臨酔いとはこれの事か。煉瓦を腕で庇いながら塁は悟った。例えるなら、いつも乗っている車の感覚でスポーツカーのアクセルを踏んだ時の驚きだ。あっという間に安全速度を超え、Gがかかって後頭部が座席に張りつく時の驚愕。その圧倒的な性能差に戸惑う感覚と似ている。

 初めはぎこちない動作の塁だったが、その類まれなる運動センスで危険な状況を切り抜けていく。そして感覚のギャップが無くなった時、彼は飛来物の対応を変えた。ただ避けることから、手で軽く振り払うように飛来物をやり過ごしたのだ。鉄くずや煉瓦など、人間の素手では対応しきれない代物でも、この体ならやれる。

 信号機を蹴りで派手に吹っ飛ばし、塁の戸惑いが自信に移り変わろうとした時、さらに襲来する物体があった。それは今までの物より数倍上回る、炎上した黒塗りの車だった。


「うおぉ!? あっぶねぇ!」


 しかし、常盤色のゼトライヱは言葉ほど焦っていなかった。跳び箱を跳ぶ要領で、いとも容易くその危機を免れたのだ。後方で激しく起こる爆発を背中で感じながら、塁はすぐさま次の飛来物に備える態勢に入った。

 このタイミングで来るはずの攻撃が来ない。「!?」塁が不審に思った瞬間、足を滑らせたような奇妙な感覚に陥った。バランスを取ろうとする軸足も空振り、かろうじて行なった受身さえ失敗する。地面に打ちつけるであろう上半身をぎゅっと固くしたものの、それすら徒労に終わった。

 実際は足を滑らせたわけではなかった。虚空に手をかざすヨルゴスを見て塁は状況を把握する。「か、体が勝手に……!」彼の化け物によって、その身を宙に浮かせられてしまったのだ。先ほど柚子香という少女の身に起きた時と全く同じやり口で。

 地上から段々と離れていく恐怖。その悪意に飲まれる志藤塁ではなかった。むしろ、胸中にこみ上げてくるのは憤怒――この恐怖をあの子にも味あわせたのかという敵に対する激情が、塁の中にある力の使い方を目覚めさせたのだ。


「でりゃあ!」気合一番、塁がそう声を張り上げると、浮遊力がかき消されてゼトライヱが地上に着地する。「野球で鍛えた足腰、なめんなよ」地上三〇メートルからの着地で接地した部分が窪んだが、塁は無傷だった。


『大丈夫ですか、志藤さん!?』

「ああ。でも、逃げてばっかじゃジリ貧だ。何か使える武器はないのか?」

『武器ならあなたの腰にあります』塁は腰に手を伸ばすと、それらしき物が指先に触れた。『それを取ってスキルコードを発令してください。音声入力です』

「な、何だって? うわっ!?」

『どうしました、志藤さん!?』

「こ、今度は体が……重い……!」


 それは未体験の感覚だった。体全体に満遍なく錘をつけたような鈍い感覚が塁を襲った。特に下半身にかかる力が凄まじく、足腰の強い塁でも一歩も動けそうにない。しかし、塁はその鋭い双眸でヤタガラスを捉えた。どういう原理か説明しようもないが、これはあいつの仕業だ。浮かせるとは逆の力で以て、自分の体を地上に釘付けにしているのだ。重力という言葉まで辿り着かなかったものの、塁の推測は的中していた。

 そんな塁の視界が、巨大な陰に覆われる。無残な壊れ方をしたバンが、化け物の隣でふわふわと浮いている。先ほどやり過ごした車よりも大きく、すぐにでもこちらに向かってきそうな危険な香りが漂っている。

 同じ気配を察知したのか、Zレガシーから大和司令の声が届く。不安を一蹴するような、シンプルでわかりやすい指示だった。


『臆するな! コードC.Bだ。その棒を持ったまま、強い気持ちでコードC.Bと唱えろ!』

「わかった。いくぜ、相棒! コードC.B!」


 手にした直棒は、塁が想像していた長さよりも随分と短かかった。だが、塁は緋色のゼトライヱが見せた先の戦闘を思い出した。同じ文言を唱えた彼の手に持つ直棒が、姿形を変えて剣の形状になった事を。

 ヤタガラスは手をかざし、宙に浮いたバンを塁に向けて飛ばした。動きを封じられているから躱すことはできない。予断を許さない状況下、目前に迫る飛来物を凝視した志藤塁の頭に一筋の閃きが舞い降りる。

 刹那、パァーンという波長の長い破裂音が壊れた町並みに響き渡る。バンはもの凄い勢いで弾き飛ばされ、五〇メートルほど離れた建物に衝突し、横転した状態で停まった。窓は粉々に砕け散り、胴体が折れ曲がってくの字にひしゃげている。浮遊するヤタガラスも、その有様を振り返って見ていた。


 常盤色のゼトライヱが機転を利かせたのは一目瞭然だった。しかし、ゼナダカイアムの隊員たちは歓びと仰天に見舞われた。モニターに映る英雄、その手に持つ武器の異質さに目を奪われてしまったのだ。

 柄のような部分はあるがいわゆる剣、ではない。先の方になるにつれ太くなり、先端は切り落とされたように真っ直ぐで、全体的に丸みを帯びた形状。そして志藤塁のあのフォロースルー。「馴染むぜ、このグリップ」たとえ直棒がどのように変形しようと、塁の手の運びは必ず左手が上で、また踏み込む足は右足だっただろう。左打者の塁にとってその所作はあまりに当然であり、かつ自然な身体の使い方だったのだ。


『あ、あの形状は……』

『クリティカル・ブレード……もとい』席が隣同士の小向隊員と蓮見隊員が目を丸くしてそう呟く。コードC.Bとは、ユリウスが命名した白兵戦における近接武器のスキルコードだが、奇しくもBの部分が上手く言い換えられるとは、誰も予想していなかっただろう。


『クリティカル・バット……!?』


 大和司令ですら困惑してそう声を漏らす。はっきり言って異常事態だった。これがゼトライヱと成りし者の素質、これが適合者たる所以と言えばそうなのかもしれないが。湧いてくる疑問や感情を払いのけ、大和司令と隊員たちは取り直す。脅威はまだ去っていない。


『い、いや、これはこれでアリかもしれません。戦闘経験がなくても、バットならそれなりの威力が期待できますし』

『問題は、ヤタガラスにどうやって近づくか、じゃな……』

『よし。聞こえるか、志藤塁。あのヨルゴスに近づく方法はこちらですぐに考える。お前は奴の体に一撃ぶち込むことだけに集中しろ』

「いいや」


 バッサリと塁は切り捨てた。我の強い大和優子であったが、彼女の口の動きを止めるもの――殺気めいた彼のただならぬ気配――を、Zレガシー越しから敏感に感じ取っていた。


「バットは殴る道具じゃない……」

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