1-14 来臨

「司令、松本空港管制塔より入電! 大七日市上空を飛行中の旅客機が、制御不能に陥っている模様!」

「何だって!?」


 大和司令は瞠目して思わず声を荒げた。レーダー上で点滅移動する物体が、六波羅隊員たちのいる地点に段々と近づいている。声を震わせながら蓮見隊員は続ける。


「高度を急激に下げ、こ、このままでは、墜落は免れないと……!」

「まさか……」


 そう声を漏らし、大和司令は黒いヨルゴスに目を移す。右腕を天に掲げたその姿は、人に代わって地球を牛耳る新たな支配者のようにも見えた。


「ヤタガラスが干渉しているとでも? 馬鹿な!? 何トンあると思ってるんだ!?」

「断定できんとはいえ、奴の仕業とみて間違いないでしょうな」

「強くなっている……。昔よりも確実に」


 眼帯をかけた麦島隊員が低い声でそう呟く。旅客機ほどの大質量の物体を操作する力、しかも強制的に制御を掌握できる力ともなれば、それは脅威という表現ですら危ういものとなる。人類が抗うことのできない、生物的に服従せざるを得ない存在。地球外生命体ヨルゴスは、たった十数年で人間の築き上げた歴史を蹂躙しようとしているのか。


「軌道予測でました! 墜落地点は大七日スタジアム! 墜落まで……たった今、五〇秒を切りました」


 小向隊員の声で大和司令は我に返る。絶望に打ちひしがれるまでの懺悔の時間なのか、それとも希望を手繰り寄せるための僅かな猶予なのか。大和優子にはそれがわからなかった。少なくとも今ある事実として、現場にゼトライヱと呼ばれる英雄の姿はなく、いるのはその一部を授かった才ある若者だけ。才能や素質だけでは、ヨルゴスと戦うことはできない。


「司令、わ、我々はどうすれば……。司令、大和司令!」


 行き場を失った蓮見隊員の問いかけが虚空を彷徨う。一刻の猶予も残されていないというのに、大和司令の思考はぴたりと停止してしまった。上の立場の人間としてあるまじき沈黙だった。

 旅客機は無情にも、大七日スタジアムめがけて滑空を続ける。墜落まであと四〇秒。

                 ***


 自身の死が目前に迫ったとき、流れる時間の速さが緩やかになり、それまでの人生で印象的だった情景や記憶がその人の脳内を駆け巡るといわれている。

 金切り声と怒号の入り混じったような轟音を上げながら、旅客機は建造物を掠める勢いで塁の頭上を通過する。死の怖れは不思議と感じていなかった。自分が死ぬことよりも嘆かわしい現実を迎えることが、塁の心臓を強く締めつけた。深い絶望の眼差しで、彼は飛行機の尾翼が遠ざかるのを見つめた。その向こうには煙を上げた大七日スタジアムがあった。


 志藤塁は想起していた。今は亡き父親とあの球場へ足を運んだ日々を。照明塔に燦然と照らされた、選ばれし者だけが立つことを許される扇形のステージ。活気あふれる歓声や応援歌。妙に耳に残る売り子の声。バットの乾いた音と、夜空を飛んでいく白い球。点が入った時の、張りつめた空気が一気に爆発するその瞬間。そして、隣の席にはいつも父親の姿があった。

 手には使い古したメガホン、肩にミニカンフーバットをぶら下げるのが父親の応援スタイルだった。攻撃の回になると立ち上がり、嗄らした声で打席に立つ選手の応援歌を口にする。お気に入りの選手が凡退したら選手以上に悔しがり、ヒットを打ったら周りの観客にハイタッチを求める。贔屓のチームにホームランが出たらビールを注文できる(二本まで)というのが、母親から与えられた志藤家のルールだった。赤ら顔で足元のおぼつかない父親と、野球談議をしながら家路につくのが塁の密かな楽しみの一つだった。


「や……やめろ……」


 危ぶまれる乗客の命。大七日市に及ぶであろう甚大な被害。だが、それらの犠牲が生じる直近の未来に対し、後悔の念に苛まれる塁の姿はなかった。そのような高尚な想いを抱く前に、利己的とも言える純粋な想いが彼の心を不安の一色に染めていたからだ。

 あるのは単なるエゴ。野球を愛する心と、その絆で紡がれた亡き父親との思い出。あの球場には、志藤塁という人間を成す全てが詰まっている。その場所が今、異星人の凶行により破壊されようとしている。あってはならない悲劇だった。

 災厄が降りかかるのを抵抗できず、悲痛な叫び声を上げるだけの無力な人間。そう、志藤塁はただの人間だった。偉大なる英雄の一部位、それを身につけた右腕を、災厄に向かって伸ばすまでは。


「やめろおおおおおぉぉぉぉぉ!!」


 塁の想いは風に乗り、鋼鉄の翼に届いた。旅客機はクンと機首を上げてスタジアムの天井をすれすれで通過し、真っ青な晴天を仰いで高度を上げていく。まるで一匹はぐれてしまったお騒がせな渡り鳥が、群れの中に帰るような慌ただしさだった。

 奇跡は起きた。その光景を見届けた誰しもがそう思ったが、塁は直感した。そうではない、のだと。

 降りかかる災厄、迫り来る異星人。それが一体どうしたというのか。自分の愛する夢を、希望を汚そうとする奴は、何人たりとも許さない。塁の熱き想いに呼応するかの如く、英雄の右腕が輝きを取り戻す。


『志藤塁! 今こそ汝の力を解放しろ!』


 猛々しい男の咆哮。言われるまでもなく、塁は心身を研ぎ澄ます体勢に入った。雑念の入り込む余地のない、心と身体が最高潮の充実を迎えるシーン。自分にとってそれは――。


 球児なら誰もが目指す夏の甲子園決勝、その夢の舞台に自分は今立っている。スコアボードにはゼロが並び、息詰まる投手戦で試合は終盤にもつれ込む。そして、0対0の同点で迎えた九回裏2アウト満塁の状況で、自分に打席が回ってきた。応援席にいる学生たちが野球の神様に祈りを捧げる中、ボールカウントはとうとう3ボール2ストライク。破れかぶれと沈着冷静の瀬戸際で、打席で行なうルーチンは絶対に欠かせない。

 左打席に立つのをイメージした塁は、半身に構えて重心を左に寄せる。右腕をぐるりと回し、バットを立てたような態勢でマウンドに佇む投手――鴉の化け物――を鋭く睨む。そして、前に差し出した右腕をしならせながら胸の前を通過させ、左打者のような構えで緊張の一瞬を待ち迎える。


「来臨……」


 身体が熱く疼きだす。けれど悪い感じはしなかった。程よい高揚感が鼓動を知らせ、にわかに世界から音が消えたような感覚が訪れる。ああ、良い結果が出る時の感じだと塁は悟った。ボールの方からバットの芯に乗っかってくれる不思議な感覚。芯で捉えた時のインパクトの瞬間を思い描きながら、塁は自身の左腕を勢いよく前方に突き出した。


「ゼトライヱ!」


 塁がそう叫ぶと、左腕が発光し、右腕と全く同じ形態に変化した。同様にして両脚も胴体も、そのうえ頭部までもが強く生まれ変わっていく。己の身体に大いなる存在が宿ろうとしている。でも、今度は怖れない。たとえ奇異な容姿になろうとも、自我は変わらず志藤塁のままでいられたのだから。

 ここに、白金と常盤の光を帯びた新たな英雄、ゼトライヱが来臨したのだった。

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