1-7 黒い生物

 すっかり心を開いた少女が、横断歩道越しに元気よく塁に手を振る。隣にいたおばあさんもペコリと頭を下げてくれた。塁も自慢の大きな声と身振りでそれに応えた。あの子の母親が安産でありますように。初めて自分のサインをもらったあの子が、将来自慢できるくらいの選手にならないとな。塁の心は一片の淀みなく澄みきっていた。

 塁は大七日スタジアムの方を向く。プロテストは言わば就活だ、結果の是非で人生の道筋が決まると言っても過言ではない。ドラフト会議で球団に指名されなかった者たちにとって、プロテストが最後の希望なのだ。その往路では、不安や緊張を募らせる者が多数を占めるだろう。成功するイメージを持てと言われても、失敗の二文字を浮かべてしまうのが人というものだ。

 そういう意味では、志藤塁は他の参加者よりも精神的優位に立っていた。土壇場や逆境における彼の勝負強さは、本人ではなく周りの人間が誇らしげに語るほどだった。人の話は誇張的になりがちだが、彼の勝負強さを証明する数値が残っている。大学在学時四年間の、志藤塁の八回以降の打率は――少々細かすぎるかもしれないが――一一二打数の一〇一安打、なんと九割を超えていたのだ。

 あまり野球を知らない人に説明しておくと、打率というのは大体二割から四割の間を行き来するもので、九割というのは少し考えられない数値なのである。しかし、打率の異常さに隠れがちだが、もっとも注目すべきはその打数の多さだ。試合の終盤及びビハインド時に、必ずと言っていいほど志藤塁という打者に打席が回り、そして結果を残す。名のある強打者ならば敬遠されるケースでも、無名の学校だからと相手バッテリーが勝負してくれたからこそのデータでもあるが、抜きんでた数値であることに変わりはなかった。

 プロテストという最後の希望。それを掴む確信のようなものを塁は持っていた。体の内側から滾る高揚感、いっそアップ代わりにでも球場まで走って行こうか。信号が青く灯るのを今か今かと興奮して待ち構える塁の姿がそこにあった。


 だからこそ、彼は人より早く周囲一帯の異変に気がついたのかもしれない。十秒、二十秒。それだけ経っても信号の色は変わらないままだった。交差点に進入せず、ただ停止線の前で停まる自動車の列。次第に列が長くなり、段々と車を運転する人たちも怪訝な顔を浮かばせる。ごく普通の長閑な静けさから、妙な静けさへと空気が移り変わる。

 信号機の故障だろうか。大半の人々がそう思ったことだろう。だが、時の経過は人の記憶を薄れさせる。地球外生命体の出現時になると、一帯のあらゆる電子機器が麻痺を起こすといった情報を、塁を含む周囲の人間が思い起こすことはなかった。

 塁の傍で停車していたスポーツカーが、しびれを切らしてけたたましい排気音とともに交差点内に進入する。道路交通法的にはよろしくないが、後続の車もそれに続いてゆっくりと発進したその時だった。塁の目に信じられない光景が飛び込んできたのだ。


 加速したスポーツカーが前輪部を上げて、まもなく後輪部もアスファルトから離れて空中を走り出した。ブレーキランプが点灯しているが、タイヤと地面との摩擦がなければもちろん車は停まれない。スポーツカーは空中に浮かびながら、なす術もなく近くの雑居ビルへと突進していく。塁は思わず目を逸らした。聞き慣れない鈍い和音が町並みに轟く。固い物体が激しくぶつかり合う衝突音、勢いよくガラスが割れる音、虚しく鳴り続ける車のクラクション。スポーツカーは窓を突き破り、ビルに突き刺さったようなかたちで強制的に停まっていた。後輪部は宙に浮き、砕かれたビルの破片がぱらぱらと歩道に落ちている。

 塁はしばらく固まってしまった。茫然として何もできなかった。魔法や超能力の類を目の当たりにしたような気分だった。誰もがその光景に目を奪われる中、驚嘆の声はまた別の場所を指していた。


「お、おい。あれ……!」


 歩行者が指差したのは交差点、そう、人も車も通っていないはずの交差点の中心だった。それは、その面妖な黒い生物は、何処からともなく姿を現した、まるで何事もなかったかのように。


「ヨルゴス……?」

「まさか、被り物だろ? ……やっぱ本物なのか?」


 しかし、目撃者たちは疑心暗鬼だった。奇妙な現象、そして奇怪な生物を目の当たりにしてもなお、危機感が彼らを脅かすことはなかった。巨大な鴉のように見えるその生物も動く気配がなく、また敵意も感じられない。交差点の中心に佇む姿は厳かな彫刻像を彷彿とさせ、人々の目を奪った。志藤塁もまた、他の者たちと違わずその黒い生物に釘付けになっていたのだ。乾いたクラクションは未だ虚しく鳴り響いている。

 変化があったのは列を並べる自動車の方だった。変化、というにはあまりも現実離れした現象であったが。

 ビルに突き刺さったスポーツカーと同じように、信号待ちの車は次々にアスファルトを離れ、見えない糸で垂らしたかのようにふわりと浮遊しだしたのだ。周囲から悲鳴が上がる。それから長閑な町並みが阿鼻叫喚と化すまでは、ほんの数瞬の出来事だった。無造作に浮かせられた自動車は、何もしなければその場に浮かぶだけで、もしかしたら無事だったのかもしれない。だが、何とかしなければという衝動を人は抑えることはできない。アクセルペダルを踏むというのが彼らにとって唯一の能動的動作ではあった。しかしそれは同時に、この状況下で最もしてはならない行為だったのだ。

 それぞれボンネットが向く方向に、自動車は空中を滑走する。制御しようと誰もがブレーキに足をかける、停まる気配がないので泡を食ってアクセルを踏んだり、ハンドルを切ったりする。自動車は有らぬ方に加速する……。


 壁や建物に激突して浮遊力を失う自動車。重力が働いて否応もなく鉄の塊がアスファルトに落下する。痛々しい悲鳴が至る所で起こり、通行人の動揺を大いに誘う。塁がいる場所の斜向かいでは、横転した車が既に炎上している。後ろを振り返ると、それよりも大きな火柱が濁った煙と共に昇っていた。その場所が甚だ危険であることは火を見るよりも明らかだった。しかし、ヨルゴスと思しき黒い生物は至って不動のままだった。

 その時、塁はハッと思い出したように反対側の歩道を向き直した。あの子とおばあさんは――。二人とも無事のようではあった。お互いがお互いにしがみつく格好で、恐怖に怯え身体の自由を失っている。歩道に立ち往生していては、いつ危険に見舞われてもおかしくない状況だ。現に二人の十数メートル後方には、車との衝突で剥がれた居酒屋の看板の破片が、激しい音を立てて崩れ落ちている。

 無理にでも車道を横切って物陰に誘導するべきか。塁が逡巡する時間はあまりにも少なかった。


 スーツを着た男性が困惑した声を上げ、大七日スタジアムの方を指差す。悲愴な叫びの連続は今までで一番のものだった。大型車――タンクローリーが二階の高さほどの高度を保ちつつ、横倒しになって浮遊しているのだ。後輪が激しい勢いで空回りしているが、車体は浮いているままの状態を維持している。何かがおかしいと塁は直感した、それも悪い意味の方だ。その予感は不幸にも当たってしまった。

 突然、宙を浮いたタンクローリーは横倒しの状態を維持したまま、塁のいる交差点へとかなりの速度で接近してきたのだ。高度は徐々に低くなっているようにも見える。運動神経の良い塁でも、あまりの驚きに尻餅をつくのがやっとだった。

 迫りくる巨大物が塁の視界を覆う。しかし、その軌道は僅かに高い。頭上を通過する大型車両に戦慄しながらも、塁は九死に一生を得たと安堵していた。それも束の間、タンクローリーは街路樹を薙ぎ倒しながら浮遊力を失い、横を向いたままアスファルトの地面と擦れ合う。火花が激しく散ってもなお、動きが止まる気配はない。タンクローリーは火柱の昇る場所に突っ込んでいく。


「危ない! 伏せろーー!!」


 向かいの歩道で立ちすくむ少女と老婆に、塁がしてやれるのはそう叫ぶことだけだった。走って身を庇う猶予などありはしなかった。

 街路樹の陰に隠れた塁は、頭部を両腕で庇い土の地面にうつ伏せになる。その直前か直後か定かではないが、塁はヨルゴスと思わしきあの生物と一瞬目が合ったのだ。それだけは鮮明に覚えていた。いや、それしか記憶に残らなかったという方が正しい。

 耳をつんざく爆発音、唸るような凄まじい衝撃波、そして背を焦がすような熱波。意識が遠のく間もない状態だったが、塁がかろうじて思考したのは、あの二人の身を案じる思いやりの心だった。大七日スタジアムへと向かう街路樹の綺麗な公道は、こうして無残にも火の海に包まれたのであった。

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