1-5 マヴロス

 大七日市の外れの一角、都会と違ってまだ空が広く見える町並みの一つに、平凡なビジネスホテルが建っていた。その薄暗い一室で携帯電話の着信音が鳴り響く。デジタル時計は午前一〇時一四分を指している。カーテンの隙間から漏れる陽光の線を横切って、男は机の上の携帯に手を伸ばした。


『やあ、久しぶりだな。コバヤシ』


 受話器の向こうの低い声の主は男の知人だった。彼は男のことをコバヤシと呼んだが、それは偽名だ。別れ際に男から渡された伝達機器。どこかで捨ててしまおうかとも考えたが、この世には義理というものがあると男は学び、それを試みたまでであった。

 コバヤシの方から用はないので黙していると、知人は気にせず悠然と話し始めた。


『君の協力によって、我々の研究は大いなる進歩を遂げた。いや、進化、と言うべきかな。偉大なる先人が辿り着けなかった種の行く先、宇宙の真理を垣間見たような気がするよ。惜しむらくはコバヤシ、君が我々のもとを離れてしまったということだ。神の遣い手たる君がいなければ、人類は再び導きを失い、暗闇の森を彷徨うことになる』

「捻りのない冗談だな。俺の居場所はわかっているんだろう?」


 カーテンの隙間に目をやりながらコバヤシは言う。尾行されている気配はなかったが、知人がそう易々と自分を見逃すはずもないと彼は確信していた。この携帯電話、もしくは自分の身体にでも居場所がわかる装置を埋め込まれたのであろう。居場所を知ることも知られることも、双方にとって取るに足らない事項だったのだ。

 電話越しの知人も、コバヤシの鋭い反応は予想の範疇という口振りだった。


『見当はついている――というのも野暮な話か。ヨルゴスの力は人智を超えるが、人類が生み出した科学もまた、神の力に近づきつつあるのだよ』


 知人の声は自信で溢れていた。だが彼の言うように、道具を介して言葉を交わすことができる人間という生物の脅威を、ヨルゴスであるコバヤシは認めざるを得なかった。蒼い星の食物連鎖の頂上に君臨するヒトという種。科学という概念で己の存在以上の力を持たんとする生命体である彼らに対し、コバヤシは――男の姿をしたヨルゴスは危機感を持った。支配下に置かれるという危機感ではない。彼らの内に潜在するゼトライヱが、はたしてヨルゴスという種にとって善悪のどちらなのか、わかりあぐねているという危機感だった。


『コバヤシ、今一度君に問おう。私と共に地球の支配者になるつもりはないかね。私が動かずとも、愚かな人間はいずれ核を使い、この星ごと滅亡の一途をたどる。そうなるのは君も不服だろう? 君の力とゼトライヱがあれば、ヒトだけが滅びる兵器を創り出すのも可能なはずだ』

「悪いが、断らせていただく」男の返答は早いものだった。そして眉根を寄せて続ける。「しかし言葉というのは不便なものだな。相手に本意が伝わりづらい。それに貴方の本意もまるで伝わってこない」


 コバヤシは言葉の本質を早い段階で見抜いていた。言葉には本音と建前の二つがあるという事。そして口達者な者は後者を会話の中で散りばめてくるという事だ。信用における人間は誰一人としていなかった。それでもコバヤシが譲歩するかたちで互いに情報提供をし続けたのは、多少のリスクを覚悟した上で互いの利益を追求した結果に過ぎなかった。


『フッ。交渉は決裂というわけか』


 男もコバヤシの返答はわかりきっていたようだ。引き留めることもなく静かに退いた。


「チーフ、ヨルゴスである俺に情報を提供してくれたこと、深く感謝している。礼といっては何だが、ひとつだけ教えておこう。我々ヨルゴスの目的は、地球の支配や侵略などではないのだよ」

『では何だ? 宇宙の、かね?』

「……やはり、言葉というのは難しい」


 この何年かで、言葉の使い方にも箔が付いてきたコバヤシだったが、巧みな話術を操る人との駆け引きは無理があったようだ。一部の人間が持ちうる、惑星間を超える生存本能や闘争本能は持たざるべきだと説くには、彼にはまだ早すぎた。

 口を噤んだコバヤシに対し、チーフと呼ばれた男の口調は実に軽妙なものだった。


『無理に聞き出そうとは思わんよ。そういう契約のはずだ。しかし、この電話が切れた瞬間から、私と君は同志ではなくなる。地球を愛し、思慮深い異星人と交流ができなくなってしまうのは、一個人として非常に残念だ』

「……やっと貴方の本意が聞けた気がする。言葉というのは不便だけれど、挨拶の文化というのは素晴らしいものだ。だから、最後は別れの挨拶で締めくくろうと思うのだが、どうかな?」

『それは良いアイディアだ』


 コバヤシの提案をチーフは快く受け入れた。コバヤシは片方のカーテンを開け、陽に向かって告げる。


「ではまた、生きていたらまた会おう。さようなら、チーフ」

『さようなら、


 その瞬間、閑静な町並みに爆発音が響き渡る。コバヤシが覗いていた窓は跡形もなく、轟音が反響し、濁った黒煙だけがモクモクと立ち昇っている。ホテル周辺には次第に人だかりができて騒然となり、何事かと視点が一箇所に集中する中で、コバヤシはその様子を俯瞰していた。

 爆発の中心にいたはずのコバヤシだが、危険を察知し爆発による被害を免れていた。そのうえ、上空に浮遊するその姿は、もはや人の名前で呼ぶには不相応な変貌を遂げていた。漆黒に生える翼、鋭利な嘴と鉤爪、隆々たる三本足。鴉に似た姿でありながら、鴉と呼ぶにはあまりに人間じみた身体のつくり。「何者か」と問われれば、それはあの生命体の呼称を答えずにはいられまい。そう、ヨルゴスだ。


「これが人間、か……」


 しかし、そんなヨルゴスの発した言葉は、ヒトが持つ哀愁さえ漂わせるものだった。

 裏切るという行為を容易く行う人間。蒼い星を生き抜く上でそれは当然の行為だとしても、彼らに対して哀しみや落胆の感情を覚えずにはいられなかった。そして鴉型のヨルゴスは思う。彼らの知能の根源とも言えるゼトライヱが、はたして自分たちにとって何をもたらすのかと。猛り昇る黒煙に自らの疑問を投げかけていた。

 その時、彼の内なるところから声が届いた。


――マヴロス

「見ていたのか、コルディズマ」


 何事もなくコバヤシは――マヴロスは虚空を見つめて返答する。便宜上の偽名は塵埃のように無価値なものとなった。彼らの伝達方法は、人の科学とやらを軽く超越したやり方だった。テレパシーという、昔からある言葉でしか説明できないものをヨルゴスは扱っていた。


――そろそろ始めようか

「遂に……遂にこの時が来たのだな」


 マヴロスの内なる声には感慨深いものが秘められていた。感情の芽生えはともかくとして、ヨルゴスという種の待ち望んだ時空の到来がこの瞬間にあったのだ。


――そう。今までは始まりですらなかった

「我々ヨルゴスの夜明けだ」

――アノイトスも準備を始めている

「あいつの悪趣味にはつきあってられん。俺は俺の使命を全うする」

――君らしいね。じゃあ、健闘を祈っているよ

「ああ。全てはゼトライヱのために……」


 そう言い終わると同時に、マヴロスは煙が昇る方に背を向け、目にも止まらぬ速さで飛び立った。人の作りし建造物のはるか上空、障害のない空中を切り裂く光芒のように羽ばたいていく。円い形をした巨大な建造物が何よりの目印だった。自らに宿るヨルゴスの力と微かに感じ取れる眠られしゼトライヱ。どちらかが眩い光を放つのなら、もう一方が惹かれるように呼応するという確信がマヴロスにはあった。ならば選択の余地はない。

 だが、マヴロスはこうも予見していた。二つの強大な力が惹かれあう時、何か良からぬ事態を招いてしまうという事も。すなわち、大いなる力の発現は相応の犠牲の上にしか成り立たない、という事も……。

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