第1話 ゼトライヱ、来臨す

1-1 青年の名は

 そこに一人の青年が正座し、目を瞑って手を合わせていた。い草と線香の香りが混じった仏間にて、穏やかな面持ちで鈴の音が響き終わるのを待っている。一般的な日本の家庭においては、さほど珍しくもない光景だった。だが、そんな平凡な仏間に、青年の剛直な想いがひしひしと充溢しているというのは稀であろう。仏壇の上には初老の男性の遺影があり、青年は静かに開眼すると、その遺影を見上げて口を開いた。


「それじゃあ親父、行ってくる」


 並々ならぬ熱情がこもっていた。少しの強張りとおよそ尋常ではない高揚感。青年は立ち上がる。両親から授かった恵まれた体格、努力によって培われた全身の筋肉、頭のほうは無難であると自負している。何もそこまで似なくたって、とは彼の母親の口癖だった。

 いつの日からか背丈より小さくなった障子をひょいとくぐり抜ける。居間にはその母親が、テレビ画面をじっと見つめていた。


「次のニュースです。今日午前六時三十四分ごろ、山梨県大月市にある中央自動車道の下り線で事故が相次ぎ、警察は事故の対応を急ぐとともに、当時の現場状況について詳しく調査を進めるとしています」


 中央分離帯を乗り越えて対向車線にはみ出る自動車、ガードレールを突き破って前輪を高架下に覗かせる大型トラック。黒い煙が辺りに立ち込め、交通事故の生々しい様相を物語っている。通常の玉突き事故とは異なる不可解な映像に青年は目を疑った。真冬なら考えられなくもないが、今は九月だ。


「また、事故を起こした運転手や付近に居合わせた発見者らの証言によると、『走行中に車が浮いた』という趣旨の証言が多く、警察は地球外生命体ヨルゴスが関与している可能性があるとして――」

「なな何と! 今週末に世界最速で先行試写会が行われる、映画『メガクライシス』のホアン・マクレモア監督が急遽来日することが各メディアに伝えられました! 『メガクライシス』は臨場感あふれるゾンビ映画で注目を集めており――」


 事故の映像から今話題のゾンビ映画の宣伝に切り換わり、テレビ画面はそこでブラックアウトした。リモコンを持った母がふうっとひとつ溜息をつく。普段は鈍い青年だが、これは自分に対する配慮だろうと感じ取った。

 地球外生命体ヨルゴス。西暦二〇〇〇年に日本とアメリカを中心に襲来した未知の生物。〈ヨルゴスの来寇〉と称された彼らの真意は、侵略とも斥候とも言われているが未だ解明に至らず、二十一世紀の夜明けに紛れるようにぱったりと姿を消したとされていた。

 それが今日この日、青年の人生の岐路に再び彼らが姿を現すなんて……。だが、青年は謎の生命体の事など気にする素振りも見せず、母親に対してこう告げた。


「母さん、じゃあ俺行ってくるけど、赤飯とか炊かなくていいからな?」

「あら、そしたらケーキは――」

「ケーキもいいってば」

「予約してあるから帰りに取ってきてちょうだい」

「予約済みかい。万が一落ちたらどうすんだよ……イテテテ!」


 母親は青年の頬に手を伸ばし、ぐにっとそれなりの強さで抓った。この家庭の方針として、意気地のない発言をするのはよろしくないとされていた。それは息子に限らず、母親も生前の父親についても平等だった。


「弱音を吐くのはこの口かい? お父さんがいたら往復ビンタされてたわよ」

「プロテストを前に、息子を痛めつける親父がいるかよ」


 居間の壁に掛けてある親子の写真を見る。お揃いのユニフォームが泥だらけで、二人とも弾けるような笑顔だった。青年の原点はここにあり、それは今後も変わることはないだろうという確信があった。

 頬を抓る力が弱まり、母親は目線より上にある息子の肩に手を添える。


「そうね。お父さんと一緒に目指してきた夢だものね……」

「まあな」


 亡き父の悲願を受け継ぐなんて時代遅れなのかもしれない。しかし青年は、白球を追いかける感動と情熱のままにこれまでを生きてきた。目に見えぬ重圧などもろともせずに、前だけを向いて努力を重ねてきた。大事な時期に怪我を招いてしまい、大卒ルーキーとして球団から指名を受けられはしなかったが、噂に聞いたところスカウトの評判はかなりのものだったそうだ。

 これから商売道具となる荷物を肩にかけ、青年は玄関でくたびれた運動靴を履く。スパイクは昨晩、抜かりなくピカピカに磨き上げたから問題ない。ポケットの中から着信音が鳴る。まるで示し合わせたかのように――いや、というか示し合わせたのだろう、二人の幼馴染から九時ちょうどにメッセージが送られてきた。


『ヒヨるんじゃねーぞ』

『結果がわかるのは五時くらい? 良い報告を待ってる。グッドラック!』


 ちなみに前者の飾り気のないほうが女子の、後者が男子の幼馴染のものだ。それぞれ拳骨とグローブの絵文字、それにサムズアップとバットの絵文字が使われている。望も泰紀も粋な計らいをしてくれる。青年の顔が自然と緩んだ。

 応援してくれる彼らのためにも夢に向かって突き進みたい。夢の向こうには、さらに実現し難い夢がきっと待ち受けているだろう。だけど、どんな苦難も乗り越えていきたいと強く思う。ひたすらに純粋な青年の想い。おそらくそれが、彼を応援する人たちに呼応して熱を帯び、進み行く道を良き方に向かわせるのだ。


「いってきます!」

「いってらっしゃい」


 息子の頼もしい背姿を映した母親の目が潤む。見送る言葉が涙声で詰まらずに済んでよかったと。まだ親子の夢が叶ったわけでもないのに、母親は心の中で一抹の安堵を覚えていた。

 お父さん。あなたが手塩に育てた息子は立派に飛び立ちましたよ。あの子ならきっと受かってきます。なんたってお父さんの息子だもの。――そのあとしばらく玄関で泣き続けた母親のことを、青年は知る由もない。

 青年の名は志藤しどうるい。子どもの頃からの憧れだったプロ野球選手になるべく、晴れ渡る晴天の下、思い出の球場へと向かっていた。

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