幕間1 回想録

姫ちゃんが渡辺純一を好きになるに至る長い経緯―――姫紀side

第1話「私の姪っ子」


 お姉ちゃんに子供が出来たことは知っていたのだけれど、吉沢当主の監視もあり会うことはできなかった。


 でも、たった一度だけチャンスがあった。


 私のそれまでの人生で唯一心を許した高校の担任の先生の犠牲を以てして。


 それは私が多胡中央学園に生徒として通っていた頃のこと、17歳秋。



「会って来なさい」


 私の恩師である担任の野々村教諭はただ一言そう言った。


 ―――ひと目でいいから姪っ子に会いたい。


 友達もおらず、今まで誰にも相談できなかったのに、私はつい口を滑らせて言ってしまったのだ。


 他の教師は私が吉沢本家の人間ということを知ってか、知らいでか、腫物を触るように私へ干渉するようなことは無かったが、この先生だけは度々声を掛けてくれていた。


 それまでは差しさわりのない挨拶程度で済ませていたのに『困ったことはない?』と、余りにも聞いて来るものだから、つい口を滑らせてしまったのだ。


「そんなこと……おじい様は絶対に許してくれません」


「黙って会いに行けば良いじゃないの」


 そろそろ初老に差し掛かろうとしている、中年の女性教師が簡単に言ってくれる。


 そんなに簡単に監視の目を掻い潜れるのなら、今まで何の苦労も無かっただろう。


「監視の目はそんなに甘くはありません」


「なら、一日だけ学校を休んで行きなさい。出席はつけてあげますので抜け出して行くのならバレはしないでしょう?」


「―――えっ?」


 野々村先生がいともあっさりそう言ってのけたとき、私には忘れかけていた希望や期待といったキラキラとしたものがこの目を輝かせた。


 

 その後、お昼休みに周りに誰もいないことを十分確認して、学校の公衆電話から急いでお姉ちゃんに電話をした。


 電話先でお姉ちゃんはすごく喜んでくれたし、私も姪っ子に会えることが嬉しくてしようがなかった。


『もうすぐ恭子の保育園で遊戯会があるから、その時に見に来てくれたら最高だわ』


 その日は私の学校も定期試験の前で自主学習期間なので出欠確認も担任だけということもあり、尚のこと都合が良かった。


 私はホームルームの後で野々村先生にそのことを報告し、深々と頭を下げた。


「貴方は何も心配しなくていいのよ。可愛い姪っ子ちゃんに会ったときにどんなお話をするかだけ考えてなさい」


 そう言って、彼女の両手は私の手を優しく包み込んだ。



 そして当日を迎える。


 黒塗りの車で学校まで送られた私は、教室へは行かずにトイレに駆け込んで私服に着替えた。


 そしてホームルームが始まるまでそこにいて、廊下に誰もいなくなった頃を見計らってトイレから抜け出す。


 誰にも見つかりませんように。


 そう祈っては学校玄関へと足を運んだ。


「吉沢さん」


 だから、誰かからそう声を掛けられた時に私は『終わった……』と、落胆が先走ってしまった。


「良かった、間に合ったわ」


「野々村先生!?ホームルームじゃないんですか?」


「生徒たちには待ってもらっているわ、それより急いで裏門に向かいなさい!早く急いで!」


 何が何だかわからなかったが、急かされた私は裏門へと駆けだした。


 そこに停まっていた一台のタクシー。


「吉沢さんですね?お姉さんから手配がありましたので、お乗りください」


 タクシーの運転手は支払いも向こう持ちでの手配だとそう言っていた。


 そこでようやく私は胸を撫で下ろす


 電車賃こそ先生から頂いていたが、電車なんて乗ったことのなかった私は無事に目的地に辿り着けるかさえも不安だったのだ。


「お姉さんから、何としても10時半のお遊戯会に間に合わせてほしいと頼まれてますけど……こりゃあ、ギリギリですな。飛ばしますのでシートベルトをお願いします」


「お願いしますっ!……よろしくお願いします」


 タクシーは首都高速に入り、一番右の車線で更にスピードを伸ばす。


「ナビ通りに行けば普通なら3時間は掛かるんですけどねっ」


 運転手さんはカーナビが指示する手前のインターで下道におりて、画面上には存在しない道を走る。


「勝手知ったるプロの技ってトコですわ」


 姪っ子が通う保育園が目前に見えたとき、時計は10時28分を指していた。


「運転手さんっ!あのっ……本当に、どうもありがとうご―――」


「礼なんていいから!時間がないんでしょう?早く車から降りて!」


 後部座席のドアが大きく開かれて、その奥の園庭からお姉ちゃんが大きくこちらに向かって腕を振っている。


 私は駆け出しながら運転手さんに大きな声でお礼をいって、お姉ちゃんに抱き着いた。


「お姉ちゃん!!」


「姫紀!よく来たねっ!よく来てくれたねっ」


 私もお姉ちゃんも声が潤んでいて、その隣で優しく微笑む旦那さんも私の頭を撫でながらとても喜んでくれていた。


「姫紀ちゃん、本当によく来てくれたよ」


 人肌の温かさを遠い昔に忘れかけていた私は、その感動の余り本来の目的を保育園のアナウンスが流れるまで失念していたほどだった。


「あっ、姫紀!もう時間だわ」


 園庭で待機していた他の保護者たちがゾロゾロと建物のなかへと入って行く後に続いて私たちも中へと入って行った。


 そして、ステージで横一列に並ぶ子供たち。


 どれだろう?どの子だろう?


 私はキョロキョロと右へ左へと視線を行き来させる。


『いまから、わたしたちがさいゆうきのげきをします。みなさんきょうはどうぞたのしんでください』


「あの子よ、今喋っている子が恭子よ」


「えっ、あの子が恭ちゃん、なの?」


「そうよ、あなたの姪っ子よ」


 そうか、そうなんだ。


 あの子が姪っ子なんだ。私の姪っ子なんだ。


 私は瞳からは無意識のうちにポロポロと涙が流れていた。


 姪っ子、姪っ子、私の姪っ子!!


 劇が始まっても、他のどの子よりも恭ちゃんはとびっきり上手に見えた。


『どうか、このちょはっかいをなかまにしてください!』


 動きはイキイキしているし、表情は豊かで、贔屓目抜きにしてもその猪八戒は抜群の演技だった。


「恭子はね、ダンスもとっても大好きなのよ」


 そうなんだ!あの躍動感のある動きはダンスから来てたんだ。


 見てみたい!!恭ちゃんのダンスを凄くみたい!!


 

 演劇の最中で静かだった室内に遠慮も無しにガラガラと開かれた音で周囲の注目を浴びたのはちょうどその時だった。


「あー、スンマセン、スンマセン」


 大学生?くらいだろうか、少しヒョロっと背の高い男の人が入って来るや否や演劇の最中にも関わらず恭ちゃんがその人に対して両腕を大きく振っている。


「おー!恭子だ!恭子ー!―――あっ、スンマセン、スンマセン」


 その人がまた周囲に謝ると共に、恭ちゃんも劇の最中だったことを思い出したのか、演劇が再開された。


 それでも、恭ちゃんの満面の笑みはチラチラと彼に向けられている。ちょっとした嫉妬なんかもその時の私にはあったのかもしれない。


 一体、誰なんだろうか?


 私が彼を目で追っていると、しばらくしてこちらの方に歩いて来た。


「師匠、ゴメン、俺用事の最中に抜け出してきたもんだから、もう行くわ」


「おっ、おい……」


 そう言うと、今度は静かに扉を開けて園の外へ出て行く。


「本当に忙しい子ね。姫紀のことも紹介したかったのに」


 お姉ちゃんが呆れた顔をしているのを私が見ていたら旦那さんが察してくれたのかソッと耳打ちしてくれた。


「まあ、俺の弟?……みたいなもんだ。アイツは」



 劇の方は台詞を忘れた子供に先生が幕の横からコソコソ教えていたりと、ちょっとしたアクシデントもあったけれど、


『おいらのまんじゅうはどこへいったんでーい!?』


 と、愛くるしい子ブタの着ぐるみを着た猪八戒の恭ちゃんが大きな声の締め台詞でドッと園内が湧き、拍手喝采で幕が下りた。


 

 そして、子供たちが部屋で着替えや片付けをしているのを保護者たちが園庭で待っているときにお姉ちゃんが私を食事に誘ってくれた。


「姫紀、これから恭子とみんなでご飯に行きましょう。改めて恭子に姫紀を紹介しなくちゃね」


「おお、それなら今日は寿司にするか!」


 旦那さんがそう言ってくれているのを聞いてお姉ちゃんが首を振る。


「姫紀はね、大きなハンバーグが好きなの」


 私が滅多に食べれない庶民的なものが好きなことをお姉ちゃんは知っていた。


「行こう、恭子もハンバーグが大好きなのよ」


「うん、ハンバーグ……私も大好きだから……、行って来てみんなで」


 私の声は尻すぼみになりながらもキチンとそう言えた。


「行って来て……って、どういうことだい?姫紀ちゃん」


 旦那さんは奇怪な顔をしていたが、お姉ちゃんは少し悲しそうな声で答えてくれた。


「そうね……そうよね。どんなに急いでも時間が無いわよね」


 どう見積もっても、16時には自分の学校に戻っておかなくては、お迎えの運転手に私が学校から抜け出したことを悟られてしまう。


 昨夜なんかは寝ないで恭ちゃんに話したいことや聞きたいことをたくさん、たくさん考えていたけれど、こればっかりは仕方がない。


 バレてしまっては野々村先生にも迷惑がかかるかもしれない。


「おねえちゃん、私は恭ちゃんを見ることができただけでも、凄く嬉しかったんだ。だから今日は本当に幸せな一日だった!」


 お姉ちゃんは『ごめんなさい、ごめんなさい』と泣きながら私を強く抱きしめてくれた。



 そして、お姉ちゃんはこっちに来たときと同じタクシーを手配してくれて、運転手の人も同じ人だった。


 帰りは時間的に余裕があったので、それほど急いでいなかったのだけれど、タクシーの運転手の方がそれなりに飛ばしてくれたのもあってか、ちょうど6時限目の最中に再び学校に戻ってくることが出来た。


 私は学校のトイレで制服に着替え、ホームルームが終えた頃に、担任の野々村先生がよくいる科学準備室へ足を運ぶ。


 そしてそこで隠れて少し待っていたら、ガラガラと扉が開いたので机の陰からコソっと覗いてみると野々村先生だったので私はちゃんと姿を見せた。


「あら、吉沢さん。お帰りなさい。どうでした?ちゃんと姪っ子ちゃんには会えたかしら?」


 私は少し興奮気味で、今日あったことを手振り身振りを交えて野々村先生に報告した。


「よかった。本当によかったわ。貴方もそんな顔が出来るのね。とても幸せそうな顔だわ」


 私の頬に優しく手を当ててくれる。


 私は何度も何度も深く頭を下げてから、心を落ち着かせながら何事もなかったかのように、お迎えの運転手の待つ、黒塗りの車のところへ歩いていった。




 翌日のホームルームにやってきたのは、教頭だった。


『担任の野々村先生は急遽、転勤という形で北海道の姉妹校に転校された』


 周囲の生徒がザワザワとしているなかで、私だけが真っ青だった。


 私のことがバレた所為なのは明白だった。


 後で解ったことなのだが、私にはお咎めがなかったのは私が学校を抜け出した理由を野々村先生が頑なに言わなかったからで、理由が解らない以上報告出来ないということで本家には伝わらなかったからだった。



 私が姪っ子に会えたのは野々村先生の犠牲があったからこそだったのだ。



(ごめんなさい、本当にごめんなさい……野々村先生)


 教室の窓から北の方角を眺めて、心の底から私は野々村先生に詫びた。



 そして、10年後。


 吉沢家当主の監視の目も存在しなくなり、自由も権力も得た私は改めてあの時のお詫びと再びこの学校の教壇に立ってもらうために私は北海道に向かった。


「野々村先生、あの時は本当に申し訳ございませんでした。どうお詫びをしてよいかどうか解りませんが、もう一度本校に戻ってはいただけないでしょうか?」


「吉沢さん……ううん、今は吉沢先生ね。ごめんなさいではありませんよ。ありがとうじゃないかしら?あの時の私がしたことは決して間違ったことではなかったと思っていますし、あなたが姪っ子ちゃんに会えずに、暗い顔のままだったら私もずっと後悔していたことでしょうね。以前の生徒がこうして会いに来てくれたんですもの、私はどんな先生よりもずっと幸せ者よ」


 顔に皺が多くなっていたものの、野々村先生はあの時と同じようにとても優しい笑みと声を私にくださった。


「野々村先生、それでは、本校に戻ってくださるん―――」


 私がそう言いかけるも、先生は小さく首を振る。


「本校に戻ってあげられたなら、あなたの心のしこりも少しは軽くなるのでしょうけれど、もうこんな年ですし、定年まではここの生徒を見守ってあげたいのですよ、それにね――――」


 その時の野々村先生の顔はちょっと自慢気で、ちょっと誇らしくて、悪戯っぽい笑みだった。


「私にも姪っ子じゃないけど、目に入れても痛くない孫がいるんですよ。偶然にもその子がつい最近あなたの勤める本校の教師になりましたので、どうか吉沢先生、あの子の面倒を見てあげていただけないかしら?本当にあわてんぼうでおっちょこちょいだから私も心配だったのよ」


 

 その後、私は精一杯の気持ちを込めて『有難う御座いました』とお礼を述べて、北海道を後にした。






「もぅぅっ!!!姫紀センパイッ!!、じゃなかった……、吉沢先生ッ!どうして私のクラスにまで入って来てまで、いつもいつも、いっつも、私にちょっかい出すんですか!!なんでですか?暇なんですか?」


「アンタたちも笑わない!!ソコ!みっちゃんって呼んだの誰!?ちゃんと野々村先生って呼びなさい!!」


「美子ちゃんでもダメえええぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!」



 野々村先生、新任の野々村美子先生は今日もとっても楽しそうに教鞭を振るっています。動画を送りますので是非ご覧になってくださいね。



「姫紀センパイィィィ!!!何スマホで撮ってるんですかぁぁぁ!!消して消して!!」

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