第8話 おかえり。 そして新しい家族。
背中が痛い。
手足も所々が痛む。
まるで体中、あちこちの骨が折れてしまったように、ズキズキと痛んだ。
いったい何があったのだろうか?
私は川で濁流にのみ込まれ、そのまま下流へと流されていった。
それで途中、川の中の石にでもぶつけたのだろう、朦朧とする意識の中で、そういった記憶がうっすらと残っていた。
口の中に泥臭い水が溜まっている。
かなりの水を飲んでしまったようだ。
何とも不快な感覚だ…………ん?
(オ、オレ…………………生きてる?)
あの状況で助かったのか?
「……………ぉぉぃ……………」
遠くで誰かの声がする。
ハッキリとは聞き取れないのに、何故かその声はすぐ近くからしているような気がした。
遠く……………、いや、耳の中に水が溜まっていて、声がよく聞き取れなかっただけだ。
「ゲホッ、ゴホッ……………」
私は目を開けた。
口の中の泥水を吐き出し、ようやく意識を取り戻した私の目の前に、こちらを覗き込む、何人かの顔が見えた。
その顔は誰もが、心配そうにこちらを見下ろしている。
「君っ、しっかりしろっ!」
その中の1人が、私に声をかけて言った。
公園の広場であった、清掃員のおじさんだ。
でも何故?
私は横になったまま、あたりを見渡すと、そこは最初に来た雨森自然公園駅の、裏の河原であった。
そうか…………公園の川はここに繋がっていたんだった。
溺れて流された私は、ここに流れ着いて助けられた、ということか?
「苦しくないか? 水を呑んだようだが?」
「は、はい………何とか…………クッ?!」
私は起き上がろうとして、背中の痛みに苦悶した。
「無茶するな。骨が折れてるんだ。もうすぐ救急車が来るから、そのままジッとしてるんだよ」
「す、すみません………まさか川の水が急に流れてくるなんて………………その、溺れているところを助けてもらって…………」
口下手な私は、顔から火が出るような恥ずかしさを感じつつ、礼を言おうとした。
すると、清掃員のおじさんは、
「礼なら我らではなく、チビスケに言ってやるといい」
「?」
おじさんは私に、視線で少し離れた所を示した。
痛くて動けないが、私は何とかそっちの方に視線を動かして見ると、人垣の横で全身ずぶ濡れになった灰色の犬が、伏せをしてこちらを、寂しそうに見つめているではないか。
「……………………シロ?」
何故か申し訳なさそうな目で、上目遣いにこちらを見ているシロに、おじさんは肩をすくませ、
「川で溺れている君を、チビスケが助けてくれたんだよ。ダムの放水で水かさの増した川から、犬の吠える声がしたものだから、もしやと見てみると、溺れている君の襟首を噛んで必死に泳いでいるチビスケを見つけてね。 おかげで君を助けることが出来たのさ」
「そ、そうだったんですか……………」
私はまたも、シロに助けられた。
自分を捨てた相手とも知らず、いや、思わずに、命がけでこんな私を助けてくれた。
2年前は、その恩を返すことができなかったが、今回はこそは…………………、
「シロ…………………」
私はいまだ伏せをしているシロに、折れて痛む腕を、何とか伸ばした。
「………おいで」
私の言葉の意味を解したのか、シロは首をむっくり上げ、しばし躊躇ぎみに視線を泳がせていた。
本当に私の所に来ていいものかと、小首を傾げ、不安げな瞳でこちらを見つめている。
その瞳は、まるで今にも泣きだしそうな幼子のようにも見えた。
「いいから………………おいで」
私の言葉に、シロは恐る恐る私の方にゆっくりと近寄ってきた。
そして、差し出した私の手をペロペロと嘗めた。
その様子を見ていた、他の人達は、
「おお、あのチビスケがなついているぞ」
「今まで誰にもなつかなかったのに?」
と、驚嘆の声をあげている。
私はシロが嘗めていた手で、今度は頭をなでてやり、
「今まで………………ゴメンな……………」
言い、腕の痛みも忘れてシロを抱き寄せた。
シロが捨てられて、およそ7年。
ずいぶんと長い『待て』を、ようやくシロは解かれたのだった。
※※※※※※※※
3年前に、シロは寿命で死んだ。
墓地から見渡す景色の端に、あの運命の出会いがあった森が見える。
見るたびに、あの中にまだシロがいるような気がしてならない。
何もないあの森の奥で、シロは家族が迎えに来るのを信じ、何年も待っていたのだ。
シロにしてみれば、もう戻りたくはない場所であろう、そう家族の誰もが思っていた。
だが、たまたまシロを連れてドライブにこの近くに来たとき、シロはとても嬉しそうにしていた。
考えてみれば、生涯の大半を過した場所だ。
イヤな事ばかりではなかったのかもしれないと思い、シロの死後、この地に埋葬することにしたのである。
墓参りの帰り道、墓地から自然公園へと抜ける石段を下りて行くと、
「あれ?」
息子の大介が、不思議そうな顔をしてあたりを見渡した。
「どうかしたのか?」
私が聞くと、大介は訝しげな顔をしながら、
「うん、犬の鳴き声が聞こえたみたいなんだけど……………気のせいかな?」
「ん?」
まさか、お参りに来た私達に、天国のシロが声をかけたのではと一瞬思ったが、そうでもないらしい。
何となく気になり、私も耳を傾けていると、
「んー…………、お?」
私にも、その犬の鳴き声が聞こえた。
遠くから、それも弱々しい、今にも消え入りそうな、仔犬の鳴き声だ。
私と大介は、その声がする方を、必死に耳で探った。
すると、その声は例の森の中から聞こえてくるではないか?
「あっちだ」
大介の手を引いて、私は森の中に向かった。
勝手知ったるこの森の中。
2度にもわたって危機と奇跡を体験した私には、この森ももはや自分の庭のように熟知している、というのは大袈裟かもしれないが、そこそこのことは知っている。
声がした方角には、確か少し開けた場所があったハズだ。
行くと、確かにそこには、数畳ほどの地面がむき出しになった場所があり、そこの真ん中に一本の枯れ木が立っていた。
そして、やはりその木の下には、1匹の仔犬が木に繋がれて捨てられていた。
産まれて間もない、せいぜい生後数日程度の茶色い仔犬だが、
「なんてことを………………」
私は仔犬の置かれた状況に、思わず昔のシロのイメージが、だぶって見えてしまった。
全身泥だらけで汚れており、エサも殆ど与えられていないらしく、仔犬の丸っこい体形でありながら、肋骨が浮き上がっていた。
必死に逃げ出そうとしたのだろう、木には仔犬の爪の引っかき傷が無数にある。
そのせいか、仔犬の前脚の爪も何本か抜け落ち、血まみれになっていた。
「お父さん、可愛そうだよぉ。助けてあげようよぉ」
仔犬の惨状に、大介は泣きながら言った。
まるで自分のことのように、ボロボロと涙を流して、私の上着の袖を引っぱっている。
私も、この仔犬を見捨てることなどできないし、見捨てて行く気もない。
私は仔犬を繋いだ紐をほどいて抱き上げ、前脚の傷をハンカチで拭いてやった。
助けられた仔犬は、自分が助かったのか、それとも私達に、もっと酷いことをされるのか分からず、腕の中で震えていた。
恐怖で潤んだ瞳で見上げる仔犬に、私は頭をなでてやりながら、空を見上げ、
「分かってるよ………シロ」
天国のシロに言った。
この仔犬は、シロが私に引きあわせようとしたに違いない。
そう思えてならなかった。
私は横で、心配そうにこちらを見つめる大介に、
「連れて帰って、うちで飼おうか?」
「えっ、ホントッ?!」
大介は顔をかがやかして、腕の中の仔犬の頭をなでた。
気がつけば、仔犬の震えは止まっていた。
雨森峠の犬 京正載 @SW650
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