第7話 罰

 人の記憶というのは、あまり信用のできるものではない。

ましてやそれが、遠足先で迷子になった、などという、思い出したくもない情けない経験の記憶ともなればなおさらだ。

覚えていたら、むしろ奇跡といえよう。

曖昧な記憶だけで、あの日に迷い込んだと思われる獣道を見つけるのに、かなりの時間を要してしまった。

その獣道とて、本当にあのときの道だったという確証もありはしないが。

私はさらに不確かな記憶を思い出しつつ、森の中を進んだ。

あのときと同じ場所にたどり着けたとしても、はたしてシロがいるとは限らないが、今はそれを信じて進むしかなかった。

 森の中は、やはりここに来るまでの道と同じように、足下は泥濘んでいて、歩くだけで悪戦苦闘を余儀なくされた。

もともと水はけの悪い土壌ということもあり、所々に水たまりが出来ている。

おかげで中学入学祝いで買ってもらった、新品のスニーカーもドロドロだ。

しかも、森を進むうちに、記憶もだんだん怪しくなってきていた。

遠足のときの記憶通りなら、このあたりにあったと思われる木も見当たらず、なかったと思う場所に見たこともない木が立っている。

はたしてここが、本当にあのときに迷子になった森なのか、とも思えてきた。

「おっかしいなぁ? ホントーにここで………………あれ? 森を抜けちゃったかな?」

突如、視界を遮っていた木々が途絶え、開けた場所が見えてきた。

足下は雑草でよく見えないが、開けた先から向こうの茂みまではかなりの距離がある。

方角からして、さっきまでいた広場に舞い戻って来たとも思えない。

「おかしいな? あたりの地図には他に広場や休憩所なんて、載ってなかった……………って、うわわわわわわっ!!」

森を抜けた所で私は、前のめりにこけそうになるのを、たたらを踏んで何とかこらえた。

「あ、危なかったぁ………………」

そこは広場でもなければ、休憩所でもキャンプ場でもなかった。

そこでいきなり獣道が途切れて、そこから一気に渓谷へと、落ち込んでいたのである。

遥か下方の谷底を流れる川の水を見つめて、私は胸をなで下ろした。

腰の高さほどもある足下の雑草のせいで、その存在にそこにつくまで気付かなかったのだ。

「そーいや、駅の近くに川が流れてたっけ。 あそこに繋がってんだな、これ」

そこから何気なく川面を見下ろしてみる。

もしかしたら、偶然にもそこにシロがいた、などという奇跡を期待していたわけではないが、ただの好奇心で身を乗り出して、遥か眼下の水面を見てみる、と…………、

「あ、あれ。まさかっ!?」

真下の川岸に、灰色の何かを見つけて、私はさらに身を乗り出した。

まさかとは思いつつ、その正体を確認する。

だが、途中の出っ張った岩のせいで、よく見えない。

私は崖から落ちるという危険さえ忘れ、さらに身を乗り出すと、絞め忘れていた背中のリュックサックから、もしもシロに会えたらあげようと思っていた、缶詰めのドッグフードを、ポロポロと崖下に落としてしまった。

「ああっ、やっべ~……………」

何たるバカっぷり。

ここまで来て、またもとんだ大ドジだ。

しかも、さっき確認しようとした灰色の物体の正体もシロではなく、どこかの観光客が忘れていった、キャンプ用のビニールシートが、河原の石に引っ掛かっていただけだった。

そのせいで、せっかくのシロへのお土産も、パーになってしまった。

まったくの無駄な行為の結果での大失敗。

きっとバチが当ったのだ。

「ったく、どうしようかな……………?」

私は途方に暮れてあたりを見渡すと、そこから五十m程上流の川沿いに、河原に下りられそうな坂道があるのを発見した。

たぶん釣り客のための通路だろう、そこからなら、簡単に崖の下の河辺にまで下りて行けそうだった。

ちょっと面倒だが、落とした缶詰めを拾いに、下りて行けるかもしれない。

私は急いで、その坂道に向かった。

そして、昨日までの雨で滑りやすくなった足場に注意しながら、石だらけの河原に下りた。

こんなゴツゴツした所で転んで、怪我でもしたら目も当てられない。

さっきからドジのふみっぱなしなので、ここでまたも失敗をしないよう、私は無意識にゆっくりとした足取りで歩いて行った。

途中、何度か濡れた岩の上で転びそうになりながら、何とか落とした場所まで行き、缶詰めを拾い集めることができた。

本来、無精者の私がここまで一生懸命になれるなんて、今の今まで少しも思わなかった。

これまでに、個人的に頑張ったような経験といえば、運動会と球技大会の練習か、他に最近では受験勉強くらいだろうか?

思えば、何もないような普通の人生。

そんな私が、ここでこれまで頑張れたというのは、我ながらすごいことである。

シロのためなら、こんな苦労も何でもない。

「シロも、オレを許してくれるといいけど……………………」

今思っても、身勝手な考えだったと思う。

シロの苦労を思えば、このくらい何でもないだろうに。

さて、とにかく缶詰めは回収した。

何缶かは川に流されたり、落ちた衝撃でつぶれてしまってはいたが、この際仕方がない。

諦め、何気なく川面を見つめていると、

「あれ、気のせいか、さっきより川幅が広くなったような…………………?」

それだけではない。

流れる速さも、さっきまでに比べてだいぶ増している。

「………………………まさか?」

そのときになって私は、自分が今、とても危険な状況にあることを察した。

耳を澄ませてみると、遠くでサイレンの音が聞こえる。

それと同時に、遠くから足の裏に伝わる、地響きのような振動が感じられた。

「じ、地震……………いや……………」

私は恐る恐る、視線を上流へと移した。

確か、駅前にあった地図によれば、この川の上流数㎞の所には、ダムがあったハズだ。

そのダムも、昨日までの大雨で水が溜まっているかもしれない。

サイレンの音は、放水の合図なのでは?

「や、やばい……………………」

愚かな私の脳でも、この状況がいかに危険であるかを、理解するくらいのことはできる。

急いでリュックサックを背負い、急ぎ足でさっき下りてきた坂道へと向かった。

しかし、やはり足場の悪さのせいで、思ったように前に進めない。

こんなところで転んで怪我でもしたら、逃げ遅れて濁流の餌食となってしまうだろう。

私は急いで、それでいて慎重に、ゆっくりと、石だらけの河原を進んだ。

「慌てるな。慎重に、慎重に……………」

などと自分に言い聞かせても、無意識に速足となってしまう。

焦れば焦るほど、足がもたつく。

上り坂までの五十mが、信じられないほど彼方に感じられた。

その間にも、靴越しに伝わってくる水の勢いが、徐々に増してきている。

そんなときに、

「うあっ!」

2年前と同じく、私は同じドジを踏んだ。

あのときは木の根っこだったが、今回は濡れた石に足をとられ、私はまたも足を捻挫してしまったのだ。

「痛っ!!」

まったく、今日は何て日だ。

まるで一生分の不運が、一度に押しかけてきたみたいだ。

足の痛みに苦悶しつつ、私は急いで起き上がった。

今回は2年前とは違う。

のんびり痛みがひくのをまっていたら、ダムから放水された濁流に押し流されてしまう。

よくテレビのニュースで、川の中洲に残された観光客が、レスキュー隊に救出される映像をよく見るが、この河原には水が来ても中洲になりそうな場所が見当たらない。

何が何でも、水が来るまでに坂道まで逃げなくては。

だが、次の瞬間に、私の視界に絶望的な光景が飛び込んできた。

目指す川の上流の彼方に、水しぶきをあげて迫ってくる大量の水が見えた。

「………………………っ!」

こんな状況におかれた人間は、どんな悲鳴をあげるのだろう?

何と言って叫ぶのだろう?

もうダメだ。

声にならない悲鳴を上げた次の瞬間には、もう濁った水が私の視界を埋め尽くしていた。

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