第8話 聲

―ようこそ、こちら側のセカイへ…


コツコツと、床音を鳴らしながら面会室までの廊下を歩く。先程のむせ返るような、独特な匂いは微塵も感じない。むしろ、消毒液のようなアルコールのような、頭がクラクラしてしまうようなキツイ匂いが充満している空間。清潔感はあれど、独特な雰囲気だけは変わらない。


「なんか、この匂いは苦手だな…」


この匂い…子どもの頃に、急に熱を出し意識が朦朧とする中で病院に連れて行かれた記憶を連想させる。匂いが記憶とリンクしている、という学説は本当だったんだななどと、どうでもいいことを考えてしまう。あの時妙に母親も父親も優しく、長兄達はそれを羨ましそうに眺めていたな…あの時の体がだるい感覚、まとまらない思考…頭を動かす度に、カラカラと音を立てる氷枕の音…苦手な匂いが遠い匂い、音、雰囲気、肌にまとわりついていた空気の感覚の記憶…それらを事細かに思い起こさせる。ほんの数十メートルの廊下を歩いている間に次々と脳裏に浮かんでくる、それはまるで不思議な感覚…


―コツコツコツ…


足を止めると面会室、と表札のかかった部屋の前に着く。ああ、これから始まる面接は違ったものになりそうだ。わざとらしく、ゴクリと喉を鳴らし、口に溜まった唾液を飲み込む。まるで、アメリカ映画に登場する主人公のように。


―コンコン…


ドアをノックし、部屋に入る合図をする。…しかし、返事が全くない。再度ノックをするが、返事が全くない。これは、入ってもいいということだろうか…?少なくとも、俺自身はそう捉える。


―ガチャ…


部屋に入るなり目の前の光景に、目を疑う。声が出せず、驚いてしまう。ただただ、呆然と立ち尽くし、戸惑いを隠せない。部屋一面、床一面に置かれたたくさんのぬいぐるみ、たくさんのおもちゃ…たくさんのクッションや枕。挙句の果てにはブランケットまで…俺は成人男性の加害者の面接に来た筈だ、なのにどうしてこんな有様の部屋で対峙しろと?


…あれ、部屋を間違えてしまったのか?緊張でミスってしまったのか?下手な茶々を入れてくる先輩が、今この場にいたら…なんて考えるといなくてよかった、そんな風に心底ほっとしてしまう自分がいる。しかし、異様な雰囲気だ…あたりを、部屋の隅々まで見渡す。…あれ、彼の姿は…どこにも…


『ばあ!』


「うわぁっ!」


不意打ちに驚かされて、反射的に声を上げてしまう。…まさかぬいぐるみの山に隠れていたのが、成人男性で、背丈もそこそこの…しかも、驚かされるなんて誰が予想できるか…先輩なら、一緒になってぬいぐるみの山に隠れて、俺をびっくりさせてくれそうだけど…


『ねえ、驚いた?』


満面の笑みで、無邪気に尋ねる。とてもじゃないが、あんな凄惨な事件を起こした加害者には感じられない。それほどの無邪気さ。


「結構、驚いたかな…」


社交辞令的に返す。すると、彼は俺に近付き顔をまじまじと見詰める。張り合うつもりはないが、こちらも負けじと彼の全てを上から下までざっくり見渡す。


彼は背も高く、綺麗な顔をしている。しかも、パッと見女性と見間違えてしまう程、髪を長く伸ばしている。その髪を低い位置で一つに束ねている。体格は細身で、どんな服でも着こなせてしまう程に筋肉もついており、シルエットも整っている。


『ふうん、そうなんだ。なんだ、つまんないの』


不貞腐れたような声色で、さっきとは打って変わった無表情での返答。…つまらない?俺の反応がか、俺の外見がか?


「期待に添えなくて悪かったね」


皮肉を込めて返す。しかし、さっきからの一連の言動や行動を思い返してみると…明らかに“退行”、“幼児退行”をしているように思える…3歳児もしくは、5歳児程度に…分かって演じているのか?それとも本当に退行しているのか?早々に見分けて、話をしたい。だが、あけすけに「演技しているだろう」などと尋ねることはタブーだ。自分が一番よく理解している。


だから、子どもとカウンセリングをするように、優しく接して徐々に心を捉える開かせていかないと…きっと核心に迫ることはまずできないだろう…頭の中の冷静さを失わないよう、まずは努力しなければ…焦りは禁物、取り敢えず今日は距離を縮めることに徹しよう。まさか、自分の経験が役に立つ日が来るとは…


『ねえ、キミが先生?』


『他の人が言ってた、お話を聞いたり話したりしてくれる先生?なら、ここに座って』


矢継ぎ早に、口を挟む暇を与えることなく話し続ける。彼に促されるまま、距離をとり床に座る。


『このフカフカクッション、使ったら気持ちいいから貸したげる』


ぼふっとクッションを投げられ、渡される。柔軟剤のいい香りがする。


「ありがとう、君は優しいね」


『ねえねえ、先生なの?先生っぽくないけど、先生なの?』


…先生っぽくないは余計だけど。


「そうだよ、僕は先生」


声色は優しく、かと言ってわざとらしくならない程度に笑みを浮かべ、穏やかに話し掛け返答する。傍から見ればおかしな光景だろうが、これが正攻法ではないかと自負する。成人男性相手に行う面接やカウンセリングとは違うだろう、そんなことは口を開いて話し出した瞬間から理解している。


『名前は?先生の名前は?まず、ボクはねユウヒっていうんだ!』


すると、目の前に現れた他者に興味を持ち、生き生きと話をしてくれる。こちらが引き出そうとしなくとも、勝手にたくさん話してくれる。ただ、俺は必要最低限のことに答えることに徹すればいい。慣れてきたら…しかし、慣れるまでには、関係作りを完璧にするには時間がかかるかもしれない…先輩に後で伝えなければ。


「ユウヒ、さんね…」


『やだ、ユウヒって呼んでよ。さんって呼ばれるの嫌いなんだ』


「わかった。僕は太陽って言うんだ。よろしくね、ユウヒ…」


『よろしくね…太陽先生は今日は何しに来たの?』


『先生とは初めて会うよね?ねえ、嫌なことしない?今まで会った先生は、みんな嫌なことばっかしてきた…』


表情をまた変え、今度は俯き悲しそうな顔でそんなことを口にする。きっと、焦って追い詰めて吐かせようとした人間達が、彼を退行させるまでに至らしめてしまったのだろう。何となく想像がついてしまう。


「そうだね、今日初めて会うね。先生は君と…ユウヒのお話を聞いたり、一緒に話したくて来たんだ」


『今までの先生達と同じだ…』


「嫌だったんだね…じゃあ…いったい、どんな嫌なことされたのかな?ユウヒの嫌だって思うこと、教えてくれるかな?先生はそれを知っておきたいし、ユウヒともっと仲良くなりたいんだよね…いいかな?」


『…今日は話したくない』


…そうか、そう来たか。何となく行動から予想はできていたけど…それすら聞き出せないなんて、いったい今まで関わった人間は何をしたんだ。そいつらに軽く憤りを覚える。


「無理に話せとは言わないよ…こちらこそごめんな、無理に聞いちゃって」


謝るのも作戦の内、研修中に臨床心理士で先輩に教えて貰ったテクニック。


「なあ、ユウヒはそのぬいぐるみ…好きなのか?可愛いウサギだな…」


彼が終始きつく抱き締めているぬいぐるみに目をやる。薄汚れていて、お世辞にもキレイとは言えない代物。所々解れたり、破れたりしてはいるが辛うじてウサギと判別できる代物だ。


『可愛いでしょ。これ、お兄ちゃんとおそろいなんだ、だから好き』


喜んでぬいぐるみを愛おしそうに抱き締める。あ、お兄ちゃんがいるのね。肝心なことを話してくれた、これだけわかれば今日のところは十分だろう。


「先生に見せてくれない?」


『…やだ、だってどっかに持って行っちゃうでしょ?』


「持って行かないよ、だから安心して」


『今日じゃなくて、また今度見せるし…それでもいい?』


「ん、わかった。ユウヒは優しいな、ちゃんと約束してくれるんだから」


『えへへ…』


無邪気に笑う様は、本当に殺人犯なのか?子どもみたいに笑う彼は、ユウヒは、本当に犯人なのか…?いやいや、色々な資料は、証拠はそれが事実だと証明しているのだから、間違いないだろう。ただ、上の求めるものをえるためには時間がかかりそうだということも、何となくわかった。


「じゃあ、そろそろ時間が…」


『先生は次も来るの?』


彼はスーツの裾を引っ張り、退室を引き止めようとする。名残惜しそうな表情、まるで少女のような眼差しで。


『いつ来るの?』


「さっき約束したし、また来週に来ようかな」


『どれくらい寝たら、また会える?』


「ユウヒが7回寝て起きたらきっと会えるよ。その時はちゃんとウサギ、見せてくれる?」


『うん、約束だもん。ちゃんと見せるから』


「じゃあ…」


―ギュッ…


『またね、先生』


身長差のある体躯で、抱き締められる。外国ではない、日本の面会室で抱き締められるなんてそうそう経験なんてしないだろう。妙に色気のある顔付きや、声色だったのは気にしない方がいい…。


「じゃあね、また今度」


―バタン…コツコツコツ…


部屋を出て、早足で廊下を歩く。…緊張した、とにかく早く先輩に落ち合って報告しないと。慌ててスマホを取り出し、LINEをする。


鳥井 “終わりました”


皆川 “お疲れさま(*´∀`)♪”


鳥井 “今どこにおられますか?”


皆川 “ヘルスで抜きなう(*`ω´*)”


皆川 “めたんこ気持ちいい(;//́Д/̀/)”


鳥井 “へえ…”


皆川 “冗談冗談”


鳥井 “先輩なら行きかねないので、冗談扱いできません。そんなにしたければ、オナホでも買ってトイレで致してください。軽蔑しないので安心してください”


皆川 “…怖い後輩だわ(震え声)”


皆川 “近くの喫茶店にいる。地図送るから、来てくれないか?出ようにも出られない”


鳥井 “どうしてです?”


皆川 “財布忘れた…(´・∀・`)”


鳥井 “はあ…”


皆川 “しかも、オーダーしてある程度食べたり、飲んだりしてから気付いたパターンww”


鳥井 “仕方ないですね、今から行くので動かずに待っててください”


皆川 “ありがとう、さすがオカン”


鳥井 “お助け料ロレックスの新作…ローンも可、で許します”


皆川 “それとこれとは別(*´ω`*)”


皆川 “既読スルーすんなよww”


鳥井 “じゃあ、別だと言うならば、公務員が食い逃げ犯になって…また飯田さんに捕まってください”


皆川 “わかった、チャラにするから…すぐ来てくれ( ´•д•` )💦”


鳥井 “始末書増えるのが嫌ですもんね(笑)”


皆川 “後で覚えとけ( ˘・A・)”


鳥井 “すぐ行きます”



取り敢えず病院を出て、喫茶店に向かって手のかかる先輩を引き取って警察署に戻る。帰って逐語に興さないといけ…あ、ヤバい…レコーダー録り忘れてた…俺も始末書ものだし、先輩にシメられる…今から喫茶店に向かう足取りが重くなる。あの不思議な面接やカウンセリングの緊張が一気に消し飛んでしまった…

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