第7話 躊躇~Eupatorium~
―閉鎖病棟ドアの前にて
「お前、さっき言ったこと忘れてないよな?」
「言語習得の過程にある好奇心旺盛な子どもになりきる、ですよね?合ってます?」
不安になってきたために、何度も繰り返し先輩に尋ねる。
「バッチリだ。他には?」
…他には、か。あれ、何か言われていたっけ?緊張や不安に押され気味で、言葉が頭に入って来ていなかったようだ。覚えていない、またどやされるかな。
「他には…」
…ヤバイ、眉間にシワが寄り始めてる。
「はぁ…臨床心理士という立場を捨てろ、おくびにも出すな…ったく、緊張しすぎだ。普段のカウンセリングもそんなんか?」
「結構構えてしまいます…」
先輩の手が頭に近付く、目の前が少しだけ暗くなる。
―ポンポン
身長差のある体躯で、大きさの違う掌。18センチの身長差。まるで、歳の離れた兄弟のよう。勝手に感じてしまうこの親近感が、時間を一瞬止める。
「え?」
硬い、ワックスで逆立てた髪にその大きな掌が触れる。一瞬何が起きたのかよくわからなかった。しかし、掌から伝わる熱は、緊張を解そうと置かれた掌の温もりは、じわじわと体に染み込んでいく。
「緊張せずにやって来い。せっかくの初デートなんだからよ」
…デートって…最初確かにデートって言ってましたね。まさか、この期に及んでもデート…しかも、初デートという例え方をするなんて先輩らしい。おかしくて思わず笑みがこぼれる。
「…ぷっ…初デートって…例えが…」
お腹を抱えて笑いたい衝動に駆られるが、場にそぐわないことははっきりしているため、頑張って堪える。
「よっしゃ、緊張は解れたみたいだな」
「ありがとうございます、助けられてばっかですね僕…」
「お助け料ロレックスの新作…ローンも可。取り敢えず行って来い」
「高くないですか?そのお助け料…薄給の身からしたら拷問ですよ…わかりました…先輩は?」
「俺は行かない方がいいだろう。煙草でも吸って適当に時間潰して待ってるわ」
話と違うじゃないか!え?付いてきてくれないの、先輩?何言ってるんだ…俺一人で対峙できる相手じゃないって分かっている筈だろう。
「どうせ緊張してとちるわ、ミスるわ…なんて目も当てられない状況を眺めるのは趣味じゃないんでね…」
どうして手に取るように俺のミスのパターンを…本当によくわかっている、この人は。この人の前で下手なことは一切言えないし、できないな。些細なことからでも何でも見透かされてしまうから。
「いやいや…職務放棄しないでくださいよ…」
「大丈夫だ、安心しろ。署長にはLINEしといたから」
そう言って、スマホの画面を見せられる。
皆川 “鳥井に付いて行って面会するの、やめときます。”
署長 “Σ(゜Д゜;”
署長 “なして?”
皆川 “緊張しいなんですよ、あいつ(*`ω´*)俺がいると本領発揮できなさげなんで、やめときます:(´◦ω◦`):戻ったら、ちゃんと始末書書くんで許してください。てか、今日は何枚書いたらいいですかね?”
署長 “仕方ないな。5枚で許そう(*`・ω・´)”
皆川 “わぁい、署長優しい…(棒読み)”
署長 “帰りにアンティークでケーキか何かを見繕って買って帰って来てくれるか+(0゜・∀・)+?”
署長 “俺はモンブランとシュー・アラ・クレームで頼む(*´ω`*)”
署長 “みんなの分も適当によろしく(´°ω°)”
皆川 “了解しました(・д・。)”
署長 “始末書は免除しないからなー(♡´艸`)”
皆川 “うわぁ…(;´Д`)手厳しい…”
署長 “鳥井くんには、頑張ってねって伝えといてね(*´ω`*)”
皆川 “わかりましたฅ(*°ω°*ฅ)*”
皆川 “店出たらLINEしますね”
署長 “o(^O^*=*^O^)o”
…女子みたいな会話だな。署長さんも意外と顔文字使ったり…いや、LINE使えることに驚いているんだけど。途中からケーキの話になってるし。女子力高すぎる、署長さん。
「まあ、こんな感じだ」
「先輩も署長さんも女子力高いですね…途中からケーキの話になってるし…」
「甘い物好きだからな、署長は。取り敢えず砂糖の塊でも与えておけば、喜んで舐めてるくらい、甘い物には目がない人だからな」
「先輩?」
「何だよ」
「今の、バッチリ録れました」
「は?」
「これを署長さんに聴かせたら…」
「バカ、やめろ…始末書の枚数が増えちまう!先輩が可愛くないのかよ、お前は」
「憎たらしいですね…まあ、テストで録音しただけなんで、消しておきますね」
「頼むからそうしてくれ」
「署長が、鳥井くん頑張ってね!って書いてたぞ。まあ、頑張れ」
「はい、それは当然」
「んで、終わったら逐語にして興しておいてくれ。目を通しておきたいからな…」
「本当に録音して大丈夫なんですかね…守秘義務的な意味で…あと、コンプライアンス的に…」
「最悪令状か、始末書で何とかする」
「先輩、何だかんだで始末書大好きですよね?」
「大嫌いだけどな、必要に迫られて仕方なく書いてるだけだ」
「何枚くらい書いたんですか?」
「…忘れた。いいから、行って来い。待ってるから」
「…わかりました」
緊張する。鼓動が高鳴り、口から心臓が飛び出てきそうな圧迫感が食道や気道を押さえつける。少し息苦しい、声を絞り出すのもやっとな状態。
「行ってきます…」
とうとう始まる、本当の対峙。こちらが飲まれてはいけない、あくまでペースを保て。躊躇いがちに振り返ると、先輩は固い表情をしている。
「おう、行ってらっしゃい」
扉がいつもより重く感じられ、ノブを握る手にも自然と力が入り、巧く回すことができない。体が硬直し、ガクガクと膝が笑う。加害者の狂気を孕んだ眼差しを向けられ、翻弄されやしないかと不安が襲う…ここまで来たのだから、行くしかない。躊躇っていても仕方がない。ほんの一連の、単純な動作を行うのにこうも時間がかかるなんて…頭では分かっていても、体が言うことを聞いてくれない。なぜだろう、恐怖か?畏怖か?躊躇か…?
もう埓が明かない、こんなことに無駄な時間を割けない。体感時間的には、10分くらいに感じられる。先輩の急かしがないということは、目の前の時間経過の仕方は実際には1、2分程度のことなのだろう。それならば…
思い切って強引にノブを捻りドアを開ける。ガチャリ、と静かな空間に金具の音が響き渡る。向こう側の世界が見える。ここから先は先輩はいない、加害者と俺だけ…さあ、どう対峙する?さあ、どう動く?
頭がだんだんと冷静になってきた、覚悟はできた。重い足を踏み出し、敷居を跨ぐ…これができれば、後はすんなりと一歩一歩確実に先へ進んで行ける筈だ。コツコツと、床が鳴る。
バタン、と扉の閉まる音がする。もう、振り返らない。振り返れば負の気持ちに潰されてしまう、臨床心理士としての自信だって失いかねない。
後戻りはもうできない、するつもりもない。
―いざ、扉の向こうのセカイへ。
―いざ、加害者との対峙へ…。
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