第7話
「ねえアサギくん、キミはどんな男の子になるのかな」
壁一枚隔てたところから、ほんのりぬくもりを感じる。誰かの手の温度。
「たくさんキレイなものを見ましょうね。たくさん楽しいことをしましょうね。あなたに会えるのがとても楽しみよ」
あたたかな声が僕の体を包みこむ。
ああ、なんて残酷なんだろう。
このやさしさの主に、僕は会えなかったんだから。
これは僕のおなかの中にいるときの記憶。
もうすっかり忘れていたはずなのに、この森の中でよみがえる。
会いたい、会いたい。
このぬくもりに包まれたい。
でも現実は、湿った風の吹く森の奥のほう。
僕の周りには何もいない。
誰も、いない。
「本当にそう?」
どこからか声がする。
「本当にあなたはひとり?」
そうだろう。だれもいない場所に僕はひとりだ。
ヒトゴロシの僕にはひとりがお似合いだ。
「よく見て。よく考えて」
それでもまだ問いかけてくる声の方に顔をあげてみる。
「…っ!?」
そこには、母がいた。
仏壇の写真で、アルバムで、何度も見た顔。
初めてなのに懐かしい、穏やかなまなざし。
「あなたはひとりじゃない。今までずっとおばあちゃんがいて、姿はなくとも私もそばにいたわ。心だけは寄り添いたくて。」
あたたかい言葉。これは夢なのだろうか。
「でも、あなたの抱えた傷に何もしてあげられなかったね」
寂し気な母の様子に胸が詰まる。
「ぼ、僕のことはどうでも…」
本当に、僕のことよりも母の切なそうな顔をなんとかしてあげたかった。
「どうでもよくなんてないのよ」
力強い声。
「あなたは私の、大切な、大切なたった一人の子なんだから」
白い腕がこちらに伸びてくる。
うっすら輝きを帯びた母の手は、静かに僕を抱きしめる。
ああ、暖かい。
じわじわと涙が浮かんでくる。泣きたいわけじゃないのに。
「泣いていいのよ。我慢しないで」
そう言われたら、もうダメだった。
「うぅ、うぁ、うわー」
声にならない声がほとばしり出る。
寂しかった。
哀しかった。
大事な人が去っていくのが怖かった。
自分が関わることで命が失われるのが怖かった。
「だって、僕のせいでお母さんは!」
涙の合間に叫ぶ僕を、母はさらに強く抱きしめる。
「あなたのせいじゃないのよ、アサギ。これは本当」
ぬくもりのせいで涙が全然止まらない。
「運命なの。仕方なかった。誰も逆らえない」
「でも…」
背中をやさしくポンポンと叩きながら母は言う。
「だから私は、命を託したの。この命を、あなたに」
「命を、託す…」
「そう。あなたは私の命を奪ったんじゃない。私の命を受け継いだのよ」
ふいに甘い香りが漂ってくる。
視界の端で、さっきまでなかった白い百合の花が、あたりに一面に咲いているのが見える。
そうか。これは、この森は母の世界。
母の心を形作っている世界なんだ。
「ずっと一緒にいたかった。ずっとそばで、アサギが大きくなるのを見ていたかった。つらいときは抱きしめて、笑うときは大声で一緒になって笑って。ごめんね、アサギ。そばにいられなくて本当にごめん」
「僕も会いたかった。お母さんがいなくてずっと寂しかった。でもお母さんの命を奪った僕がそんなこと言えなくて。でも」
顔をあげて、母の目を見つめる。やさしいまなざし。僕がずっとほしかったもの。
「ずっと、一緒だったんだね。ずっと、見ていてくれたんだね」
母が笑う。うなずきながら笑う。
ああ、そうだったんだ。
僕が生きていたのは、この優しい人の命を受け継ぐためだったんだ。
「やっと伝えられた。ね、分かったでしょ、ここはあなたの居場所じゃない」
母に促され、周囲を見る。
静かな森は、ひたすら静かにそこにある。
いつまでも変わらぬたたずまいで。
だからこそ、僕はもうここにいてはいけないのだろう。
「さあ、戻りなさい。あなたの場所へ。あなたの、私の命を輝かせる場所へ」
母はそっと背中を押す。
離れがたい。
やっと会えた人。生まれてからこがれてやまなかった人。
それでも、きっと僕の居場所はここにはない。
「知ったから、もう大丈夫。あなたはヒトゴロシなんかじゃない。あなたは命を引き継ぐ者だから」
そばに咲いていた百合の花をそっと手折って、僕に握らせる。
「会えて、ほんとうによかった」
「僕も、会えてよかった」
ありがとう。言葉にならないその気持ちを込めて、もう一度母を抱きしめた。
「…今なら、帰れる気がする」
その時の母のほほえみを、きっと僕は一生忘れないだろう。
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