第5話

逃避行は続く。

この手から命がこぼれ落ちた感覚を忘れるため。

罪の重さを少しでも紛らすため。

この足はひたすら前へと進む。


そんなとき、ふと目に飛び込んできてのは、道の傍らに咲く一輪の花だった。

緑に覆われた森の中で目を引くその白い花。

膝上あたりまである背丈でまっすぐに立ち、先程の突風にもびくともしなかったらしい。

その凜とした佇まいに心引かれ、思わず足を止める。


これは確か、百合の花だ。


なけなしの記憶の中でも、何度も見たことがある。すっと立つその姿。大切な人が大好きだったのだという根拠のない確信。

「あの子が大好きだったんだよ」

そう教えてくれた、誰かの暖かい声。

「女の子だったら、ユリという名前にしたかったってよく言っていたからねぇ」

慈しむようなやわらかな声音。

そのあたたかさに、涙がこぼれた。


この声を、もっと聞いていたい。

もう一度だけでいいから聞きたい。

大切な人の話を、もっと聞きたい。

何一つ分からない現状の中で、その願望は少年を激しく突き動かす。


ひょっとしたら、自分はこの森に守られているのかもしれない。

得体の知れない自分自身の正体に傷つかないように。ヒトゴロシであるという事実に押し潰されないように。誰にも分からないような優しさで、森は包んでくれているのだ。


その証拠に、時の流れもまったく分からないまままだここにいるけれど、この美しい場所がキライではない。

時折襲い来る記憶の断片に翻弄されつつもなんとか歩いていられることに、今さらながら気づく。

歩いていていいんだ、と改めて思う。

この森にいて、この森を歩いて、ここに存在することを許されている。

それはひどく暖かくて、優しい感覚。

ひたすら歩き、出会い、別れ、絶望にも希望にも似た感情を感じながらここにいた。

まるでそれが必然のように。


不意に目の前に光がさす。

これまではなかった柔らかな光。

見上げると、木々の間が大きくあいている場所から日の光が差し込んでいた。

しばらくぶりの光を見つめる。

太陽の熱を感じたのはどれくらい前だっただろう。なんだかひどく懐かしい。

まぶしさに目を閉じて、再びゆっくりまぶたを押し上げる。慣れたからか、光に対する痛みはない。そして、飛び込んできた景色に息をのむ。

木々の切れ間から覗いているのは、雲一つない青空だった。

それはひどく透明で、かつ深く青くて、澄み渡るような水色をしていた。

ああ、と思う。

この色を知っている。全身がそう叫んでいる。そしてまた、脳裏に蘇るあの優しい声。

「男の子だったら、大好きな空の色を名付けるんだ、て言ってたんだよ。あの子はいつも空を飽きることなく見つめていたから。」

空の色。自分の名前。

「だからね、」

僕は空をその名に持つ。

「おまえの名前は」


アサギ…


頭の中のばらばらパズルが合わさった気がした。

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