雪化粧


「雪ちゃんってさ、足綺麗だよね~」

 開口一番そう言った悟に、雪菜は白い目を向けた。

 風呂上がりでまったりしていた所に玄関ベルが鳴り響いた所為で慌てて出たというのにこの男は。

じろり、と睨んだ雪菜の表情に、悟は何かを察したのか慌てたように両手を振った。

「変な意味じゃないよ! 肌が白いし、足も細いから! マネキンみたいだなって!」

「それ褒めてんの? 乏してんの?」

 タオルで髪の水気を取りながらリビングに向かった雪菜の後に悟は笑いながら続いた。

「え、マネキンみたいって褒め言葉じゃないの? 使わない?」

「使わないし、分かりにくい!」

「マネキンで思い出したんだけどさー」

仕事用の大きなボストンバックの中を漁りながら悟が悪戯っ子のような表情を浮かべる。

「これ、雪ちゃんにピッタリの仕事だと思うんだけど……」

「……ハイヒール?」

 差し出された雑誌には真っ赤なハイヒールがデカデカと表紙を飾っている。

 眩しいくらいにスポットライトを浴びて、ルビーのように輝くハイヒールに睨みつけられているような気分になって、雪菜は固まる。

「私が履いても似合わないだろ。他を当たれよ」

「いやいや、似合うって! それに今ここの会社が身長あるモデル探してて、雪ちゃんの写真見せたら是非ともやってほしいって言ってたから!」

 大丈夫だと、だらしなく笑う悟に雪菜は溜息を零した。

「勝手に人の写真見せるな! それにこんなの履いたことがないから、無理だ!」

「俺もエスコート役で一緒に撮るから大丈夫だって!! ね! 駄目?」

「……アンタが一緒だと余計に不安しかない」

「仕事はきっちり出来る男だから大丈夫だって」

 ね、と大きな掌を重ねられて、雪菜は目を瞬かせた。風呂上がりの自分よりも温かい他人の体温に、思わず反射的に手を弾いてしまう。

「ご、ごめ」

「ううん。俺の方こそ」

――男の手だった。

 女にしては自分の手は大きいと思っていたのだけれど、こうして触れるとその差がよくわかる。

「……雪ちゃん?」

「え、」

「顔が赤いけど」

 アップになった人気俳優の顔に、雪菜は小さく悲鳴を上げた。

 近いだけでは済まない。鼻先が触れてしまいそうな距離に、力なく後退る。

「ち、近い!」

「え、ああ。ごめん?」

「……っ」

 自分だけが動揺しているようで酷く恥ずかしかった。

 じわり、と滲んだ汗は風呂上がりの所為だけではない。悔しくて唇を噛み締めていると悟が困ったように笑うから、それがまた一層雪菜の羞恥心を煽った。

「えーっと、雪ちゃ」

「悪かったな、ガキで!! とっとと飯食って帰れ馬鹿!!」

「俺何も言ってないけど」

「煩い!」

 寝室のドアを乱暴に閉めると雪菜はベッドにダイブした。

 火照った頬が枕に擦れる度に、ひやりと肌を撫でるのがより雪菜を苛立たせる。

「……クソッ!」

 ドアに向かって枕を投げつけると、ブランケットを抱き込んで目を閉じた。

 耳の奥で、母の子守唄が聞こえる。

 荒んだ心に響く優しい音色に、睡魔がゆっくりと船を漕ぎ始めた。


 翌日、目を覚ますと悟は部屋に帰っていた。

 きっちりと片付けられた食器と、冷蔵庫に入っていた焼きプリンを見て雪菜は唇を尖らせる。

 こんな簡単なことで機嫌を直してしまう自分が恥ずかしい。

 はあ、と吐き出した溜息はケトルから出た湯気と一緒に換気扇に吸い込まれていく。

 大きな欠伸をしながら、ソファに座ると同時にスマートフォンが鳴った。

「はい」

『おはよう、白雪。急で悪いんだけど、今から事務所に来てもらえない?』

「今からですか?」

『陽希がね、どうしてもあなたじゃなきゃダメな仕事があるって言うんだけど……』

 ハイヒールの件だとすぐに検討が付いた。

 暫く逡巡した後、額から汗が伝うのを合図に雪菜は小さく「はい」と返事を零した。

『そう。なら私が迎えに――ちょ、陽希! 何すっ』 

『昨日はごめんね、雪ちゃん。困らせるつもりはなかったんだけど、やっぱり君にこの仕事受けてもらいたくて』 

 穏やかなテノールが耳朶を震わせる。

 悟の声は、じわりと心に染みわたる不思議な音色だった。

 腹の底が温かくなるような感覚に何も言えずにいると、悟が優しい声で言葉を紡ぐ。

『お願い。君じゃなきゃ、この靴は輝かない』 

「そ、んなこと言われても」

『大丈夫。雪ちゃんならきっと似合うよ。俺が保証する』

 迎えに行くから、準備しててねと甘い声で囁かれて、雪菜は力なくその場に蹲った。

 悟の言葉は事務所に対して影響力が強い。断れば、今度はマネージャーである明美に何故だと問われるのだろう。死刑宣告にも近い言葉に、逃げる術など最初から持ち合わせていない。

 はあ、と深い溜息を吐き出すと雪菜はのそのそと動物園のクマのような動きで支度を始めた。


 手渡された雑誌に写ったハイヒールを一目見て、彼女に似合うと思った。

 背も高く細身の雪菜にはモデルという仕事は天職なのではないかと、マネージャーをしている明美が恍惚とした表情で言っていたのを思い出す。

「つーわけで、雪ちゃん以外にこの仕事はさせません! 分かった?」

「……いきなり何を持ってきたかと思えば、アンタねぇ」

「何? いいじゃん。雪ちゃんに似合うだろ、これ」

「それはいいのよ! 自分のスケジュール捻じ曲げてまでエスコートするとか馬鹿なの!」

 きー!と金切り声を上げた明美に、悟は肩を竦める。

「だって、雪ちゃんが俺とじゃないとしたくないっていうからぁ」

「そんなこと一言も言ってません。全部この人の妄想です」

 鏡越しに雪菜の冷たい視線に射られた悟に、明美は呆れたように溜息を吐き出した。

「白雪のこと、気に入っているのは分かるけど大概にしないとまた怒られるわよ」

「分かってるよ」

「まったく、立夏と言いアンタと言い……。監督不行き届きで怒られるのは私なんですからね!」

「ごめんってー」

 まったくもって悪びれる気配もない悟に明美は天を仰いだ。

 既に鏡へと視線を戻して鼻歌を歌い始めた彼の尻に向かって、思いっきり蹴りを入れる。

「反省しろ、この馬鹿!」

「痛い!!」

 ひーん、と可愛げのない泣き真似をする悟と明美のやり取りをどこか遠い目で見ていた雪菜にメイクアップアーティストに扮していた立夏が眉尻を下げた。

「はい、終わり。薄い感じで仕上げてるから確認してもらっていい?」

「あ、はい」

 前髪を整えながら、鏡の中の自分を見て雪菜はギョッとした。

 薄く化粧が施されただけなのに、鮮やかに色付いた自分の表情が知らないもののように思えて驚いたのだ。

「……すごい」

「そうかな? この前一緒に撮影した時の方がもっと綺麗にして貰っていたと思うけど」

「あ、あの時はその立夏さんと一緒だったので、緊張してて」

 顔を伏せながらもごもごと雪菜が告げると立夏が微笑を浮かべ、悟を手招きした。

「何この子めっちゃ可愛い」

「そうだろ!! お前もそう思うよな!! めちゃめちゃ可愛いんだよ!」

 きゃいきゃいと燥ぐ先輩たちを尻目に、雪菜が奥のブースで待ちくたびれている武虎と高校生くらいの少女二人に歩み寄った。

「お待たせしてすみません」

「急に言われたんだから、仕方ないだろ? 謝らなくていいよ」

 苦笑する武虎に会釈すると、彼は後ろにいた少女たちを雪菜に紹介してくれた。

「こっちが俺の許嫁の美乃で、こっちは明美ちゃんの幼馴染の真ちゃん。二人とも今日は足の撮影がメインだから後で白雪と同じ衣装に着替えてくれ」

 はーい、と間延びした口調で返事をした二人の前を通り過ぎようとしてバランスを崩す。

 履き慣れないハイヒールの所為だと床に衝突しそうになりながら思っていると、浮遊感が雪菜の身体を襲った。

「大丈夫?」

 痛いくらいの力で掴まれているのに、不思議と嫌悪感はなかった。

 ぐい、と腰を引き寄せられて悟の胸に顔が近付く。

「あ、ありがとうございます」

「どういたしまして。平気? 靴は何ともない?」

「そっちかよ!!」

「え、何が?」

「何でもない!!」

 勘違いした自分が恥ずかしくて、雪菜は彼の身体から離れるとスポットライトに照らされたステージに立った。

「ちょっとだけ、がに股気味でカメラに背中向けて立ってみて」

 首を縦に頷くと雪菜は武虎の指示通りに後ろを向いて立った。

「へえ」

 ヒュウ、と悟が口笛を吹く音が部屋に響く。

 横目で彼を睨めば、随分と楽しそうな表情が目に入った。

「背中開いてるドレスとか久々に見たけど、いいねえ。そそるわ」

「な……」

 髪で隠しているから気づかれないと思っていた。それなのに、この男は的確に雪菜の羞恥心を煽るようなことばかり言う。

「ね、それ後で剥いてもいい?」

「む!?」

「……真っ赤になって可愛いねぇ。どう、良いの撮れたでしょ?」

「おう」

 足だけだと言っていたはずなのに、カメラレンズと目が合って雪菜は狼藉した。

 慣れないハイヒールをカツカツと鳴らしながら悟の胸倉を掴めば、彼はわざとらしく笑ってみせる。

「ハイヒールのモデルって言ったじゃないですか!!」

「そうだけど、あとで全身図をポスターにするんだよ。雑誌がハイヒールメインって言わなかったっけ?」

「聞いてません!」

 騙された、と憤慨する雪菜の髪に手を差し伸べれば、ただでさえ真っ赤に染まった肌がより濃く色付くのが堪らなく可愛らしい。

「大丈夫だって雪ちゃんのショットは全部後ろからしか使わないし。今のは後で宣材写真に使うかどうか決めるために撮ったから雑誌には載せないって」

 唇を噛み締めてじっとこちらを睨む雪菜に、初めて出会った日の彼女が重なる。

「そんなに見つめられると、照れるなぁ。俺の顔に何か付いてる?」

「……っ! 知るか、馬鹿!」

 新しく積もった雪に一番初めに跡を残すような気分だ、と鼻先を擽った銀髪に悟が目を細める。澄んだ緑色の目が、自分の言動で揺れるのを見るのが好きだった。

 けれど、それを簡単に伝えるほど青くはないし、素直でもなかった。

「本当、可愛いなぁ」

 ぽつり、と呟いた声は明美と立夏に詰め寄る雪菜に聞こえるはずもなく。

 悟の隣に立っていた武虎が少しだけ引いたような顔をして、首を横に振った。

「お前、性格悪すぎ。あれはどう考えても、脈ありだろうが」

「はっはっはー。お前にだけは言われたくないねー。未練たらたらなくせにぃ」

「誰が! 今は美乃一筋だって何度言わせれば……!」

「うるせー! 散々人様に迷惑かけといて偉そうに言うな!」

「ぐっ」

 武虎がスランプ(許嫁に逃げられた)に陥った時に、仕事先に頭を下げに言ったのは悟だった。

 付いて行くと言った社長や明美を置いて一人で方々を回ったのは、ただでさえ落ちている武虎にこれ以上心労を掛けさせまいと思ったからだが、その時のことを棚に上げて人のことに首を突っ込んでくる武虎も大概質が悪い。

「美乃ちゃんはこんな奴のどこが良いのかねぇ」

「全部って言っていたぞ」

「マジレス止めろ。殴りたくなる」

 握り拳を作りながら、そう言った悟に武虎は笑った。

「まあでも、頑張れよ。つーか、いい加減に身を固めろ」

「お前にだけは言われたくない台詞ナンバーワンだな、それ」

 すっかり拗ねてしまった雪菜の横顔を見ながら、悟は目を細める。

 あの子が自分の隣に立つ未来を想像するとひどく心地良い。

 付かず離れずのこの距離も気に入っているけれど、願わくばもっと深く彼女の心に触れてみたいと思った。

「ゆーきーちゃんっ」

「ひッ!?」

「さっさと撮って、飯食いに行こう?」

 肩に顎を乗せてそう言うと、雪菜の頬が薔薇色に染まる。

「ね?」

 彼女が大好きな営業スマイル全開で微笑めば、雪菜は簡単に陥落した。

 くそ、と半泣きで呟きながら、ステージに戻った雪菜の腰に手を添えて、武虎に合図を出す。

 真っ白なドレスの隙間から覗く緋色のハイヒールが楽しそうに、カツンと笑った音がこだました。

 

 すっかり温かくなった午後の日差しが柔らかに窓を照らす。

 遠くで鶯が「春よ、来い」と鳴いていた。

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静かな夜に 神連カズサ @ka3tsu0

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